三井葉子「なんという植物だったか」(「びーぐる」2、2009年01月20日発行)
三井葉子「なんという植物だったか」にとても驚いた。生きていることの不思議さを感じた。
その全行。
誰のものでもない というのはさびしいものだ
半分くらいは誰かの影に入っていたい
と
ずうっと思いつつ
きたのに
いつか
土塀の道を散策したことがあったわね
なんという植物の蔓だったか
黄色く這っていた
蔓のさきがぶうらん ぶうらん 風に吹かれていて
どうして
あのとき
わたしたちは
わたしたちの
行く末に思い至らなかったのだろう
古びた写真をみていると土塀に射す光のなかで
わたしは
にっこり
笑っている
入れてもらえないのよ
いちど
この世に出てきたら
もう 向うには入れてもらったりはできずに
いる
わ。
「この世に出てきたら」は魅力的な行だ。幾通りにも読むことができる。「どこから」「この世にでてきた」のか。その「どこから」を幾通りにも読むことができる。
一番近いのは(ことばの位置が、という意味だが)、「写真の中から」この世に出てきたら、もう写真の中には「入れてもらったりはでき」ない。あのなつかしい写真、そのときの世界へは戻れない。「わたしたち」の至福だった時代、あの時代から「この世にでてきたら」、もう戻れない。
「向こう」とは「死後」のことではない。「未来」のことではない。
ここで不思議なのは、では写真の世界は「この世」ではないのか、ということである。生きている世界を私たちは「この世」という。「あの世」に対して「この世」ということばはあるのだが、その「この世」には「過去」が含まれる。これがふつうのことである。きのうや、1週間前が「この世」であるように、1年前も30年前も「この世」である。写真の世界は、やはり「この世」である。三井が生きていた時代である。恋をしていたのは「この世」のことである。
しかし、三井はそれを「この世」とは呼ばない。
ここに三井の独自性がある。
「過去」は「この世」ではない。三井にとっては「この世」とはあくまで「現在」「いま」という時間のことなのである。「いま」という一瞬なのである。「いのち」にとって「この世」とは「いま」のことでしかない。「いのち」はけっして逆戻りできないものだからである。「いのち」は「過去」を生きることはできない。だから三井は「この世」とは呼ばない。
三井は、こうした「いのち」のあり方を、人間だけではなく、自然に重ね合わせることでみつめている。「土塀」を這っている「蔓」。その「さき」。それが風に吹かれて揺れている。その蔓にとっての「この世」を考えている。
蔓はどこからやってきたのか。それはわからない。蔓は「いま」、風に吹かれて揺れている。もう、蔓が「生まれた」場所へは戻れない。蔓にとっての「過去」は土の中だが、蔓は土の中へは戻れない。
その蔓にとって、では、どんな「いのち」が可能なのか。「この世」をどんなふうに生きることができるのか。風に吹かれて揺れる。それだけである。それだけが「いのち」であるというのは、さびしくはないか。蔓に聞いてみなければわからないが、蔓はことばをもたないので、答えてはくれない。しかし、こんなふうに考えることはできる。
蔓は土の中からでてきて揺れている。もう、土には戻れない。けれど、その風に揺れているとき三井と出会う。三井はその蔓をみつめて風に吹かれていると思う。そして、その風に吹かれている蔓を見ることができて、三井はとても幸せに感じる。うれしくて写真までとっている。にっこり笑っている。その幸せのなかでの一期一会の出会い。そのなかで蔓の「いのち」は生きる。三井の「思い」のなかを、「この世」と受け止め、その世界を生きることができる。
それは、別の言い方をすれば、三井自身が、やはり蔓を生きるということでもある。土のなかから「この世」に出てきて、風に吹かれている。男と出会い、さらに新しい「この世」に入っていく。もう、「過去」には戻らない。戻れない。男と出会う前の、幸福を知らなかった「時代」には戻れない。風に揺れる蔓といっしょに、土塀に射す光のなかを生きるのである。
私たちはいつでも何かと出会い、出会うことで「この世」を生きる。誰かと、あるいは何かと出会ったとき、「この世」がはじまるのである。出会いのなかで、「いのち」が新しくなる。「いのち」を新しくしてくれるのが「この世」なのである。
「この世」とは、出会いが生み出す新しい世界である。
出会いとは、けっしてひとりではできない。そこには、誰かや何かが存在する。そしてそれが出会いなら、その出会いとは「半分」は私のもの(三井のもの)ではなく、相手のものである。
--これが、この詩の書きはじめの部分である。
生きる、新しい「いのち」を生きるとは、それまでの自分から生まれ変わることだが、そのとき、その生まれ変わりには「相手」がかかわっている。だから「半分」は、自分のいのちであって半分は自分のいのちではない。誰かのいのちのなかに半分は入っているのだ。誰かの(何かの)「いのち」が自分のなかに混じっている、融合している--その幸福が「生きる」という悦びのすべてである。
「半分」という言い方は、三井独特の感じ方である。何かと出会い、生まれ変わるとき、そこには「半分」というものはなく、完全に融合している。そうしないと生まれ変われることはできない。生まれ変わるとは、自分が自分でなくなってしまうことなのだから。それでも「半分」というのは、そのとき自分を新しく生まれ変わらせてくれたものへの感謝の気持ちが、そう言わせるのである。誰かに感謝しながら生きる。それは、常に自分の「半分」を誰かに捧げるということである。感謝、返礼の気持ちが、三井に「半分」という気持ちを抱かせるのだ。
そして、その感謝すべき相手、返礼すべき相手がいなくなってしまったとき、そこにはかなしみがやってくる。
「肉体」は「いま」しか生きられない。「いのち」は「いま」しか生きられない。けれど、「感謝の気持ち」は「過去」を生きることができる。「気持ち」や「こころ」は「過去」を生きることができる。--ここに、人間の、さびしさ、かなしみがある。
何かと出会い、生まれ変わる。そして、生まれ変わったという「思い」が残る。そのさびしさ。そのかなしみ。
そして、その「思い」こそが、「思い」の連続こそが、ひとりの人間をつくるすべてである。
「思い」を抱きながら、ひとは、「いま」また、新しい「一期一会」を生きなければならない。そうやって三井は生きている。「この世」を。「いちど/この世に出てきたら」と三井は書いているが、いつでも人生は「いちど」なのだ。何度「一期一会」を繰り返しても、それは「いちど」なのだ。
おなじことばを繰り返してしまうが、それは、よろこびであり、またさびしさでもある。