詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

photo 四元康祐 poem 高階杞一「夜のミュンヘン」

2009-02-08 21:25:56 | 詩(雑誌・同人誌)
photo 四元康祐 poem 高階杞一「夜のミュンヘン」(「ビーグル」2、2009年01月20日発行)

 連載「フォトポエム」(2)。photo 四元康祐 opoem 高階杞一「夜のミュンヘン」。私は2行目を誤読した。

外は雨が降っている
雨が耳の中で降っている

 これを

外は雨が降っている
耳が雨の中で降っている

 と読んでしまった。そして、不思議なことに、私は高階杞一のことばを読みながら、頭の中でまったく別のことばが動いているのを感じた。感想になるのかどうかわからないが、そのとき頭の中で動いたことばを感想のかわりに記しておく。

外は雨が降っている
耳が雨の中で降っている
一つ二つ三つ 数を数えながら
つめたい声が追いかけていく 足は
一つ二つ三つ 数を数えながら
耳の階段を踏み潰していくのだが
踏み潰されるものだって負けてはいない
靴をぬらし靴下をぬらし足指の間をぬらし
ぬらぬらぬらぬらし のぼってくる
「かわいそうなわたしのぺにす」
とあなたは言った
繊細な指となってさらに
のぼってのぼって
首筋をひっかく
耳たぶを噛む あ、あ、あ
温かい唾液がきらりきらりきらきら
内耳の壁をつたってくる
雨が降っている
夜が降りつづいている


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デビッド・フィンチャー監督「ベンジャミン・バトン 数奇な人生」(★)

2009-02-08 19:55:07 | 映画
監督 デビッド・フィンチャー 出演 ブラッド・ピット、ケイト・ブランシェット

 まったくおもしろくない。
 原因はひとつ。映画がただひたすらストーリーを追うのに忙しくて、映像に余裕がないからである。
 唯一おもしろいのは、ベンジャミンを老人施設の入居者だけが何の驚きもなく受け入れるところである。老人の姿をした新生児を見て、彼もまた自分たちと同じように死んでいく人間である。死を共有している人間だから、「仲間」である、そう感じてベンジャミンを受け入れる。彼等の、ベンジャミンを「赤ん坊」ではなく、老人として見る目付き、そのときのやすらぎ(死ぬ仲間がひとり増えたという喜び)の一瞬だけが、映画らしいシーンである。自分は死にたくはない。けれど、他人が死んでいくのを見ると、自分はまだ生きていることを実感できる。私よりも先にこの赤ん坊は死ぬ--そういう、一種の期待の目でベンジャミンを見る老人たち。そのシーンだけが、あ、これはもしかしたらおもしろくなるかもしれない、という期待を抱かせる。
 そのあとは、死も生も共有されない。
 よく言えば、次第に若返っていくベンジャミンの「生き方」が、死に向かって生きるしかない人間を相対化するということになるのだろうけれど、こういう相対化というのは映像では表現がむずかしい。相対化というのは視覚ではなく、言語(ことば)によっておこなわれることである。論理によって築かれる間接的なものである。視覚は、間接的ではない。直接的である。直接見えるものが、その影にあるものを隠し、そうすることでだますこともある。それが視覚の性質であり、そういう「だまし」があるから映像はおもしろいのである。
 この映画は、そういう「だまし」をひとつひとつことばで実はこうです、と説明する。だからおもしろくない。ごくごくつまらない例でいうと、ベンジャミンが娼婦とセックスするシーン。ベンジャミンは年をとって見えるが実は10代である。何度でもセックスできる。果てても果てても、果てない。それに対して、娼婦があきれかえって「あんたは、○○なの?」(ひとの名前を言ったが、思い出せない。アメリカのドン・ファンだろう)というようなことを言う。そんなことばで、実はベンジャミンは10代です、10代の男は性欲の塊だと言われても、それは「相対化」にすらならない。映像で、それを感じさせないと映画にならない。
 ブラッド・ピットとケイト・ブランシェットの「恋愛」はもっと無様である。無残である。二人の恋愛は、年齢(容貌)としては逆方向から接近し、二人が一番近づいて時、燃え上がるのだが、そのあとすぐ、「これから二人の若さは逆転する。それが心配だ」とケイト・ブランシェットが言う。それが真実だとしても、いや、真実だからこそ、そんなことはことばにしなくていい。観客は、そういうことを知ってしまっている。そして、それがどうなるかを映像として見たいから映画を見たいのである。ことばで説明されても映画を見ている気持ちにはなれない。単なるメーキャップショーではなく、動く映像として見たいのである。

