詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(5)

2011-05-08 23:59:59 | 詩の礫
和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(5)(「現代詩手帖」2011年05月号)

私が避暑地として気に入って、時折過ごしていた南三陸海岸に、一昨日、1000人の遺体が流れ着きました。

このことに意味を求めるならば、それは事実を正視しようとする、その一時の静けさに宿るものであり、それは意味ではなくむしろ無意味そのものの闇に近いかもしれない。
                                 (38ページ)

 きょう引用した最初の2行は、いわゆる「事象」を描いている。「南三陸海岸に、一昨日、1000人の遺体が流れ着きました。」はニュースでいう5W1Hが書かれている。いつ=きのう、どこで=南三陸海岸に、誰が(何が)……した=1000人の遺体が(1000人が遺体となって)、流れ着いた、どのように=波に押し流されて(漂流して)、なぜ=震災による津波で犠牲になったから。--書かれていないこともあるが(私が勝手に補ったこともあるが)、それはすでにだれもが知っている「事実」だから省略されたのだ。「震災で多くの犠牲者が出た」ということは、だれもが知っているから、書き漏らしてしまうのだ。和合が知っているから、知らず知らず、省略してしまったのだ。事実を書くにしろ、自分の意見を書くにしろ、こんなふうに書き漏らしてしまうものこそ、そこに書かれていることの核心であり、思想である--というのは、私が文章を読むときの基本的な考え方である。
 そして、この「事象」に和合は、和合自身の特別な視点を書き加えている。南三陸海岸を個人的な場所として説明している。「私が避暑地として気に入って、時折過ごしていた」ということばを南三陸海岸につけくわえている。
 「事象」に「個人」をかかわらせていくとき、ことばは必然的に動く。和合自身のことばが動きだす。これが次の2行になる。その最初のことば、

このことに意味を求めるならば、

 これは、とても重要である。「意味」め最初から存在するのではない。それは「求める」という行為をとおして見つけ出すもの、あるいは作り上げるものである。
 和合はこれに先立ち、

ものみな全ての事象における意味など、その事後に生ずるものなのでしょう。ならば「事後」そのものの意味とは、何か。そこに意味はあるのか。

 と書いていた。「事象」の「事後に生ずる」意味--それは、「事象」のあとで、ひとが求め、見つけ出すものなのである。
 だからこそ、問題である。
 人が死んだ。大勢の人間が死んだ。地震、津波の犠牲になった。そのことに「意味」を求めるとはどういうことなのか。なぜ、人が死んだことに対して意味を求めなければならないのか。そこに意味があっていいのか。むしろ、そこに意味がない方が、納得できるのではないだろうか。意味--というのは、しばしば「価値」と同じだからである。人が大勢死んでしまったことに「意味」などあってはならないはずである。
 そのあってはならないはずの「意味」を人間は求める。探してしまう。
 そして、和合は、次のことを発見する。

 それ(求めている「意味」)は事実を正視しようとする、その静けさに宿るものであり、

 大勢の人が死んだことに「意味」などあっていいはずがない。「意味」は事実を正視する(しっかりみつめる)、そのときの「静けさ」のなかに「宿る」ものである。自然に生まれてくるものである。生まれようとしてくるのである。
 和合は、ここでも「静か」(正確には「静けさ」)に向き合っている。
 この「静か」は、まだ、ことばが生まれてこない「静かさ」である。それはまた、いままでのことばが無効になったことを確認する「静かさ」である。「沈黙」である。それまでの、いままでの「流通言語」は、いま起きた「事象(出来事)」の前で完全に無効になった。いままでのことばでは、何も言えない。いままでのことばでは「意味」にたどりつけない、「意味」を語ることができないことを実感することである。

放射能が降っています。静かな夜です。

 和合は、「静か」ということばを、最初に、そのような文章で書いた。この「静か」は音が聞こえてこないという「物理的な現象」を超えて広がっている。ことばが、それまでのことばがすべて沈黙してしまったことを語っているのだ。その沈黙と、つまり、いままでのことばの無効と和合は向き合っている。
 そして、いままでのことばが無効であると実感したから、ことばを書きはじめたのだ。何かを語らなければならない。ことばを、死なせてはいけない……。

 和合が実感した、それまでのことばの無効性は、次のように言いなおされている。

その一時の静けさに宿るものであり、それは意味ではなくむしろ無意味そのものの闇に近いかもしれない。

 無効性の確認--それは意味ではなく、無意味であることの確認である。いままでのことばが無効になった。それはいままでのことばの意味が否定され、無意味になったということである。




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ノーマン・ジュイソン監督「夜の大捜査線」(★★★★)

