和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(18)(「現代詩手帖」2011年05月号)
「05」は3月20日の書き込みである。「言葉を。もっと、言葉を。」ときのう書いていた和合は、不思議なことばを書いている。
果肉と果皮ということばで和合が何を書こうとしているのか、これだけではわからない。果肉、果皮が何かの「比喩」であるだろうということはわかるが、何の比喩なのかわからない。「実体」がわからない。「対象」がわからない。けれど、「果肉」も「果皮」もわかる。そして、果皮を奪う(剥く)と、そこに果肉があるというのは、絶対的な関係ではない、と和合が考えていることがわかる。
この「絶対的な関係」ということばが、また、わからない。
わからないことば--というものは、たぶん書いている人間にもわからない。そういうことばは、何度も書き直されながら、わかることばへと変わっていく。和合は、その「わかることば」へ変わる前の、何かをまず書いている。何かをわかりたくて書いているのだ。
何を和合は「わかりたい」のか。何を知りたいのか。何を納得したいのか。
「果肉」とは「果皮」の内側にあるものである。「暮らしの内側」には「暮らしの果肉」がある。「果肉」とは「内容(意味)」のことかもしれない。暮らしがあり、その外形的な暮らし--たとえば家族がいる。夫と妻の関係があり、父と子、母と子の関係がある。よりそって生きる関係がある。愛し合って生きる関係がある。一緒に食べて、笑って、喜んで、泣いて……という日々の時間があり、それを「暮らしの内側」「暮らしの果肉」と呼びたいのかもしれない。「果肉」とは「暮らしの内容」の比喩であるかもしれない。暮らしというものがあれば、その内側に暮らしの内容(意味)がある、ということを和合は「果皮」と「果肉」という比喩で語りたいのかもしれない。
そのとき「果肉」は、なんとかわかるとして、「果皮」って何? 「暮らし」の「外側」って何?
実は、よくわからない。わからないが、私は、それは「暮らし」という「ことば」かなあ、と思う。
「暮らし」ということばがあれば、その「内側」に「暮らしの内容(意味)」「暮らしの実体」がある--そういう関係は「絶対」ではない。
ことばの「重点」は「果肉」「果皮」、あるいは「関係」ではなく、「絶対」にある。「絶対」というものが「ない」。そして、この「絶対」ということばの対極にあるのが「簡単」ということばだろう。「簡単に廃墟に変わる」の「簡単」。和合は、「暮らし」と「廃墟」を見比べて、「暮らし」(暮らしという「果皮」としてのことば)のなかにある「暮らしの内容(果肉)」は「絶対」ではなく、つまり「暮らし」ということばがあれば、そこに「暮らしという内容」があるという関係は「絶対」ではなく、「暮らしの内容」はある日突然「廃墟」へと「簡単」に変わってしまう。--その「絶対」と「簡単」の関係をこそみつめているのである。
しかし--このことばの試行錯誤の運動を見ていると、わかるのは「絶対」というものに対する不信感だけである。「絶対というものはない」という確信だけである。
しかし--「簡単」が「絶対」の対極にあると和合が考えているということはわかるが、「簡単」が、実は、わからない。
「簡単」って何?
和合にもわからないと思う。
「暮らし」が「暮らしでなくなる」ということが「簡単」にあっていいはずがない。けれど「簡単」にそういうことが起きた。大震災によって「暮らし」が「暮らしの内容」が壊れてしまうということが「簡単」に起きてしまった。
「簡単」って何?
