和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(2)(「現代詩手帖」2011年05月号)
このことばの「意味」にも、私は驚いてしまった。ことばとは、たしかに「意味」なのだ。私が「ありがとう」に驚いたのは、その「意味」が感謝を越えているからだ。「ありがとう」の意味は「感謝」である。感謝の気持ちをつたえるのが「ありがとう」である。しかし、私が聞き取るのは「感謝の気持ち」ではない。「感謝の気持ち」以上の何かである。その「何か」が、私にはわからない。だから、驚く。衝撃で立ち止まる。「文字」は「ありがとう」と読むことができる。その「音」を知っている。しかし、こんなときに、そのことばを聞くということを予想していなかったのだ。私は予想していなかったことばを聞いたとき、「意味」がわからないのだ。わかるのは知っていることばだけなのだ。
大震災以後、それまでとはまったく違ったことばが動きはじめている。そのことを私は「ありがとう」から実感した。実感をしたけれど、まだ、「意味」はわからない。
大震災の被災者が「助けてくれ」「馬鹿野郎」「おれは怒っている」というのなら、「意味」がわかるような気がする。けれど「ありがとう」はわからない。
大震災に遭い、それでもなおかつ「ありがとう」という。そこには、どんな「意味」があるのだろうか。それまで私たちがつかってきた「ありがとう」と、「意味」のうえで、どんなふうに違っているのか……。
そしてまた、こんなことも考える。
和合は、いま「意味」について考えている。大震災に「意味」はあるのか。これは、また、不思議なことである。
ひとは、どう生きるか、これからどうしようかということだけを考えるのではないのだ。ことばは、これから先へ向かっていくときの人間の行動を支えるだけではないのだ。和合の被災の瞬間の状況を私は知らないが、たぶん身を守ることをまず考えたと思う。逃げる。いのちを助けるということを考えたと思う。無我夢中の、その時間をすぎて、いま、和合は「意味」を考えている。
「意味」はたしかに「事後」(あとから)生まれるものかもしれない。つまり、あとから付け足すものかもしれない。それは、ことばととても似ている。何かが起きたとき、ことばは置き去りにされる。ことばよりも先に守らなければならないものがあるからだ。そして、その守らなければならないもの、いのちを守り通したあと、ことばがやってくる。それは自分の外からなのか、自分のなかならなのか。わからない。けれど、阪神大震災を体験した季村敏夫が『日々の、すみか』で「出来事は遅れてあらわれた」と書いたように、あらゆることが「遅れて」あらわれる。いま、和合には、「意味」ということばが「遅れて」やってきた。
「全ての事象」(季村が「出来事」と呼んだものと同じだと思う)と、それを語ることば、それのもっている「意味」の間には「時差」(遅れ、あるいは乖離)がある。人間は、どうしても「遅れて」しまう。出来事のスピードにおいついていけない。ことばは、「遅れ」ながら手さぐりをして進む。
そして、いま、和合は「意味」ということばと出会っている。向き合っている。
「事象」と「意味」に時差がある。「意味」が「遅れ」てくるなら、その「遅れ」の「意味」とは何かと問いかけている。
それは、もしかすると「事象」と「意味」との「乖離」そのものを問題にしているということかもしれない。「事象」というのは目の前にある。「もの」とともにある。「意味」はどこに? 「目の前」の「もの」にではなく、「私」のなかにあるのかもしれない。あるいは、「もの」と「私」の「間」にあるのかもしれない。これも、はっきりとは言えない。わからない。
「意味」がわからない--を和合は言いなおしている。ことばを動かして、別のことばで追い直してみている。
「意味」のわからないものを、和合は「何」と呼んでいる。「それ、何?」というとき、ひとは「もの」について尋ねているのだが、また同時に「意味」も問いかけているのだ。その「もの」はどういう「意味」を持っているのか、と。
