詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(21)

2011-05-24 23:59:59 | 詩の礫
和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(21)(「現代詩手帖」2011年05月号)

 「比喩は死んだ」と和合は書いている。けれども、やはり「比喩」は動いている。というか、生きている。ことばは「比喩」になろうとする。「いま/ここ」にないものを書きたがる。「いま/ここ」にないものを書いたときこそ、「いま/ここ」が見えてくるのだ。「比喩」は「いま/ここ」を照らす光なのだ。といっても、それはほんとうは「照らす」ではなく、「いま/ここ」を導く「灯台」のようなものである。「比喩」へ向かって進むとき、その進むという運動なのかで、「いま/ここ」が動きはじめるのである。
 あ、抽象的に書きはじめてしまった。--これは、よくない兆候である。きょうは、和合のことばについていくのが少しつらい。和合のことばというにより、私の体調が悪いのである。

 「比喩が死んでしまった」と和合は書いていた。その「比喩」ということばが、再び出てくるところがある。

祖父よ。戦地のシベリアの大地はどんな味だったのか。こちらでも戦後が始まったぞ、祖父よ。真冬の比喩のシベリアよ。彼の地は今、どんな風が吹いているか。丘に一本の木が見える。
                                 (52ページ)

 真冬の「比喩」のシベリア。それが「比喩」であるのは、祖父のシベリアが「いま/ここ」ではないからだ。和合が、その「いま/ここ」ではない父祖のシベリアを「いま/ここ」で書くのはなぜか。これは私の想像だが、祖父は「真冬のシベリア」を生き抜いたからだ。そのことが、和合にとって「希望」なのである。過酷な時間を祖父は生き抜いた。同じように、大震災の過酷な時間を生き抜きたい。和合は、そう考えている。だから、過酷な時間を生き抜いた祖父の方へと自分自身を引っ張っていくのだ。「比喩」を前方に投げだして、それを頼りに、自分を駆り立てるのだ。(ハイデガーなら「比喩」のこのつかいかたを「投企」というかもしれないなあ。)
 この「比喩」のシベリアに、和合はさらに「比喩」を書き加える。「一本の凍った木」。過酷な孤独を生きる木。それは祖父の、投企としての「比喩」である。実際に、祖父がその木のことを語ったかどうかわからない。和合がつくりあげたもの--と私は思っているのだが。その方が投企としての「比喩」が強くなる。
 そして、このひとかたまりのことばのなかにはもうひとつ「比喩」がある。「比喩」と意識されない「比喩」がある。

戦後

 「こちらでも戦後が始まったぞ」というとき、和合は「昭和20年」のことを書いているのではない。「いま/ここ」のことを書いている。大震災が起きた。そして、「戦後」が始まったのだ。「戦後」こそが、もうひとつの「戦争」でもある。
 「戦後」の「後」は、「事後」の「後」である。「後」になって、すべてはやってくる。「生きる」ということが選ばれ、「生きる」のである。

はるか 遠い 森の 奥の 一本の木 心の中の あなた はるかな あなた
                                 (52ページ)

 これは、「比喩」である。
 生きるとき、どうしても「比喩」が必要なのだ。「いま/ここ」にはない何かが必要なのだ。
 このいわば「美しい比喩」とはまた別のことばの動きもある。

緊急地震速報。震源地は宮城県沖。緊急地震速報。震源地は茨城県沖。緊急地震速報。芯見地は岩手県沖。緊急地震速報。震源地は冷蔵庫3段目。緊急地震速報。震源地は革靴の右足。緊急地震速報。震源地は玉ねぎの箱。緊急地震速報。震源地は広辞苑。緊急地震速報。震源地は、春。
                                 (52ページ)

