詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(4)

2011-05-07 23:59:59 | 詩の礫
和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(4)(「現代詩手帖」2011年05月号)

放射能はただちに健康に異常が出る量では無いそうです。「ただちに」を裏返せば「やがけは」になるのでしょうか。家族の健康が心配です。

そうかもしれませんね。物事と意味には明らかな境界があるそれは離反していると言っても良いかもしれません。
             (38ページ、以下「現代詩手帖」2011年05月号のページ)

 ここにはいくつかのことが書かれている。ひとつは、ことばの問題。
 「もの全ての事象における意味などは、それらの事後に生ずるものなのでしょうか。」と先に和合は書いていた。「事象」と「意味」が、ここでは「物事」と「意味」ということばでとらえ直されている。「事後」と前に書かれていたことは、ここでは「境界」ということばでとらえ直されている。「事後」というとき、その「後」ということばから私は「時間」を連想した。「境界」ということばからは「空間」を連想する。「意味」は「時間」と「空間」の2種類の「間」を感じている。「間」は、ここでは「離反」ということばになっている。
 私は、これを乖離と呼んできたが、和合は、ここでははっきりと「離反」と書いている。
 「離反」。離れているだけではない。それは「反発」しあっている。いっしょになろうとはしないのだ。
 ことばは、何かを裏切っている。いま、語られていることばは何かを裏切っているという思いがあるのかもしれない。それは、言いなおすと、和合はことばに疑いをもっているということである。いま、流通していることば--それは、裏切りを隠していないか。
 「ただちに健康に異常は出ない」とは「やがては健康に異常が出る」ということを「意味」しないか。
 もし、そうであるなら、「物事」と「意味」の間に「境界」があり、「物事」と「意味」が「離反」しているだけではなく、ことばが、「意味」とも「離反」しているということになる。
 ことばの「意味」は、流通していることばをどおりではないのだ。
 「物事」が動いていくなら、ことばも動いていく。「物事」に空間があり、時間があるなら、ことばもその空間と時間を生きてみないことには、ほんとのう「意味」にはなりえない。
 ことばと意味は離反している。だから、それは動かしてみて確かめなければならない。どんなふうに動き、どんなことばとつながるか、確かめてみないと、そこにどんな「意味」がひそんでいるのかわからない。
 「意味」もきっと変化する、つまり成長するものなのだ。

ものみな全ての事象における意味など、その事後に生ずるものなのでしょう。ならば「事後」そのものの意味とは、何か。そこに意味はあるのか。

 ことばは遅れてやってくる。意味も遅れてやってくる。そして、遅れてやってくるものは、過去を引きずっており、それが動くとき過去が見える。意味は、過去といまをつなぎながら成長する。
 もし、そういう「意味」の成長に意味があるとすれば(何か注意をはらって読みとらなければならないものがあるとすれば)、それは何だろう。
 ことば、意味とともに生きている「私」そのものの変化かもしれない。
 ことばを追いながら、和合は変わっていく。

家族の健康が心配です。

 これは、だれもが口にする「当たり前」のことばである。しかし、当たり前のことばであるからといって、それが当たり前に出てくるとはかぎらない。「ただちに」が「やがては」になることを知ったとき、その動きのなかで、和合は自然に「家族のことが心配です」と思った。その「自然」が和合の変化である。
 正月の神社へのお参りで家族の健康を願うのとは違う「意味」が、ここにはある。

 それは、何が、どう違うのか。

 行きつ、戻りつしながら書くしかないのだが、正月に家族の健康を祈るとき、その祈りは「いま」と「将来」との間に「境界」を設定していない。時間はどれだけ過ぎていっても、いつまでも「いま」である。ところが、大震災、そして原発事故のあとでは、この「いま」はあすは「いま」とはまったく違った時間であるかもしれないのだ。ことばは、いつでも、その瞬間その瞬間と厳しく結びついている。
 事象、物事とことば(意味)は離反しているが、その離反は、事象・物事とことば(意味)を硬く結びつけようとするからこそ意識される離反なのだ。
 結びつけようとして、結びつけられない。結びつけるたしかなものがない。あるのは、どうすることもできない「境界」であり、「事後」の「後」ということば、意味である。そこに「心配」というものが、切実に入り込むのである。

 ああ、それにしても、と私は思う。
 こういうときでも「私の健康」ではないのだ。家族の健康なのだ。和合はまだ「私を助けてください」とは言っていない。和合は「ありがとうございました」と自分の気持ちを語ったあとは、「相馬市を救って下さい」「家族が心配です」と、自分を離れた場所で、ことばに祈りを込めている。ことばを、自分ではないもののために動かしている。




黄金少年 ゴールデン・ボーイ
和合 亮一
思潮社
コメント
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