和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(5)(「現代詩手帖」2011年05月号)
きょう引用した最初の2行は、いわゆる「事象」を描いている。「南三陸海岸に、一昨日、1000人の遺体が流れ着きました。」はニュースでいう5W1Hが書かれている。いつ=きのう、どこで=南三陸海岸に、誰が(何が)……した=1000人の遺体が(1000人が遺体となって)、流れ着いた、どのように=波に押し流されて(漂流して)、なぜ=震災による津波で犠牲になったから。--書かれていないこともあるが(私が勝手に補ったこともあるが)、それはすでにだれもが知っている「事実」だから省略されたのだ。「震災で多くの犠牲者が出た」ということは、だれもが知っているから、書き漏らしてしまうのだ。和合が知っているから、知らず知らず、省略してしまったのだ。事実を書くにしろ、自分の意見を書くにしろ、こんなふうに書き漏らしてしまうものこそ、そこに書かれていることの核心であり、思想である--というのは、私が文章を読むときの基本的な考え方である。
そして、この「事象」に和合は、和合自身の特別な視点を書き加えている。南三陸海岸を個人的な場所として説明している。「私が避暑地として気に入って、時折過ごしていた」ということばを南三陸海岸につけくわえている。
「事象」に「個人」をかかわらせていくとき、ことばは必然的に動く。和合自身のことばが動きだす。これが次の2行になる。その最初のことば、
これは、とても重要である。「意味」め最初から存在するのではない。それは「求める」という行為をとおして見つけ出すもの、あるいは作り上げるものである。
和合はこれに先立ち、
と書いていた。「事象」の「事後に生ずる」意味--それは、「事象」のあとで、ひとが求め、見つけ出すものなのである。
だからこそ、問題である。
人が死んだ。大勢の人間が死んだ。地震、津波の犠牲になった。そのことに「意味」を求めるとはどういうことなのか。なぜ、人が死んだことに対して意味を求めなければならないのか。そこに意味があっていいのか。むしろ、そこに意味がない方が、納得できるのではないだろうか。意味--というのは、しばしば「価値」と同じだからである。人が大勢死んでしまったことに「意味」などあってはならないはずである。
そのあってはならないはずの「意味」を人間は求める。探してしまう。
そして、和合は、次のことを発見する。
大勢の人が死んだことに「意味」などあっていいはずがない。「意味」は事実を正視する(しっかりみつめる)、そのときの「静けさ」のなかに「宿る」ものである。自然に生まれてくるものである。生まれようとしてくるのである。
和合は、ここでも「静か」(正確には「静けさ」)に向き合っている。
この「静か」は、まだ、ことばが生まれてこない「静かさ」である。それはまた、いままでのことばが無効になったことを確認する「静かさ」である。「沈黙」である。それまでの、いままでの「流通言語」は、いま起きた「事象(出来事)」の前で完全に無効になった。いままでのことばでは、何も言えない。いままでのことばでは「意味」にたどりつけない、「意味」を語ることができないことを実感することである。
和合は、「静か」ということばを、最初に、そのような文章で書いた。この「静か」は音が聞こえてこないという「物理的な現象」を超えて広がっている。ことばが、それまでのことばがすべて沈黙してしまったことを語っているのだ。その沈黙と、つまり、いままでのことばの無効と和合は向き合っている。
そして、いままでのことばが無効であると実感したから、ことばを書きはじめたのだ。何かを語らなければならない。ことばを、死なせてはいけない……。
和合が実感した、それまでのことばの無効性は、次のように言いなおされている。
無効性の確認--それは意味ではなく、無意味であることの確認である。いままでのことばが無効になった。それはいままでのことばの意味が否定され、無意味になったということである。
私が避暑地として気に入って、時折過ごしていた南三陸海岸に、一昨日、1000人の遺体が流れ着きました。
このことに意味を求めるならば、それは事実を正視しようとする、その一時の静けさに宿るものであり、それは意味ではなくむしろ無意味そのものの闇に近いかもしれない。
(38ページ)
