和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(14)(「現代詩手帖」2011年05月号)
「サッキノウソ」というのは、「本日で被災六日目になります」(38ページ)「シンサイ6ニチメ。ウマイコーヒーガ、ノミタイ」(39ページ)が間違いだったということだろう。0時という区切りの時間に出会い、和合が自分の「意識」を再点検して、数え方が間違っていたということに気がついたのである。
和合の「詩の礫」はツイッターに書き込まれたものである。ツイッターの書き込みが「修正(訂正)」が可能なものであるかどうか私は知らないが、書き間違えたところまで戻って書き直すのではなく、間違いは間違いのまま残しておいて、修正しながら書きつないでゆく、ということばの運動を和合が選んでいることになる。
ここに和合の、この詩の特徴があらわれている。
気がつけば直す。何か、ある結論をめざしてことばを「論理的」に積み重ねて行くのではなく、そのときそのときの「真実」を書くことで、前に進み、同時に過去を修正する。前に進むこと(書きつづけること)は、それまでに書いたこと(過去)を常に修正することなのである。別なことばで言えば、過去を「耕す」ことである。
大震災について書きつづけること、6日目、7日目……と書きつづけることは、同時に大震災の発生日、その瞬間に戻ることでもあるのだ。何が起きたのか。それを見つめなおしつづけることなのだ。
これは、「詩の礫」を書きはじめ、これから5日間かけて作品を完成させ、自分の経験したことについて「決着」をつけたい、という意味ではない。
「コレカラ」はむしろ「コレマデノ」である。これまでの5日間、大震災以後、何も書かなかった5日間へ向けて、ことばを動かしていく。実際には、7日目、8日目とツイッターで書き進むのだが、それは過去の、「ことば」が生まれてこなかった5日間の、生まれるはずだったことばを探し求めることなのだ。
と、和合は書いていたが、「事後」から「事(こと)」の生まれる瞬間へ向かってしかことばは動かせないのである。そして、「事後」から「事」へ向けて書くこと、それは「意味」をつくることなのだ。「意味」は「生じてくる」のではなく、ことばで「生み出す」ものなのだ。「生み出す」のもであるからこそ、「ワタシハ、ケッチャクヲツケタイ。」と言えるのだ。「ワタシ」が、深く関与することができるのだ。
生きることは、いま、そこにあらわれてきた「過去」と向き合うことである。「未来」へ進むことは、常に「過去」と向き合い、「過去」を修正することである。「サッキノウソ。コンドハ6ニチメ」と「ことば」を修正したように、いま、和合は「台所」にあらわれた「過去(大震災・事象)」と向き合い、それを「修正(修復)」している。そして、「情けなくなった」。この「情けなくなった」は何だろう。自分にできることの少なさ、非力さの実感だろうか。自分の肉体を動かしながら「事象」をどれだけ「修復」できるか。「過去」を整えながら、「未来」へ進んでいくことができるか。
自分の肉体がある「台所」を思う。それから、その外に広がって行く「世界」を思う。どこまで、肉体が関与できるか。そう思うとき、たしかに「非力」を実感するしかないのだと思う。
しかし、和合は、肉体を動かすと同時に、ことばを動かす。
夜は必ず朝になる--という天体の運動のことを和合は書いているだけではないのだ。天体の運動がそうであるように、必ず、この「非力」から立ち直り、ことばを修復できる--和合は、そのことを祈っているのだ。
「ワタシハ、ケッチャクヲツケタイ」は、ことばを再生させる、ことばに「朝」を取り戻すということである。それまで和合は書きつづけると宣言しているのである。
0時。ヒサイ6ニチメ。サッキノウソ。コンドハ6ニチメ。コレカラ、イツカカン。ワタシハ、ケッチャクヲツケタイ。
(40ページ)