「絶対的なものが無い」ということは、強く実感できる。けれど、「簡単」は、実感しきれない。「簡単」って呼んでいいのか--それすら、実は、わからない。
だから、和合は、このあとも「絶対」ということばは繰り返しつかうが「簡単」については触れない。
「簡単」ということばで和合がみつめたもの、「簡単」ということばと一緒につかっている「廃墟」--その組み合わせのなかに、和合の「傷」の深さがある。
「簡単」をどう告発していくか、「簡単」をどう克服していくか--きっと、そのことへむけて和合のことばの運動は展開するのだと思う。「簡単」と呼んではいけないものが、ほんとうはあるのだ。「絶対」はない。「絶対」よりも「簡単」の方が猛威をふるっている。パワーがある。この関係を、どうにかしたい--そのことを、しかし、和合はまだ「絶対は無い」という表現でしかつかみきれていない。ふいにあらわれた「簡単」を見逃して(?)、置き去りにしている。
そのかわり。
そのかわり、というのも変だけれど、ここに突然、変なことばがあらわれ、「絶対」と「簡単」の関係を「象徴」する。
これは、ほんとうに聞こえたのか。そうではないだろう。奈良か安芸の宮島なら聞こえないこともないかもしれないが、福島(原発の近く)で鹿が鳴いている? そうではないだろう。「絶対」と「簡単」の関係をつなぐことができない「空白」に、それはふいに出現してきた「まぼろし」である。和合だけがつかみとった「まぼろし」である。ことばにならない「ことば」。「比喩」以前のもの。「象徴」以前のものだ。
このことばは、だから、わけがわからない。
そして、わけがわからないからこそ、美しい。印象に残る。大震災は、「鹿の鳴き声」のようなものである。(なんだか、わからないね。)大震災のあとの廃墟は「鹿の鳴き声」のようなものである。(やっぱり、なんだかわからない。)大震災で「絶対」というものはないと知ったが、その「絶対のなさ」の確かさ(?)は「鹿の鳴き声」のようなものである。(これも、わからない。)「暮らし」あるいは「暮らしの内容」というものは巨大な自然の力によって「簡単」に破壊されてしまうが、そのときの「簡単」というのは「鹿の鳴き声」のようなものである。(ますます、わからない。)
あ、でも……。
いま、私が書いた「ますます,わからない」ということ--そのことが「鹿の鳴き声」に一番近いと思う。まったくわからないけれど、そのまったくわからないものが「存在」するということが、この世界のありようなのだ。
福島の「廃墟」と呼んだ街に鹿が鳴いているかどうか私は知らないが、鳴いていたっていいのだ。その声が聞こえたっていいのだ。人間の「思い」とは無関係にそういうものがあっていい。「簡単」にあっていい。そして、その「簡単」にあることこそが、もしかしたら「絶対」かもしれない。
「意味」にならないこと--それがあることを「鹿の鳴き声」は、私に教えてくれる。
果皮と果肉のあいだ、その関係は絶対ではない。絶対ではないということは何もないというのに等しいかもしれないが、その一方で、果実とは無関係なところに「鹿の鳴き声」は存在する。それは存在するかどうかわからないが、「ことば」にして書くことができる。存在しなくても「書くことができる」何かがある。
「05」は3月20日の書き込みである。「言葉を。もっと、言葉を。」ときのう書いていた和合は、不思議なことばを書いている。
果実の果皮を奪えば、そこには果肉がある。否。それはあなたの思い過ごしである。果皮と果肉には絶対的な関係など無い。なぞ無い。
(47ページ)
果肉と果皮ということばで和合が何を書こうとしているのか、これだけではわからない。果肉、果皮が何かの「比喩」であるだろうということはわかるが、何の比喩なのかわからない。「実体」がわからない。「対象」がわからない。けれど、「果肉」も「果皮」もわかる。そして、果皮を奪う(剥く)と、そこに果肉があるというのは、絶対的な関係ではない、と和合が考えていることがわかる。
この「絶対的な関係」ということばが、また、わからない。
わからないことば--というものは、たぶん書いている人間にもわからない。そういうことばは、何度も書き直されながら、わかることばへと変わっていく。和合は、その「わかることば」へ変わる前の、何かをまず書いている。何かをわかりたくて書いているのだ。
何を和合は「わかりたい」のか。何を知りたいのか。何を納得したいのか。
私たちの暮らしの内側に、果肉がある。否。それはあなたの思い過ごしである。「暮らし」とは簡単に廃墟に変わる。廃墟に変わる。鹿の鳴き声。
(47ページ)
「果肉」とは「果皮」の内側にあるものである。「暮らしの内側」には「暮らしの果肉」がある。「果肉」とは「内容(意味)」のことかもしれない。暮らしがあり、その外形的な暮らし--たとえば家族がいる。夫と妻の関係があり、父と子、母と子の関係がある。よりそって生きる関係がある。愛し合って生きる関係がある。一緒に食べて、笑って、喜んで、泣いて……という日々の時間があり、それを「暮らしの内側」「暮らしの果肉」と呼びたいのかもしれない。「果肉」とは「暮らしの内容」の比喩であるかもしれない。暮らしというものがあれば、その内側に暮らしの内容(意味)がある、ということを和合は「果皮」と「果肉」という比喩で語りたいのかもしれない。
そのとき「果肉」は、なんとかわかるとして、「果皮」って何? 「暮らし」の「外側」って何?
