東野正『難破調』(セスナ舎、2011年01月11日発行)
東野正『難破調』は5冊組の2冊目。再び、「音」の問題を考えてみた。
「。し、の、死!」という作品。
おびただしい句読点と、当て字。これは、「目」で読まないかぎり、なんのことかわからない。私は黙読しかしないが、この詩は、しかし「黙読」と同時に「音読」を強いる。「音読」しないと、「意味」が成り立たない。というと、東野が「音」を「肉体」としてことばを動かしているということになってしまうが、私の書いた「音読しないと意味が成り立たない」は方便である。とりあえず、そう説明しただけのことであり、私は東野書いている「文字」と「音」、そして「意味」の関係に、とても疑問を持っている。
「音」を「正確」に書いてしまえば、(正しい文字のつかい方で、東野のことばを書いてしまうと)、この詩はなんでもないことばの羅列のようになってしまう。それを東野は「文字」を不自然な形で使うことで破壊して見せる。当て字だけではなく、句読点もわざと「学校教科書」とは違った形で書いてしまう。
このときの「わざと」が、「無意味」ではなく「意味」を持っている。持ってしまう。そこに、私は、とてもいやなものを感じる。「視覚」優先の「頭」を感じる。東野は「視覚」によって、別の「意味」をことばのなかに持ち込むことを「破壊」ととらえているような気がするのだ。
たとえば、引用した最後の部分、
「問題にすぐそれたりすることなく」という「音」をばらばらにして、そこに「愚」という「文字」をあてる。そして、問題がそれることに「愚」の「意味」をつけくわえる。「誤読」(間違い)とはもちろん「違った意味」へつながっていくのだが、それはこんな簡単に(?)「文字化」できるものではない。「文字」以前に、いろいろな「肉体」をとおって、「ことば」以前の共通感覚のなかで、ことばがゆらぎ、本来の「肉体」とは違う径路を切り開くものなのだ。東野は「視覚」という径路を開いているつもりかもしれないが、「すぐ」を「す愚」と書くことは「視覚」という径路を切り開いているのではなく、「肉体」の外にある「文字」を「視覚」を利用して「肉体」に取り込んでいるだけなのである。そのとき「肉体」は何の変化もしていない。「肉体」のどの感覚も新しい感覚にめざめていない。つまり、東野はことばをとおして生まれ変わってはいない。
ここに一番の問題がある。
ことばをあくまで「肉体」の外にあるものととらえる「二元論」を東野は、東野のことばの運動のよりどころとしている。そして、その「二元論」の基本(?)となっているのが、東野の場合「視覚」なのだ。
「肉体」と「文字」をわけたように、東野はことばを「文字」と「音」にわけ、「音」にわざと違った「文字」をあてることで、ことばを変化させる。「文字」なしにはありえない「誤読」--これが東野の詩である。
こうした「誤読」があってはいけないというのではない。私には、どうにも納得できないというだけのことである。
少し補足すると、東野の書いている詩、ことばの「誤読」は、「文字を読めない(読まない)」ひとには通じない「誤読」である。いま、たしかに日本人の識字率は非常に高くて、文字を読めないひとは皆無と言っていいかもしれない。しかし、ことばは、識字率が高くなる前からあったし、文字を知らないひとは知らないひとで、「誤読」をするものなのである。
たとえば、唱歌の「故郷」。「うさぎおいし、かのやま」。それを「うさぎ追いし」ではなく「うさぎ、おいしい(美味しい)」と誤読するとき、ひとは「文字」によって「誤読」するわけではない。「赤とんぼ」の「負われて見たのは」を「追われて見たのは」と「誤読」するのも「文字」によってではない。「文字」はむしろ、「誤読」を修正するものなのである。
ことばを「修正する」(整える)ものである「文字」--これは、「視覚」は情報を「修正する」ということにもつながる。「百聞は一見にしかず」も「視覚」が「聴覚」を修正するということを語るものかもしれない。これは「視覚」の方が、他の感覚よりも上位にあるということの証明かもしれない。証拠かもしれない。ひとが、効率化をめざし、より上位の感覚を研ぎ澄ますのは、それはそれで正しい方向なのかもしれない。(資本主義の効率化にそった方向なのかもしれない。)正しい方向なのかもしれないが、私は、何かいやなものを感じるのである。「肉体」がどこかで否定されているように感じるのである。「頭」が優先され、「肉体」が置き去りにされていると感じてしまうのである。