「もの」(あるいは出来事、事象)と「意味」が分離・乖離しているとき、私たちはどうしていいかわからない。「私」をどのように動かしていいのかわからない。ことばがうまく動かないように、「私」そのものが動かない。
わからなくなったとき、ひとはどうするのだろう。和合は、知っていることばを繰り返している。すぐ前に「放射能が降っています。静かな夜です。」と和合は書いている。知っていることばに頼って、もう一度「私」というものを確かめ、そこから出発し直そうとしている。
ひとは、そうやって何度でも同じ場所から出発し直す。立ち上がる。そのために、ことばがあるのかもしれない。
そして、立ち上がるたびに、ことばは少しずつかわりもする。
最初は、
だった。しかし、繰り返したとき、
にかわっている。「静かな」が2回繰り返されている。「静かな」と1回書くだけでは足りないのだ。「静か」のなかに、さらに「静か」がある。和合は「静か」に気がついた。そして、次に「静か」を聞いている。耳を澄ましている。「静か」のなかに「肉体」を動かして行っている。
そして、そこには、
に呼応するもの、呼びかけあうものがある。「何を教えたいのか」--その声が聞こえない、その静けさ。
物理的な物音だけではなく、ある事件が、できごとが(事象が)、人間に語るはずのものがある。それが「聞こえない」。その「静けさ」。そのことを和合は「肉体」として感じている。
一方に、何かわけのわからない「意味」があり、他方に、「肉体」がある。「肉体」の動きがある。「静かな静かな」と繰り返されたことばのなかに、私は和合の「肉体」を感じた。和合が「肉体」を感じはじめているのを感じた。
何を信じればいいか。
きっと、「肉体」なのだ。「静かな」に気づき、その「静かな」を確かめようと耳をすまし、その「静かな」のなかに隠れている「音」を聞こうとする力。
その力の方向に、私もついていきたいと思う。
ここまで私たちを痛めつける意味はあるのでしょうか。
このことばの「意味」にも、私は驚いてしまった。ことばとは、たしかに「意味」なのだ。私が「ありがとう」に驚いたのは、その「意味」が感謝を越えているからだ。「ありがとう」の意味は「感謝」である。感謝の気持ちをつたえるのが「ありがとう」である。しかし、私が聞き取るのは「感謝の気持ち」ではない。「感謝の気持ち」以上の何かである。その「何か」が、私にはわからない。だから、驚く。衝撃で立ち止まる。「文字」は「ありがとう」と読むことができる。その「音」を知っている。しかし、こんなときに、そのことばを聞くということを予想していなかったのだ。私は予想していなかったことばを聞いたとき、「意味」がわからないのだ。わかるのは知っていることばだけなのだ。
大震災以後、それまでとはまったく違ったことばが動きはじめている。そのことを私は「ありがとう」から実感した。実感をしたけれど、まだ、「意味」はわからない。
大震災の被災者が「助けてくれ」「馬鹿野郎」「おれは怒っている」というのなら、「意味」がわかるような気がする。けれど「ありがとう」はわからない。
大震災に遭い、それでもなおかつ「ありがとう」という。そこには、どんな「意味」があるのだろうか。それまで私たちがつかってきた「ありがとう」と、「意味」のうえで、どんなふうに違っているのか……。
そしてまた、こんなことも考える。
和合は、いま「意味」について考えている。大震災に「意味」はあるのか。これは、また、不思議なことである。
ひとは、どう生きるか、これからどうしようかということだけを考えるのではないのだ。ことばは、これから先へ向かっていくときの人間の行動を支えるだけではないのだ。和合の被災の瞬間の状況を私は知らないが、たぶん身を守ることをまず考えたと思う。逃げる。いのちを助けるということを考えたと思う。無我夢中の、その時間をすぎて、いま、和合は「意味」を考えている。
ものみな全ての事象における意味など、その事後に生ずるものなのでしょう。ならば「事後」そのものの意味とは、何か。そこに意味はあるのか。
