詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(23)

2011-05-26 23:59:59 | 詩の礫
和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(23)(「現代詩手帖」2011年05月号)

 03月23日の「詩の礫」。余震が続いている。

たくさんの馬の背に 青空 たくさんの馬の背に
                                 (57ページ)

 和合は、余震(地震)と馬のイメージを持ちつづけている。大地の底の馬。その疾走。それが大地だけに終わらず、「青空」と対比されている。

余震。何億もの馬。空に駆けあがろうとしているのだろうか。息を殺して、現在を黙らせるしかない。
                                 (57ページ)

 この、地底の馬と青空の結びつきのあとに、突然「息を殺して、現在を黙らせるしかない」が突然やってくる。
 「しー。余震だ」(40ページ)ということばをふいに思い出す。
 息を殺して、余震を受け止める。そのとき、和合は何かを聞こうとしていた。聞こえない「声」を聞こうとしていた。私は、そんなふうにして和合のことばを読んできた。
 また、和合が地震に対して「けっ、俺あ、どこまでもてめえをめちゃくちゃにしてやるぞ」と書いてきたこともはっきり覚えている。
 ふたつのことばを連続させて考えるなら、余震から何かを聞き取り(それは余震そのものではなく、和合の生きている様々な現実を含むだろうけれど)、余震を超えることばを書く、ことばによって大震災を乗り越えるという決意ということになるだろう。
 それはいまもかわらない。
 
余震。茶碗を洗っている。息を殺して、現在を洗いつくすしかない。

余震。原稿用紙に文字を埋める。また余震。埋め尽くすしかないのだ、震える現在を。
                                 (57ページ)

 「現在」を書くことが「余震」を乗り越えることなのだ。
 でも、「息を殺して」は何だろう。息をひそめる、息を止める--それは、「しーっ」につながるけれど(私のなかでは、つながるけれど)、よくわからない。
 わからないまま、読み進むと、次のことばに出会う。

余震。揺れている。私が揺れているのかもしれない。揺れている私が揺れている。揺れている私が揺れている私を揺すぶっている。揺れている私が揺れている私を揺すぶっている私を揺すぶっている。揺れている私が揺れている私を揺すぶっている私を揺すぶっている私を揺すぶる。
                                 (57ページ)

 大地ではなく、「私が揺れているのかもしれない」。
 大地が揺れているのではなく、「私が揺れている」というのは間違いである。間違いであるけれど、ことばは、そう考えることができる。人間は、そう考えることができる。混乱・動揺。「かもしれない」がそれを増幅する。疑惑。
 これは、人間の精神の運動である。そして、これもまた「現在」のひとつのあり方である。人間のあり方であり、ことばのあり方である。
 和合はそういうことを意識しているのかどうかわからないが、私の「現在」をそんなふうに描いている。
 その、「動揺する私」という「現在」を、和合は「息を殺して」黙らせようとしているのか。--これは、何だか、ややこしい。「動揺する私」という「現在」はことばにするとき、「黙る」とは逆の運動になる。
 和合はきっと、和合自身にもわからないことばの領域を動いているのだ。
 ここには、ことばになりきれない何かがある。
 「私が揺れているのかもしれない」以後のことばは、「精神(こころ)」のことであると読むのは簡単だが、精神だけではないかもしれない。「肉体」も含んでいるかもしれない。実際に、和合は彼自身の肉体を揺さぶりながら、何かをつかもうとしている。
 その揺さぶりの中には、ここには引用しなかったが、余震のたびにパソコンをもって二階から一階へ降りるというような運動もある。和合の「揺れる」には、左右上下の「揺れ」だけではなく、もっと大きな「移動」が含まれている。「段震災」の「揺れ」のあとでは、「揺れない起点」の設定(仮説)のありようが違ってくる。--これは、しかし、やはり「説明」が難しい。ややこしい。私は、そんなふうに感じている、というしかないことがらである。

 和合は、和合自身にもわからないことばの領域を動いている。(誰にもわからない領域かもしれない--つまり、ほんとうの「詩」の生まれてくる領域かもしれない。そうに違いない、と私は信じている。)

