詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

東野正『難破調』(2)

2011-05-03 23:59:59 | 詩集
東野正『難破調』(2)(セスナ舎、2011年01月11日発行)

 きのう「。し、の、死!」について触れたとき書き漏らしたことがある。(私は目の状態がよくなく、1回に書く時間を約40分と決めて、ただひたすら書いているので、脱線すると脱線したままになる。)
 「。し、の、死!」にはおびただしい句読点がある。そして、感嘆符の挿入もある。これはいったい何なのだろうか。東野は、句読点を普通の読み方とは違った形でつかっている(少なくとも「学校教科書」では習わない形でつかっている)。もし、句読点が文章の「終わり」と「息継ぎ」を意味するのだとしたら、東野は、普通とは逆の使い方かさえしている。

と思う。何がではな、苦、そう!いき。なり、恥め。る、いや始。
められても異。異、のでは。無い!か、

 たとえば、この書き出しは

と思う。何がではな、苦、そう!いき、なり、恥め、る。いや始、
められても異、異、のでは、無い!か。

 とした方が、いくらか「文」の体裁が整う。「恥め、る。」「無い!か。」で文章がいったん完結する。ところが、東野はそういうスタイルをあえて破壊している。
 ことばは「文章」に則して動くわけではない--そういう意識が東野にはあるのだと思う。そして、私はこの東野の句読点のつかい方に、とても「肉体」を感じる。ことばを書いているときの「肉体」の動きというか、「肉体」のなかでことばにならないことばが動く感じが感じられる。
 ことばを書いているとき、ある「結末」というか、ひとつの文章が想定されているのだけれど、そのことばを書いている途中で(話している途中で)、ふいに脇道にそれてしまいたい欲望に動かされることがある。それは文章をいったん完結させたあと、こういうことも言いたかったと補足してもいいのかもしれない。実際、そんなふうに補足する方が読みやすいし、「意味」が通りやすいのだけれど、あ、これを言いたいのにという欲望は、書きはじめたひとつの文章が完結するまでは我慢していなくてはならない。これがちょっとつらい。我慢している間に気持ちがかわってしまうこともあるからだ。
 そういう我慢をせずに、思いついた瞬間に、思いついたことばを割り込ませる。そういうことをしたら、どうなるのだろう。
 意識の連続と切断が、たぶん「学校教科書」の句読点とはあべこべになる。東野の書いている句読点のように、読点「、」であるところが句点「。」になり、句点「。」であることろが読点「、」になるということがありうる。
 突然の「ことば」の乱入を受け入れ、受け入れながら受け入れた段階でいったん完結させる。句点「。」を使う。しかし、その句点「。」を越えて、ことばが前のことばを引き継ぐ。その引き継ぎの意識が、その次の読点「、」によって回復させられる。--つまり、いま、乱入してきたことばを完結させるために便宜上句点「。」を使ったのだけれど、ほんとうは、ことばはまだまだつづいていくのだ、接続していくのだということを、句点「。」のあとの読点「、」は強調するのである。
 この切断(乱入、逸脱の切断)と、切断を越えていく接続の仕方はとてもおもしろい。早稲田小劇場時代の白石佳代子の朗読で聞いてみたい気持ちにさせられる。ことば「肉体」のなかで独自に動くのだ。「頭」の整理を越えて、「肉体」の内部で融合している感覚を攪拌しながら突然噴出し、その噴出をこらえながら持続していくのだ--という感じがくっきりと浮かび上がると思う。

 そういう視点から読んでいくと、

と思う。何がではな、苦、そう!いき。なり、恥め。る、

 の「な」のあとの読点「、」は句点「。」であった方が、私にはおもしろい。「何がではなく」とことばが動こうとした瞬間、その否定のことばのなかに「苦」に通じるものが紛れ込む。「な」のあとにつづくはずの普通のことばを切断し、「苦」が乱入してくる感じがすると思う。その「苦」とはなんだろう。否定されたものの苦しみかもしれない。
 この乱入、切断、あるいは切断という名の強引な接続--その瞬間、「いき(息)」が止まる。この「肉体」の感覚が「いき。」になる。それから乱入は、これは私がスケベだからそう思うのかもしれないが、強姦、性器の侵入--恥辱へとつながる。そのとき、強姦される苦しみ、そのときの「いき(息)」、そして「恥」ということばが乱れながら交錯する。
 