城戸朱理は、東野の詩を評価して「言葉の意味を解体し、再び構築し、世界と生の意味を問う」と書いていたが、その解体と再構築が「視覚」によっておこなわれるとき、世界と生の意味は、どれだけ「効率的であるか」という資本主義の原理にそった形でしか動かない。「生」は効率主義によって分類されてしまう。世界は効率的な「生」を優先して、より効率的な「世界有機体」をめざすことになりはしないか。
この詩集には、「音」の「ずらし」を遊んでいる作品もある。「東西西洋哲学人迷辞典」。
これは「ちゃかし」の類である。もちろん、そこに「意味の解体」も「再構築」もある。ただし、それは、こうした作品を一冊にしないと「世界の意味を問う」までにはいたらない。逆に「周囲の人々」「衆愚の人々」ということばが、私には気になって仕方がなくなる。石を投げつけなかった「衆愚の人々」ではなかった人はどうしたの? つまり、そのときいっしょに「世界の意味を構築した人々」は? また、「衆愚の人々」ということばを使うとき、東野はどんな人なのか。
ここから「世界の再構築」が始まるなら、私は、それを警戒したいと思う。
あ、また城戸朱理のことばに引っ張られて東野を読んでしまったかなあ。
東野正『難破調』は5冊組の2冊目。再び、「音」の問題を考えてみた。
「。し、の、死!」という作品。
と思う。何がではな、苦、そう!いき。なり、恥め。る、いや始。
められても異。異、のでは。無い!か、岩場。固い地盤憎い、を。
打ち込み、底から。安全な設計思想により。確実なものにしたい、
ものにしたいと。ゲスな下心が上心を手ご。め!にして。いやいや
はいいの。知る。詩、と、か言っ。て、途方も泣く、脱。線して、
脱落し。て、途方に、くれ!て、脱丁して、い、苦。都、なんの!
ことも泣くて、いや無。くてそれは詰まり、高度死本趣義の禅面、
的展。開に桶。る水た、まり、いや!金あまりが目にあまり。あま
り金と、縁の。ない私!(私はない?)との問、題に、す愚。それ!
たりす、ることな。く、
おびただしい句読点と、当て字。これは、「目」で読まないかぎり、なんのことかわからない。私は黙読しかしないが、この詩は、しかし「黙読」と同時に「音読」を強いる。「音読」しないと、「意味」が成り立たない。というと、東野が「音」を「肉体」としてことばを動かしているということになってしまうが、私の書いた「音読しないと意味が成り立たない」は方便である。とりあえず、そう説明しただけのことであり、私は東野書いている「文字」と「音」、そして「意味」の関係に、とても疑問を持っている。
「音」を「正確」に書いてしまえば、(正しい文字のつかい方で、東野のことばを書いてしまうと)、この詩はなんでもないことばの羅列のようになってしまう。それを東野は「文字」を不自然な形で使うことで破壊して見せる。当て字だけではなく、句読点もわざと「学校教科書」とは違った形で書いてしまう。
このときの「わざと」が、「無意味」ではなく「意味」を持っている。持ってしまう。そこに、私は、とてもいやなものを感じる。「視覚」優先の「頭」を感じる。東野は「視覚」によって、別の「意味」をことばのなかに持ち込むことを「破壊」ととらえているような気がするのだ。
たとえば、引用した最後の部分、
問、題に、す愚。それ!たりす、ることな。く、
「問題にすぐそれたりすることなく」という「音」をばらばらにして、そこに「愚」という「文字」をあてる。そして、問題がそれることに「愚」の「意味」をつけくわえる。「誤読」(間違い)とはもちろん「違った意味」へつながっていくのだが、それはこんな簡単に(?)「文字化」できるものではない。「文字」以前に、いろいろな「肉体」をとおって、「ことば」以前の共通感覚のなかで、ことばがゆらぎ、本来の「肉体」とは違う径路を切り開くものなのだ。東野は「視覚」という径路を開いているつもりかもしれないが、「すぐ」を「す愚」と書くことは「視覚」という径路を切り開いているのではなく、「肉体」の外にある「文字」を「視覚」を利用して「肉体」に取り込んでいるだけなのである。そのとき「肉体」は何の変化もしていない。「肉体」のどの感覚も新しい感覚にめざめていない。つまり、東野はことばをとおして生まれ変わってはいない。