 繰り返しになるが、この映画は、ようするに「ことば」に頼りきった作品であり、映画の体裁をなしていないのである。ストーリーがベンジャミンの「日記」を読む--日記を映像として再現するというスタイルをとっている出発点からして、もうすでに失敗しているのである。ことばをとおして、ベンジャミンの娘が、自分の父はベンジャミンだったと知るというラストなど、まるで笑い話である。「見て」、知る、というふうにしないと映画にはならない。原作とは違ったとしても、そういう工夫をしないことには映画にはならない。老人の姿をして生まれた子ども--という特異な映像(視覚で判断した状況)から出発しながら、視覚は重要な働きをしていない。

 デビッド・フィンチャーらしい点があるとすれば、室内の暗い映像だろうか。暗さによって現実感をだす室内。しかし、これもたとえば、「長江哀歌」や「歩いても 歩いても」の使い込まれた家具の、必然的に抱え込む汚れ、疵の美しい映像を知ってしまっている私には、「セブン」の二番煎じにしか見えない。何も新しいものはない。メーキャップはがんばっているのだが、せいぜいが、あ、ブラッド・ピットってこんなに若いの?とファンを喜ばせる程度のものである。





デビッド・フィンチャーを見るなら、やっぱりこれか……。

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三井葉子「なんという植物だったか」

2009-02-08 10:18:44 | 詩(雑誌・同人誌)
三井葉子「なんという植物だったか」(「びーぐる」2、2009年01月20日発行)

 三井葉子「なんという植物だったか」にとても驚いた。生きていることの不思議さを感じた。
 その全行。

誰のものでもない というのはさびしいものだ
半分くらいは誰かの影に入っていたい


ずうっと思いつつ
きたのに

いつか
土塀の道を散策したことがあったわね
なんという植物の蔓だったか
黄色く這っていた
蔓のさきがぶうらん ぶうらん 風に吹かれていて

どうして
あのとき
わたしたちは
わたしたちの
行く末に思い至らなかったのだろう
古びた写真をみていると土塀に射す光のなかで
わたしは
にっこり
笑っている

入れてもらえないのよ
いちど
この世に出てきたら
もう 向うには入れてもらったりはできずに
いる
わ。

 「この世に出てきたら」は魅力的な行だ。幾通りにも読むことができる。「どこから」「この世にでてきた」のか。その「どこから」を幾通りにも読むことができる。
 一番近いのは(ことばの位置が、という意味だが)、「写真の中から」この世に出てきたら、もう写真の中には「入れてもらったりはでき」ない。あのなつかしい写真、そのときの世界へは戻れない。「わたしたち」の至福だった時代、あの時代から「この世にでてきたら」、もう戻れない。
 「向こう」とは「死後」のことではない。「未来」のことではない。
 ここで不思議なのは、では写真の世界は「この世」ではないのか、ということである。生きている世界を私たちは「この世」という。「あの世」に対して「この世」ということばはあるのだが、その「この世」には「過去」が含まれる。これがふつうのことである。きのうや、1週間前が「この世」であるように、1年前も30年前も「この世」である。写真の世界は、やはり「この世」である。三井が生きていた時代である。恋をしていたのは「この世」のことである。
 しかし、三井はそれを「この世」とは呼ばない。
 ここに三井の独自性がある。
 「過去」は「この世」ではない。三井にとっては「この世」とはあくまで「現在」「いま」という時間のことなのである。「いま」という一瞬なのである。「いのち」にとって「この世」とは「いま」のことでしかない。「いのち」はけっして逆戻りできないものだからである。「いのち」は「過去」を生きることはできない。だから三井は「この世」とは呼ばない。

