東野正『書損調』(セスナ舎、2011年01月11日発行)
「書反」という作品が巻頭にある。「書反」って、何?
と、読み進んで、あ「初犯」か、と気がつく。「書き間違い」(何かに「反した」書き方)は、「初犯」のように、つい、うっかり、してしまう「できごころ」によるものである。
「初犯」は「初犯」のままとどまるか、それと「累犯」となり、そのひとを狂わせるか。同じように、書き損じ(書反)は、そこにとどまるか、それとも意識をずーっと支配しつづける。
この作品は、私はタイトルは「意味」がありすぎて嫌いだが、ことばの動き自体は気に入っている。「書き損じ」にしろ、「誤記」(言誤)にしろ、それは何かの「間違い」を持続するときにおもしろくなる。どこまで「間違い」を持続できるか。そして、持続するとき、ことばはどんなふうにねじれていくか--それがおもしろい。その「ねじれ」のなかに「ことばの肉体」があらわれ、その「ことばのねじれ」は身体そのものとしての「肉体のねじれ」にもつながっていくと思うからである。
このときの「ねじれ」は、この詩のことばのように、少しずつねじれていくものだと思う。ねじれとわからないようにねじれていくものだと思う。
タイトルの「書反」は、ねじれが明確過ぎておもしろくない。
ねじれが明確過ぎるとなぜおもしろくないか。見えにくいねじれのなかにこそ「思想」があるのに、ねじれを「書反」のように明確に見えるものにしてしまうと、それはねじれではなくなるからである。本来のものと明らかに違うということを積み重ねると、それは単なる「方法」になってしまう。
「初犯」のあと、なんとか「初犯」以前にもどりたいという気持ちがあってこそ、初犯の尾っぽというか、ねじれがそのひとの「人生」そのものになる。よく見えない不思議な陰りとなって、肉体に陰影を与える。隠しているべき「初犯」を「書反」のように明確にしてしまっては、その後は「犯罪」の積み重ねになり、「犯罪」をおかすことが目的になってしまう。目的になってしまえば、そこには「思想」はない。
この詩は、これまで読んできた『言誤調』や『難破調』のように、無理矢理の「誤記」がない。「視覚」たよって動いているは、ほとんどタイトルだけである。
この部分には、ことばの美しい自然な「間違い」がある。「うっかり」と「迂回」、「卑しい」と「癒し」、「貧しさ」と「拙さ」……。こういう「音」の動きは自然であり、ことばのどこがねじれているのかもわからない。この「わからないねじれ」こそ、おもしろいのに……。
最後の1行が、この作品を台無しにしていると思う。タイトルと同様、とてもつまらないものにしてしまっていると思う。「視覚」で「わかる」ことは、「視覚」がリードして動いてく予定調和の世界である。
「侵犯し」は、もしかすると「審判し」かもしれない、と思い、私は興奮したのだが、そういう「読者(私のことだけれど)」の「自由」を「書反」という形で先回りして整えられたのでは、なんだ、東野は最初から「答え」を知っていて書いているだけじゃないか、と思ってしまうのだ。
またまた城戸朱理が毎日新聞夕刊で書いていたことばを引用してしまうが、
というのは、あくまで「問う」でなければならない。「問い」でなければならない。東野が「答え」を出してしまっては、「問う」ことにはならない。「問い」にはならない。
これでは、私はこんなに「誤記」(書き損じる)ことができる、という「宣伝」である。
「誤記」にしろ、書き損じにしろ、「誤記すまい」「書き損じすまい」と思っているのに、なぜか「誤記」してしまう、「書き損じてしまう」から「誤記」であり「書き損じ」なのである。そして、したくないにしてしまうところに、そのひとの「肉体」と「思想」がある。
「わざと」書いてしまう(視覚でリードしてしまう)のは、単なる方法であり、「頭」の「操作」である。
あ、また批判的なことばかり書いてしまったなあ。
少し(?)、感動した部分についても書いておこう。
「連装遊偽」という、これまたひどい(むごい)タイトルの作品だが、これはとてもいい。特に、次の部分。
「視覚」にたよらずにことばを動かせば、こんなに自然におかしくて味わい深いこととばになるのに。
なぜ、東野は「視覚」でことばを動かすのだろう。
この詩にも、たとえば「数行」の空白という「視覚」があるのだけれど、その「視覚」をきちんとことばで補っている。「視覚」に便乗して(?)、むりやりことばに「答え」を言わせていない。
「書反」という作品が巻頭にある。「書反」って、何?
