詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(16)

2011-05-19 23:59:59 | 詩の礫
和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(16)(「現代詩手帖」2011年05月号)

 きのう、高村光太郎の詩を思い出し、和合のことばはツイッター初日の書き込みとは違ったぐあいに動いた。ことばが「美しく」なった。「なつかしく」なった。怒りや不安以外のことばが動きはじめた。いや、それまでも「やさしさ」とか「感謝」のことばはあったのだが、高村光太郎の詩を思い出す以前は、まずことばと「事象(もの)」を結びあわせることの方が優先されていた。高村光太郎の詩を思い出したあとは、ことばは「思い」を整える具合に動いている。思ったことをただ書くのではなく、こんなふうに思いたい--そういう方向に動いている。「思い」を育てている。ことばは、何かを育てるという仕事をするのだ。「肉体」のなかに隠れている何かが動きだすように励ます仕事をするのだ。(もちろん、それ以前のことばも怒りとか不安を明確にするという大事な仕事をしているのだけれど……。)そういう仕事をしたあとで、和合の意識は、より明確になる。

私は震災の福島を、言葉で埋め尽くしてやる。コンドハ負ケネエゾ。
                                 (43ページ)

 これは、

気に入らなかったのかい? けっ、俺あ、どこまでもてめえをめちゃくちゃにしてやるぞ。
                                 (39ページ)

だいぶ、長い横揺れだ。賭けるか、あんたが勝つか、俺が勝つか。けっ、今回はそろそろ駄目だが、次回はてめえをめちゃくちゃにしてやっぞ。
                                 (40ページ)

 を、言いなおしたもの。書き直したものである。 3月16日は「大震災(余震)」そのものを「めちゃくちゃにしてやる」、ことばで大震災に勝って見せると書いていた。このこと、和合はその「勝つ」ということを「めちゃくちゃにしてやる」という、ことばにはなりきれない「感情」そのものとして書いていた。
 いまは震災に勝つとはどういうことかを知っている。それは震災をことばで埋めつくすことだ。怒りや不安だけではなく、ある一瞬一瞬の「希望」も含めて、あらゆることをことばで埋めつくす。卒業式ができなかったこどもへの「思い」、こどもたちへの励まし、こどもたちへの願いを含めて、あらゆることをことばにする。そのとき、人間は「事象」に真の「意味」を与え、「事象」をしっかりと消化できたことになる--和合はそう考えているのだと思う。

あなたはどこに居ますか。私は暗い部屋に一人で言葉の前に座っています。あなたの言葉になりたい。
                                 (43ページ)

私は一人、暗い部屋の中で言葉の前に座っている。あなたはどこに居ますか。言葉の前に座っていますか。
                                 (44ページ)

 「あなた」もことばを出してください。「声」を出してください、と和合は呼び掛けている。ことばは、でも、簡単には出てこない。大震災のように、まったく知らないことが起きたときは、ことばが動かない。それは和合自身が体験したことだ。だから、もし、あなたのことばがまだ動かないなら、私のことばのそばに寄り添ってください。和合が高村光太郎の詩に寄り添うことでことばを思い出したように、そうすることであなたもことばを思い出すかもしれない。そのときの「あなたの言葉」を支える力になりたい--「あなたの言葉になりたい」には、そういう思いが込められていると思う。

言葉の後ろ背を見ていますか。言葉に追い掛けられていますか。言葉の横に恋人と一緒にいるみたいに寄り添っていますか。それとも言葉に頭の上から怒鳴られていますか。

僕はあなたです。あなたは僕です。

僕はあなたの心の中で言葉の前に座りたいのです。あなたに僕の心の中で言葉の前に座って欲しいのです。生きると覚悟した者、無念に死に行く者。たくさんの言葉が、心の中のがれきに紛れている。
                                 (44ページ)

