和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(13)(「現代詩手帖」2011年05月号)
このことばは、少し変な具合に響いてくる。私がふつうつかわない形でことばが動いている。「幸福の真理」の「真理」が重たいのである。それを、さらに「思う」ということばが追いかけている。
そこに、和合独特の、大震災の被災者独特の何かがある。
「これまでと同じように暮らせることだけが、私たちが求める幸福である」ということばと比較すると、和合の書こうとしている「何か」がわかる。
和合は、幸福について考えているが、その幸福はふつうの幸福ではない。大震災のあとでは、ふつうの幸福は考えられない。「真理」を考えたい。「真理」を手に入れたい。「幸福の真理」を手に入れたい。
「幸福の真理」とは「真実の幸福」とは違うのか。
たぶん違う。
「真実の(ほんとうの)幸福」ではなく、「幸福の真理」。そういうときの「真理」とは何か。和合は、これまで「意味」ということばをつかっていた。
この「意味」に「真理」は近いと思う。「意味」とはその「事象」の「定義」である。単なる定義ではなく、定義づけるということを含んだ定義である。大震災--それをどう定義するか。定義は、いつでも、あと(事後)からしかできない。そして、その定義における「意味」とは何か。
「そこに意味はあるか」とは「そこに(その意味に)価値はあるか」ということかもしれない。「意味(価値)」はある、と私は思う。
いま、和合がやっていることに結びつける形で言えば、何かを定義すること--何かをことばでとらえなおすこと。それは、ことばを生き返らせることである。大震災で「沈黙」してしまったことばを、もう一度、甦らせることである。
和合は、そういうことをしている。
どこがことばの再生か--そのことを、私は、はっきりとは指摘できない。けれど、和合がこうしてことばを動かしているかぎり、和合のことばは死んではいない。和合はことばを死なせないということを繰り返すことで、ことばを甦らせようとしているのである。
だから、と、いえばいいのかどうかわらかないが、そういうことは、新しい劇的なことばをつかっておこなわれるわけではない。いつもつかっていることばを組み合わせながら、そのことばを、いままでとは少し違った形で動かすことでおこなわれるのである。
これは、先に書いたように「幸福」とだけ書いても「文章」は成り立つ。けれども、和合は「幸福の真理」と書くことで、「幸福」と「真理」にいままでとは違う何かをつけくわえようとしている。何かを「幸福の真理」ということばの組み合わせで甦らせようとしている。和合の「肉体」のなかで生まれようとしている何かを引き出そうとしている。生み出そうとしている。
和合の書いている「幸福の真理」--このことばの「真理」は、私が書いたこと以外にも、いろいろに読むことができるだろう。その「いろいろな読み方」のなかに、何かが動く。その「いろいろな動き」そのものが、それこそ「真理」というものかもしれない。
ことばにできない何か。ことばになろうとする何か。
「真理」は和合には何であるかがわかっている。しかし、まだ、それを「真理」以外のことばで言いなおすことができない。--その、苦しみのようなもの、切実な渇望のようなものを、私は感じる。それは、ことばにならない。「思う」ことしかできない。「思う」ことで、なんとか、それをことばにしようとしている。和合の、その「思い」が、とても重い。ずしり、とつたわってくる。
そして、なんと不思議なことだろう。
幸福の真理--それは、いつもと違った暮らしではない。たとえば、突然の金持ちになるとか、突然何かができるということとは関係がない。「これまでと同じように暮らせること」。「同じ」であることが「幸福」。「幸福」だけではなく「幸福の真理」。
和合は、ここでは「幸福」を定義しなおしているのである。「幸福」の「意味」を考え直しているのである。
「幸福」の見方(定義の仕方)が変わったのである。「幸福の真理」も変わったのである。変わったばかりだから、まだその「真理」をうまく「定義」しなおすことができない。「意味」を明確に語ることができない。