 三井は、こうした「いのち」のあり方を、人間だけではなく、自然に重ね合わせることでみつめている。「土塀」を這っている「蔓」。その「さき」。それが風に吹かれて揺れている。その蔓にとっての「この世」を考えている。
 蔓はどこからやってきたのか。それはわからない。蔓は「いま」、風に吹かれて揺れている。もう、蔓が「生まれた」場所へは戻れない。蔓にとっての「過去」は土の中だが、蔓は土の中へは戻れない。
 その蔓にとって、では、どんな「いのち」が可能なのか。「この世」をどんなふうに生きることができるのか。風に吹かれて揺れる。それだけである。それだけが「いのち」であるというのは、さびしくはないか。蔓に聞いてみなければわからないが、蔓はことばをもたないので、答えてはくれない。しかし、こんなふうに考えることはできる。
 蔓は土の中からでてきて揺れている。もう、土には戻れない。けれど、その風に揺れているとき三井と出会う。三井はその蔓をみつめて風に吹かれていると思う。そして、その風に吹かれている蔓を見ることができて、三井はとても幸せに感じる。うれしくて写真までとっている。にっこり笑っている。その幸せのなかでの一期一会の出会い。そのなかで蔓の「いのち」は生きる。三井の「思い」のなかを、「この世」と受け止め、その世界を生きることができる。
 それは、別の言い方をすれば、三井自身が、やはり蔓を生きるということでもある。土のなかから「この世」に出てきて、風に吹かれている。男と出会い、さらに新しい「この世」に入っていく。もう、「過去」には戻らない。戻れない。男と出会う前の、幸福を知らなかった「時代」には戻れない。風に揺れる蔓といっしょに、土塀に射す光のなかを生きるのである。
 私たちはいつでも何かと出会い、出会うことで「この世」を生きる。誰かと、あるいは何かと出会ったとき、「この世」がはじまるのである。出会いのなかで、「いのち」が新しくなる。「いのち」を新しくしてくれるのが「この世」なのである。

 「この世」とは、出会いが生み出す新しい世界である。
 出会いとは、けっしてひとりではできない。そこには、誰かや何かが存在する。そしてそれが出会いなら、その出会いとは「半分」は私のもの(三井のもの)ではなく、相手のものである。
 --これが、この詩の書きはじめの部分である。
 生きる、新しい「いのち」を生きるとは、それまでの自分から生まれ変わることだが、そのとき、その生まれ変わりには「相手」がかかわっている。だから「半分」は、自分のいのちであって半分は自分のいのちではない。誰かのいのちのなかに半分は入っているのだ。誰かの(何かの)「いのち」が自分のなかに混じっている、融合している--その幸福が「生きる」という悦びのすべてである。

 「半分」という言い方は、三井独特の感じ方である。何かと出会い、生まれ変わるとき、そこには「半分」というものはなく、完全に融合している。そうしないと生まれ変われることはできない。生まれ変わるとは、自分が自分でなくなってしまうことなのだから。それでも「半分」というのは、そのとき自分を新しく生まれ変わらせてくれたものへの感謝の気持ちが、そう言わせるのである。誰かに感謝しながら生きる。それは、常に自分の「半分」を誰かに捧げるということである。感謝、返礼の気持ちが、三井に「半分」という気持ちを抱かせるのだ。
 そして、その感謝すべき相手、返礼すべき相手がいなくなってしまったとき、そこにはかなしみがやってくる。
 「肉体」は「いま」しか生きられない。「いのち」は「いま」しか生きられない。けれど、「感謝の気持ち」は「過去」を生きることができる。「気持ち」や「こころ」は「過去」を生きることができる。--ここに、人間の、さびしさ、かなしみがある。