実は、よくわからない。わからないが、私は、それは「暮らし」という「ことば」かなあ、と思う。
「暮らし」ということばがあれば、その「内側」に「暮らしの内容(意味)」「暮らしの実体」がある--そういう関係は「絶対」ではない。
ことばの「重点」は「果肉」「果皮」、あるいは「関係」ではなく、「絶対」にある。「絶対」というものが「ない」。そして、この「絶対」ということばの対極にあるのが「簡単」ということばだろう。「簡単に廃墟に変わる」の「簡単」。和合は、「暮らし」と「廃墟」を見比べて、「暮らし」(暮らしという「果皮」としてのことば)のなかにある「暮らしの内容(果肉)」は「絶対」ではなく、つまり「暮らし」ということばがあれば、そこに「暮らしという内容」があるという関係は「絶対」ではなく、「暮らしの内容」はある日突然「廃墟」へと「簡単」に変わってしまう。--その「絶対」と「簡単」の関係をこそみつめているのである。
しかし--このことばの試行錯誤の運動を見ていると、わかるのは「絶対」というものに対する不信感だけである。「絶対というものはない」という確信だけである。
しかし--「簡単」が「絶対」の対極にあると和合が考えているということはわかるが、「簡単」が、実は、わからない。
「簡単」って何?
和合にもわからないと思う。
「暮らし」が「暮らしでなくなる」ということが「簡単」にあっていいはずがない。けれど「簡単」にそういうことが起きた。大震災によって「暮らし」が「暮らしの内容」が壊れてしまうということが「簡単」に起きてしまった。
「簡単」って何?
「絶対的なものが無い」ということは、強く実感できる。けれど、「簡単」は、実感しきれない。「簡単」って呼んでいいのか--それすら、実は、わからない。
だから、和合は、このあとも「絶対」ということばは繰り返しつかうが「簡単」については触れない。
「簡単」ということばで和合がみつめたもの、「簡単」ということばと一緒につかっている「廃墟」--その組み合わせのなかに、和合の「傷」の深さがある。
「簡単」をどう告発していくか、「簡単」をどう克服していくか--きっと、そのことへむけて和合のことばの運動は展開するのだと思う。「簡単」と呼んではいけないものが、ほんとうはあるのだ。「絶対」はない。「絶対」よりも「簡単」の方が猛威をふるっている。パワーがある。この関係を、どうにかしたい--そのことを、しかし、和合はまだ「絶対は無い」という表現でしかつかみきれていない。ふいにあらわれた「簡単」を見逃して(?)、置き去りにしている。
そのかわり。
そのかわり、というのも変だけれど、ここに突然、変なことばがあらわれ、「絶対」と「簡単」の関係を「象徴」する。
鹿の鳴き声。
これは、ほんとうに聞こえたのか。そうではないだろう。奈良か安芸の宮島なら聞こえないこともないかもしれないが、福島(原発の近く)で鹿が鳴いている? そうではないだろう。「絶対」と「簡単」の関係をつなぐことができない「空白」に、それはふいに出現してきた「まぼろし」である。和合だけがつかみとった「まぼろし」である。ことばにならない「ことば」。「比喩」以前のもの。「象徴」以前のものだ。
このことばは、だから、わけがわからない。
そして、わけがわからないからこそ、美しい。印象に残る。大震災は、「鹿の鳴き声」のようなものである。(なんだか、わからないね。)大震災のあとの廃墟は「鹿の鳴き声」のようなものである。(やっぱり、なんだかわからない。)大震災で「絶対」というものはないと知ったが、その「絶対のなさ」の確かさ(?)は「鹿の鳴き声」のようなものである。(これも、わからない。)「暮らし」あるいは「暮らしの内容」というものは巨大な自然の力によって「簡単」に破壊されてしまうが、そのときの「簡単」というのは「鹿の鳴き声」のようなものである。(ますます、わからない。)
あ、でも……。
いま、私が書いた「ますます,わからない」ということ--そのことが「鹿の鳴き声」に一番近いと思う。まったくわからないけれど、そのまったくわからないものが「存在」するということが、この世界のありようなのだ。
福島の「廃墟」と呼んだ街に鹿が鳴いているかどうか私は知らないが、鳴いていたっていいのだ。その声が聞こえたっていいのだ。人間の「思い」とは無関係にそういうものがあっていい。「簡単」にあっていい。そして、その「簡単」にあることこそが、もしかしたら「絶対」かもしれない。
「意味」にならないこと--それがあることを「鹿の鳴き声」は、私に教えてくれる。
絶対など無い。果実の皮を剥いても、いくら剥いても、何も無い、何も無いのだ。
何も無いのか、鹿の鳴き声。
果皮と果肉のあいだ、その関係は絶対ではない。絶対ではないということは何もないというのに等しいかもしれないが、その一方で、果実とは無関係なところに「鹿の鳴き声」は存在する。それは存在するかどうかわからないが、「ことば」にして書くことができる。存在しなくても「書くことができる」何かがある。
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