詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(22)

2011-05-25 23:59:59 | 詩の礫
和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(22)(「現代詩手帖」2011年05月号)

 ことばは「比喩」であり、「比喩」は自己投企である。(あ、なぜハイデガーの用語などつかってしまったのだろうと、いまは反省している。こういう用語をつかうと簡単になってしまう。考える部分が少なくなる。これでは、和合に申し訳ない。和合は自分自身のことばを書いているのに、それを借りてきた用語で「誤読」するとき、私は私自身と向き合う手間を省いていることになる。でも、書いてしまったなあ……。)
 
 しかし、ことはば「比喩」だけではない。というより、ことばは、そもそも何なのかわからない。「意味」がわからない。だれでも、最初はことばの「意味」がわからない。「意味」はたぶん、繰り返し繰り返しことばにであうことで「つくっていく何か」なのである。その「何か」が「いま/ここ」にないもの、「いま/ここ」にあってほしいものを指し示すとき(含むとき)、それは「比喩」になるのだが、「比喩」にはなれないことばもある。「意味」が確定されないまま揺れ動くことばがある。揺れ動きつづけ、想定されている(?)「意味」とは違うことばになってほしいことばもある。
 あ、いけない。また抽象的になりすぎた。
 私が考えているのは、(考えたいのは)、次のことば。

制御とは何か。余震。
                                 (55ページ)

 03月21日の冒頭に(最初に)書かれたことばである。
 「制御」とは、何かを自分の思い(目的)に沿うように調整しながら動かすこと--という「意味」を和合は知っていると思う。その知っていることばを取り上げ「制御とは何か」と書くとき、和合は「いま/これまで/ここ」で作り上げてきたはずの「意味」をあえて「わからないもの」にして、「いま/ここ」から作り上げたいと願っているように感じられる。
 「比喩」がある程度自分の「理想(目的/願い)」というものを含んでいるものだとすれば、ここに書かれている「制御」、「制御とは何か」ということばは、「比喩」ではないことばの運動ひとつの「具体的な何か」である。
 で、その「具体的な何か」とは何か。--わからない。わからないから、私は考えたい。

制御とは何か。余震。

 「制御」と「余震」が同時につかわれるとき、わかることがある。「制御」には「制御できる」と「制御できない」がある。さらには「制御する」「制御しない」がるあかもしれない。「制御したい」「制御しなければならない」もある。
 「制御」の「意味」は「何かを自分の思い(目的)に沿うように調整しながら動かすこと」という「名詞」の状態ではおさまりきれないのである。「できる/できない」「する/しない」「したい/しなければならない」のように、動詞として動かしてみなければ、ほんとうの意味は浮かび上がってこない。
 動詞派生のことばは動詞に還元し、動詞そのものとして「意味」を点検しなくてはならないのである。
 余震。大地の揺れ。これは人間の思い出はどうすることもできない。和合がどう思うおうが、ふいに起きる余震を止めることはできない。そうすると、「制御するとは何か。余震。」というときの「制御」は、余震は制御できないのに、それではなぜ「制御」などということばがあり、また、地震(余震)のたびに「制御」ということばが思い浮かぶのかという問題が起きてくる。
 余震が制御できないものならば、余震に対して制御ということばを思いつかなければいいのに、人間は思いついてしまう。
 それは、なぜ?
 制御できない。けれど、制御したいからだ。このときの「したい」は意思というよりも、祈りに近い。
 ことばは--ことばは祈りなのである。

 制御とは何か。

 和合がそう書くとき、和合は祈っているのである。「制御」に祈りを込めている。ことばに「祈り」をこめたからといって現実がかわるわけではないかもしれないが、ともかく祈るのである。

あなたは「制御」しているか、原子力を。余震。

人間は原子力の素顔を見たことがあるか。余震。

相馬の果てなき泥地よ。無人の小高の町よ。波を横腹に受けた新地の駅よ。国道に倒れた、横倒れの漁船よ。余震。

巨大な力を制御することの難しさが今、福島に二重に与えられてしまっている。自然と人工とが、制御出来ない脅威という点で重なっていく。余震。
                                 (55ページ)