 前半は「現実」である。そこには「比喩」はない。ただ「事実」がある。けれど、「震源地は冷蔵庫3段目」からは「事実」とは違ったことが書かれている。ことばでしかありえないことが書かれている。そこで書かれている「震源地」は「震源地」ではない。つまり「比喩」である。でも、この「比喩」はいったい「いま/ここ」をどこへ向かって投企するために書かれているのか。
 わからない。
 わからないから、そこに詩がある。
 きっと、和合も何が書きたいのかはっきりとは言えないだろう。「意味」がないからである。「意味」がないけれど、そう書きたい。「意味」がないから、そう書きたいのだ。一方に「震源地は宮城県沖」という「事実」と「意味」がある。その「事実」と「意味」から、和合地震を切り離し、「いま/ここ」から切り離し、どこかへ投企するためには、ことばの「自由」が必要なのだ。ことばの「無意味」が必要なのだ。そういう「無意味」を借りないことには自己投企することもできないほど、「大震災」の「余震」の「事実」と「意味」は重たいのだ。

 自分をある方向へ投げだす。投企する。そのために、ことばはある。
 その働きには「比喩」以外の動きもある。

長い余震の後で、私たちは、子どもたちの手を握るだろう。怖かったかい、可哀想に…。もう大丈夫だよ。さらなる余震の後で、また手を握ろう。もう大丈夫だよ…。だから、ね…。私たちの、大人の手を、離さないで。ぎゅって強く握ってごらん。また…。震えている、地も、きみも。
                                 (52ページ)

夜が寒くて、冷たくて、乞わないなら…、誰でもいいから手を握ろう、握り返してくれるよ。もう大丈夫だよ。だから私たちの手を、離さないで。ぎゅっ…て、強く握ってごらん。
                                 (54ページ)

 これは「呼び掛け」という形をとった投企である。他者に対して(子どもたちに対して)、こうしたらという投企のあり方を語ると同時に、そこへ向けて和合自身をも投げだしている。投企しているのである。

 ことばでできること、そのすべてを和合はしようとしている。なぜか。

緊急地震速報。馬が追う、言葉が追う、余震が追う。緊急地震速報。馬が来る、言葉が来る、余震が来る。何に、何に追われている。緊急地震速報。命、命に追われている。…優しく、優しく…。呟く、祖母の声。命、命が追ってくる。
                                 (53ページ)

 「命」が「いま/ここ」にあるからだ。「命」を「いま/ここ」から、未来へとつないでいかなければならないからだ。ことばを語ること、ことばを語ることで、自分自身をことばが語りうるものの方へ、「比喩」となりうるものの方へ、和合は引っ張っていこうとしている。
 まず、ことばを先へ投げだす。ことばを投企する。そして、次に、そのことばへ向かって、「比喩(いま/ここにはなけれど、可能性としてありうるもの)」へ向かって、和合自身を投企するために。





にほんごの話
谷川俊太郎,和合亮一
青土社


人気ブログランキングへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

廿楽順治『化車』(2)

2011-05-24 09:54:33 | 詩集
廿楽順治『化車』(2)(思潮社、2011年04月25日発行)