ここに一番の問題がある。
ことばをあくまで「肉体」の外にあるものととらえる「二元論」を東野は、東野のことばの運動のよりどころとしている。そして、その「二元論」の基本(?)となっているのが、東野の場合「視覚」なのだ。
「肉体」と「文字」をわけたように、東野はことばを「文字」と「音」にわけ、「音」にわざと違った「文字」をあてることで、ことばを変化させる。「文字」なしにはありえない「誤読」--これが東野の詩である。
こうした「誤読」があってはいけないというのではない。私には、どうにも納得できないというだけのことである。
少し補足すると、東野の書いている詩、ことばの「誤読」は、「文字を読めない(読まない)」ひとには通じない「誤読」である。いま、たしかに日本人の識字率は非常に高くて、文字を読めないひとは皆無と言っていいかもしれない。しかし、ことばは、識字率が高くなる前からあったし、文字を知らないひとは知らないひとで、「誤読」をするものなのである。
たとえば、唱歌の「故郷」。「うさぎおいし、かのやま」。それを「うさぎ追いし」ではなく「うさぎ、おいしい(美味しい)」と誤読するとき、ひとは「文字」によって「誤読」するわけではない。「赤とんぼ」の「負われて見たのは」を「追われて見たのは」と「誤読」するのも「文字」によってではない。「文字」はむしろ、「誤読」を修正するものなのである。
ことばを「修正する」(整える)ものである「文字」--これは、「視覚」は情報を「修正する」ということにもつながる。「百聞は一見にしかず」も「視覚」が「聴覚」を修正するということを語るものかもしれない。これは「視覚」の方が、他の感覚よりも上位にあるということの証明かもしれない。証拠かもしれない。ひとが、効率化をめざし、より上位の感覚を研ぎ澄ますのは、それはそれで正しい方向なのかもしれない。(資本主義の効率化にそった方向なのかもしれない。)正しい方向なのかもしれないが、私は、何かいやなものを感じるのである。「肉体」がどこかで否定されているように感じるのである。「頭」が優先され、「肉体」が置き去りにされていると感じてしまうのである。
城戸朱理は、東野の詩を評価して「言葉の意味を解体し、再び構築し、世界と生の意味を問う」と書いていたが、その解体と再構築が「視覚」によっておこなわれるとき、世界と生の意味は、どれだけ「効率的であるか」という資本主義の原理にそった形でしか動かない。「生」は効率主義によって分類されてしまう。世界は効率的な「生」を優先して、より効率的な「世界有機体」をめざすことになりはしないか。
この詩集には、「音」の「ずらし」を遊んでいる作品もある。「東西西洋哲学人迷辞典」。
朝田あきられる
僕のはカルイとかいって、ちゃっかりチャートでちゃっかりもう
けた、スマートなちゃっかり屋。うっかり、ちゃっかりという単
語を何回も使ってしまった。悪影響だろうか。
アリストテレス
哲学やるなんてクラーイと周囲の人からヤジや石を投げつけら
れ、ストレスのため胃カイヨウに苦しんだ顔が評価された人。
アルキウメキデス
歩きながらうめくという高尚な奇癖のため、衆愚の人々は遠巻き
にして石を投げつけたといわれている。やっぱり厄介者だったらし
い。
これは「ちゃかし」の類である。もちろん、そこに「意味の解体」も「再構築」もある。ただし、それは、こうした作品を一冊にしないと「世界の意味を問う」までにはいたらない。逆に「周囲の人々」「衆愚の人々」ということばが、私には気になって仕方がなくなる。石を投げつけなかった「衆愚の人々」ではなかった人はどうしたの? つまり、そのときいっしょに「世界の意味を構築した人々」は? また、「衆愚の人々」ということばを使うとき、東野はどんな人なのか。
ここから「世界の再構築」が始まるなら、私は、それを警戒したいと思う。
あ、また城戸朱理のことばに引っ張られて東野を読んでしまったかなあ。
空記―東野正詩集 (1981年) | |
東野 正 | |
青磁社 |