詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(13)

2011-05-16 23:59:59 | 詩の礫
和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(13)(「現代詩手帖」2011年05月号)

これまでと同じように暮らせることだけが、私たちが求める幸福の真理であると思う。
                                 (40ページ)

 このことばは、少し変な具合に響いてくる。私がふつうつかわない形でことばが動いている。「幸福の真理」の「真理」が重たいのである。それを、さらに「思う」ということばが追いかけている。
 そこに、和合独特の、大震災の被災者独特の何かがある。
 「これまでと同じように暮らせることだけが、私たちが求める幸福である」ということばと比較すると、和合の書こうとしている「何か」がわかる。
 和合は、幸福について考えているが、その幸福はふつうの幸福ではない。大震災のあとでは、ふつうの幸福は考えられない。「真理」を考えたい。「真理」を手に入れたい。「幸福の真理」を手に入れたい。
 「幸福の真理」とは「真実の幸福」とは違うのか。
 たぶん違う。
 「真実の(ほんとうの)幸福」ではなく、「幸福の真理」。そういうときの「真理」とは何か。和合は、これまで「意味」ということばをつかっていた。

ものみな全ての事象における意味などは、それらの事後に生ずるものなのでしょう。
                                 (38ページ)

 この「意味」に「真理」は近いと思う。「意味」とはその「事象」の「定義」である。単なる定義ではなく、定義づけるということを含んだ定義である。大震災--それをどう定義するか。定義は、いつでも、あと(事後)からしかできない。そして、その定義における「意味」とは何か。

ものみな全ての事象における意味などは、それらの事後に生ずるものなのでしょう。ならば「事後」そのものの意味とは、何か。そこに意味はあるか。
                                 (38ページ)

 「そこに意味はあるか」とは「そこに(その意味に)価値はあるか」ということかもしれない。「意味(価値)」はある、と私は思う。
 いま、和合がやっていることに結びつける形で言えば、何かを定義すること--何かをことばでとらえなおすこと。それは、ことばを生き返らせることである。大震災で「沈黙」してしまったことばを、もう一度、甦らせることである。
 和合は、そういうことをしている。
 どこがことばの再生か--そのことを、私は、はっきりとは指摘できない。けれど、和合がこうしてことばを動かしているかぎり、和合のことばは死んではいない。和合はことばを死なせないということを繰り返すことで、ことばを甦らせようとしているのである。
 だから、と、いえばいいのかどうかわらかないが、そういうことは、新しい劇的なことばをつかっておこなわれるわけではない。いつもつかっていることばを組み合わせながら、そのことばを、いままでとは少し違った形で動かすことでおこなわれるのである。

幸福の真理。

 これは、先に書いたように「幸福」とだけ書いても「文章」は成り立つ。けれども、和合は「幸福の真理」と書くことで、「幸福」と「真理」にいままでとは違う何かをつけくわえようとしている。何かを「幸福の真理」ということばの組み合わせで甦らせようとしている。和合の「肉体」のなかで生まれようとしている何かを引き出そうとしている。生み出そうとしている。
 和合の書いている「幸福の真理」--このことばの「真理」は、私が書いたこと以外にも、いろいろに読むことができるだろう。その「いろいろな読み方」のなかに、何かが動く。その「いろいろな動き」そのものが、それこそ「真理」というものかもしれない。
 ことばにできない何か。ことばになろうとする何か。

幸福の真理。

 「真理」は和合には何であるかがわかっている。しかし、まだ、それを「真理」以外のことばで言いなおすことができない。--その、苦しみのようなもの、切実な渇望のようなものを、私は感じる。それは、ことばにならない。「思う」ことしかできない。「思う」ことで、なんとか、それをことばにしようとしている。和合の、その「思い」が、とても重い。ずしり、とつたわってくる。

 そして、なんと不思議なことだろう。
 幸福の真理--それは、いつもと違った暮らしではない。たとえば、突然の金持ちになるとか、突然何かができるということとは関係がない。「これまでと同じように暮らせること」。「同じ」であることが「幸福」。「幸福」だけではなく「幸福の真理」。
 和合は、ここでは「幸福」を定義しなおしているのである。「幸福」の「意味」を考え直しているのである。

本日で被災六日目になります。物の見方や考え方が変わりました。
                                 (39ページ)

 「幸福」の見方(定義の仕方)が変わったのである。「幸福の真理」も変わったのである。変わったばかりだから、まだその「真理」をうまく「定義」しなおすことができない。「意味」を明確に語ることができない。
 --私の書いていることは、どうも、どうどうめぐりになるが、どうどうめぐりをしながら少しずつ進んでいくしかないのかもしれない。

 「幸福の真理」ということばを書いたあと、和合のことばは少し、そういう形而上学的な次元(?)から離れる。そこに、あ、不思議な「幸福の真理」を私は感じるのである。

タマネギを、たくさんいただいてきた。箱いっぱいに。近所のおじさんが作ったものをくれたのだ。しかし実はタマネギが苦手である。玄関にその箱を置いて、じっと見ている。ついこの間まで、あった、僕の毎日…。
                                 (40ページ)

