浜江順子『飛行する沈黙』(思潮社、2008年09月30日発行)
浜江順子の詩は、私にはよくわからない。どうにも私の「肉体」かみ合って来ない。「頭」に刺激はあるのだが、「肉体」になじまない。なぜなんだろう。そんなことを思いながら読み進んで、「飛行する沈黙」に出会う。その2連目。
「十四世紀の自分は下女で」。この一言で、私には、何かが納得できた。
浜江は「私」を「いま」「ここ」でとらえていないのだ。「私」を常に「何か」に置き換えて世界との関係をつくっている。「頭」の操作が、「私」と「世界」とのあいだにあるのだ。
「私」が「いま」「ここ」にある場合は、今度は、「世界」の方が「いま」「ここ」にはない。そこにあるすべての存在は、それ自体というよりも、それとは違う別のものなのだ。
最終連には、次の行がある。
「十四世紀の自分」は「下女」のなかに存在することができたけれど(下女として「肉体」と「頭」を統合した存在として生きることができたけれど)、「いま」に戻ると「自分」が何かわからない。
浜江にあっては、「私」と「世界」の和解は、どちらかが本来の姿ではないときにはじめて成立するのである。そんなふうに和解するために、ことばは動いていく。
この詩では「私」が「十四世紀の下女」であると同時に、世界の方もそれ自身から離れている。ほんらいの「もの」自体の「肉体」を放棄している。たとえば「精液の噴出」は「ニンジンの葉っぱ」である。
「私」も「世界」も、それ自体ではなく、別個の存在になっているので、この詩はとても速度がある。「頭」の速度がとても滑らかである。
こういう「私」と「世界」の関係に、「沈黙」が重要な位置を占める。
「沈黙」の定義はむずかしいが、たとえば「私」が「私ではない何か」であるとき、その「私ではない何か」と「世界」のあいだの空白が「沈黙」である。「私」が私であるときは、その「私」と「世界ではない世界」のとのあいだの「空白」が「沈黙」である。別のことばで言えば、「頭」と「肉体」の「空白」が「沈黙」である。その「空白」を埋めるために、近江のことばは動く。つまり、「沈黙」と拮抗するために。
浜江の論法にしたがえば、たぶん、そうなるのだ。
この作品では、ふたつの「沈黙」が複合し、透明になっている。そのため、どこまでも誘い込まれるような速度があるのだ。
私が浜江のことばになじむことができないのは、その「沈黙」、あるいは「空白」が視覚(視力)をもとに把握されているからだ。「1/2の顔」。その冒頭。
顔の半分--それを右と左にわける。この分離は視覚である。視力である。「飛行する沈黙」の「水は沈黙の奥に、清水のようにある」の「奥」も視覚である。視力である。
視力の不思議さは、自分が無傷のまま、対象に触れることができる点にある。遠く離れ場所から、視力は対象に触れることができる。逆に近づきすぎると、視覚は対象に触れることができない。視覚は、対象と「私」とのあいだに「距離」を必要としている。「距離」とは「空白」のことである。浜江は、したがって「沈黙」をも視力でとらえていることになる。
別のことばで補足すれば……。
「沈黙」を聞き取る聴覚。それは対象が遠い場合も、近い場合も有効である。小さい音を聞くために、私たちは「耳」を対象に押し当てることさえする。近づけるだけではなく、押し当て、ごりごりしたりもする。視覚にはこんなことはできない。「目」を対象にくっつけてしまえば何も見えない。闇になる。
浜江は「私」を私以外のものと仮定することで世界を描写する。ことばの運動として描き出す。あるいは「世界」をそれ自体とは違ったものと仮定することで、ことばの運動領域をひろげる。つまり、詩を書く。
そのとき、浜江を動かしているのは視力である。視覚である。浜江はしかし、それを視覚と自覚していない。聴覚と誤解している。たぶん、どこかに、「ずれ」がある。「飛行する空白」という視点でことばを動かすと、その「ずれ」はすーっと消えるような気がする。
「化け方が、うにゅうにゅだ」は、気持ちのいい詩である。そこでは「視力」がきちんと動いているからだと思う。
「鏡」は自己確認をする視覚にとって、とても重要なものである。鏡なしに、視覚は、自己確認できない。「鏡のなかの像」と「私」のあいだには「空白」があり、断絶しているにもかかわらず、視覚はそれを「連続したもの」「つながったもの」、つまり、自分とつながった「同一のもの」と見なしてしまう。「同一のもの」とみなすために、「空白」を必要としている。
視力はまた、別の「証拠」も見つける。イニシャル。文字。
浜江は、きっとことばを視力で覚えた人間だ。つまり、本を読むことで覚えた人間だろうと思う。きっとたくさんの本を読んでいるに違いないと思う。
私が、この詩をとても気持ちよく感じるのは、その視覚、視力が、触覚と融合し、「肉体」を獲得しているからだ。「うにゅうにゅ」。なんとなく、何かに手で触っている感じがするでしょ?
