和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(6)(「現代詩手帖」2011年05月号)
いままでのことばが大震災で無効になった、無意味になった。それを沈黙のなかで確認する--このことを、和合は、「頭」で感じているのではなく、「肉体」ではっきりとつかんでいる。「肉体」そのもを、ことばの無効性、無意味性、沈黙--静けさと向き合わせている。
ここに和合の「静かさ」の「肉体」がある。息を殺すは、声を出さないというのに等しい。ことばを発しない。ことばを自分の「肉体」の内部にため込むのである。
ことばは、ある。
ことばは、いま、和合の「肉体」のなかに宿り、生まれようとしている。その生まれようとしているものを、大事に育てている。それが産声を上げるまで、じっと耐えている。その「静けさ」。
和合は「静けさ」で「沈黙」と戦っている。沈黙を強いる何かと戦っている。いままでのことばを無効にした力と戦っている。その準備としての「静けさ」。
それは、次の、
に力を込めて書き込まれている。「中腰になって」というのは、いつでも動ける準備をしてということである。それは「肉体」の命を守るための準備なのだが、それはそのまま、ことばの準備、意味の準備であり、また意志の準備である。
意志というのは……。
この「睨む」という「肉体」の動きの中にある。「睨む」とき、意志が強く動いている。そして、「睨む」とき、ひとはことばを発しない。息を止めて(息を殺して)、ひとは「肉体」そのものになる。
このとき、和合の選びとった「静か」を中心にして動いている力そのすべては、
そのものである。
和合は、そのかけひきを、
と書いている。
和合を「ひとり」にしてはならない。和合のことばをなんとか受け止めなければならない。
しかし、私にできることは、和合のことばを、こうやって採録しながら、ただ寄り添うことだけである。
いままでのことばが大震災で無効になった、無意味になった。それを沈黙のなかで確認する--このことを、和合は、「頭」で感じているのではなく、「肉体」ではっきりとつかんでいる。「肉体」そのもを、ことばの無効性、無意味性、沈黙--静けさと向き合わせている。
今、これを書いている時に、また地鳴りがしました。揺れました。息を殺して、中腰になって、揺れを睨みつけてやりました。命のかけひきをしています。放射能の雨の中で、たった一人です。
息を殺して
ここに和合の「静かさ」の「肉体」がある。息を殺すは、声を出さないというのに等しい。ことばを発しない。ことばを自分の「肉体」の内部にため込むのである。
ことばは、ある。
ことばは、いま、和合の「肉体」のなかに宿り、生まれようとしている。その生まれようとしているものを、大事に育てている。それが産声を上げるまで、じっと耐えている。その「静けさ」。
和合は「静けさ」で「沈黙」と戦っている。沈黙を強いる何かと戦っている。いままでのことばを無効にした力と戦っている。その準備としての「静けさ」。
それは、次の、
中腰になって、
に力を込めて書き込まれている。「中腰になって」というのは、いつでも動ける準備をしてということである。それは「肉体」の命を守るための準備なのだが、それはそのまま、ことばの準備、意味の準備であり、また意志の準備である。
意志というのは……。
揺れを睨みつけてやりました。
この「睨む」という「肉体」の動きの中にある。「睨む」とき、意志が強く動いている。そして、「睨む」とき、ひとはことばを発しない。息を止めて(息を殺して)、ひとは「肉体」そのものになる。
このとき、和合の選びとった「静か」を中心にして動いている力そのすべては、
命のかけひき
そのものである。
和合は、そのかけひきを、
放射能の雨の中で、たった一人です。
と書いている。
和合を「ひとり」にしてはならない。和合のことばをなんとか受け止めなければならない。
しかし、私にできることは、和合のことばを、こうやって採録しながら、ただ寄り添うことだけである。
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