異。異、のでは。無い!か、

 の「異。異、」は強姦された被害者の異義であり、呼吸であり、異義に反して漏れてしまう「声」かもしれない。
 詩はつづいていく。

                  岩場。固い地盤憎い、を。
打ち込み、底から。安全な設計思想により。確実なものにしたい、
ものにしたいと。ゲスな下心が上心を手ご。め!にして。いやいや
はいいの。

 「固い地盤憎い、を。打ち込み、」は「固い地盤に杭を打ち込み」と切断なしのことばになると、「杭」はそのまま男根になり、「固い地盤」は女の抵抗になるだろう。それでも、なんとか貫通し(姦通し?)、子宮の底(奥)にたどりつけば、「いやいやはいいの」とという、気楽な男根主義の思い込みが射精のように溢れてくる。
 あ、これではフェミニストに叱られると思うのだが、この「肉体」の「呼吸」は、私には信じられる。東野のことばのなかで何か信じることができるものがあるとすれば、この切断と接続から、ふいにあらわれてくる男根主義(男根思想)だろうと思う。男根主義に賛成というのではないのだが、ここには「正直」があると感じられる。
 東野に特徴的な「視覚」の優位性、呼吸さえも句読点によって視覚化するこの「視覚」へのこだわりは、もともと「頭」優位の「男根主義」によるものである。

     知る。詩、と、か言っ。て、途方も泣く、脱。線して、
脱落し。て、途方に、くれ!て、脱丁して、い、苦。都、なんの!
ことも泣くて、いや無。くてそれは詰まり、高度死本趣義の禅面、
的展。開に桶。る水た、まり、いや!金あまりが目にあまり。あま
り金と、縁の。ない私!(私はない?)との問、題に、す愚。それ!
たりす、ることな。く、

 「知る。詩、」は「印、徴」であり、象徴である。
 そして、句読点は東野にとって「肉体」の「象徴」ということになるかもしれない。そういうことを考えさせてくれる(こんなふうに「誤読」を許してくれる)という点で、この詩は非常におもしろい。
 おもしろい--と書きながら、矛盾したことを書くようでもあるのだが、この「肉体」(呼吸)を「文字」にしてみせる手法は、それはそれでいいのだが、その「脱線」を「漢字(表象文字、表徴文字)」に頼ったとき、うーん、私は生理的に反発を感じてしまうのだ。これは私の生理の問題だから、「こんなことを書かれてもそれは私のしようとしていることではない」と東野に反論されるだけかもしれないのだが……。これがもし、漢字ではなく、「ひらがな」として書かれていたら、とてもおもしろいのではないかと思うのだ。「視覚」ではなく「聴覚」だけを頼りに、そのことばが「肉体」のどこをとおってやってくるか、それを「読者」にまかせてしまうと、とてもおもしろいものになるのではないか、と思うのである。

 もっとも、これは「漢字」まじりのことばを読んだあとだから言えることかもしれない。

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ナボコフ『賜物』(45)

2011-05-03 14:17:50 | ナボコフ・賜物
 ナボコフの視力は強靱である。その強靱さは、私のように目の悪い人間にはときどき苦痛になる。左右の目の視力に差があるひとにしかわからないことかもしれないが……。眼鏡の処方は少しむずかしい問題がある。右目と左目のそれぞれの視力を1・0に矯正したとする。そのレンズの度数に開きがあると、眼鏡をかけたとき「像」がうまく結ばないという障害が起きる。レンズの度数にして2・0差があると、右目の像と左目の像に「遠近」の差ができて、頭が疲れるのである。私の場合、これが1・0でも苦しい。世界が散らばって見える。とてもかけられない。それで、私の場合、右目の視力を中心にして眼鏡をつくり、左目の視力は低いままにしている。--と、わからないひとにはなんのことかわからないことを長々と書いたが……。
 ナボコフの文章を読むと、むりやり視力を矯正したときのように、それぞれはくっきりみえるのだが、「世界の像」としては不完全な、ばらばらの印象になってしまうようなときがある。そして、それでも、なぜかしら、その文章を読まずにはいられないということがおきる。完全な像を結んでくれないのだが、その「完全な像」をむしろ破壊して、何かが輝く--その強さにひかれるのである。