 詩集のなかに、廿楽順治のことばと、うだがわしんぶん(宇田川新聞)の絵のコラボレーションがある。(こういう言い方でいいのかな? 私はカタカナ語がよくわからないので適当につかっている。ことばと絵の出会いがある--といいたいのだけれど、それだときっといろんなことに詳しい人には伝わらないかもしれないと思い、ちょっとわけのわからないことばをつかってみました。)
 廿楽順治のことばと宇田川新聞の絵(版画に見える)は、私の印象ではちょっと似ている。「不自由」である。この「不自由」は、きっと詳しく説明しないとわからないし、詳しく書けば書いたでなんのことかわからなくなると思うが……。
 簡単に省略してしまうと、そのことばのつかい方、その絵の書き方「正確」というのとはずれていない?ということである。「ほんとうの意味」(リアルな絵)にはなりきれていないという印象が残る--その「不自由」さ。
 でも、その「不自由」の基本には「肉体」がどっしり居すわっている。
 うだがわの場合は絵だけれど、ほら、ひとの手の癖というのは、妙に根強くて、ある線を描こうとしてもどうしても、定規をつかったような「正確」なものにならないことがある。もちろん「正確」に描くことができるひともいるのだけれど。まっすぐな線だとしても、その線の左側と右側を比べてみると、右の方に筆圧(?)がかかっているとか……。「版画」の場合だと、それに拍車がかかる。(一般的に、だけれど。)直接線を描くわけではなく、いったん何かを彫る。そのとき、素材の抵抗感が肉体に響いてきて、紙に描くのとは違ってくる。「不自由」がもうひとつ増えることになる。けれど、その「不自由」が妙におもしろい。「不自由」から「肉体」が浮かび上がるようで、「正確」なものよりも楽しいのだ。いろんな「誤読」の要素があって、そこに引きつけられる。
 33ページに、何やら孔雀めいた絵がある。それは、しかし女の人が足をそろえて上へ上げているようにも見える。お尻とももと、それから、すけべな私は固く閉ざした性器なんかもそこに見てしまう。羽の模様はなんだろう。葱坊主? 亀頭をアレンジしたものにも見えないことはないなあ。--こういういろんなことものに「見える」状態を指して、私は「不自由」というのだが……。そして、私がこういう絵が好きなのは、その「不自由」なのかに、今書いたような、すけべな「誤読」を許してくれるものがあるからだ。絵が「不自由」だから、私はその絵の「不自由さ」を、私の「自由な」想像力で補って、いろんなことを考えるのである。(単にすけべである--というだけのことを、私は、ごまかして書いているのだが。こんなふうに、ごまかして「嘘」を書くのが私の趣味である。)
 そして、この「不自由」と「自由」の出会いのなかで、私はかってに、うだがわはすけべであると判断し、うれしくなる。うだがわの「肉体」、あるいは「本能」「欲望」というものを感じてしまう。共感してしまう。好きになってしまう。
 似たようなことが廿楽のことばに対しても起きるのである。
 「青年期はほこりっぽい、/一九八八年としての福州路。」という作品。32ページからはじまっている。本文は尻揃えの形で書かれているのだが、そういう形で引用するのは難しいので、頭揃えの形で引用する。(廿楽さん、ごめんなさい。)

会いたくなった
夕方
魯迅がむこうからやってきて
(筆が止まらないぞ)
どういうわけか怒っている
やい
こどもをすくえ
黄浦江公園ではこどものこじきにすそをひかれた
日本より
指がいっぽん多いんですよ
どうつたえていいのかわからない
棒もいっぽん多い
あんた
それじゃあ目本だよ

 何が書いてあるか。「意味」は何か。考えない。考えないのだけれど、かってに感じてしまうことがある。
 公園でこどものこじきがしがみついてくる。その力。まるで、指が日本のこどもより「いっぽん」多い感じ--まあ、そんなことはないのだが、そう感じる、そんなことを思ってしまうということかな? 一本指が多い、棒が多ければ「日本」は「目本」になる。
 これって、なんとういか「ため口」の一種だよねえ。相手と「私」を、どこかある次元(?)へ対等にずらして、そこで成立することば。--「ため口」の定義(?)がこれでいいかどうかわからないけれど……。
 変なずらしと、不思議な対等感から発せられることば。「意味」は、きっとそこに語られていることよりも「対等」という感覚にある。
 指が一本多い、棒が一本多い--そうすると「日本」は「目本」になるというのは、とっても奇妙な論理で、あれこれ書いていると面倒くさいけれど、何か納得するものがある。「漢字」を見た記憶。目の記憶。肉体の記憶と、それを「意味(意識)」に取り込み、理解するときの「いかがわしさ」。

