詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(6)

2011-05-09 23:59:59 | 詩の礫
和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(6)(「現代詩手帖」2011年05月号)

 いままでのことばが大震災で無効になった、無意味になった。それを沈黙のなかで確認する--このことを、和合は、「頭」で感じているのではなく、「肉体」ではっきりとつかんでいる。「肉体」そのもを、ことばの無効性、無意味性、沈黙--静けさと向き合わせている。

今、これを書いている時に、また地鳴りがしました。揺れました。息を殺して、中腰になって、揺れを睨みつけてやりました。命のかけひきをしています。放射能の雨の中で、たった一人です。


息を殺して

 ここに和合の「静かさ」の「肉体」がある。息を殺すは、声を出さないというのに等しい。ことばを発しない。ことばを自分の「肉体」の内部にため込むのである。
 ことばは、ある。
 ことばは、いま、和合の「肉体」のなかに宿り、生まれようとしている。その生まれようとしているものを、大事に育てている。それが産声を上げるまで、じっと耐えている。その「静けさ」。
 和合は「静けさ」で「沈黙」と戦っている。沈黙を強いる何かと戦っている。いままでのことばを無効にした力と戦っている。その準備としての「静けさ」。
 それは、次の、

中腰になって、

 に力を込めて書き込まれている。「中腰になって」というのは、いつでも動ける準備をしてということである。それは「肉体」の命を守るための準備なのだが、それはそのまま、ことばの準備、意味の準備であり、また意志の準備である。
 意志というのは……。

揺れを睨みつけてやりました。

 この「睨む」という「肉体」の動きの中にある。「睨む」とき、意志が強く動いている。そして、「睨む」とき、ひとはことばを発しない。息を止めて(息を殺して)、ひとは「肉体」そのものになる。
 このとき、和合の選びとった「静か」を中心にして動いている力そのすべては、

命のかけひき

 そのものである。
 和合は、そのかけひきを、

放射能の雨の中で、たった一人です。

 と書いている。
 和合を「ひとり」にしてはならない。和合のことばをなんとか受け止めなければならない。
 しかし、私にできることは、和合のことばを、こうやって採録しながら、ただ寄り添うことだけである。



にほんごの話
谷川俊太郎,和合亮一
青土社
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誰も書かなかった西脇順三郎(215 )

2011-05-09 15:08:39 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『禮記』のつづき。「生物の夏」のつづき。

 好きな「音」をむりやり探せばないことはないが、やはりこの詩は変だと思う。「音」を題材にして書かれた数行。

日月の廻転と天体の音楽を知つている
ベトーヴェンの音楽などは
鉄砲の音とあまり違わない
ウァレリの詩なども女中さんが
花瓶を割つた音とあまり変りがない

 比喩が直接的すぎて、飛躍がない。「音」が広がっていたない。「音」が何かを破壊しない。逆に、何かを繋ぎ止めてしまう。

物質の存在も宇宙の存在も
人間には神秘の極限であるが
犬の脳髄にとつてはなんでもない
つまらない一つの匂いかもしれない

 ここにも飛躍がない。イメージの自由な飛翔がない。「意味」が強すぎる。

動物にとつては人間は諧謔の源泉だろう
主体と客体の区別は人間の妄想だ
犬にとつては犬がいちじくを食おうが
いちじくが犬を食おうが
どちらでも同じことだろう
最大なシュルレアリストだ

 ここにも「意味」しかない。--あ、それではその「意味」とは、と言われると、「意味」を書くことができないのだけれど(説明できないのだけれど)、「意味」が固まっているという感じがするのだ。ことばが響きあわない。解放されない。「いちじく」「いぬ」という音の組み合わせがいけないんじゃないか、とおもってしまうのである。


Ambarvalia/旅人かへらず (講談社文芸文庫)
西脇 順三郎
講談社
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