巨大で、鬱蒼として、道多きこの庭園は、その全体が陽光と影の均衡のうちにあった。そして光と影が作り出す調和は夜から夜へと移り変わっていったが、その変わりやすさ自体がまたこの庭園だけに備わった固有のものだった。並木道で熱い光の環がいくつも足下に揺れていたとすれば、遠くでは必ず太いビロードのような縞が横に延び、その向こうには再びオレンジ色の篩(ふるい)の目のような模様が見え、さらにその先、奥のきわまったところには濃密な黒が息づいていた。その黒さを紙の上に移しかえようとしても、水彩画かの目を満足させられるのは絵の具がまだ湿っている間だけで、すぐ色あせてしまう美を引き留めておくためには、次々に絵の具を塗り重ねなければならなかった。
                                (126 ページ)

 「絵の具がまだ湿っている間だけ」がすばらしい。遠い風景が、手の届く紙の上に引き寄せられ、そこで呼吸する。それは遠いところなのに、近い。この遠近の落差を「時間」が埋める。「時間」がつなぐ。そして、その「時間」は「肉体」の時間なのである。
 「すぐ色あせてしまう美を引き留めておくためには、次々に絵の具を塗り重ねなければならなかった。」絵を描く--しかも、その描く作業を「塗り重ねる」という具体にまで引き寄せることでくっきりしてくる「時間」。
 ここに「肉体」の「時間」が書かれているので、私のように目の悪い人間にも、ナボコフの描いている「絵」がくっきりと見える。いや、「絵」全体は見えないのだが、その要だけははっきりと見える。その鮮やかさに、どうしても活字を追ってしまうのだ。




賜物 (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集2)
ウラジーミル・ナボコフ
河出書房新社
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アッバス・キアロスタミ監督「トスカーナの贋作」(★★★★)