--私の書いていることは、どうも、どうどうめぐりになるが、どうどうめぐりをしながら少しずつ進んでいくしかないのかもしれない。
「幸福の真理」ということばを書いたあと、和合のことばは少し、そういう形而上学的な次元(?)から離れる。そこに、あ、不思議な「幸福の真理」を私は感じるのである。
「しかし実はタマネギが苦手である」が、とてもいい。「物の見方や考え方が変わりました」と和合は書いていたのだが、変わらないもの、変われないものがあるのだ。「肉体」あるいは「本能」のようなものはかわれない。「いのち」は変われないのだ。そして、その「変わらない-変われない」ものこそ、「真理」であり、それがあるということが「幸福」なのだ。それをもちつづけるということが、きっと「幸福」なのだ。
私は変なことを書いている--と承知しながら書いているのだが……。
「タマネギが苦手」ということが、つい、この間まで、あった。それが「毎日」であった。「同じ・暮らし」であった。それを「苦手」という「肉体の感覚」で和合はつかみとっている。「タマネギが苦手」というのは、まあ、何とも言えないばかばかしい(?)好みの問題だが、その「無意味」なことがらが、実は大切な「幸福な真理」ではないかと私は思う。
「タマネギが苦手」というようなことを言わず、食べるものがないならそれを食べるしかないという「現実」があっても、それでも「タマネギが苦手」と思うこころ、思う肉体。その「反応」のなかに、不思議な「幸福の真理」を私は感じる。「タマネギが苦手」という反応こそが「これまでと同じ」だからである。そういう「これまでと同じ」を肉体が抱え込んで「暮らす」こと--それこそが「私(和合)たちが求める幸福の真理」に違いない。
これまでと同じように暮らせることだけが、私たちが求める幸福の真理であると思う。
(40ページ)
このことばは、少し変な具合に響いてくる。私がふつうつかわない形でことばが動いている。「幸福の真理」の「真理」が重たいのである。それを、さらに「思う」ということばが追いかけている。
そこに、和合独特の、大震災の被災者独特の何かがある。
「これまでと同じように暮らせることだけが、私たちが求める幸福である」ということばと比較すると、和合の書こうとしている「何か」がわかる。
和合は、幸福について考えているが、その幸福はふつうの幸福ではない。大震災のあとでは、ふつうの幸福は考えられない。「真理」を考えたい。「真理」を手に入れたい。「幸福の真理」を手に入れたい。
「幸福の真理」とは「真実の幸福」とは違うのか。
たぶん違う。
「真実の(ほんとうの)幸福」ではなく、「幸福の真理」。そういうときの「真理」とは何か。和合は、これまで「意味」ということばをつかっていた。
ものみな全ての事象における意味などは、それらの事後に生ずるものなのでしょう。
(38ページ)
この「意味」に「真理」は近いと思う。「意味」とはその「事象」の「定義」である。単なる定義ではなく、定義づけるということを含んだ定義である。大震災--それをどう定義するか。定義は、いつでも、あと(事後)からしかできない。そして、その定義における「意味」とは何か。
ものみな全ての事象における意味などは、それらの事後に生ずるものなのでしょう。ならば「事後」そのものの意味とは、何か。そこに意味はあるか。
(38ページ)
「そこに意味はあるか」とは「そこに(その意味に)価値はあるか」ということかもしれない。「意味(価値)」はある、と私は思う。
いま、和合がやっていることに結びつける形で言えば、何かを定義すること--何かをことばでとらえなおすこと。それは、ことばを生き返らせることである。大震災で「沈黙」してしまったことばを、もう一度、甦らせることである。
和合は、そういうことをしている。
どこがことばの再生か--そのことを、私は、はっきりとは指摘できない。けれど、和合がこうしてことばを動かしているかぎり、和合のことばは死んではいない。和合はことばを死なせないということを繰り返すことで、ことばを甦らせようとしているのである。