 途中、買い出しに行き、トマトを買う。そして、「熟れたトマトを持ってみて、分かった。野菜が涙を流していること。」(58ページ)というような美しいことばをはさみながら(そういう「現在」をことばで埋めつくしながら)、和合のことばはまた別の次元へと達する。

余震。揺れていない。私が揺れていないのかもしれない。揺れていない私が揺れていない。揺れていない私が揺れていない私を揺すぶっていない。揺れていない私が揺れていない私を揺すぶっていない私を揺すぶっていない。揺れていない私が揺れていない私を揺すぶっていない私を揺すぶっていない私を。
                                 (59ページ)

 57ページに書かれていたことばとはまったく逆になっている。書くことで、和合は和合が揺れていないことを確認したのだ。(そういう意味で、省略された「引用部分」というか、引用してこなかった部分の方が重要なのかもしれないが……。)書く、ことばを動かす--そのとき、和合はたしかにそこに存在する。そして、そのことばがたとえば「涙を流すトマト」と結びつき、あるいは防護服なしで献身的に働く南相馬市の職員と結びつき、無念の思いで牛乳を棄てる酪農家と結びつくとき--和合のことばはさらに揺らぎないものになる。「大震災」に対する怒りはさらに明確になる。--つまり、揺らがないことになる。 
 この強い確信。
 けれど、その確信の一方で、和合は不思議なことも感じるのだ。

詩よ。お前をつむごうとはすると余震の気配がする。お前は地を揺すぶる悪魔と、もしかすると約束を交わしているのか。激しく憤り、口から涎を垂れ流し、すこぶる恐ろしい形相で睨んでいるのだな、原稿用紙の上に首を出し、舌なめずりする悪魔め。
                                 (59ページ)

 和合が書いていることばが「余震」を呼んでいる。誘っている、と感じてしまう。ことばは、書くと現実になる--そのことばの力が、和合のことばにもあるかもしれない。そういうことを感じている。もし、そうなら和合のしていることは、してはいけないことである。それこそ「しーっ」「息を殺して」ただ黙っているしかない。
 書くことは、禍をまねく。ことばは、ことばが語る禍をひきよせる。
 和合のしていることは、「矛盾」そのものになる。「余震」に打ち勝とうとして、「余震」を呼び込むことになる。
 この「矛盾」を和合は、どう超えるか。

詩よ。筆で書き殴る度に余震の気配が濃くなる。決着をつけなくてはなるまい。これから先、俺の筆を少しでも邪魔しないようにな。いくら地を動かそうとも、俺の握力は詩を掴んで離さぬぞ。少し顔を出したら、のど元をかみ切ってやるぞ、悪魔め。
                                 (59ページ)

 禍を呼び込む悪魔としてのことば。それと戦いながら、それを上回ることばを書いていく。そう和合は誓うのだ。もう、和合は「揺らがない」。悪魔には魂を売ることはしない。負けはしない。

詩を書く詩を書く詩を書く詩を書く詩を書く詩を書く詩を書く
詩を書く詩を書く詩を書く詩を書く詩を書く詩を書く詩を書く
詩を書く詩を書く詩を書く詩を書く詩を書く詩を書く詩を書く
詩を書く詩を書く詩を書く詩を書く詩を書く詩を書く詩を書く
詩を書く詩を書く詩を書く詩を書く詩を書く詩を書く詩を書く
                                 (60ページ)

 「詩を書く」その決意を書きつづけると、実際に詩がやってくる。「揺れる/揺れない」ということばの間を動き回っていたことが遠い昔のように感じられる。そういう美しいことばが、和合の一日の終わりにやってくる。

わたしは 何を待っているか四月の波打ち際で波の到来を想う
風の音をずっと聞いていると

わたしの情熱があんなふうに 湧きあがる 春の雲が立ちあがっているのが分かる水平線の上あたり風の音を味わう

風の音 少し弱めに風の音 少し強めに今日はあなたに わたしの心を伝えたいと想う風の音 かすかに

風の音 やさしく風の音 変わって風の音 もっと強くあなたをいつも想っていますよ

あなた 大切なあなた
                                 (60ページ)



