和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(22)(「現代詩手帖」2011年05月号)
ことばは「比喩」であり、「比喩」は自己投企である。(あ、なぜハイデガーの用語などつかってしまったのだろうと、いまは反省している。こういう用語をつかうと簡単になってしまう。考える部分が少なくなる。これでは、和合に申し訳ない。和合は自分自身のことばを書いているのに、それを借りてきた用語で「誤読」するとき、私は私自身と向き合う手間を省いていることになる。でも、書いてしまったなあ……。)
しかし、ことはば「比喩」だけではない。というより、ことばは、そもそも何なのかわからない。「意味」がわからない。だれでも、最初はことばの「意味」がわからない。「意味」はたぶん、繰り返し繰り返しことばにであうことで「つくっていく何か」なのである。その「何か」が「いま/ここ」にないもの、「いま/ここ」にあってほしいものを指し示すとき(含むとき)、それは「比喩」になるのだが、「比喩」にはなれないことばもある。「意味」が確定されないまま揺れ動くことばがある。揺れ動きつづけ、想定されている(?)「意味」とは違うことばになってほしいことばもある。
あ、いけない。また抽象的になりすぎた。
私が考えているのは、(考えたいのは)、次のことば。
03月21日の冒頭に(最初に)書かれたことばである。
「制御」とは、何かを自分の思い(目的)に沿うように調整しながら動かすこと--という「意味」を和合は知っていると思う。その知っていることばを取り上げ「制御とは何か」と書くとき、和合は「いま/これまで/ここ」で作り上げてきたはずの「意味」をあえて「わからないもの」にして、「いま/ここ」から作り上げたいと願っているように感じられる。
「比喩」がある程度自分の「理想(目的/願い)」というものを含んでいるものだとすれば、ここに書かれている「制御」、「制御とは何か」ということばは、「比喩」ではないことばの運動ひとつの「具体的な何か」である。
で、その「具体的な何か」とは何か。--わからない。わからないから、私は考えたい。
「制御」と「余震」が同時につかわれるとき、わかることがある。「制御」には「制御できる」と「制御できない」がある。さらには「制御する」「制御しない」がるあかもしれない。「制御したい」「制御しなければならない」もある。
「制御」の「意味」は「何かを自分の思い(目的)に沿うように調整しながら動かすこと」という「名詞」の状態ではおさまりきれないのである。「できる/できない」「する/しない」「したい/しなければならない」のように、動詞として動かしてみなければ、ほんとうの意味は浮かび上がってこない。
動詞派生のことばは動詞に還元し、動詞そのものとして「意味」を点検しなくてはならないのである。
余震。大地の揺れ。これは人間の思い出はどうすることもできない。和合がどう思うおうが、ふいに起きる余震を止めることはできない。そうすると、「制御するとは何か。余震。」というときの「制御」は、余震は制御できないのに、それではなぜ「制御」などということばがあり、また、地震(余震)のたびに「制御」ということばが思い浮かぶのかという問題が起きてくる。
余震が制御できないものならば、余震に対して制御ということばを思いつかなければいいのに、人間は思いついてしまう。
それは、なぜ?