つい
うっかり
書きつけて
しまった一行
と、読み進んで、あ「初犯」か、と気がつく。「書き間違い」(何かに「反した」書き方)は、「初犯」のように、つい、うっかり、してしまう「できごころ」によるものである。
「初犯」は「初犯」のままとどまるか、それと「累犯」となり、そのひとを狂わせるか。同じように、書き損じ(書反)は、そこにとどまるか、それとも意識をずーっと支配しつづける。
その
一行のわずかに泡立ちが
あらぬ方向に広がり
思ってみなかった一行が
さらに
書き加えられる
この作品は、私はタイトルは「意味」がありすぎて嫌いだが、ことばの動き自体は気に入っている。「書き損じ」にしろ、「誤記」(言誤)にしろ、それは何かの「間違い」を持続するときにおもしろくなる。どこまで「間違い」を持続できるか。そして、持続するとき、ことばはどんなふうにねじれていくか--それがおもしろい。その「ねじれ」のなかに「ことばの肉体」があらわれ、その「ことばのねじれ」は身体そのものとしての「肉体のねじれ」にもつながっていくと思うからである。
このときの「ねじれ」は、この詩のことばのように、少しずつねじれていくものだと思う。ねじれとわからないようにねじれていくものだと思う。
タイトルの「書反」は、ねじれが明確過ぎておもしろくない。
ねじれが明確過ぎるとなぜおもしろくないか。見えにくいねじれのなかにこそ「思想」があるのに、ねじれを「書反」のように明確に見えるものにしてしまうと、それはねじれではなくなるからである。本来のものと明らかに違うということを積み重ねると、それは単なる「方法」になってしまう。
「初犯」のあと、なんとか「初犯」以前にもどりたいという気持ちがあってこそ、初犯の尾っぽというか、ねじれがそのひとの「人生」そのものになる。よく見えない不思議な陰りとなって、肉体に陰影を与える。隠しているべき「初犯」を「書反」のように明確にしてしまっては、その後は「犯罪」の積み重ねになり、「犯罪」をおかすことが目的になってしまう。目的になってしまえば、そこには「思想」はない。
この詩は、これまで読んできた『言誤調』や『難破調』のように、無理矢理の「誤記」がない。「視覚」たよって動いているは、ほとんどタイトルだけである。
それらは
あれらで
区別もなく
ぼんやりとした正確さが
曖昧に遠ざけられ
うっかり迂回してしまい
卑しい癒し
貧しい拙さ
臆面も
奥行きもなく
自嘲だらけで
誰になだめられることもなく
誰にたしなめられることもなく
慎みもなく
泣く泣く真意をかすめていく
この部分には、ことばの美しい自然な「間違い」がある。「うっかり」と「迂回」、「卑しい」と「癒し」、「貧しさ」と「拙さ」……。こういう「音」の動きは自然であり、ことばのどこがねじれているのかもわからない。この「わからないねじれ」こそ、おもしろいのに……。
これからもかりかり誤記する
いつまでも速記で
失念し失禁しながら
侵犯し
書反します
最後の1行が、この作品を台無しにしていると思う。タイトルと同様、とてもつまらないものにしてしまっていると思う。「視覚」で「わかる」ことは、「視覚」がリードして動いてく予定調和の世界である。
「侵犯し」は、もしかすると「審判し」かもしれない、と思い、私は興奮したのだが、そういう「読者(私のことだけれど)」の「自由」を「書反」という形で先回りして整えられたのでは、なんだ、東野は最初から「答え」を知っていて書いているだけじゃないか、と思ってしまうのだ。
またまた城戸朱理が毎日新聞夕刊で書いていたことばを引用してしまうが、
言葉の意味を解体し、再び構築し、世界と生の意味を問う
というのは、あくまで「問う」でなければならない。「問い」でなければならない。東野が「答え」を出してしまっては、「問う」ことにはならない。「問い」にはならない。
たまたま
死を死いられた
詩から遠く離れたところで
幻発事故が
減発事故が
言発事故が
暴騒し謀躁し忘葬し
呆煮脳汚染に
たまたま止を刺いられただけのこと
姦満な死を示威られるだけのこと
民な死ぬ
それ唾から諦め要と
またまた
判断低死するのか
市内のか
それ!奈良 胴擦るのか
多々買うのか
飼わないのか
苦すのか
逃げるのか
居間
底が気味の限場である
都地区るって
文違えないようにして
踏み吐怒まる死か泣い
(「たまたまの毒者に」)
これでは、私はこんなに「誤記」(書き損じる)ことができる、という「宣伝」である。
「誤記」にしろ、書き損じにしろ、「誤記すまい」「書き損じすまい」と思っているのに、なぜか「誤記」してしまう、「書き損じてしまう」から「誤記」であり「書き損じ」なのである。そして、したくないにしてしまうところに、そのひとの「肉体」と「思想」がある。
「わざと」書いてしまう(視覚でリードしてしまう)のは、単なる方法であり、「頭」の「操作」である。
あ、また批判的なことばかり書いてしまったなあ。
少し(?)、感動した部分についても書いておこう。
「連装遊偽」という、これまたひどい(むごい)タイトルの作品だが、これはとてもいい。特に、次の部分。
あれ ここまで
誰も読んでくれなかったのか
それならば
誰に憚ることもなくやります
尻をむき出しにして日光浴します
のんびり放屁します
それから
失礼しました
私用で数行間とばして不在にしておりました
不在というか
意識がなかったというか
仮死状態でした
いい気持ちでした
すうっと幽体離脱していました
魂の故郷に帰省していました
寄生していた意識を抜き
無人格で
無意識で
しばらく私のことを思い出せなかったのです
「視覚」にたよらずにことばを動かせば、こんなに自然におかしくて味わい深いこととばになるのに。
なぜ、東野は「視覚」でことばを動かすのだろう。
この詩にも、たとえば「数行」の空白という「視覚」があるのだけれど、その「視覚」をきちんとことばで補っている。「視覚」に便乗して(?)、むりやりことばに「答え」を言わせていない。