2011-05-08 22:18:28 | 午前十時の映画祭
監督 ノーマン・ジュイソン 出演 シドニー・ポワチエ、ロッド・スタイガー

 1967年の製作。演技の質がいまの映画とは違うなあ。感情の動き、表情の動きがずいぶん抑制されている。それが逆に「偏見」の強さを感じさせるから不思議だ。ロッド・スタイガーが「おれがどれだけ我慢して話しているかわかるか」というようなことをシドニー・ポワチエに語るシーンがとても象徴的だ。
 しかし、こんな損な役をロッド・スタイガーはよくやったなあ。演じ方次第では、ロッド・スタイガー自身が黒人差別の代表者みたいになってしまう。キャリアに傷がつくというより、人間性を誤解されかねないね。
 でも、うまい。
 シドニー・ポワチエをアフリカ系であるというだけで平気で逮捕していたのだが、だんだん刑事として優れていることに気がつく。「職業人」として尊敬するようになる。そのロッド・スタイガーがシドニー・ポワチエを自分の家に招きいれ、「不眠症」について語るシーンがとてもいい。ほんものの「親友」になったようなうちとけ方である。
 ところが、未婚であること、子供がいないこと、生活にさびしさが付きまとうことなどを話しているうちに、態度ががらりとかわる。「あわれみ」は受けたくないのだ。同情されたくないのだ。こころを通いあわせても、少しでも自分の方が「劣っている」という感じがしのびこむと、我慢できなくなる。ロッド・スタイガーが「許せる」のは「対等」までなのである。
 と、まあ、ほんとうにどうしようもない人間なのだか、このどうしようもなさを、ひとなつっこい顔と、メタボの肉体で「どうしようもない、だらしない」という印象に収め込んでしまう。(あ、メタボ体形のひと、ごめんあさいね。)
そして、それと同じように、良質な部分(他人の優れている点は優れていると、素早く認める、偏見を捨てる部分)を、さーっと見せる。強調せずに、やはり肉体に隠して、動かないこと(いわゆる演技をしないこと、突っ立っていること)で見せてしまう。農場経営者がシドニー・ポワチエを怒りにかられて殴り、反射的にシドニー・ポワチエが殴り返すシーン。ストーリーの展開上も、「動かない」という設定なのだが、その動きのなさがとてもいい。この殴り合いのあと、農場経営者が「お前は、かわった。以前のお前なら、すぐシドニー・ポワチエを射殺していた。正当防衛を理由に」というシーンがすごい。あ、おれは変わったんだと、驚くように自分自身を見つめている、内面を見つめている――それが素晴らしい。
こういうシーン、演技が印象に残るのは、全体のアクション(表情)が抑制されているためだ。今のように、誰もが表情で演技を競うようになると、ロッド・スタイガーの演技は、物足りなくなってしまうと思う。
(「午前10時の映画祭」青シリーズ14本目、天神東宝4、05月07日)


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誰も書かなかった西脇順三郎(214 )

2011-05-08 15:06:27 | 詩集
 『禮記』のつづき。「生物の夏」。

 書き出しに、私はいつもつまずく。

存在は存在にすぎない
すべては廻転する車だ
出発した点へまたもどる
「たのみになるわ」
ハジカミの実が赤くなり
白い蝶がとまつている九月も
あのシルク・ハットをかぶつている
「妖術の建築家」の研究につぶされた

 「たのみになるわ」という1行が、私には、とても弱く感じられる。「音」が聞こえてこない。ひらがなだけで書かれているからだろうか。
 この詩はとても長いのだが、この最初の部分でつまずいて、どうしようかな、といつも悩んでしまう。読み進むべきか、それともやめてしまうべきか。
 つづく「ハジカミの実が赤くなり/白い蝶がとまつている九月も」も私には楽しくない。「赤」と「白」の対比が単純すぎて、しっくりこない。西脇がしきりにつかうことばを借りていうと「曲がっている」印象がない。
 「あのシルク・ハットをかぶつている」には、その白と赤が「あのシル(しろ)ク・ハットを(あ)かぶつている」という感じで甦ってくるのだけれど、何か違うなあ、と感じてしまう。
 それからしばらく進んで、

言葉もなく反対の小路の中へ
ウルトラマリンの影を流しこんだ

 という2行はとても好きなのだが。
 「ウルトラマリンの影」はとても美しい。書いているのはウルトラマリンなのだが、補色(?)のように、「白」が広がる。白い光に溢れた路。その影は「黒」であってはならない。ウルトラマリンでなければならない、と思う。
 こういう行を読むと、たしかに西脇は絵画的な詩人だと納得させられる。
 でも、つけくわえると。
 「中へ」「流し込んだ」というそれぞれの行の最後の「なか・なが」という音の響きがとても自然で、その音も私は大好きなのである。


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