 ここでは、「祈り」はまだ「祈り」になりきれていない。「制御」は「制御出来ない」ということば、動詞になって暴れている。ことばが暴れるままに動いていて、和合はそれに異義をいいたいのだが、どうしていいかまだわからない。「制御とは何か」しか言うことができない。
 けれど「制御とは何か」ということばから書きはじめて、そこまで書いたあとで、実は変化が起きる。
 ことばが暴れ回るのを受け止めたあと、和合の肉体のなかから、それまで押さえつけられていた何かが動きだすのである。

制御不能。言葉の脅威。余震。

言葉に脅されている。言葉に乞うている。余震。
                                 (55ページ)

 余震は「制御出来ない」。原子力も「制御出来ない」。いまは、「制御」は「できない」ということばとともに動いている。その動きは和合の「思い」とは違っている。和合は「制御できる(したい)」ということばへと、ことばそのものを動かしていきたい。

 そういうことは、できないことなのか。

「制御」であって欲しいのです。
                                  (55ページ)

 「制御」であってほしい--は、正確には「制御できる」であってほしい、ということだろう。和合は「制御」ということばに、制御は「できる」ということばと結びついて「意味」をつくってもらいたいと祈っているのである。
 それは「制御できる」こそを「意味」としてつくりあげたいということである。
 この「祈り」から、「制御」をみつめなおすと、「制御」には「いま/ここ」にあるのとは違う「意味」がはっきりは含まれる形で動きだす。
 とても美しいことばが、広がる。

言葉に乞う。どうか優しい言葉で、いてくださいよ。ね…。余震。

制御。あなたは、たえまなく押し寄せる、太平洋のさざなみを、優しく止めることができるか。余震。

制御。あなたは、こんなにも優しい人への想いを、静かにとどめることが出来るか。出来ないと思うよ。余震。
                                 (55ページ)

 「制御」とは「制御できる/できない」という「力」のことではないのだ。力を加えることで、対象を動かすのではなく、力を受け止め、優しくつつむことなのだ。
 そういうことこそ「制御」であるべきなのだ。
 「制御」ということばに、そうあってほしいと和合は祈っている。願っている。
 「制御できない」という表現は、「愛しい人への想いを制御できない」というような具合にだけ有効になるような、そういう動きをしてほしい--和合は、そう祈るのである。
 「余震を制御できない」「原子力を制御できない」--そういうふうにつかうのは間違っている。「愛しい人への想いを制御できない」という文脈、その意味でだけ、制御はつかわれるべきなのだ。

制御。あなたは、驚くほどにあなただ。あなたほど、あなたである人はいない。あなたであること。優しく留めることが出来るか。余震。そして僕は、そんなあなただから、愛しているのに。 

あなたは誰よりも早く、しなやかにあなたでありつづける。そんなあなたを愛しています。余震。あなた、大切なあなた。「大切な」の後には「あなた」しか、続かないのです。安否不明。16630人以上。
                                 (55ページ)
 
 「あなた」と呼ばれているのは、「優しく受け止める」という「意味」の「制御」ということばであり、また「優しく受け止める」いのちをいきる全ての人々でもある。それは全ての人々の「制御」が「優しく受け止め、動きを止める」という「意味」であってほしいという「祈り」でもあるということだ。
 「制御」とは、そういう「愛」であってほしいという和合の「祈り」がこのことばのなかに結晶している。
 そして、ここには、これまで引用してこなかった和合の家族の生き方、家族から言い聞かされたことばが反映している。

幼い時の夕暮れ…。ばあちゃん、ボク、仕返ししてくる。仕返し、したくる。止めな。やられたら、やり返すでは、ダメなんだよ。いやだ、仕返ししてくる。ダメだ。止めな。怒っているボクに、ばあちゃんが握ってくれた、ばあちゃん得意の、みそおにぎり。
                                 (53ページ)

 「制御」と「優しさ」。その結びつき。
 余震や原子力の暴走は「優しさ」では制御できない。そういうことは承知である。だが、「制御」を「制御できない」という文脈(意味)から解き放つ祈りのなかに、きっと何かがあるはずである。
 その可能性を、和合は、ことばにしている。