その前に、でこぼこ、も出てきた。凸凹は視力でも把握できるが、触覚の方がより端的に理解できる。点字というようなものまで、世界には存在する。触ること、触覚を働かすことで、見るものまで、という意味なのだが。
あらゆる感覚は融合して「肉体」になる。その瞬間に、私は詩を感じる。その瞬間を、とても気持ちよく感じる。
「飛行する沈黙」は書いてあることは理解できる(つもり)だが、とても遠い。「うにゅうにゅ」はそれとは違って、気持ちがいい。肉体になじむ。読んでいて、安心感がある。
浜江順子の詩は、私にはよくわからない。どうにも私の「肉体」かみ合って来ない。「頭」に刺激はあるのだが、「肉体」になじまない。なぜなんだろう。そんなことを思いながら読み進んで、「飛行する沈黙」に出会う。その2連目。
中世の労働者たちのように水を求めて、身体の水をわさわさと共鳴させる。水は沈黙の奥に、清水のようにある。ペストを恐れぬ男たちは、ペニスを揺らし、修道院でふて寝して、脳には蚊が飛んでいる。血が飛ぶ。十四世紀の自分は下女で床をしわしわ磨きながら傷を食っている。内省行為とともにさらに中世へとにじみ出る。精液の射出は、ニンジンの葉っぱのように青々としていながら、無意味だ。
「十四世紀の自分は下女で」。この一言で、私には、何かが納得できた。
浜江は「私」を「いま」「ここ」でとらえていないのだ。「私」を常に「何か」に置き換えて世界との関係をつくっている。「頭」の操作が、「私」と「世界」とのあいだにあるのだ。
「私」が「いま」「ここ」にある場合は、今度は、「世界」の方が「いま」「ここ」にはない。そこにあるすべての存在は、それ自体というよりも、それとは違う別のものなのだ。
最終連には、次の行がある。
セイヨウヒルガオを噛んで「いま」にまた迷い出た私は行方不明の自分を探している。
「十四世紀の自分」は「下女」のなかに存在することができたけれど(下女として「肉体」と「頭」を統合した存在として生きることができたけれど)、「いま」に戻ると「自分」が何かわからない。
浜江にあっては、「私」と「世界」の和解は、どちらかが本来の姿ではないときにはじめて成立するのである。そんなふうに和解するために、ことばは動いていく。
この詩では「私」が「十四世紀の下女」であると同時に、世界の方もそれ自身から離れている。ほんらいの「もの」自体の「肉体」を放棄している。たとえば「精液の噴出」は「ニンジンの葉っぱ」である。
「私」も「世界」も、それ自体ではなく、別個の存在になっているので、この詩はとても速度がある。「頭」の速度がとても滑らかである。
こういう「私」と「世界」の関係に、「沈黙」が重要な位置を占める。
「沈黙」の定義はむずかしいが、たとえば「私」が「私ではない何か」であるとき、その「私ではない何か」と「世界」のあいだの空白が「沈黙」である。「私」が私であるときは、その「私」と「世界ではない世界」のとのあいだの「空白」が「沈黙」である。別のことばで言えば、「頭」と「肉体」の「空白」が「沈黙」である。その「空白」を埋めるために、近江のことばは動く。つまり、「沈黙」と拮抗するために。
浜江の論法にしたがえば、たぶん、そうなるのだ。
この作品では、ふたつの「沈黙」が複合し、透明になっている。そのため、どこまでも誘い込まれるような速度があるのだ。
私が浜江のことばになじむことができないのは、その「沈黙」、あるいは「空白」が視覚(視力)をもとに把握されているからだ。「1/2の顔」。その冒頭。
しつこい蛇の追跡を逃れても
しびれが狙っている
二分の一の顔は