地球頭脳詩篇
和合 亮一
思潮社



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廿楽順治『化車』(4)

2011-05-26 10:33:44 | 詩集
廿楽順治『化車』(4)(思潮社、2011年04月25日発行)

 廿楽の詩は「いかがわしい」「うさんくさい」。そして、それを「いかがわしい」「うさんくさい」というのは、廿楽のことばを理解するとき、いつもとは違う「肉体」をつかって理解するからである。いつもとは違う「肉体」へ廿楽のことばは響いてくる。
 「草濠」の【工事中】の書き出し。(この詩も行末が尻揃えになっているが、行頭を揃えた形で引用する。)

ぜんしんがもうにほんごのいうことをきかない
おれのしたことのどこがわるい
せむし
であることをかくさない
ご近所に
とりかこまれてなぐるけるのくらしぶり
そうかわからなけりゃ
からだでおぼえさせてやる
お年寄りだから
酔ってなぐるほうもかなしい

 「そうかわからなけりゃ/からだでおぼえさせてやる」とは乱暴な論理だが、たしかに「からだ」が覚えるものがあるのだ。それは「理解」や「納得」ではない。理解も納得もしない。けれど「からだ」が反応してしまう。「頭」は「からだ」の反応は間違っていると主張する。けれど「からだ」は動かない。私たちは「頭」とは違うもので動いてしまうのである。そういう部分へ廿楽のことばはするりと入り込む。「いかがわしい」「うさんくさい」は、ある意味では無防備な「からだ(私は「肉体」という表現をつかうのだけれど)」へ廿楽のことばが入ってきて居すわることへの、反発のようなものかもしれない。反発しながらも、それに反論ができないものが「からだ」のなかにある。
 「ぜんしんがにほんごのいうことをきかない」というのはどういうことか。たとえば、私は、この「ぜんしん」の「持ち主」を中国人とか韓国人と仮定して読む。日本が中国や韓国を侵略し、暴力をふるっていた時代。彼は、一度は「にほんご」の命令に従った。でも、いまは「にほんご」の命令など聞きたくない。「にほんご」に「からだ」が拒絶反応を起こしている。--こういうとこは、多かれ少なかれ、だれもが経験することかもしれない。ある人のことばが、いやでいやでたまらない。「ぜんしん」がそのひとの「ことば」を拒絶する。聞かない。身動きもせず、ただじっとしている。
 そして、そういう反応をする人間は、ときとして殴られる。「そうかわからなけりゃ/からだでおぼえさせてやる」という次第だ。そして、そのとき、殴られる人が無力な老人だったら、どうなるだろう。「お年寄りだから/酔ってなぐるほうもかなしい」。これは、殴る人間の勝手な言いぐさだが、そういうことはある。誰かが誰かを殴る。そのとき、殴られる人間が悲しいのはもちろんだが、殴る人間も悲しい、やりきれないということはあるのだ。殴る理由はあったかもしれないが、それはほんとうに殴らないといけないことかどうかはわからないし、無抵抗なものを暴力で支配するというのは、相手が無抵抗であるとわかればわかるほど、いい気もちはしない。--これも、まあ、いいかげんな言いぐさだねえ。
 
