詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(14)

2011-05-17 23:59:59 | 詩の礫
和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(14)(「現代詩手帖」2011年05月号)

0時。ヒサイ6ニチメ。サッキノウソ。コンドハ6ニチメ。コレカラ、イツカカン。ワタシハ、ケッチャクヲツケタイ。
                                 (40ページ)

 「サッキノウソ」というのは、「本日で被災六日目になります」(38ページ)「シンサイ6ニチメ。ウマイコーヒーガ、ノミタイ」(39ページ)が間違いだったということだろう。0時という区切りの時間に出会い、和合が自分の「意識」を再点検して、数え方が間違っていたということに気がついたのである。
 和合の「詩の礫」はツイッターに書き込まれたものである。ツイッターの書き込みが「修正(訂正)」が可能なものであるかどうか私は知らないが、書き間違えたところまで戻って書き直すのではなく、間違いは間違いのまま残しておいて、修正しながら書きつないでゆく、ということばの運動を和合が選んでいることになる。
 ここに和合の、この詩の特徴があらわれている。
 気がつけば直す。何か、ある結論をめざしてことばを「論理的」に積み重ねて行くのではなく、そのときそのときの「真実」を書くことで、前に進み、同時に過去を修正する。前に進むこと(書きつづけること)は、それまでに書いたこと(過去)を常に修正することなのである。別なことばで言えば、過去を「耕す」ことである。
 大震災について書きつづけること、6日目、7日目……と書きつづけることは、同時に大震災の発生日、その瞬間に戻ることでもあるのだ。何が起きたのか。それを見つめなおしつづけることなのだ。

コレカラ、イツカカン。ワタシハ、ケッチャクヲツケタイ。

 これは、「詩の礫」を書きはじめ、これから5日間かけて作品を完成させ、自分の経験したことについて「決着」をつけたい、という意味ではない。
 「コレカラ」はむしろ「コレマデノ」である。これまでの5日間、大震災以後、何も書かなかった5日間へ向けて、ことばを動かしていく。実際には、7日目、8日目とツイッターで書き進むのだが、それは過去の、「ことば」が生まれてこなかった5日間の、生まれるはずだったことばを探し求めることなのだ。

ものみな全ての事象における意味などは、それらの事後に生ずるものなのでしょう。ならば「事後」そのものの意味とは、何なのか。そこに意味はあるのか。
                                 (38ページ)

 と、和合は書いていたが、「事後」から「事(こと)」の生まれる瞬間へ向かってしかことばは動かせないのである。そして、「事後」から「事」へ向けて書くこと、それは「意味」をつくることなのだ。「意味」は「生じてくる」のではなく、ことばで「生み出す」ものなのだ。「生み出す」のもであるからこそ、「ワタシハ、ケッチャクヲツケタイ。」と言えるのだ。「ワタシ」が、深く関与することができるのだ。

台所。メチャクチャになった皿を片付けていた。一つずつそれを箱に入れながら、情けなくなった。自分も、台所も、世界も。
                                 (40ページ)

 生きることは、いま、そこにあらわれてきた「過去」と向き合うことである。「未来」へ進むことは、常に「過去」と向き合い、「過去」を修正することである。「サッキノウソ。コンドハ6ニチメ」と「ことば」を修正したように、いま、和合は「台所」にあらわれた「過去(大震災・事象)」と向き合い、それを「修正(修復)」している。そして、「情けなくなった」。この「情けなくなった」は何だろう。自分にできることの少なさ、非力さの実感だろうか。自分の肉体を動かしながら「事象」をどれだけ「修復」できるか。「過去」を整えながら、「未来」へ進んでいくことができるか。
 自分の肉体がある「台所」を思う。それから、その外に広がって行く「世界」を思う。どこまで、肉体が関与できるか。そう思うとき、たしかに「非力」を実感するしかないのだと思う。
 しかし、和合は、肉体を動かすと同時に、ことばを動かす。

明けない夜は無い。
                                 (40ページ)

 夜は必ず朝になる--という天体の運動のことを和合は書いているだけではないのだ。天体の運動がそうであるように、必ず、この「非力」から立ち直り、ことばを修復できる--和合は、そのことを祈っているのだ。
 「ワタシハ、ケッチャクヲツケタイ」は、ことばを再生させる、ことばに「朝」を取り戻すということである。それまで和合は書きつづけると宣言しているのである。





黄金少年 ゴールデン・ボーイ
和合 亮一
思潮社
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殿岡秀秋『父のこたえ』

2011-05-17 11:27:15 | 詩集
殿岡秀秋『父のこたえ』(あざみ書房、2011年03月03日発行)