制御できない。けれど、制御したいからだ。このときの「したい」は意思というよりも、祈りに近い。
ことばは--ことばは祈りなのである。
和合がそう書くとき、和合は祈っているのである。「制御」に祈りを込めている。ことばに「祈り」をこめたからといって現実がかわるわけではないかもしれないが、ともかく祈るのである。
ここでは、「祈り」はまだ「祈り」になりきれていない。「制御」は「制御出来ない」ということば、動詞になって暴れている。ことばが暴れるままに動いていて、和合はそれに異義をいいたいのだが、どうしていいかまだわからない。「制御とは何か」しか言うことができない。
けれど「制御とは何か」ということばから書きはじめて、そこまで書いたあとで、実は変化が起きる。
ことばが暴れ回るのを受け止めたあと、和合の肉体のなかから、それまで押さえつけられていた何かが動きだすのである。
余震は「制御出来ない」。原子力も「制御出来ない」。いまは、「制御」は「できない」ということばとともに動いている。その動きは和合の「思い」とは違っている。和合は「制御できる(したい)」ということばへと、ことばそのものを動かしていきたい。
そういうことは、できないことなのか。
ことばは「比喩」であり、「比喩」は自己投企である。(あ、なぜハイデガーの用語などつかってしまったのだろうと、いまは反省している。こういう用語をつかうと簡単になってしまう。考える部分が少なくなる。これでは、和合に申し訳ない。和合は自分自身のことばを書いているのに、それを借りてきた用語で「誤読」するとき、私は私自身と向き合う手間を省いていることになる。でも、書いてしまったなあ……。)
しかし、ことはば「比喩」だけではない。というより、ことばは、そもそも何なのかわからない。「意味」がわからない。だれでも、最初はことばの「意味」がわからない。「意味」はたぶん、繰り返し繰り返しことばにであうことで「つくっていく何か」なのである。その「何か」が「いま/ここ」にないもの、「いま/ここ」にあってほしいものを指し示すとき(含むとき)、それは「比喩」になるのだが、「比喩」にはなれないことばもある。「意味」が確定されないまま揺れ動くことばがある。揺れ動きつづけ、想定されている(?)「意味」とは違うことばになってほしいことばもある。
あ、いけない。また抽象的になりすぎた。
私が考えているのは、(考えたいのは)、次のことば。
制御とは何か。余震。
(55ページ)
03月21日の冒頭に(最初に)書かれたことばである。
「制御」とは、何かを自分の思い(目的)に沿うように調整しながら動かすこと--という「意味」を和合は知っていると思う。その知っていることばを取り上げ「制御とは何か」と書くとき、和合は「いま/これまで/ここ」で作り上げてきたはずの「意味」をあえて「わからないもの」にして、「いま/ここ」から作り上げたいと願っているように感じられる。
「比喩」がある程度自分の「理想(目的/願い)」というものを含んでいるものだとすれば、ここに書かれている「制御」、「制御とは何か」ということばは、「比喩」ではないことばの運動ひとつの「具体的な何か」である。
で、その「具体的な何か」とは何か。--わからない。わからないから、私は考えたい。
制御とは何か。余震。
「制御」と「余震」が同時につかわれるとき、わかることがある。「制御」には「制御できる」と「制御できない」がある。さらには「制御する」「制御しない」がるあかもしれない。「制御したい」「制御しなければならない」もある。
「制御」の「意味」は「何かを自分の思い(目的)に沿うように調整しながら動かすこと」という「名詞」の状態ではおさまりきれないのである。「できる/できない」「する/しない」「したい/しなければならない」のように、動詞として動かしてみなければ、ほんとうの意味は浮かび上がってこない。
動詞派生のことばは動詞に還元し、動詞そのものとして「意味」を点検しなくてはならないのである。
余震。大地の揺れ。これは人間の思い出はどうすることもできない。和合がどう思うおうが、ふいに起きる余震を止めることはできない。そうすると、「制御するとは何か。余震。」というときの「制御」は、余震は制御できないのに、それではなぜ「制御」などということばがあり、また、地震(余震)のたびに「制御」ということばが思い浮かぶのかという問題が起きてくる。
余震が制御できないものならば、余震に対して制御ということばを思いつかなければいいのに、人間は思いついてしまう。
それは、なぜ?