「サッキノウソ」というのは、「本日で被災六日目になります」(38ページ)「シンサイ6ニチメ。ウマイコーヒーガ、ノミタイ」(39ページ)が間違いだったということだろう。0時という区切りの時間に出会い、和合が自分の「意識」を再点検して、数え方が間違っていたということに気がついたのである。
和合の「詩の礫」はツイッターに書き込まれたものである。ツイッターの書き込みが「修正(訂正)」が可能なものであるかどうか私は知らないが、書き間違えたところまで戻って書き直すのではなく、間違いは間違いのまま残しておいて、修正しながら書きつないでゆく、ということばの運動を和合が選んでいることになる。
ここに和合の、この詩の特徴があらわれている。
気がつけば直す。何か、ある結論をめざしてことばを「論理的」に積み重ねて行くのではなく、そのときそのときの「真実」を書くことで、前に進み、同時に過去を修正する。前に進むこと(書きつづけること)は、それまでに書いたこと(過去)を常に修正することなのである。別なことばで言えば、過去を「耕す」ことである。
大震災について書きつづけること、6日目、7日目……と書きつづけることは、同時に大震災の発生日、その瞬間に戻ることでもあるのだ。何が起きたのか。それを見つめなおしつづけることなのだ。
コレカラ、イツカカン。ワタシハ、ケッチャクヲツケタイ。
これは、「詩の礫」を書きはじめ、これから5日間かけて作品を完成させ、自分の経験したことについて「決着」をつけたい、という意味ではない。
「コレカラ」はむしろ「コレマデノ」である。これまでの5日間、大震災以後、何も書かなかった5日間へ向けて、ことばを動かしていく。実際には、7日目、8日目とツイッターで書き進むのだが、それは過去の、「ことば」が生まれてこなかった5日間の、生まれるはずだったことばを探し求めることなのだ。
ものみな全ての事象における意味などは、それらの事後に生ずるものなのでしょう。ならば「事後」そのものの意味とは、何なのか。そこに意味はあるのか。
(38ページ)
と、和合は書いていたが、「事後」から「事(こと)」の生まれる瞬間へ向かってしかことばは動かせないのである。そして、「事後」から「事」へ向けて書くこと、それは「意味」をつくることなのだ。「意味」は「生じてくる」のではなく、ことばで「生み出す」ものなのだ。「生み出す」のもであるからこそ、「ワタシハ、ケッチャクヲツケタイ。」と言えるのだ。「ワタシ」が、深く関与することができるのだ。
台所。メチャクチャになった皿を片付けていた。一つずつそれを箱に入れながら、情けなくなった。自分も、台所も、世界も。
(40ページ)
生きることは、いま、そこにあらわれてきた「過去」と向き合うことである。「未来」へ進むことは、常に「過去」と向き合い、「過去」を修正することである。「サッキノウソ。コンドハ6ニチメ」と「ことば」を修正したように、いま、和合は「台所」にあらわれた「過去(大震災・事象)」と向き合い、それを「修正(修復)」している。そして、「情けなくなった」。この「情けなくなった」は何だろう。自分にできることの少なさ、非力さの実感だろうか。自分の肉体を動かしながら「事象」をどれだけ「修復」できるか。「過去」を整えながら、「未来」へ進んでいくことができるか。
自分の肉体がある「台所」を思う。それから、その外に広がって行く「世界」を思う。どこまで、肉体が関与できるか。そう思うとき、たしかに「非力」を実感するしかないのだと思う。
しかし、和合は、肉体を動かすと同時に、ことばを動かす。
明けない夜は無い。
(40ページ)
夜は必ず朝になる--という天体の運動のことを和合は書いているだけではないのだ。天体の運動がそうであるように、必ず、この「非力」から立ち直り、ことばを修復できる--和合は、そのことを祈っているのだ。
「ワタシハ、ケッチャクヲツケタイ」は、ことばを再生させる、ことばに「朝」を取り戻すということである。それまで和合は書きつづけると宣言しているのである。
黄金少年 ゴールデン・ボーイ | |
和合 亮一 | |
思潮社 |