黄金少年 ゴールデン・ボーイ
和合 亮一
思潮社



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大西若人「森の存在感は何故か」

2011-05-25 18:52:36 | その他(音楽、小説etc)
大西若人「森の存在感は何故か」(朝日新聞2011年05月25日夕刊)

 大西若人「森の存在感は何故か」はポール・セリュジエ「ブルターニュのアンヌ女公への礼讃」について書いたものである。
 私はポール・セリュジエについては何も知らない。初めて見る画家である。女(たぶんアンヌ女公)が左側にいて、右側には3人の男がいる。背景は「森」と言うことになるのだが、奥行きは感じられず、ちょっとマチスの室内の装飾を思わせる。壁、何かを仕切る壁のような感じがする。
 この絵について、大西はこう書いている。

 カーテンの柄のように文様化された葉の群れは、人物とは重なっていない。同じ一つの面に収まっているとも映る。
 葉は、実は背景ではないのかもしれない。つまり、森との共存。ほら、木々の葉たちも、兵士たちと対等な存在として、女公の言葉に聴き入っているようではないか。

 いつもながらに楽しい文章である。絵を超える文章である。大西の文章を読んだあと、それ以外の視点で絵を見るのが難しくなる。
 ――という、いつもの感想とは別に、私はちょっと違うことを感じた。あれっとつまずいた。「木々の葉たち」。うーむ。「葉たち」、複数か。思いつかないなあ。この「葉たち」の「たち」がつぎの「兵士たち」の「たち」と重なりあう。そのために、「葉」が人間に思えてくるときの錯覚(?)が強くなる。説得材料のひとつになる。
 こういう工夫(?)を大西はしていたのかなあ。気がつかなかった。
 それに先立つ、「つまり、森との共存。」という断定。そして、間をおかずに「ほら、」とつなぐ呼吸。あ、これも、なんだか新しい大西を見る感じがするなあ。


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イェジ・アントチャク監督「ショパン 愛と哀しみの旋律」(★★+★)

2011-05-25 17:33:34 | 映画
監督 イェジ・アントチャク 出演 ピョートル・アダムチク、ダヌタ・ステンカ、ボジェナ・スタフラ、アダム・ヴォロノヴィチ

 あ、主役はショパンじゃなくて、ジョルジュ・サンド。ショパンは狂言回しだねえ。それはそれでいいんだろうけれど、私はジョルジュ・サンドを読んだことがない。で、どのシーンにも共感を感じなかった。
 ショパンを、ジョルジュ・サンドと娘と息子が、三つ巴になって奪い合う。いわば家族劇なのである。それも本当はショパンを奪い合うというより、ショパンに奪われた母(ジョルジュ・サンド)の愛をショパンから奪い返すという戦いである。これはこれで、そうか、母親への愛の渇望はこんなに激しいのか、と思わないでもないが、どうもしっくりこない。
 音楽とかみ合わないのである。
 もっとも、ジョルジュ・サンド一家の「家族愛」の形と、ショパンの一家の「家族愛」の比較、その比較をとおしたショパンとジョルジュ・サンドの違いを描いていると思えば違ったものが見えてくるかもしれない。
 ショパン一家には「家族愛」の葛藤がなかった。そのかわり、ショパンに家族全員の愛が注がれていた。ショパンはその愛のなかから誕生した。
 うーん、しかし、これもうまく音楽とかみ合わない。
 映像と音楽の関係は、なにも音楽はバックグラウンドミュージックであれというつもりはないのだけれど。
 私には、しっくりと感じられない。
 スクリーンにうごめく映像と、ショパンの音楽が、同じ感情から噴出してくるものとは感じられないのである。唯一、ショパンが思い出す星の歌以外は・・・。
 あ、もう一曲あった。最初の方に演奏される「革命」。これはすごいなあ。「革命」を聞いたとき、どこが革命? 繊細すぎて、社会がかわる激動のパワーとは違うものを追っていない?という疑問にとらわれるけれど、そうか、ショパンが自分の存在基盤を奪われた悲しみの曲なんだ、と知った。激しい映像の背後で、旋律が震えるように泣いている。
 でも、この不思議な一体感は、実際の「ストーリー」が始まると、消えてしまう。
 私のように、ショパンの音楽にもジョルジュ・サンドの文学にも疎い人間にはわからない何かが描かれているのかもしれない。リストとショパンの関係とか。きっと、これはショパンにもリストにも、ジョルジュ・サンドにも精通した人向けの映画なのである。
 まあ、しかし「革命」だけを聞くつもりでいけば、おもしろいかもしれない。私は「革命」に衝撃を受けすぎて、それ以後を見落としているのかもしれない。聞き落としているのかもしれない。
 (追加の★は「革命」の演奏に)
(2011年05月24日、KBCシネマ1)
コメント (1)
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廿楽順治『化車』(3)

