監督 熊切和嘉 出演 坂井真紀、星野源、鶴見辰吾
元タレントの女性。マネジャーと離婚して実家に帰って来ている。何をするわけでもない。同級生の女性がやっている店で酒をのんでクダをまいている。この女性に、露天商のまねごとをしている青年がからんでくる。恋愛というには、あまりにも感動が乏しい。その感動の乏しさが、この映画の魅力である。どうにもならないことを、きちんと距離を置いて、どうにもならないまま描いている。坂井真紀という女優は私ははじめてみたのだが、とてもいい感じである。人生が思い通りにいかなくて、もう、いやだなあ、なんとかならないかなあ、とずるく生きている。ひとにというより、「空気」にやつあたりして生きている。その感じがなかなかいい。これは文学ではなかなか表現できない。女優という肉体があってはじめて成り立つ芸術である。
とてもおもしろいのだが、★★★なのには理由がある。
音楽が邪魔なのだ。とてもうるさい。音そのものはとてもいい。たとえば、坂井真紀が自転車に乗って走るとき、つぎつぎにごみ容器(ポリバケツのようなもの)を蹴る。やつあたりである。そのとき、もちろん倒れるごみ容器も映し出されるが、なによりも「音」で表現される。坂井真紀が酔って、転び、そのあと青年の泊まっている宿に寄ることになるシーンも、坂井真紀が倒れるシーンはなく、ただ音として表現される。音はスクリーンに映っているものにしばられないという特質を利用したたいへんおもしろいやり方だ。
せっかくこういうシーンが撮れるのだから、安易なバックグラウンドミュージックはないほうがいい。音楽なんかに感情をもりあげてもらわなくていい、と逆に興ざめしてしまうのである。もし、バックグラウンドミュージックがなかったら、この映画は★4個である。
だいたい(と、こんなときに、つかうのかなあ)、この映画の主人公は投げやりに生きている。「投げやり」にムードをもりあげるバックグラウンドミュージックはいらない。投げやりをあらため、生き方をかえてしまうという映画なら、あ、あの瞬間、彼女は別の生き方を知ったのだ、そのとき彼女のからだから音楽があふれだしたのだ、ということがあったのならいいけれど、そうではない。この監督は音楽を間違ったふうにつかっていて、平気である。それが、とても我慢ならない。
最初の方に、坂井真紀は「空気」にやつあたりして生きていると書いたが、音楽はその「空気」とともに存在するものである。「空気」の振動が音楽である。映像は、坂井真紀が「空気」にやつあたりしていることをていねいに描くのに、音楽がその「空気」をうんざりするものにしてしまっている。坂井真紀がどんなに好演しても(「卒業」のように、青年と逃げ出したあとの電車のなかの、キャサリン・ロスを上回る表情の変化を見よ!)、これではむくわれない。かわいそうな坂井真紀と思ってしまった。
*
坂井真紀が出ている映画。
元タレントの女性。マネジャーと離婚して実家に帰って来ている。何をするわけでもない。同級生の女性がやっている店で酒をのんでクダをまいている。この女性に、露天商のまねごとをしている青年がからんでくる。恋愛というには、あまりにも感動が乏しい。その感動の乏しさが、この映画の魅力である。どうにもならないことを、きちんと距離を置いて、どうにもならないまま描いている。坂井真紀という女優は私ははじめてみたのだが、とてもいい感じである。人生が思い通りにいかなくて、もう、いやだなあ、なんとかならないかなあ、とずるく生きている。ひとにというより、「空気」にやつあたりして生きている。その感じがなかなかいい。これは文学ではなかなか表現できない。女優という肉体があってはじめて成り立つ芸術である。
とてもおもしろいのだが、★★★なのには理由がある。
音楽が邪魔なのだ。とてもうるさい。音そのものはとてもいい。たとえば、坂井真紀が自転車に乗って走るとき、つぎつぎにごみ容器(ポリバケツのようなもの)を蹴る。やつあたりである。そのとき、もちろん倒れるごみ容器も映し出されるが、なによりも「音」で表現される。坂井真紀が酔って、転び、そのあと青年の泊まっている宿に寄ることになるシーンも、坂井真紀が倒れるシーンはなく、ただ音として表現される。音はスクリーンに映っているものにしばられないという特質を利用したたいへんおもしろいやり方だ。
せっかくこういうシーンが撮れるのだから、安易なバックグラウンドミュージックはないほうがいい。音楽なんかに感情をもりあげてもらわなくていい、と逆に興ざめしてしまうのである。もし、バックグラウンドミュージックがなかったら、この映画は★4個である。
だいたい(と、こんなときに、つかうのかなあ)、この映画の主人公は投げやりに生きている。「投げやり」にムードをもりあげるバックグラウンドミュージックはいらない。投げやりをあらため、生き方をかえてしまうという映画なら、あ、あの瞬間、彼女は別の生き方を知ったのだ、そのとき彼女のからだから音楽があふれだしたのだ、ということがあったのならいいけれど、そうではない。この監督は音楽を間違ったふうにつかっていて、平気である。それが、とても我慢ならない。
最初の方に、坂井真紀は「空気」にやつあたりして生きていると書いたが、音楽はその「空気」とともに存在するものである。「空気」の振動が音楽である。映像は、坂井真紀が「空気」にやつあたりしていることをていねいに描くのに、音楽がその「空気」をうんざりするものにしてしまっている。坂井真紀がどんなに好演しても(「卒業」のように、青年と逃げ出したあとの電車のなかの、キャサリン・ロスを上回る表情の変化を見よ!)、これではむくわれない。かわいそうな坂井真紀と思ってしまった。
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坂井真紀が出ている映画。
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