きょう引用した最初の2行は、いわゆる「事象」を描いている。「南三陸海岸に、一昨日、1000人の遺体が流れ着きました。」はニュースでいう5W1Hが書かれている。いつ=きのう、どこで=南三陸海岸に、誰が(何が)……した=1000人の遺体が(1000人が遺体となって)、流れ着いた、どのように=波に押し流されて(漂流して)、なぜ=震災による津波で犠牲になったから。--書かれていないこともあるが(私が勝手に補ったこともあるが)、それはすでにだれもが知っている「事実」だから省略されたのだ。「震災で多くの犠牲者が出た」ということは、だれもが知っているから、書き漏らしてしまうのだ。和合が知っているから、知らず知らず、省略してしまったのだ。事実を書くにしろ、自分の意見を書くにしろ、こんなふうに書き漏らしてしまうものこそ、そこに書かれていることの核心であり、思想である--というのは、私が文章を読むときの基本的な考え方である。
そして、この「事象」に和合は、和合自身の特別な視点を書き加えている。南三陸海岸を個人的な場所として説明している。「私が避暑地として気に入って、時折過ごしていた」ということばを南三陸海岸につけくわえている。
「事象」に「個人」をかかわらせていくとき、ことばは必然的に動く。和合自身のことばが動きだす。これが次の2行になる。その最初のことば、
このことに意味を求めるならば、
これは、とても重要である。「意味」め最初から存在するのではない。それは「求める」という行為をとおして見つけ出すもの、あるいは作り上げるものである。
和合はこれに先立ち、
ものみな全ての事象における意味など、その事後に生ずるものなのでしょう。ならば「事後」そのものの意味とは、何か。そこに意味はあるのか。
と書いていた。「事象」の「事後に生ずる」意味--それは、「事象」のあとで、ひとが求め、見つけ出すものなのである。
だからこそ、問題である。
人が死んだ。大勢の人間が死んだ。地震、津波の犠牲になった。そのことに「意味」を求めるとはどういうことなのか。なぜ、人が死んだことに対して意味を求めなければならないのか。そこに意味があっていいのか。むしろ、そこに意味がない方が、納得できるのではないだろうか。意味--というのは、しばしば「価値」と同じだからである。人が大勢死んでしまったことに「意味」などあってはならないはずである。
そのあってはならないはずの「意味」を人間は求める。探してしまう。
そして、和合は、次のことを発見する。
それ(求めている「意味」)は事実を正視しようとする、その静けさに宿るものであり、
大勢の人が死んだことに「意味」などあっていいはずがない。「意味」は事実を正視する(しっかりみつめる)、そのときの「静けさ」のなかに「宿る」ものである。自然に生まれてくるものである。生まれようとしてくるのである。
和合は、ここでも「静か」(正確には「静けさ」)に向き合っている。
この「静か」は、まだ、ことばが生まれてこない「静かさ」である。それはまた、いままでのことばが無効になったことを確認する「静かさ」である。「沈黙」である。それまでの、いままでの「流通言語」は、いま起きた「事象(出来事)」の前で完全に無効になった。いままでのことばでは、何も言えない。いままでのことばでは「意味」にたどりつけない、「意味」を語ることができないことを実感することである。
放射能が降っています。静かな夜です。
和合は、「静か」ということばを、最初に、そのような文章で書いた。この「静か」は音が聞こえてこないという「物理的な現象」を超えて広がっている。ことばが、それまでのことばがすべて沈黙してしまったことを語っているのだ。その沈黙と、つまり、いままでのことばの無効と和合は向き合っている。
そして、いままでのことばが無効であると実感したから、ことばを書きはじめたのだ。何かを語らなければならない。ことばを、死なせてはいけない……。
和合が実感した、それまでのことばの無効性は、次のように言いなおされている。
その一時の静けさに宿るものであり、それは意味ではなくむしろ無意味そのものの闇に近いかもしれない。
無効性の確認--それは意味ではなく、無意味であることの確認である。いままでのことばが無効になった。それはいままでのことばの意味が否定され、無意味になったということである。
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