制御できない。けれど、制御したいからだ。このときの「したい」は意思というよりも、祈りに近い。
ことばは--ことばは祈りなのである。
制御とは何か。
和合がそう書くとき、和合は祈っているのである。「制御」に祈りを込めている。ことばに「祈り」をこめたからといって現実がかわるわけではないかもしれないが、ともかく祈るのである。
あなたは「制御」しているか、原子力を。余震。
人間は原子力の素顔を見たことがあるか。余震。
相馬の果てなき泥地よ。無人の小高の町よ。波を横腹に受けた新地の駅よ。国道に倒れた、横倒れの漁船よ。余震。
巨大な力を制御することの難しさが今、福島に二重に与えられてしまっている。自然と人工とが、制御出来ない脅威という点で重なっていく。余震。
(55ページ)
ここでは、「祈り」はまだ「祈り」になりきれていない。「制御」は「制御出来ない」ということば、動詞になって暴れている。ことばが暴れるままに動いていて、和合はそれに異義をいいたいのだが、どうしていいかまだわからない。「制御とは何か」しか言うことができない。
けれど「制御とは何か」ということばから書きはじめて、そこまで書いたあとで、実は変化が起きる。
ことばが暴れ回るのを受け止めたあと、和合の肉体のなかから、それまで押さえつけられていた何かが動きだすのである。
制御不能。言葉の脅威。余震。
言葉に脅されている。言葉に乞うている。余震。
(55ページ)
余震は「制御出来ない」。原子力も「制御出来ない」。いまは、「制御」は「できない」ということばとともに動いている。その動きは和合の「思い」とは違っている。和合は「制御できる(したい)」ということばへと、ことばそのものを動かしていきたい。
そういうことは、できないことなのか。
「制御」であって欲しいのです。
(55ページ)
「制御」であってほしい--は、正確には「制御できる」であってほしい、ということだろう。和合は「制御」ということばに、制御は「できる」ということばと結びついて「意味」をつくってもらいたいと祈っているのである。
それは「制御できる」こそを「意味」としてつくりあげたいということである。
この「祈り」から、「制御」をみつめなおすと、「制御」には「いま/ここ」にあるのとは違う「意味」がはっきりは含まれる形で動きだす。
とても美しいことばが、広がる。
言葉に乞う。どうか優しい言葉で、いてくださいよ。ね…。余震。
制御。あなたは、たえまなく押し寄せる、太平洋のさざなみを、優しく止めることができるか。余震。
制御。あなたは、こんなにも優しい人への想いを、静かにとどめることが出来るか。出来ないと思うよ。余震。
(55ページ)
「制御」とは「制御できる/できない」という「力」のことではないのだ。力を加えることで、対象を動かすのではなく、力を受け止め、優しくつつむことなのだ。
そういうことこそ「制御」であるべきなのだ。
「制御」ということばに、そうあってほしいと和合は祈っている。願っている。
「制御できない」という表現は、「愛しい人への想いを制御できない」というような具合にだけ有効になるような、そういう動きをしてほしい--和合は、そう祈るのである。
「余震を制御できない」「原子力を制御できない」--そういうふうにつかうのは間違っている。「愛しい人への想いを制御できない」という文脈、その意味でだけ、制御はつかわれるべきなのだ。
制御。あなたは、驚くほどにあなただ。あなたほど、あなたである人はいない。あなたであること。優しく留めることが出来るか。余震。そして僕は、そんなあなただから、愛しているのに。
あなたは誰よりも早く、しなやかにあなたでありつづける。そんなあなたを愛しています。余震。あなた、大切なあなた。「大切な」の後には「あなた」しか、続かないのです。安否不明。16630人以上。
(55ページ)
「あなた」と呼ばれているのは、「優しく受け止める」という「意味」の「制御」ということばであり、また「優しく受け止める」いのちをいきる全ての人々でもある。それは全ての人々の「制御」が「優しく受け止め、動きを止める」という「意味」であってほしいという「祈り」でもあるということだ。
「制御」とは、そういう「愛」であってほしいという和合の「祈り」がこのことばのなかに結晶している。
そして、ここには、これまで引用してこなかった和合の家族の生き方、家族から言い聞かされたことばが反映している。
幼い時の夕暮れ…。ばあちゃん、ボク、仕返ししてくる。仕返し、したくる。止めな。やられたら、やり返すでは、ダメなんだよ。いやだ、仕返ししてくる。ダメだ。止めな。怒っているボクに、ばあちゃんが握ってくれた、ばあちゃん得意の、みそおにぎり。
(53ページ)
「制御」と「優しさ」。その結びつき。
余震や原子力の暴走は「優しさ」では制御できない。そういうことは承知である。だが、「制御」を「制御できない」という文脈(意味)から解き放つ祈りのなかに、きっと何かがあるはずである。
その可能性を、和合は、ことばにしている。
黄金少年 ゴールデン・ボーイ 和合 亮一 思潮社