だから、と、いえばいいのかどうかわらかないが、そういうことは、新しい劇的なことばをつかっておこなわれるわけではない。いつもつかっていることばを組み合わせながら、そのことばを、いままでとは少し違った形で動かすことでおこなわれるのである。
幸福の真理。
これは、先に書いたように「幸福」とだけ書いても「文章」は成り立つ。けれども、和合は「幸福の真理」と書くことで、「幸福」と「真理」にいままでとは違う何かをつけくわえようとしている。何かを「幸福の真理」ということばの組み合わせで甦らせようとしている。和合の「肉体」のなかで生まれようとしている何かを引き出そうとしている。生み出そうとしている。
和合の書いている「幸福の真理」--このことばの「真理」は、私が書いたこと以外にも、いろいろに読むことができるだろう。その「いろいろな読み方」のなかに、何かが動く。その「いろいろな動き」そのものが、それこそ「真理」というものかもしれない。
ことばにできない何か。ことばになろうとする何か。
幸福の真理。
「真理」は和合には何であるかがわかっている。しかし、まだ、それを「真理」以外のことばで言いなおすことができない。--その、苦しみのようなもの、切実な渇望のようなものを、私は感じる。それは、ことばにならない。「思う」ことしかできない。「思う」ことで、なんとか、それをことばにしようとしている。和合の、その「思い」が、とても重い。ずしり、とつたわってくる。
そして、なんと不思議なことだろう。
幸福の真理--それは、いつもと違った暮らしではない。たとえば、突然の金持ちになるとか、突然何かができるということとは関係がない。「これまでと同じように暮らせること」。「同じ」であることが「幸福」。「幸福」だけではなく「幸福の真理」。
和合は、ここでは「幸福」を定義しなおしているのである。「幸福」の「意味」を考え直しているのである。
本日で被災六日目になります。物の見方や考え方が変わりました。
(39ページ)
「幸福」の見方(定義の仕方)が変わったのである。「幸福の真理」も変わったのである。変わったばかりだから、まだその「真理」をうまく「定義」しなおすことができない。「意味」を明確に語ることができない。
--私の書いていることは、どうも、どうどうめぐりになるが、どうどうめぐりをしながら少しずつ進んでいくしかないのかもしれない。
「幸福の真理」ということばを書いたあと、和合のことばは少し、そういう形而上学的な次元(?)から離れる。そこに、あ、不思議な「幸福の真理」を私は感じるのである。
タマネギを、たくさんいただいてきた。箱いっぱいに。近所のおじさんが作ったものをくれたのだ。しかし実はタマネギが苦手である。玄関にその箱を置いて、じっと見ている。ついこの間まで、あった、僕の毎日…。
(40ページ)
「しかし実はタマネギが苦手である」が、とてもいい。「物の見方や考え方が変わりました」と和合は書いていたのだが、変わらないもの、変われないものがあるのだ。「肉体」あるいは「本能」のようなものはかわれない。「いのち」は変われないのだ。そして、その「変わらない-変われない」ものこそ、「真理」であり、それがあるということが「幸福」なのだ。それをもちつづけるということが、きっと「幸福」なのだ。
私は変なことを書いている--と承知しながら書いているのだが……。
「タマネギが苦手」ということが、つい、この間まで、あった。それが「毎日」であった。「同じ・暮らし」であった。それを「苦手」という「肉体の感覚」で和合はつかみとっている。「タマネギが苦手」というのは、まあ、何とも言えないばかばかしい(?)好みの問題だが、その「無意味」なことがらが、実は大切な「幸福な真理」ではないかと私は思う。
「タマネギが苦手」というようなことを言わず、食べるものがないならそれを食べるしかないという「現実」があっても、それでも「タマネギが苦手」と思うこころ、思う肉体。その「反応」のなかに、不思議な「幸福の真理」を私は感じる。「タマネギが苦手」という反応こそが「これまでと同じ」だからである。そういう「これまでと同じ」を肉体が抱え込んで「暮らす」こと--それこそが「私(和合)たちが求める幸福の真理」に違いない。
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