2011-05-03 09:28:25 | 映画
監督 アッバス・キアロスタミ 出演 ジュリエット・ビノシュ、ウィリアム・シメル

 いろいろ驚かされる映像があるが、何より驚くのはジュリエット・ビノシュとウィリアム・シメルが車でトスカーナの街をドライブするシーンである。ふたりをカメラは車のフロントガラス越しに映し出す。そのとき二人の表情に、フロントガラスに映った街(家並み)が重なり、どちらもはっきりとはしない。よく見えない。トスカーナの街もよくわからないし、二人の表情もガラスに映った半透明の街のなかでゆらぎ、どうにもつかみにくい。
 ガラス、鏡、あるいは金属に映る映像は随所に出てくる。ドライブのシーンは全面にそれが映し出されるからまだわかりやすいが、ウィリアム・シメルがジュリエット・ビノシュの画廊を尋ねたシーンでは、室内全体か薄暗い上に、鏡が小さいので、鏡のなかののなかのウィリアム・シメルは、あれは何かなあとよくわからないくらいである。
 そのくせ、たとえばジュリエット・ビノシュがレストランの化粧室で口紅を塗るシーンは鏡を見せない。ジュリエット・ビノシュはカメラを(観客の視線を)鏡であるかのようにしっかりみつめ、口紅を塗る--と書いて思うのだが、
 これってほんとう? 私が見たのは本物のジュリエット・ビノシュ? それとも鏡のなかのジュリエット・ビノシュ? ほんもののジュリエット・ビノシュと見るのが「自然」かもしれないが、絶対に鏡のなかのジュリエット・ビノシュではないとは言い切れない。どちらとも受け取ることができる。
 だいたいほんもののジュリエット・ビノシュと鏡のなかのジュリエット・ビノシュを区別することに何か「意味」があるだろうか。少なくとも、鏡のなかのジュリエット・ビノシュは「鏡像」だとしても「ニセモノ」ではない。
 そういうことは、この世界にはたくさんある。最初に紹介したフロントガラスに映るトスカーナの町並み。それはフロントガラスに映った像である。けれど、それは像ではあるが「ニセモノ」ではない。
 あらゆるものに「ニセモノ」はないのである。
 「芸術作品」には「ほんもの」と「ニセモノ(贋作)」があるが、その「ニセモノ」は「ほんもの」とそっくりだから「ニセモノ」なのである。それは「ニセモノ」ではなく、ある願望が映し出したひとつの「像」なのである。そして、その贋作がたとえば金を稼ぎたいという目的でつくりだされたものだとすれば、そこには金がほしいという「ほんものの」の願望がひそんでいる。
 ひとは、あらゆるものを、自分の願望で塗り込めることで「ほんもの」にする。「願望」がほんものであり、その願望が映し出す(浮かび上がらせる)ものは、何よりも「ほんもの」そのものになっていくのである。
 あ、ちょっとややこしいことを書いてしまった。このままでは、私のことばは動いていかない……。
 で、ちょっと視点をずらして映画にもどると。
 ジュリエット・ビノシュはウィリアム・シメルたまたま入ったコーヒー屋で夫婦に間違えられる。それはほんとうに間違えられたのか、それとも二人の関係が不安定になっているから「夫婦と間違えられた」と告げることで、ジュリエット・ビノシュがウィリアム・シメルとの関係を修復したいと願っているのか、よくわからない。
 ひとつだけはっきりしていることは、何かを「映し出す」ものは鏡やガラスや金属だけではないということだ。ひとも他人を映し出すのである。コーヒー屋の女主人は、ジュリエット・ビノシュとウィリアム・シメルを「夫婦」として「映し出した」のである。「見る」とは何かを自分の色に染めて「映し出す」ということなのである。
 この映画には、ほんものかにせものかわからないジュリエット・ビノシュとウィリアム・シメル以外にも「夫婦」が出てくる。妻を無視して電話に向かって大声をあげている男。トスカーナにある美術品を尋ね歩いている夫婦。年取ってよぼよぼとホテルへ帰る夫婦。--それは、ジュリエット・ビノシュの視線に(あるいはウィリアム・シメルの視線に)映し出された「夫婦」である。ほんとうは違うかもしれない。いや、映画の登場人物の視線ではなく、観客の、つまり私の視線によって「夫婦」として存在するだけかもしれない。ジュリエット・ビノシュとウィリアム・シメルが「夫婦」であるかどうかわからないように、そこに登場する何組かの男女も「夫婦」であるかどうかなど、わからない。たとえ彼らが「夫婦である」と語ったとしても、そのことばがほんとうかどうかはわかりはしないのである。
 わかるのは、--というのは、変な言い方かもしれないが、私にとって、そこに登場する何組かの男女は「夫婦」ととらえた方が、この映画が理解しやすいということである。そして、その理解しやすいということの延長で言うと、私は、この映画のなかでは、ジュリエット・ビノシュが男とセックスをしたいと思っているととらえると、この映画のストーリーがわかりやすい。
 人は誰でも自分の「願望」に映して世界をとらえる。願望が映し出した「世界」の奥には願望が半透明の形で透けて見える。ジュリエット・ビノシュは男がほんとうの夫か、それとも偶然出会った男であるかはどうでもよくて、ただセックスをしたいと思っている。そして、その願望のためなら「夫婦」を装うこともかまわない。「夫婦」は「にせもの」であるけれど「願望」は「ほんもの」であるからだ。
 その「ほんのもの」の願望をに近付くために、彼女は見るものをすべて、その「願望」にかなう姿で定義していく。アメリカから彫刻を鑑賞に来た「夫婦」、彫刻が描き出す男女の関係のなかにある「夫婦」、年をとって支えあう「夫婦」。それは「ほんもの」というよりも、彼女の「願望」がどれだけ「ほんもの」であるかを語るだけのものなのだ。
 そして、そして、そして。
 私はちょっとうなってしまうのだが、このジュリエット・ビノシュの「ほんもの」を「哀しみ」(女のかなしみ)として描き出しているところなのだ。ジュリエット・ビノシュがウィリアム・シメルとセックスをしたいと思っているのは、ふたりが不和に陥った夫婦であり、その不和を解消するためなのか、それとも単に彼がいい男であり、有名人だからなのかわからないが--男と肌を合わせたいと、哀しいまでに願っていると描き出すことなのだ。どうすれば、その気持ちをつたえられるか、ジュリエット・ビノシュ自身もわからない。わからないまま、まるで「ひとつの芸術作品」のように、静かにそれを描き出すということなのだ。
 私はジュリエット・ビノシュを、まるで謎が解かれるのを待っている「芸術作品」の「ほんもの」として見てしまったのだ。それが「ニセモノ」である可能性もあるのだが、「ほんもの」と感じてしまったのだ。

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