「意味」はたしかに「事後」(あとから)生まれるものかもしれない。つまり、あとから付け足すものかもしれない。それは、ことばととても似ている。何かが起きたとき、ことばは置き去りにされる。ことばよりも先に守らなければならないものがあるからだ。そして、その守らなければならないもの、いのちを守り通したあと、ことばがやってくる。それは自分の外からなのか、自分のなかならなのか。わからない。けれど、阪神大震災を体験した季村敏夫が『日々の、すみか』で「出来事は遅れてあらわれた」と書いたように、あらゆることが「遅れて」あらわれる。いま、和合には、「意味」ということばが「遅れて」やってきた。
「全ての事象」(季村が「出来事」と呼んだものと同じだと思う)と、それを語ることば、それのもっている「意味」の間には「時差」(遅れ、あるいは乖離)がある。人間は、どうしても「遅れて」しまう。出来事のスピードにおいついていけない。ことばは、「遅れ」ながら手さぐりをして進む。
そして、いま、和合は「意味」ということばと出会っている。向き合っている。
「事象」と「意味」に時差がある。「意味」が「遅れ」てくるなら、その「遅れ」の「意味」とは何かと問いかけている。
それは、もしかすると「事象」と「意味」との「乖離」そのものを問題にしているということかもしれない。「事象」というのは目の前にある。「もの」とともにある。「意味」はどこに? 「目の前」の「もの」にではなく、「私」のなかにあるのかもしれない。あるいは、「もの」と「私」の「間」にあるのかもしれない。これも、はっきりとは言えない。わからない。
「意味」がわからない--を和合は言いなおしている。ことばを動かして、別のことばで追い直してみている。
この震災は何を私たちに教えたいのか。教えたいものなぞ無いのなら、なおさら何を信じればいいのか。
「意味」のわからないものを、和合は「何」と呼んでいる。「それ、何?」というとき、ひとは「もの」について尋ねているのだが、また同時に「意味」も問いかけているのだ。その「もの」はどういう「意味」を持っているのか、と。
「もの」(あるいは出来事、事象)と「意味」が分離・乖離しているとき、私たちはどうしていいかわからない。「私」をどのように動かしていいのかわからない。ことばがうまく動かないように、「私」そのものが動かない。
放射能が降っています。静かな静かな夜です。
わからなくなったとき、ひとはどうするのだろう。和合は、知っていることばを繰り返している。すぐ前に「放射能が降っています。静かな夜です。」と和合は書いている。知っていることばに頼って、もう一度「私」というものを確かめ、そこから出発し直そうとしている。
ひとは、そうやって何度でも同じ場所から出発し直す。立ち上がる。そのために、ことばがあるのかもしれない。
そして、立ち上がるたびに、ことばは少しずつかわりもする。
最初は、
放射能が降っています。静かな夜です。
だった。しかし、繰り返したとき、
放射能が降っています。静かな静かな夜です。
にかわっている。「静かな」が2回繰り返されている。「静かな」と1回書くだけでは足りないのだ。「静か」のなかに、さらに「静か」がある。和合は「静か」に気がついた。そして、次に「静か」を聞いている。耳を澄ましている。「静か」のなかに「肉体」を動かして行っている。
そして、そこには、
この震災は何を私たちに教えたいのか。
に呼応するもの、呼びかけあうものがある。「何を教えたいのか」--その声が聞こえない、その静けさ。
物理的な物音だけではなく、ある事件が、できごとが(事象が)、人間に語るはずのものがある。それが「聞こえない」。その「静けさ」。そのことを和合は「肉体」として感じている。
一方に、何かわけのわからない「意味」があり、他方に、「肉体」がある。「肉体」の動きがある。「静かな静かな」と繰り返されたことばのなかに、私は和合の「肉体」を感じた。和合が「肉体」を感じはじめているのを感じた。
何を信じればいいか。
きっと、「肉体」なのだ。「静かな」に気づき、その「静かな」を確かめようと耳をすまし、その「静かな」のなかに隠れている「音」を聞こうとする力。
その力の方向に、私もついていきたいと思う。
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