詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

坂多瑩子「ふいに」、仲山清「寒の川」

2009-02-15 08:48:32 | 詩(雑誌・同人誌)
坂多瑩子「ふいに」、仲山清「寒の川」(「鰐組」232 、2009年02月01日発行)

 坂多瑩子「ふいに」がとてもおもしろかった。その前半。

ドアの取っ手がこわれたので
はずしたまでは良かったが
ぽっかり開いた穴に
合う取っ手が見つからず
メーカーはすでに倒産していたから
穴は妙にかしこまって
りんかくは
ざらつく感じに見えるが
これといって特徴はなく
ところが
毎日見ているうちに
ほら あちらに見えますのは
などと
ふらふら歩く血染めの花嫁が
青ひげの首をぶらさげていたりして

 私がいちばんおもしろいと思ったのは「毎日見ていると」という行である。もっと厳密にいうと「毎日」である。ここには「毎日」生きていることのおもしろさがあるのだ。だれでも「毎日」生きているかもしれない。確かにそうだけれど、そういう「毎日」は何も変わらない。ところが、坂多の場合、その「毎日」が変わっていくのである。「毎日」によって、日常が変わっていくのである。「ドアの取っ手のとれた穴」は何日たっても変わらないはずなのに、坂多の場合、変わっていくのである。「毎日」という持続が、逸脱を生み出すのである。
 人間は(と言い切ってしまっていいかどうかわからないが)、持続していると変わってしまうものなのだ。何かを持続すると変わってしまうのだ。
 どうしてなんだろう。
 詩の後半。

昼間はうすぼんやりしているが
成長しすぎた穴は
ときに
熊だの狐だのが
うようよしていて
それでも何故か親しみを感じるは
この穴は
穴の一般的理解にたがわず
そこはかとない闇を思わせるが そもそもは
ふさいであった闇を解放したからで
ほら あちらに見えますのは
わたくしでござい

それにしても
取っ手のはずれたドアはおさまりが悪く
人の気配ですらゆれる

 持続すると、時間は「未来」へは進まず、「過去」の方向へ進んでしまう。持続すると、いろいろな「過去」のことが思い出されてくる。熊とか狐はきっとほんものではなく「童話」かなにかの記憶だろう。「一般的理解」云々もそういう口ぶりで語る「本」の記憶だろう。「闇を解放した」というのもそういう「流行ことば」の記憶だろう。
 「毎日」を持続することで「未来」へ進んでいるはずなのに、ドアの取っ手がとれて、それを埋めることができないという欠落のために、「未来」はいっこうに近づかず、「過去」ばかりが耕されて、次々にあらわれてくる。「毎日」「毎日」が「いま」であり、「未来」はやってこなくて、「過去」がふくらんでくる。「毎日」は一日一日「過去」になり、その「過去」の総体は、「わたくしでござい」ということになるのだが、そこへたどりつくまでの、そのふくらみ方がおもしろい。
 毎日、少しずつ秩序正しくというのではなく、「ふいに」あちこち、気ままにふくらんで行く。そして、そのふくらみは、気ままであるにもかかわらず、どこかで一貫している。「わたくしでござい」と言える何かで貫かれている。へえーっと思ってしまう。「毎日」「毎日」「わたし」は「私」であることを知っているけれど、やっぱり、へえーっと思ってしまう。
 生きるということは「未来」へ進むのではなく、ただひたすら「過去」をひろげることなのだと納得してしまう。「過去」へつながることだと納得してしまう。「過去」といっても「過去」「現在」「未来」という一直線のつながりではなく、そういう流れを縦の線だとすると、それと交差する横の線としての「過去」である。垂直の時間ではなく、水平の時間。生きるということは、水平に広がることなのだ、垂直のものを水平にほどいて行くことなのだ、坂多の詩を読みながら思うのだ。



 仲山清「寒の川」は、どこかへ広がっていくというよりは、最初から広がりがあって、その広がりを次第に結晶化させていくという感じの作品である。そこではあらゆる存在が、何かに向かって結晶化する。仲山にとって詩とは、別個の存在が何かをきっかけに結晶し、それぞれのもとの素材とは違ったものになるという過程かもしれない。
 坂多のことばの運動とは逆方向の運動に思える。坂多は一つのことからいくつものものへとほどけて行く。そして、そのほどけた広がりが「わたしでござい」なのに対して、仲山は、何かを結びつけて、存在を強固なものにする。

さぎは川から大気から
もやをあつめて編まれたもののように
白くゆっくりふくらんで
川面にかがやいている

 「あつめて」。仲山は「あつめる」詩人である。一方、坂多は「解放する」詩人である。「解放」されたものは、どうしたって「おさまりが悪い」。そして、「人の気配ですらゆれる」のである。仲山の「さぎ」は「釣りびと」を横目に、平然とハンターへと結晶するのと大違いである。

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リッツォス「紙細工(1971年)」より(2)中井久夫訳

2009-02-15 00:00:00 | リッツォス(中井久夫訳)