 「しかし実はタマネギが苦手である」が、とてもいい。「物の見方や考え方が変わりました」と和合は書いていたのだが、変わらないもの、変われないものがあるのだ。「肉体」あるいは「本能」のようなものはかわれない。「いのち」は変われないのだ。そして、その「変わらない-変われない」ものこそ、「真理」であり、それがあるということが「幸福」なのだ。それをもちつづけるということが、きっと「幸福」なのだ。
 私は変なことを書いている--と承知しながら書いているのだが……。
 「タマネギが苦手」ということが、つい、この間まで、あった。それが「毎日」であった。「同じ・暮らし」であった。それを「苦手」という「肉体の感覚」で和合はつかみとっている。「タマネギが苦手」というのは、まあ、何とも言えないばかばかしい(?)好みの問題だが、その「無意味」なことがらが、実は大切な「幸福な真理」ではないかと私は思う。
 「タマネギが苦手」というようなことを言わず、食べるものがないならそれを食べるしかないという「現実」があっても、それでも「タマネギが苦手」と思うこころ、思う肉体。その「反応」のなかに、不思議な「幸福の真理」を私は感じる。「タマネギが苦手」という反応こそが「これまでと同じ」だからである。そういう「これまでと同じ」を肉体が抱え込んで「暮らす」こと--それこそが「私(和合)たちが求める幸福の真理」に違いない。



入道雲入道雲入道雲
和合 亮一
思潮社
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野村喜和夫「眩暈原論(その5)」

2011-05-16 23:19:40 | 詩(雑誌・同人誌)
野村喜和夫「眩暈原論(その5)」(「hotel 第2章」27、2011年04月20日発行)

 野村喜和夫「眩暈原論(その5)」はことばのリズムがとてもいい。

おお眩暈地平。それは始まり、それは終わるだろう。それはけたたましい猿の笑いで始まり、時間の外へのやるせない郷愁で終わるだろう。それははためく肉のすらり起動から始まり、ひるがえる魚の腹のきらめき浮遊へと終わるだろう。それは終わりの煮こごりの姫的な流出へと始まり、はじまりのファンファーレのちりちりと焦げた香りから終わるだろう。いずれにせよ、それは始まり、それは終わるだろう。

 「時間の外へのやるせない郷愁」って、何ですか? わかりますか? 私はわかりません。けれどいいのだ。このわからないものが、わからないけれど、そこにある。きちんと「音」として「ある」感覚(印象?)がいい。「音」がもたつかない。
 わからないには、たぶん、二種類ある。「意味」がわからないけれど「音」がわかることば。逆に「音」がわからないというか、もたもたしていてじれったいけれど「意味」はわかるということば。この「音」がもたもたしていて「意味」がわかることばは、言い換えると「音」がわからないことばのことである。--私は、この「音」がもたもたしていて、聞きづらい、読みにくいことばに会うとげんなりしてしまうのである。
 「意味」(思想)が「正しい」といわれても、その「意味」(思想)を信じられないのだ。「肉体」でもちこたえられない。「耳」でもちこたえられず、「声」で再生できないことばは、私には「意味」にも「思想」にも思えないのである。
 「声」にできないことって、結局、「肉体」が理解していないということだ。
 何が書いてあるのか、野村が何を書こうとしたのか、わからない。それは「時間の外へのやるせない郷愁」だけではない。「ひるがえる魚の腹のきらめき浮遊へと」もわからない。「煮こごりの姫的な流出」もわからない。「ファンファーレのちりちりと焦げた香りもわからない。
 「はじまりのファンファーレのちりちりと焦げた香りから終わるだろう。」なんて、はじまるの? 終わるの? それだって、まあ、いいかげんだ。
 野村自身「いずれにせよ、それは始まり、それは終わるだろう。」と逃げている。「いずれにせよ」って、ねえ、そんな言い方は無責任でしょ? なんだって始まりがあり、それから終わりがあるのだけれど、「いずれにせよ」じゃ、困るよねえ。「意味」を考える人にとってとは。
 でも、私は困りません。「意味」は考えないから。

ちらせ、ちらせ、障壁ちらせ。火は液状に、水は硬く、燠火の泡や語る彗星の尾が浮かんでいるよ、女のアクメの声や汗の樹枝状結晶が漂っているよ。眼だ、とりわけ眼だ、照らし、また照らされて。

 「火は液状」なんかではない。「水は硬く」はない。ここには、いっしゅの「でたらめ」(ありえないこと)が書かれている。それは「常識」の世界ではない。だから、ここに書いてあることが「わからない」、というのが、まあ、ふつうの読み方かもしれない。「意味」がわからない、そういう感想がふつうかもしれない。
 でも、その「わからない」ということ--それが「わかる」ということが、詩、なのだ。「わからない」ことも、ことばになる。そして、「意味」はわからないけれど、ことばのひとつひとつはわかる。「音」がわかる。ここでは、「わかる」と「わからない」が出会っている。そういうことが、わかる。
 これが、きっと詩の体験なのだと思う。

 あることばを読む。そして、そのことばのひとつひとつがわかり、その結果として「意味」(思想)がわかる--というのは、ふつうの散文のことばである。散文は、たぶん、ひとつひとつのことばをわかるように書き、そしてその結果としての「結論」も「意味」が「わかる」ものである。散文では「わかる」と「わかる」が出会って、その「わかる」を超えた、さらに「わかる」を次元の高いものにすることばの運動なのかもしれない。
 詩にもそういうものはある。けれど、そういう「意味」が「わかる」よう書かれる作品とは別に、「意味」をわからなくするために書く作品もあるのだ。「意味」ではなく、「無意味」が動き回る、「無意味」が「意味」をたたき壊して、わっ、おもしろい、と思う詩もあるのだ。
 わっ、おもしろい--とことばに対して感じること、それがきっと詩なのだ。

 こういうとき、つまり、「わけがわかんないけれど、わっ、おもしろい」と思うとき、絶対に必要なのは「音」が明瞭であること、「音」が聞き取れること、「音」が「肉体」で再現できること--その「音」を自分の「肉体」で再現したいと思うこと、なのである。
 あ、いま聞いた「音」を再現してみたい、自分で言ってみたい、自分のものにしてみたい--そういう「欲望」のなかに、私は「思想」の一番重要なもの、譲れないものが含まれていると感じている。


詩集 plan14
野村 喜和夫
本阿弥書店
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