 ということは、ということにしておいて。

 この作品の不思議なところ(そして、それは廿楽の他の作品にも通じることだが)。
それは「主語」がするりと入れ代わることだ。これは私の「誤読」であって、違う視点で読めば「主語」は一貫しているかもしれない。廿楽は「主語」を一貫させて書いているというかもしれないが……。
 「ぜんしんがもうにほんごのいうことをきかない/おれのしたことのどこがわるい」と言っているのは中国人(韓国人)である。「せむし/であることをかくさない」。この「せむし」はほんとうの肉体か、「比喩」かよくわからない。「異形」(異なった存在)であることを隠さない。同化しない、ということをあらわす「比喩」かもしれない。「比喩」だとしたら、そこに「せむし」ということばを持ってくる感覚(肉体感覚、からだ感覚)が廿楽の特徴ということになる。--ともかく、ここまでは「主語」は「殴られる人」である。「殴られる人」であるが、単に受け身ではなく、「おれのしたことのどこがわるい」「……であることをかくさない」と自己主張もしている。ひとりの「主語」のなかに、動きがふたつあることになる。「にほんご」にしたがわない、動かないという消極的(?)な動きがある一方、主張するという積極的な動きがある。
 「そうかわからなけりゃ/からだでおぼえさせてやる」の「主語」は一転して「殴る人」である。「にほんごのいうことをきかない」人に対して「にほんご」で命令しているひとである。「日本人」ということになる。彼は言う(命令する)だけではなく、言うことを聞かない人間を殴っている。殴りながら「お年寄りだから/酔ってなぐるほうもかなしい」とからだで感じている。ひとりの「主語」のなかにも動きがふたつあることになる。暴力で支配しようとする動きと、支配しながらかなしみを感じる動きがある。
 それぞれの「主語」のなかの動きは、どこを起点にしてかわるのか、よくわからない。ふたりの「主語」にしても、「主語」自体が隠されている(書かれていない)ので、区別がはっきりとはわからない。「頭」で「主語」を確認することができない。「中国人」がこれこれのことを言った。あるいは「日本人」がこれこれのことをした、と書いてあれば「主語」を「頭」で理解できるがそれがないから、ぼんやりと「肉体」で、あ、ここには立場の違う人がふたりいるんだなあ、それは「中国人」と「日本人」かもしれない、と思うだけである。
 曖昧なのは「主語」だけではない。「ぜんしんがもうにほんごのいうことをきかない」。これは「中国人」の思いであるとして、それを「中国人」は「声」に出して言ったのか。声には出していない。でも「おれのしたことのどこがわるい」。これは、どうだろう。想っているだけなのか。それとも「声」に出して言ったのか。「日本人」の思いも同じである。「そうかわからなけりゃ/からだでおぼえさせてやる」。これは「声」に出して言ったことばのように感じられる。しかし、ほんとうは思っただけかもしれない。「お年寄りだから/酔ってなぐるほうもすごくかなしい」。これは、まさか「声」に出してはいっていないだろうと私は思うが、逆に「声」に出しても、それはそれで非常に痛切かもしれないと、急に思ったりする。
 「主語」もなあいまいなら、「ことば」が「声」に出されたかどうかもあいまいである。それでも、ここに「ドラマ」があると感じるのはなぜだろう。わからないことだらけ、りかいしていないことだらけなのに、はっきりと「ドラマ」を感じるのはどうしてだろう。何かが動いていると感じるのはどうしてだろう。
 ことばがある、ということがあいまいではないからだ。なにかしらのいがみあいがあり、そこでことばが動いているということはあいまいではない。ことばが動き、そのことばを追うとき、きっと「肉体」が動いているのだ。
 これは、路傍で腹を抱えてうずくまる人間を見たときの「肉体」の反応に似ている。うずくまる人は何もいわない。けれど、その姿勢、そしてもれてくる声にならない声を聞くと、私の肉体は、あ、この人は腹が痛いんだとわかる。私の腹の痛みではない。私の肉体の痛みではない。けれど、わかる。同じように、ことばを「聞く」とき、目で「肉体」を見たときのように、私の「肉体」のなかで何かが反応して、即座に何かを理解するのである。「ぜんしんがにほんごのいうことをきかいな」。あ、このひとは「にほんご」に反発を感じている人なのだ……、という具合に。
 そういう具合に読者に働きかけることばをつづらは「わざと」書いているのだ。

 廿楽は「主語」をあいまいにする。また感情の変化、行動の突然の変化も、理由もなしにことばにしてしまう。理由はなくて、ただことばの「手触り」というか、「感触」がある。その「感触」が、読者(私の--というべきか)の「からだ」の眠っている部分を揺り動かす。「あいまいさ」を利用して「肉体」に入ってくるから「いかがわしい」「うさんくさい」ということばで、私は「防備」してしまうのかもしれない。





たかくおよぐや
廿楽 順治
思潮社
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