2011-05-25 11:38:47 | 詩集
廿楽順治『化車』(3)(思潮社、2011年04月25日発行)

 廿楽順治の詩はいかがわしい、と、きのうの感想で書いた。「いかがわしい」よりも「うさんくさい」というべきなのかもしれない。私は、ふたつのことばをうまくつかいわけられない。
 「いかがわしい」「うさんくさい」の「辞書の定義」は脇に置いておいて。
 私の印象を中心に言ってしまうと、廿楽は知っていることを全部言い切らない。廿楽が知っていることの中には「流通言語」で語ることができることがら、あるいは「流通言語」で語られてしまっていることがらが含まれている。つまり「事実」がある。その「事実」を廿楽は「流通言語」では語らない。「わざと」(わざと、カギ括弧をつかったのは、西脇が言っているように「わざと」がしだからである)、「流通言語」から遠いことばで語る。「流通言語」から遠く、「肉体」に近いことばで語る。「頭」では理解できないが、「肉体」で、というか、「肌」で、というか……。そのことばが語られた瞬間、その「場」が抱え込んでいる「体温」(ひとの接触具合)だけが感じることができることばで語る。「空気」で語る--あるいは、「空気」を語るといえばいいのかもしれない。
 「空気」はその「場」でははっきりしているが、「場」を離れると説明が難しいね。その説明の難しさを廿楽は「肉体」を全面に出すことで乗り切ってしまう。「肉体」が抱え込んでいる変なもので語りきってゆく。

 あ、また抽象的に書きつないでしまった。
 廿楽の作品にもどる。「化車」という「作品群」がある。よくわからないが、何やら「過去」を描いている。「流通」している「歴史のことば」ではなく、そのときの「暮らしのことば」、ある瞬間にふつうの暮らしをしている人が言ったことばでとらえなおしている。「ある瞬間」を「肉体」でとらえなおしている。そのとき、「空気」がにおってくる。
 「劣化鉄道」の【大森がみえてきた】という作品。「大森(大森海岸)」のことは私は知らないが、まあ、変なにぎわい、あるいは変な騒動のあった場ということが廿楽のことばを読むと伝わってくる。

わたしはもう人としてかたむいているか
それを
酔ってはかるものがない
(すわらないくびどものかなしみ)
帝国の一員になって
ぐんかんせんちょうはわい
はわいちょうせんぐんかん
とこうふんしている
すがめでようやくここまできたものだ

