坂多瑩子「ふいに」、仲山清「寒の川」(「鰐組」232 、2009年02月01日発行)
坂多瑩子「ふいに」がとてもおもしろかった。その前半。
私がいちばんおもしろいと思ったのは「毎日見ていると」という行である。もっと厳密にいうと「毎日」である。ここには「毎日」生きていることのおもしろさがあるのだ。だれでも「毎日」生きているかもしれない。確かにそうだけれど、そういう「毎日」は何も変わらない。ところが、坂多の場合、その「毎日」が変わっていくのである。「毎日」によって、日常が変わっていくのである。「ドアの取っ手のとれた穴」は何日たっても変わらないはずなのに、坂多の場合、変わっていくのである。「毎日」という持続が、逸脱を生み出すのである。
人間は(と言い切ってしまっていいかどうかわからないが)、持続していると変わってしまうものなのだ。何かを持続すると変わってしまうのだ。
どうしてなんだろう。
詩の後半。
持続すると、時間は「未来」へは進まず、「過去」の方向へ進んでしまう。持続すると、いろいろな「過去」のことが思い出されてくる。熊とか狐はきっとほんものではなく「童話」かなにかの記憶だろう。「一般的理解」云々もそういう口ぶりで語る「本」の記憶だろう。「闇を解放した」というのもそういう「流行ことば」の記憶だろう。
「毎日」を持続することで「未来」へ進んでいるはずなのに、ドアの取っ手がとれて、それを埋めることができないという欠落のために、「未来」はいっこうに近づかず、「過去」ばかりが耕されて、次々にあらわれてくる。「毎日」「毎日」が「いま」であり、「未来」はやってこなくて、「過去」がふくらんでくる。「毎日」は一日一日「過去」になり、その「過去」の総体は、「わたくしでござい」ということになるのだが、そこへたどりつくまでの、そのふくらみ方がおもしろい。
毎日、少しずつ秩序正しくというのではなく、「ふいに」あちこち、気ままにふくらんで行く。そして、そのふくらみは、気ままであるにもかかわらず、どこかで一貫している。「わたくしでござい」と言える何かで貫かれている。へえーっと思ってしまう。「毎日」「毎日」「わたし」は「私」であることを知っているけれど、やっぱり、へえーっと思ってしまう。
生きるということは「未来」へ進むのではなく、ただひたすら「過去」をひろげることなのだと納得してしまう。「過去」へつながることだと納得してしまう。「過去」といっても「過去」「現在」「未来」という一直線のつながりではなく、そういう流れを縦の線だとすると、それと交差する横の線としての「過去」である。垂直の時間ではなく、水平の時間。生きるということは、水平に広がることなのだ、垂直のものを水平にほどいて行くことなのだ、坂多の詩を読みながら思うのだ。
*
仲山清「寒の川」は、どこかへ広がっていくというよりは、最初から広がりがあって、その広がりを次第に結晶化させていくという感じの作品である。そこではあらゆる存在が、何かに向かって結晶化する。仲山にとって詩とは、別個の存在が何かをきっかけに結晶し、それぞれのもとの素材とは違ったものになるという過程かもしれない。
坂多のことばの運動とは逆方向の運動に思える。坂多は一つのことからいくつものものへとほどけて行く。そして、そのほどけた広がりが「わたしでござい」なのに対して、仲山は、何かを結びつけて、存在を強固なものにする。
「あつめて」。仲山は「あつめる」詩人である。一方、坂多は「解放する」詩人である。「解放」されたものは、どうしたって「おさまりが悪い」。そして、「人の気配ですらゆれる」のである。仲山の「さぎ」は「釣りびと」を横目に、平然とハンターへと結晶するのと大違いである。
坂多瑩子「ふいに」がとてもおもしろかった。その前半。
ドアの取っ手がこわれたので
はずしたまでは良かったが
ぽっかり開いた穴に
合う取っ手が見つからず
メーカーはすでに倒産していたから
穴は妙にかしこまって
りんかくは
ざらつく感じに見えるが
これといって特徴はなく
ところが
毎日見ているうちに
ほら あちらに見えますのは
などと
ふらふら歩く血染めの花嫁が