誰からも知られることなく
絶壁に隠れている
キッとなって
見つめる先は
嘘の城だったが
顔の右半分は死んでいる
左半分でなんとか
機械たりえている
顔の半分--それを右と左にわける。この分離は視覚である。視力である。「飛行する沈黙」の「水は沈黙の奥に、清水のようにある」の「奥」も視覚である。視力である。
視力の不思議さは、自分が無傷のまま、対象に触れることができる点にある。遠く離れ場所から、視力は対象に触れることができる。逆に近づきすぎると、視覚は対象に触れることができない。視覚は、対象と「私」とのあいだに「距離」を必要としている。「距離」とは「空白」のことである。浜江は、したがって「沈黙」をも視力でとらえていることになる。
別のことばで補足すれば……。
「沈黙」を聞き取る聴覚。それは対象が遠い場合も、近い場合も有効である。小さい音を聞くために、私たちは「耳」を対象に押し当てることさえする。近づけるだけではなく、押し当て、ごりごりしたりもする。視覚にはこんなことはできない。「目」を対象にくっつけてしまえば何も見えない。闇になる。
浜江は「私」を私以外のものと仮定することで世界を描写する。ことばの運動として描き出す。あるいは「世界」をそれ自体とは違ったものと仮定することで、ことばの運動領域をひろげる。つまり、詩を書く。
そのとき、浜江を動かしているのは視力である。視覚である。浜江はしかし、それを視覚と自覚していない。聴覚と誤解している。たぶん、どこかに、「ずれ」がある。「飛行する空白」という視点でことばを動かすと、その「ずれ」はすーっと消えるような気がする。
「化け方が、うにゅうにゅだ」は、気持ちのいい詩である。そこでは「視力」がきちんと動いているからだと思う。
尻の穴から
すうっと入ってきた化け物は
実は自分自身で
そいつの背負ってきた鏡には
ハートの形が不自然にでこぼこに並んだ古ぼけた木枠がついていて
驚いたことに私のイニシャルまで彫ってある
化け方が、足りない
化け方が、チビている
化け方が、うにゅうにゅだ
「鏡」は自己確認をする視覚にとって、とても重要なものである。鏡なしに、視覚は、自己確認できない。「鏡のなかの像」と「私」のあいだには「空白」があり、断絶しているにもかかわらず、視覚はそれを「連続したもの」「つながったもの」、つまり、自分とつながった「同一のもの」と見なしてしまう。「同一のもの」とみなすために、「空白」を必要としている。
視力はまた、別の「証拠」も見つける。イニシャル。文字。
浜江は、きっとことばを視力で覚えた人間だ。つまり、本を読むことで覚えた人間だろうと思う。きっとたくさんの本を読んでいるに違いないと思う。
私が、この詩をとても気持ちよく感じるのは、その視覚、視力が、触覚と融合し、「肉体」を獲得しているからだ。「うにゅうにゅ」。なんとなく、何かに手で触っている感じがするでしょ?
その前に、でこぼこ、も出てきた。凸凹は視力でも把握できるが、触覚の方がより端的に理解できる。点字というようなものまで、世界には存在する。触ること、触覚を働かすことで、見るものまで、という意味なのだが。
あらゆる感覚は融合して「肉体」になる。その瞬間に、私は詩を感じる。その瞬間を、とても気持ちよく感じる。
「飛行する沈黙」は書いてあることは理解できる(つもり)だが、とても遠い。「うにゅうにゅ」はそれとは違って、気持ちがいい。肉体になじむ。読んでいて、安心感がある。
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