シーツを被って
かろやかに呼吸する彼女。
(これは詩かい?)
ボートが出航する。
帆が風をはらむ。
私は触る、指一つで
風の一つ一つに、
沈黙の一つ一つに。

 ふいに挿入される(ことは詩かい?)。「これ」とは何か。一群のことばか。それとも「シーツを被って/かろやかに呼吸する彼女」か。私は、後者だと思う。そして、そこから不思議な気持ちに襲われる。「シーツを被って/かろやかに呼吸する彼女」を「詩」だと断定するとき、「シーツ」が詩なのか。「かろやか」が詩なのか。「呼吸」が詩なのか。「彼女」が詩なのか。区別がつかない。その全体が詩であるというのは簡単だが、その全体には、細部がある。細部には詩がなくて、全体が詩であるとすれば、細部の意味は? それとも、細部を全体に統一している何かが詩? たぶん、そういうところに「思考」は落ち着くけれど、でも、細部を全体に統一している何かは、ここでは「ことば」として書かれていない。書かれていないのに、「これ」という指示代名詞で引き受けていいの?
 こういうことをあれこれ考えるのは愚かなことかもしれない。ただ、ことばをそのまま味わえばいいのだ、という見方があるだろうと思う。
 しかし、私は、あれこれ考えたい。
 特に、最後の2行。「一つ一つに」ということばがあるので。
 この詩では、「私」は「指」で触るのだが、リッツッスは「ことば」で「もの」に触る。「ひとつひとつに」。「シーツ」にも「被る」にも「かろやかに」も「呼吸する」にも「彼女」にも触ったのだ。そして、(これは詩かい?)と問いかけている。
 「これ」って何?
 ことばだ。ことばの動きだ。すべてのことばは動き、いつでも詩になるのだ。



私は影を青く塗ろう。
歯を磨いて、
ギターを鳴らそう。
きみはぼくのベッドの下に隠れている。
私は知らないふりをしよう。

 「私は影を青く塗ろう。」はとても美しい行だ。ただし、私はこの詩の「私」を画家とは考えない。絵を描いているとは考えない。意識の中で、ことばで影を「青」く塗るのである。影はふつうは「黒」だが、「黒」ではなく「青い」影を思い浮かべる。
 意識はいつでも「いま」「ここ」を「いま」「ここ」にないものにすることができる。わざと「いま」「ここ」には存在するものを考えることが好きだ。それは一種の可能性だからである。可能性は人間をはつらつとさせる。
 意識はいつでも「いま」「ここ」から離れることができる。たとえ、きみがぼくのベッドの下に隠れているとしても、それを知らないものにすることができる。そういう、「いま」「ここ」から逸脱していくこと、「わざと」そういうことをすることのなかに詩があるのだ。
 1行目と5行目の主語が「私」なのに、4行目が「ぼく」なのも、とてもおもしろい。「ぼく」と「私」はかき分けられている。中井の訳は、ふたつを区別している。
 「私」はここでは意識の動きをしめす主語である。「ぼく」は意識とは関係がない。意識の主語ではない。「私」は意識であるからこそ、「影を青く塗」ることができるし、「知らないふり」をすることができる。現実とは違ったことをつくりだすことができる。
 


きみは期待し続けてる。
私は言うだろう、
「それはこうじゃないよ」と。
これはこうなのさ。
私にもそうなのだよ。
詰めを摘む時は御注意。
鋏が鋭く光ってる。

 何が書いてあるかわからない作品だが、そのわからなさのなかにリッツォスの特徴があらわれている。
 「それ」「こう」、「これ」「こう」が何を指すかは、どんな読者にもわからない。もしかするとリッツォスにもわからないかもしれない。詩は、そういう自分自身にもわからないことを書くことができる。あるいは逆に、自分にさえわからないからこそ書くのだとも言える。書くことで、はじめて見えてくるものがあるからだ。
 この詩で見えてきたもの、書くことによって見えてきたものとは何か。
 「それはこうじゃないよ」という言い方は誰もがする。そういうことばの動かし方が現実にある。それはなぜか、詩、あるいは文学の中では、あるいは「正式な」(?)文章の中では許されない。「それ」「これ」「あれ」と指示代名詞であるから、その対象を必要とする。対象を不在にしたまま「それ」「これ」あれ」と言ってもだれにもわからないから、それだけを独立させてつかうことは、文学にとっては一種の暗黙の了解事項手ある。その暗黙の了解を破って、リッツォスはことばを動かす。詩はいつでも暗黙の了解を破ってこそ詩なのである。

 こういう作品を読むと、リッツォスは芝居のひとなのだ、劇の国のひとなのだ、という印象が強くなる。
 書きことばでは、突然の「それ」「これ」「あれ」は禁じ手だが、こういう会話は日常ではだれもがする。それは生活の場においてであるけれど。文学で禁じられていることが日常で許されているのはなぜか。日常の場では「過去」が共有されている。「それ」「これ」「あれ」は「過去」と関係があるのだ。
 文学で指示代名詞がつかわれるとき、そのことばより前、つまり「過去」に具体的なことが描かれており、それを受けて「「それ」「これ」「あれ」と言うのである。「それ」「これ」「あれ」は「過去」そのものだとも言える。
 芝居(舞台)では、役者が、それぞれ「過去」を持っている。ふの「過去」が見えるとき、突然であっても「それ」「これ」「あれ」は通用する。流通する。そういう「過去」が存在するという事実を、詩の中に取り込み、リッツォスは過去があるということを暗示することで「事件」を暗示するのである。詩をドラマチックにするのである。
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