 何かと出会い、生まれ変わる。そして、生まれ変わったという「思い」が残る。そのさびしさ。そのかなしみ。
 そして、その「思い」こそが、「思い」の連続こそが、ひとりの人間をつくるすべてである。
 「思い」を抱きながら、ひとは、「いま」また、新しい「一期一会」を生きなければならない。そうやって三井は生きている。「この世」を。「いちど/この世に出てきたら」と三井は書いているが、いつでも人生は「いちど」なのだ。何度「一期一会」を繰り返しても、それは「いちど」なのだ。
 おなじことばを繰り返してしまうが、それは、よろこびであり、またさびしさでもある。



三井葉子の世界―“うた”と永遠

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リッツォス「手でくるんで(1972)」より(8)中井久夫訳

2009-02-08 00:00:00 | リッツォス(中井久夫訳)
兵役忌避    リッツォス(中井久夫訳)

この国の貧しい郊外に歯科が増えた。
薬局も。棺桶屋も。夕方は
ペンキの剥げかけて反ってる戸の上の緑の門灯である。
光の長い帯である。
夜っぴて水が蛇口から出っ放しだ。カラス街の裏通り。
花屋の前でも床屋の前でも。誰だ、
ゆっくりと靴をみがいてるのは。その戸の前で。
今からホールにはいろうとしているみたいに。
はいったら誰もいなくて、
大理石の床が
ワックスかけてぴかぴかだ。
異様ななじめぬ世界だ。
自分の足音も異様で耳ざわりだ。自分の動きもぎこちない。
第一、窓がない。沈黙もない。鍵もなく、ハンカチもない。



 兵役を忌避した男が見た風景かもしれない。兵役を忌避したとき、何が見えるのか。街の風景は同じでも、自分が何かかわったことをすれば、その変化にあわせて、見えるものも違ってくる。
 「異様ななじめぬ世界だ。」は最後の方に出てくることばだが、それではそれ以前の世界は「なじめる世界」かといえば、そうとは限らないだろう。郊外に増えた歯科、薬局、棺桶屋--そういうものが目につくのも、それがなじめぬ世界だからだろう。特に「棺桶屋」が増えたことに対して「なじめる」という感覚を持つひとは少ないだろう。ほんとうは「増えた」のではなく、こんなにたくさんある、ということに気がついただけかもしれない。違って見えてくる、とは、そういうことをさす。
 世界になじめないとき、それは自分自身に対してもなじめないということである。兵役を忌避しなければ「なじめる」かどうかはわからないが、何か特別なことをしてしまったということが「なじめなさ」を引き起こしている。自分できめたことだけれど、まだ自分で受け止めることができない。その受け止めることのできない自分と和解するために、ことばがある。ことばにする。そうやって反復することによって、自分自身に「なじみ」をつくりだそうとしている。
 最後の「鍵もなく、ハンカチもない。」が、なんとも切実だ。ぐい、と肉体に迫ってくる。その直前の「沈黙もない。」ということばが、いったん、世界を切断するからだろう。世界と途切れ、孤独にほうりだされる。その瞬間に、「鍵もなく、ハンカチもない。」という「事実」、「現実」に引き戻される。ここから、男は徐々に自分にかえっていこうとしている。

 この詩も、とても映画的だ。カメラが郊外から街中へ自然に移動してきて、ホール(ダンスホールか)へ入ろうとする。その動きにあわせ、外から室内へ入るという動きにあわせ、視線は、外から自分自身へと向きを変える。自分の内部へと入り込む。そこで自分を見つける。とても自然な動きだ。

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