 ことばは、震災のあとの街のがれきのように、こころのなかで砕けて散らばっている。下敷きになっている。そのひとつひとつを拾い集め、汚れを取り払って、元の姿に、元の姿以上に強いものにしたい。そういうことばとともに生きたい。そうすることが震災に勝つことだ、と和合ははっきり自覚している。
 高村光太郎の詩は、こういう「きっかけ」になっている。
 「文学は何の役に立つか」とはいつの時代でも問われることだが、文学はことばを甦らせるのに役立つ。それはなくてはならないものである。衝撃的なことが起きたとき、ひとはことばを失う。どう言っていいかわからない。そのどう言っていいかわからない無力感--それを奥深いところで支え、もういちどことばを甦らせる。その「きっかけ」として「文学」は必要なのだ。
 ことばは、自分一人でつくりあげるものではない。いつでも、他人と触れ合って、ことばが動く。そのことばの運動の「軌跡」(証拠)として「文学」がある。まず、ひとは、そういうものに頼る。すがる。助けを求める。--これは、とても自然なことである。
 阪神大震災を体験した季村敏夫の『日々の、すみか』では、そういうことばとして魯迅の何かが引用されていた。うろ覚えで申し訳ないが、「人が死んだあとでも魂はあるのか。家族は死んだあとでまた会えるのか」というようなことを誰かに聞かれ、答えにつまったというようなことが書かれている作品である。その「問い」のことばは、阪神大震災を体験したひとの、ことばにならないことばそのもののように思える。そのことばを思い出すことで、季村の詩は動いていくのだが、同じように、このことばとともに動きだす東日本大震災の被災者がいると思う。「文学」(私たちに先だって存在することば)は、私たちの、ことばにならないことば、「肉体」のなかでうごめいている「声」を形にしてくれる。誘い水になってくれる。
 ことばは、そうやって、何かに頼って動きながら、頼ること、頼りあうこと、寄り添うことで、ひとの整える。肉体を整える。暮らしを整える。つまり「思想」になる。

僕はあなたは、この世に、なぜ生きる。僕はあなたは、この世に、なぜ生まれた。僕はあなたは、この世に、何を信じる。

海のきらめきを、風の吐息を、草いきれと、星の輝きを、石ころの歴史を、土の親しさを、雲の切れ間を、そのような故郷を、故郷を信じる。
                               (44-45ページ)

 和合が「故郷」と呼んでいるもののなかに、私は「文学」をも含めたい。和合が「故郷」を描写したことば、それは「文学」(詩)そのものである。

 「文学」について書いたので、少し書き漏らしたことを補足しておく。「文学」は「海のきらめき、風の吐息……」というようなわかりやすく親しみやすいものだけでもない。時には異様なものも含んでいる。
 和合は、そういうもの、不思議な「イメージ」も書いている。「常套句」にはなりえない不思議なことばも書いている。17日のツイッターに戻るのだが、「しー、余震だ。」と書いたあとに、和合独自のことばが動いている。

横に揺れる幅が相変わらずに大きい。何かに乗っているような心地になる。馬の背中が大地だとすれば、私たちは騎手。悲しい騎手。
                                 (40ページ)
 
 自身を馬の背中と感じている。ここには「南相馬市」という地名に「馬」があることが関係しているかもしれない。「馬」の産地であるということが関係しているかもしれない。地名のなかにひそんでいることばがイメージを飛躍させるのである。
 この馬は、形をかえてあらわれる。

福島競馬場は、激しい馬の競り合いと、それに賭ける人々で余念が無い場所である。しかし噂では、この競技場の地下に非常時の巨大な貯水庫があるのだ、とか。私たちは馬の先行争いに一喜一憂する。きみはひづめの祝福を喜べ。眠れないなら想像せよ。地の底深くに、水は、昏昏と眠っている。
                                 (43ページ)

 地震-地下の揺れ、馬-競馬場の地下、水不足-巨大な貯水庫。ことばがことばを呼びあって、イメージをつくる。(イメージではなく、ほんとうに巨大な貯水庫があるのかもしれないが--それは、いまは確認されていないから、イメージである。)
 こういうことばの運動は、いま起きていること、わけのわからないことに、強い印象を与える。わからないことがらを、ある「結晶状態」にする。

馬のいななきは何も変わるまい。夜ノ森の桜は何も変わるまい。海鳴りはがれきを悲しくぬらしながらも、時を削らない。
                                 (44ページ)

 イメージは、自然(天体)と同じように、非情なものである。非情な、というのは、人間の立場に立って、人が困っているなら助けようというようなことをしない、という意味である。完全に独立して、自由である。そこに自然や天体やイメージの美しさがある。(こういうことばは、それそこ震災の被災者には「非情」に響いてしまうかもしれないけれど……。)
 そして、それが非情で美しいからこそ、ひとを、そのことばを美しく鍛え上げもする。ひとのことばをやさしさへと導く。何か、そういう力がある。
 「馬のいななき」を書いたあと、和合は、次のように書いている。

お願いです。南相馬市を救ってください。浜通りの美しさを戻してください。空気の清々しさを。私たちの心の中には、大海原の涙しかない。
                                 (44ページ)



現代詩手帖 2011年 05月号 [雑誌]
クリエーター情報なし
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中尾太一「詩篇A/lone」

2011-05-19 11:56:39 | 詩(雑誌・同人誌)
中尾太一「詩篇A/lone」(「イリプスⅡnd」07、2011年05月25日発行)

中尾太一「詩篇A/lone」は複数の詩篇から構成されている。その内の1篇「1 名無しのゴンベエからの手紙」。中尾の作品の中では、とてもわかりやすいと感じた。あ、これは「誤読」しやすい、「誤読」が楽しい--という意味であるのだけれど。