 殿岡秀秋『父のこたえ』は、散文的な、「意味」の強い作品か多い。そのなかにあって、巻頭の「霧の顔」は不思議である。

酔いすぎたあとの朝の目覚めは
透明な悲しさ
霧の水面に
さざなみがたち
底がゆれる
どこまでも沈めるようでいて
波間にただようしかない

ぼくの影はぼくの形から
女の長い髪が広がるように
はみ出している

湖の底に引き込まれそうな感じが腹のあたりにきて
波紋の先が喉にあたり
剃刀のようにあたって
剃られてくると
からだの芯が冷たくなる
このまま時間という湖に
浮いているのか

 2連目の3行に驚いてしまった。殿岡の書いているイメージはイメージとしてそのまま思い描くことができるのだが、そのイメージと私のことばが重ならないのである。
 湖に浮かんでいる「ぼく」。影ができる。それは湖底にできる。それをこの描写の「主役」は上空から見ている。ぼくは、ぼくの姿を上空から見る--という具合に想像している。「話者(主役)」は「ぼく」をみつめる「ぼく」という虚構である。
 で、上空(中空)から見てみると、影が「ぼくの形から/女の長い髪が広がるように/はみ出している」。オフィーリアか誰かが水に浮かんでいる(流されている)感じを思い浮かべればいいのだろう。長い髪が水に浮かんで、上半身を囲むように、ふわりと広がる。
 驚いたことはふたつある。ひとつは「ぼく」を「女」のなかでとらえている点である。「ぼく」は男なのだから、女の長い髪をもっていない。そういうもっていないものを「比喩」としてつかうときの意識の飛躍にびっくりした。比喩が殿岡の「肉体」を離れてしまっているのである。
 二つ目は、いま書いたことと微妙に関係しているのだが、殿岡の比喩は「肉体」と離れたところで動いている。「ぼくの形」。「ぼくの肉体(からだ)」ではなく「形」。水に浮かんだ「ぼく」を、中空からみつめる「ぼく」は「肉体」ではなく「形」と見ている。抽象的なイメージそのものとしてみている。
 うーん。
 そのくせ--そのくせ、というのは、まあ、間違った言い方なのかもしれないけれど、3連目に「形」ではなく「肉体」が出てくる。「ぼく」は中空から「ぼく」をみつめるのではなく、水と直接触れ合っている。この「触覚」が、かなり鋭敏で、とてもおもしろい。1行目の「腹のあたり」から触覚が上に動いてくる。「波紋の先が喉にあたり/剃刀のようにあたって/剃られてくると」というのは、なにか、ぞくっと感じる恐怖がある。
死の影が色濃く漂っている。
 「視覚」は「ぼく」を「ぼく以外の存在」に突き放し、つまり「女」や「形」に突き放し、「触覚」は「ぼく」を死へ引きずり込む。このへだたりが、とても不思議である。
 触覚の世界はさらに動く。

波紋の先が喉にあたり
剃刀のようにあたって
剃られてくると
からだの芯が冷たくなる

 この「芯が冷たくなる」の「芯」とは「肉体」でいうと、どのあたりになるのか。背骨かな? まあ、この4行だけをみれば(読めば)、背骨でもいいような気がするのだが、その前の1行「湖の底に引き込まれそうな感じが腹のあたりにきて」の「腹」を意識すると、背骨じゃないなあ、という感じになる。
 腹からのぼってきて喉になったのだから、さらにのぼって首筋の裏(このあたりが冷たくなる、という感じ、ない?)か、脳の中心か、あるいは逆に喉から腹へ逆戻りし、さらに腹を通り超えて腰、あるいは性器のあたりか。
 で、性器のあたり、つまり肉欲(死とは対極にあるのか、あるいは死を突き抜けて死そのものといっしょにあるのか--判断がむずかしいねえ)の中心だとすると、そのとき「ぼく」は男? それとも女? 男の肉体? 女の形?
 何か矛盾したもの、あるいは両性具有のような感じが入り乱れる。

 詩集には、父と母が何回も登場するが、(おじさんとか、親類の女の人も登場するが)、その両親(および親族)との関係が、ちょっと私にはつかみにくい。親族だから血はつながっているのだが、血というものは「肉体」の内部を動いていて、実際は「血の繋がり」というのは「頭」で整理した人間関係であって、実際に触れあうのは「肌」(肉体の表面)が中心だ。その「肌」というか「皮膚感覚」が、どうも「ぞくっ」とする。「べたっ」としていて、それが、あ、ちょっと離れて、といいたくなるような感じなのである。
 湖の波紋と喉の関係なら、冷たくて象徴的で、死の比喩ともうまくなじんでくれるのだが、他の作品では皮膚感覚が比喩にならない。抽象的にならない。それはそれでいいのだろうけれど、先に書いたように、そこに男と女が融合すると、何か変な気持ちになる。
 マザコン? ファザコン?
 よくわからないが、親族との「肉体関係」がふっきれていない気持ち悪さをどこかに感じてしまうのである。 肉親とは肉体関係である--ということをとことん書いて行けば、それはとてもおもしろいものになるのだと思うけれど。





記憶の樹―殿岡秀秋詩集
殿岡 秀秋
ふらんす堂



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