 「わたしはもう人としてかたむいているか」というのは酔っぱらっただれかが、因縁をつけるみたいにからみながら言ったことばだろう。「人としてかたむく」というときの「人」「かたむく」の、このことばづかい。何をいいたいかわかる。わかるけれど、説明が難しい。こういう肉体がなっとくしている「空気」のことばを廿楽はぱっとつかみとってくる。そうすると、そこに一気に「いかがわしい」「うさんくさい」ものが匂いのように広がる。つまり、防ぎようもなく、濃密にただよう。
 書き出しのこの数行から、私は「軍艦の船長」に昇格した男が、祝宴で羽目を外して騒いでいる姿を思い描く。(あるいは、昇格できなかった男が、ほんとうは「私が艦長になるべきだった」とさわいでいるのかもしれない。)「酔って」「ぐんかんせんちょうはわい」ということば、さらに「……はわい」といったあとの「はわい」という尻取りの感じから、酒の場の匂いがしてくる。騒がしさと退屈さが匂ってくる。そし、その一瞬の退屈さ、批判のようなものを敏感に感じ取り、男は反省して見せたりもする。「わたしはもう人としてかたむいているか」と。「すがめでようやくここまできたものだ」と。
 こういうことばは、小説のなかでは、とても効果的である。小説の文体というのはなんでも受け入れる。「歴史」は歴史として「流通言語」でしっかり抑えておいて、そのとき、「大森」のあるところでは艦長に昇格したばかりの男が、羽目を外してこんなことを言ったという具合に書くことができる。廿楽は、その小説の「地」というか、背景を省略して、その「場」だけを飛躍の多いことばで再現する。だから、わかりにくい。
 そして、わかりにくいから、より強く「肉体」が刺激される。「頭」でわかることなど何ひとつ書かれていない。「頭」で知っていること--それがあるならあるでかまわないが、それから遠いところでことばを動かす。そうすると、そこには生身の人間の「肉体」(肉体の「かなしみ」と、廿楽のつかっていることばを借りようか)が広がってくる。「頭」でわかることばを拒絶することで、ただ「肉体」の「空気」をつかみとることを迫られる。
 ちょっとのっぴきならなくなる。のみこまれてしまう。
 これは、私にとって「いかがわしいもの」「うさんくさいもの」に出会ったときの感じにとても似ている。どう防いでいいのかわからない。いちばんいいのは近付かないことなのだが、それが「おもしろい」ときはどうする?
 危険を承知で「いかがわしいもの」「うさんくさいもの」のなかに入って行って、私自身が「いかがわしいもの」「うさんくさいもの」になればいんんだろうけれど。
 「いや、私はやっぱり純情派ですから」と、それこそ「いかがわしい」ことばで笑って、そっと身をかわし、そのくせ、純情派の特権の「盗み見」をすることになるのだけれど。(笑い--と、ごまかして書いておこう。)

 で、また詩にもどる。【さあ、劣化のことについて話そう】

のびつづけることについてきみはどうおもう
鉄になってから きかれてしまった
町までとどいていないのに 線路がおわって
私たちは同じ方向にならんで寝ていた
こうしていると 野戦病院みたいだね
ぞろぞろ しろいかたまりが腹の上を通る
のびつづけて つよいてんもまるもない
(なかせる節回しじゃないか)
鉄になったって何ひとついいことはなかった
このふるくなった平野についてきみはどうおもう

 私は「わたし」と「きみ」が「同じ方向にならんで寝て」いる姿を想像する。まあ、将来のことなんかを語り合っているのかもしれない。その姿が、「わたし」には途中でおわってしまった線路、完成しなかった鉄道のように思える。そして、そのことを、ふいに聞かれるのである。
 「鉄になってから」というのはとても唐突で、そのくせ、説得力がある。人間が「鉄」になどなりはしないのだが、何か「目的」を決めて、その方向に向かってまっすぐに生きること--鉄道の線路みたいに少しずつ目的地までのびつづけること、それだけを生きることと決めてしまった人間--そういうものを想像してしまう。
 聞かれてしまって、あるいは聞かれることによって、「鉄路」はより明確に意識される。それに途中でおわってしまった線路が重なる。
 うーん。
 廿楽のことばは、「事実」(流通言語)を回避することで、「いかがわしく」「うさんくさい」ものになりながら、同時に、静かな「かなしみ」(共感?)を感じさせる。「さびしさ」を感じさせる。それは「流通言語」の世界が切り捨てた「かなしみ」「さびしさ」であるとも思う。
 廿楽のことばはいかがわしい。うさんくさい。けれども、それに引きつけられ、読んでしまい、そしてこんなふうにあーでもない、こーでもないということを書いてしまうのは、そのことばのなかに不思議な「かなしみ」と「さびしさ」があるからだ。
 「のびつづけて つよいてんもまるもない」というような、あ、こっそりつかってしまいたい(盗作したい)と思わせることばも、ふいに出てくる。そういうことばには、私の肉体は打ちのめされてしまうなあ。わけもなく、悔しいなあ、と声が漏れてしまうのである。




たかくおよぐや
廿楽 順治
思潮社


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