「話されないものの総雨量が温存されてある時代に生まれた
それ(総雨量)は決まっていた/年の暮れに降る雪は別にして
それ(総雨量)はその時代に覚えたものと釣り合う程度に
変化はしたが/まあだいたい決まっていた
それ(総雨量)は隠れた/隠れたそれ(総雨量)に対応するxは
話されることが多くなるにつれて異界のほうへ器を大きくする
空白というやつだ/空白というのは時間に対応するxだが
ここでの空白がもっぱら未来を志向していることは隠せない

 何が書いてあるのかというと--それは、まあ、わからない。わかるのは「話されないもの」、ふつうは、ことばとか「こと」を指していると思うが、それが「総雨量」と呼ばれていることである。話されるべきこと、その「総量」がすべて話されずにある。この「総量」を中尾は「総量」とと呼ばずに「総雨量」と言っている。
 なぜ、「総雨量」ということばをつかったのか。これが、わからない。この作品がわからないことの第一の原因は、ここにある。
 そして、そのわからないことを、そのままにしておいて、その次のことばを追っていくと「それ(総雨量)は決まっていた」ということばがやってくる。これは具体的にはよくわからないが(総雨量の量自体はわからないが)、まあ、決まっていたというのだから決まっていたんだろうなあ、と「論理」はわかる。「/年の暮れに降る雪は別にして」というのは、気象関係では「雨」に「雪」を含めるのだろうけれど、ここでは含めないということなんだろうなあ、と「論理」はわかる。
 で、面倒なので途中を省略するけれど、私が「わかる」と書くとき、わかっているのは中尾が書いていることばが「論理」をもって動いているということである。その「論理」の主語は「話されないもの/話されないもの(話されずに隠されたもの)」ということになるのかもしれない。そして、その「話されないもの」の計量単位として「総雨量」ということばがつかわれている、ということである。
 これは、簡単に言ってしまえば、あることを語る文脈が、既存の文脈以外ものに侵略されている状態である。「話されないもの」という「主語」が「総雨量」という単位をつかって、「数学(数学を偽装した)」文脈によって侵略されているということである。xという変数(?)をつかって、「話されないもの」と「時代」の関係が数学的に整理されるということである。
 中尾は、「話されないもの」の「事実(内容?)」というよりも、「話されないもの」と「時代」の関係について書こうとしている--ということがわかる。
 で、実際に、それが数学的に整理されるとどうなるかというと……。純粋数学じゃないから、わかったような、わからないような感じになる。

たとえばある人間の/最期/の語りにおける/F/がある人間の語りの中で
現在・未来がそうであるものとして恐怖されている
ということを/どう/自分の経験として話すか/が/今日の
空白の中で/考えなければいけないが
少なくとも/自分の経験として話す/こと/は
脅迫の目的を/すべて/に対して持つ/だろう
無限に近い/話される/こと/への配慮のそれ(総雨量)が
異界の土地に染み込むとき
自分たちの/x/は/無限/そのものであるような時空に関与する
X' である/その係数を/記憶の細部に掛ける

 ここで特徴的なのは(私は「意味」を考えずに、特徴を見るだけである)、ふつうの文体(?)が数学の文体(?)によって破壊され(微分され?)、とぎれとぎれになっているということである。おびただしい/(スラッシュ)がことばを区切っている。
 その/が意味するものは何?
 中尾はわかっている。わかっていないかもしれないが、その/こそが書きたいものだと、書かれていることを読むとわかる。/はことばにならない何かである。ことばにならないものが、それこそ「書かれないもの」の「総雨量」が振り込む激しい雨の降る角度で/になっている感じで、一続きの文脈を破壊している--そのことがわかる。

 で、このことから、私は考えるのだ。
 あ、中尾は、いままである文脈(文体)を、たとえば数学文脈、それは相関関係を語る文脈で語りなおしていきたいのだ、その語り直しをすること(その文体をつかうこと)が、中尾にとって「思想」なのだ。
 既存の文体を破壊し、別なものにする--そのときにふいにあらわれる、たとえば/(スラッシュ)としての文体が、中尾の書きたい「思想」なのだ。
 そのことばがたどりつく「結論」(意味・内容)は、まあ、どうでもいいのだ、というとあまりに大雑把すぎるが、そのときそのとき、適当に、こういうことかなあ、と思えばいいのだと思う。「結論」には「思想」などない。「肉体」となって動く「文体」だけが思想」なのである--と中尾の、何が書いてあるかわからないことばを読みながら、考えた。



数式に物語を代入しながら何も言わなくなったFに、掲げる詩集
中尾 太一
思潮社



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