青ひげの首をぶらさげていたりして
私がいちばんおもしろいと思ったのは「毎日見ていると」という行である。もっと厳密にいうと「毎日」である。ここには「毎日」生きていることのおもしろさがあるのだ。だれでも「毎日」生きているかもしれない。確かにそうだけれど、そういう「毎日」は何も変わらない。ところが、坂多の場合、その「毎日」が変わっていくのである。「毎日」によって、日常が変わっていくのである。「ドアの取っ手のとれた穴」は何日たっても変わらないはずなのに、坂多の場合、変わっていくのである。「毎日」という持続が、逸脱を生み出すのである。
人間は(と言い切ってしまっていいかどうかわからないが)、持続していると変わってしまうものなのだ。何かを持続すると変わってしまうのだ。
どうしてなんだろう。
詩の後半。
昼間はうすぼんやりしているが
成長しすぎた穴は
ときに
熊だの狐だのが
うようよしていて
それでも何故か親しみを感じるは
この穴は
穴の一般的理解にたがわず
そこはかとない闇を思わせるが そもそもは
ふさいであった闇を解放したからで
ほら あちらに見えますのは
わたくしでござい
と
それにしても
取っ手のはずれたドアはおさまりが悪く
人の気配ですらゆれる
持続すると、時間は「未来」へは進まず、「過去」の方向へ進んでしまう。持続すると、いろいろな「過去」のことが思い出されてくる。熊とか狐はきっとほんものではなく「童話」かなにかの記憶だろう。「一般的理解」云々もそういう口ぶりで語る「本」の記憶だろう。「闇を解放した」というのもそういう「流行ことば」の記憶だろう。
「毎日」を持続することで「未来」へ進んでいるはずなのに、ドアの取っ手がとれて、それを埋めることができないという欠落のために、「未来」はいっこうに近づかず、「過去」ばかりが耕されて、次々にあらわれてくる。「毎日」「毎日」が「いま」であり、「未来」はやってこなくて、「過去」がふくらんでくる。「毎日」は一日一日「過去」になり、その「過去」の総体は、「わたくしでござい」ということになるのだが、そこへたどりつくまでの、そのふくらみ方がおもしろい。
毎日、少しずつ秩序正しくというのではなく、「ふいに」あちこち、気ままにふくらんで行く。そして、そのふくらみは、気ままであるにもかかわらず、どこかで一貫している。「わたくしでござい」と言える何かで貫かれている。へえーっと思ってしまう。「毎日」「毎日」「わたし」は「私」であることを知っているけれど、やっぱり、へえーっと思ってしまう。
生きるということは「未来」へ進むのではなく、ただひたすら「過去」をひろげることなのだと納得してしまう。「過去」へつながることだと納得してしまう。「過去」といっても「過去」「現在」「未来」という一直線のつながりではなく、そういう流れを縦の線だとすると、それと交差する横の線としての「過去」である。垂直の時間ではなく、水平の時間。生きるということは、水平に広がることなのだ、垂直のものを水平にほどいて行くことなのだ、坂多の詩を読みながら思うのだ。
*
仲山清「寒の川」は、どこかへ広がっていくというよりは、最初から広がりがあって、その広がりを次第に結晶化させていくという感じの作品である。そこではあらゆる存在が、何かに向かって結晶化する。仲山にとって詩とは、別個の存在が何かをきっかけに結晶し、それぞれのもとの素材とは違ったものになるという過程かもしれない。
坂多のことばの運動とは逆方向の運動に思える。坂多は一つのことからいくつものものへとほどけて行く。そして、そのほどけた広がりが「わたしでござい」なのに対して、仲山は、何かを結びつけて、存在を強固なものにする。
さぎは川から大気から
もやをあつめて編まれたもののように
白くゆっくりふくらんで
川面にかがやいている
「あつめて」。仲山は「あつめる」詩人である。一方、坂多は「解放する」詩人である。「解放」されたものは、どうしたって「おさまりが悪い」。そして、「人の気配ですらゆれる」のである。仲山の「さぎ」は「釣りびと」を横目に、平然とハンターへと結晶するのと大違いである。