詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

木村恭子「冬至」

2009-02-10 01:36:19 | 詩(雑誌・同人誌)
木村恭子「冬至」(「くり屋」41、2009年02月01日発行)

 木村恭子「冬至」の後半にひかれた。

清掃奉仕の日程表は やはり手渡そうと思った

井上さんの家に着いた
娘さんがなくなってから
井上さんは姿を見せない
みんなも 井上さんのことを口に出さない
夏からこっち 黙って郵便受けに入れてきた
物静かな井上さんは パーマも伸びて
私を見ると玄関で何度も頭を下げる
えんよえんよ
来んでも別にかまわんのよ
元気ならそれでえんよ じゃあ又ね
極東の女わめいて後 逃げるように退場

もう救急車も行ってしまい
葉を落とした高い樹の下には 誰もいない

井上さんごめんね
何か違うことを
今日は
あなたと話したかった

 「極東の女わめいて後 逃げるように退場」とは木村自身のことである。自分のことを他人のように書いている。実際、このとき木村にとっては「わたし」は「他人」なのだ。
 ほんとうは井上さんにきちんと声をかけたい。清掃奉仕の日程表を「手渡し」、なにごとかをきちんと言いたい。けれども、言えない。それは、どうしてだろうか。わかってしまうからである。ことばをつかわなくても、井上さんの「思い」がわかってしまうからである。その「わかっている」ことときちんと向き合えることばがない。
 わたしたちはいつでも、ことばをもたない。ことばは、いつでも遅れてやってくる。
 「口に出さない」のは「わかっている」ことを、みんなが共有しているからである。「わかっている」けれど、それはことばでは共有できない。
 それは木村にとって「他人」である。いや、正確に言うならば、わかりきるくらい「わたし」である。どうしようもないくらい「わたし」である。それを「他人」にしてしまういたいのだ。「他人」にして、自分から引き剥がしてしまいたいのだ。「極東の女」と呼ぶことで、「他人」にしてしまいたい。そして、そういう「他人」を「劇」にしたててしまいたい。
 「退場」ということばがつかわれているが、これは必然である。
 「劇」のように、わかっているのにつたえることばがない「わたし」を劇の登場人物として「退場」させたいのである。いま、ここにいる「わたし」、井上さんに対してうまくことばをつたえることができない「わたし」を「他人」として、この世界から「退場」させたい。「えんよえんよ/来んでも別にかまわんのよ/元気ならそれでえんよ じゃあ又ね」を現実のことばではなく、「劇」のなかのことばにしてしまいたいのだ。

 「劇」がおわる。失敗した「劇」がおわる。そして、あとに、ああすればよかった、こうすればよかったという思いだけが残る。

井上さんごめんね
何か違うことを
今日は
あなたと話したかった

 誰にも聞かせることのできない、後悔。それが、美しい。ことばは、いつでも遅れてやってきて、こころをととのえる。
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リッツォス「手でくるんで(1972)」より(10)中井久夫訳

2009-02-10 00:00:00 | リッツォス(中井久夫訳)
訊問の後    リッツォス(中井久夫訳)
    
脅えた顔がこわばり、髪が乱れて、
シャツが破れ、肉に打ち身が出来て--。奴等は彼に
ベルトを返した。腕時計を、黒い櫛を。
長い卓子に忘れたものだ。彼は受け取る。どう身につけたものか。
分からなくなった。ベルトを? 時計を? 櫛をどこにつけろというんだ?
彼は自分の身分証明書を眺める。「ルカス」と言ってみた。
もう一度自分に言い聞かせた。「ルカス」。目は伏せたままで--。
時計を腕にはめた。のろのろと。(卓子がいけない。
むきだしで暗い。隅の一つなんどは引っ掻き傷)。
ベルトもつけた。しめた。廊下に出ても
まだ締め続けてる。古い便所が匂う。
排水管が漏る。給仕がウフェニオンで壜を集めてる。
番兵の声が下の明かり溜まりで聞こえる。もう一度言ってみる、
「ルカス」と。外人に外国語で言うみたいだ。夜になってた。
通りでは明かりがこっちに向かって来る。博物館の庭でも--。



 訊問の後、世界はどんなふうに見えるのだろう。ここに書かれてあるような、訊問というより、いくぶん拷問も含まれるかもしれないような追及にあったあとは。
 リッツォスはここでも、「もの」を大切にあつかっている。「もの」のもっている材質、それがもっている「時間」をクローズアップでとらえる。ベルト。腕時計。櫛。そういう小さなものをアップでとらえたあと、映画で言えば、カメラを引いてテーブル全体を映し出す。そして、とまどう男の全身を映し出す。
 自分の体なのに、自分の体にぴったりあわない。ベルトを何度もしめつづけるのは、彼のからだがやせてしまっているからだ。だから、とうぜん腕時計もぴったりとはこない。
 訊問室を出たあとも、彼には世界がまだ「もの」の分断された集積にしか見えない。「世界」は一続きのひろがりにはならない。声、ことばすらも、自分から離れていってしまっている。
 最終行の、

通りでは明かりがこっちに向かって来る。

 が、非常にてまなましい。光はもちろん動かない。それでも、向うから近づいてくるように感じられる。脅迫感がまだつづいている。肉体に残る脅迫感が、世界を分断したままなのだ。

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