 あ、そうなんだ。廿楽の詩のおもしろさというのは、「いかがわしさ」への共感なのだ。頭できちんと整理された知識(認識)ではなく、肉体でつきあうときの馴れ合いというのか、許せる範囲のずれを残した揺らぎ。それが我慢できる(?)のは、そんな具合の「ものごと」の把握が肉体に無理がかからないからだねえ。
 (うだがわの絵にも、何か「いかがわしさ」が漂っているよね。「肉体」をくすぐり、ちょっと力を抜けさせるような、力をぬいたときにふっと感じる愉悦のようなものが。)


 このいかがわしさ--それを「不自由」と呼ぶのは、まあ、変かもしれないけれど。でも「不自由」につながる。
 私の書いていることは、どうも説明がめんどうくさいことばかりなのだけれど。
 「いかがわしさ」が「不自由」というのは、つまり。「いかがわしい」けれど、まあ、いいんじゃない。大丈夫だよ。ということを、人に説得するのはとても難しいということ。この「難しさ」が「不自由」。
 どんな「主張」(正義)でもいいのだけれど、きちんと「明文化」されていれば、つまり「頭」で整理できていれば、それで相手を説得することは簡単である。この「明文化」もほんとうは「いかがわしい」ものかもしれないけれど、教科書や何かに書いてあることや政治家の公式発言、裁判の記録は「いかがわしい」とは言われないよね。そこには一応「理路整然とした論理」があると想定されているからね。それが理解できないとしたら、それは読んだ人(ことばに触れた人)が「頭」が悪い--ということになる。簡単に切って棄てることが出来る。「不自由」はない。

 けれど「いかがわしさ」への共感は、説明できない。どんなにことばを費やしても「わかるだろう?」でわかってもらうしかない。「頭」でわかるようにはいいきることが出来ない。私が頭が悪いからだけれど。で、感じるのは、あ、難しい。ややこしい。自分のことばが「いかがわしいさ」への共感を説明するとき、とても「不自由」になる、ということなのだ。

 あ、何を書いているか、わからなくなる。だんだん、廿楽から遠ざかる。でも、遠ざかることでしか近づけないねえ。

 「それじゃ目本だよ」の変さは、まあ、わりと「変」であることがわかりやすい。そのことばが「いかがわしい」ということはわかりやすいかもしれない。
 しかし、そういうことばではなく、たとえば書き出し、

会いたくなった
夕方
魯迅がむこうからやってきて
(筆が止まらないぞ)

 も、「いかがわしい」。魯迅がやってきたって、事実? いや、どうでもいいのだけれど。追い掛けるように(筆が止まらないぞ)が、とってもいかがわしい。これは嘘です、勢いで魯迅がやってきたと書いただけです、と弁解しているような--弁解という「ほんとう」ですべて許してね、というような変な感じ。
 それから、

どういうわけか怒っている
やい
こどもをすくえ

 という転換の仕方。いや、ことばを押し進める仕方。
 「どういうわけか」なんてさあ、とってもいいかげんでしょ? 「どういうわけか」ではなく、あれこれの理由でときちんと書かないと説明にならないよね。「頭」では理解できないよねえ。でも、肉体は「どういうわけか」というようなことをいっぱい知っていて、これで納得してしまう。「どういうわけか」わからないことだらけ。それでも、ひととひとは、つきあっていけるから。
 「やい/こどもをすくえ」の「やい」という突然の変化も「どういうわけか」わからないことを、納得させるねえ。どういうわけかわからないけれど、「やい」に怒っていることを感じてしまう。
 「いかがわしさ」なんて、わかることではなく「感じる」ことなのだ。

 廿楽は、この「感じる・いかがわしさ」をきちんとことばのリズムに再現できる。そういうリズムでことばを動かしていける。
 あ、これ、(きょう私が書いていること)、廿楽をほめているんだけれど。
 うまく書けないね。
 で、きょうは、ここまで。あしたまたつづきを書くかもしれない。書かないかもしれない。



すみだがわ
廿楽 順治
思潮社



人気ブログランキングへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする