詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(3)

2011-05-06 23:59:59 | 詩の礫
和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(3)(「現代詩手帖」2011年05月号)

屋外から戻ったら、髪と手と顔を洗いなさいと教えられました。私たちには、それを洗う水など無いのです。

 これは、「事実」を書いていると同時に、こどばの「理不尽」を書いている。ことばは、それが不可能なことでも言えてしまうのだ。和合は、このことばを書きながらそのことを意識していたかどうかはわからないが、私はことばの理不尽を感じた。
 きのう読んだ部分に、

ものみな全ての事象における意味などは、それらの事後に生ずるものなのでしょう。

 ということばがあった。これも「事象」と「ことば」の間には「ずれ(乖離)」があることを語っている。
 ことばが、いまほんとうに必要なことを語れない。語られることばは「いま」を直接語ることがない。何かの「ずれ」を含んでしまっている。そのもどかしさが、ことばの奥に動いている。
 「静か」とは、この「ずれ」のことかもしれない。
 ことばが「もの」と対応しない。
 外から帰って手を洗う水がない。顔を洗う水がない。--これは、「水」という「もの」がない、という「事実」を告げているのだけれど、それだけではないのかもしれない。ないのは、「水」ではなく、「水がない」ということを告げる「ことば」がない、ということかもしれない。
 「水がない」と言えれば「水がない」ということばが「ある」と考えるのは、必要とする「水」をいつでも手に入れることができる状況があってのことなのかもしれない。「水がない」といっても、「水が必要だ」といっても、そのことばが「水」を、いま、ここにもたらさないなら、それはことばそのものが不在だということかもしれない。
 ことばは、そのことばが「有効」であるときだけ、ことばでありうるのかもしれない。
 そう考えたとき、私は、はっとするのである。どきっとしてしまうのである。
 私は最初に、大震災の被災者が「ありがとう」ということばを口にすることに衝撃を受けたと書いた。
 それは、もしかすると、被災者が「ありがとう」ということばしか「有効」ではないと知っているからなのではないのか。直感しているからではないのか。いま、ここで起きていること--それは、どんなに語っても、「事象」(出来事)と乖離してしまう。必要なことと乖離してしまう。
 唯一、被災者の「肉体」と乖離しないことば--それが「ありがとう」だったのかもしれない。
 それは、支援する人、あるいは救助する人に対して向けられていたことばである以上に、もっとほかのものに対して発せられていたことばかもしれない。
 「ありがとう」ということばを聞いて、私は(私は直接、ありがとうと言われたわけではないのだが)、「いいえ、お礼を言いたいのは私の方です。生きていてくれてほんとうにありがとう」と言いたい気持ちになったのだが、この「生きていてくれてありがとう」は、もしかすると被災者たち自身の声にならない声だったかもしれない。自分自身に対してそう言いたい。でも、まわりには亡くなったひとたち、行方不明のひとたちがたくさんいる。自分自身に対してさえ、そのことばを言うのは、少しはばかられる。でも、助けてくれた人に対してなら「ありがとう」と言える。だれかに対して「ありがとう」と言いながら、そのことばを自分に言い聞かせていたのかもしれない。
 自分自身との、声にならない対話、静かな静かな対話だったのかもしれない。そういう要素を含んでいるのかもしれないと思うのだ。
 もっともっと言ってもらいたいと思う。誰それに対してではなく、自分自身に対して「生きていてくれてありがとう」と言ってもらいたい。私は、その「ありがとう」につながりたいと思う。生きていて、その生きていることに対する不思議な感情のそばに身を置きたいと思う。
 自分自身のいのちに対して「ありがとう」と言ったあとでしか、言えないことばがある。自分のいのちを確認したあと、はじめてひとは他人のいのちに気がつくのである。

私が暮らした南相馬市に物資が届いていないそうです。南相馬市に入りたくないという理由だそうです。南相馬市を救って下さい。

 和合は、やっと「救って下さい」ということばを書いている。私はリアルタイムでツィッターを読んでいたわけではないので「震災に遭いました」ということばを書いてから、この「救って下さい」ということばを書くまでの「時間」を知らないけれど、こうやってことばを読んでくると、この「救って下さい」があらわれるまでが、とても長く感じられる。
 「救ってください」の前に、まず「ありがとうございました」ということばがあることに、また、あらためて驚くのである。
 「震災に遭いました。助けてください。」と和合は書いてもいいのだ。いや、そんなまだるっこし言いい方ではなく「助けてください。震災に遭いました。」と「助けてください」からはじめてもいいのだ。誰だっていのちの危険を感じたときは「助けと」と叫ぶところから始める。でも、和合をはじめ、多くの人々は「ありがとうございました」からはじめ、「助けてください(救ってください)」を後回しにしている。しかも、その「助けてください」は「私を」ではないのだ。和合は「私が暮らした相馬市を」と言っている。「暮らした」と過去形なのは、和合は、いまは南相馬市に暮らしていないからだろう。南相馬市は、和合のいまの暮らしの場所ではない。いわば、他人の場所。他人を助けてくださいと言っているのだ。
 他人の場所。他人。--しかし、それは「他人の場所」でもなければ、「他人」でもない。

あなたにとって故郷とは、どのようなものですか。私は故郷を捨てません。故郷は私の全てです。

 南相馬市。それは「故郷」である。「故郷」とは自分が生まれ、育った場所である。そこには当然、自分と一緒にそだった人がいる。暮らしがある。「私」が存在するのは、そういう場所と、そういう人がいたからである。生きていくとき、「他人」は存在しないのだ。それは「私」なのだ。
 私は、いま、ここで、こうして生きている。ありがたいことに、生きている。だから、別の場所で、いきようと必死になっているもうひとりの「私」、もうひとりの「私たち」を助けてください。
 その「もうひとりの私たち」が「ありがとう」というまで、私はそのひとたちのそばを離れない。捨てない。
 和合は、そう語っているのだ。



現代詩手帖 2011年 05月号 [雑誌]
クリエーター情報なし
思潮社
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東野正『否熟調』

2011-05-06 13:59:59 | 詩集
東野正『否熟調』(セスナ舎、2011年01月11日発行)

 「否熟」ということばも、私にはわからない。こんなことばがあるのかどうか知らないが、私は聞いたことがない。そして、「わからない」と書いたことと矛盾するのだが、熟すること(成熟することを)否定している、「未熟」を積極的に選びとろうとしていることは、わかりすぎてしまう。この「わかりすぎる」はつまらない。--だから、というのこの「だから」のつかい方は間違っているかもしれないが、だから、私が最初に書いた「わからない」とは「わかりすぎてつまらない」という意味になる。
 どういうことか、というと。たとえば、「確信の敗走者」。

常に正しい敗者であり
充実した弱者でありたい
辛うじて鋭い悲鳴をあげることだけができる
非力さを自負するだけの
無能なものでありたい

「高度資本主義」なるものが押し付ける
<便利さ>という途轍もない浪費が
排出する廃棄物に埋もれることを拒否し
<豊かさ>という空虚な反映の
虚偽と偽善に味付けされた人工飼料を
吐き捨てる

 ここに書かれている「高度資本主義」に対する嫌悪はわかる。「高度資本主義」の「勝者」であるよりも「敗者」の方が「人間的」豊かであり、「人間的」な豊かさを欠いた「豊かさ」は空虚である--だから「勝者」よりも「敗者」であることを選ぶ。「敗者」であることは選択であり、そして「確信」である。
 --このセンチメンタルは、語り尽くされている。「流通」しすぎている。「流通」しすぎていて、もはやどれが「本流」かわからないくらいである。
 こんなことばを読むのなら、「高度資本主義」を勝ち抜くために私はこんなことをした、という「勝者」のことばを読みたい。ここをこんなふうにこじ開けたら、さらにこんなことができたという「勝者」の「声」を聞きたい。きっと、その方が「敗者」よりも「逸脱」している。「敗者」というのは「逸脱」ではないのだ。
 もし積極的「敗者」(確信犯としての敗者)がいるとすれば、彼・彼女は「鋭い悲鳴」などあげはしない。「非力さ」も自負しないし、「無能」であるとも言わないはずである。まったく違う「基準」を生きているわけだから、「敗者」ということば自体が存在しないはずである。
 東野のことばは「流通」言語にすぎず、この言語の運動を「世界と生の意味を問う」と評価する城戸朱理のことばは、まったくばかげていると思う。
 特に、東野の5冊組の詩集が東日本大震災と関係づける形で、そういう評価に組み込まれたことは、なんともばかげていると思う。復興は急がなければならないが、「効率主義」の「解体・再構築」で復興かおこなわれるなら、人間の生は苦しくなる。そんなことに詩は加担してはならない。



 どこで読んだのか忘れてしまったが、あるところで人間のすばらしい「逸脱力」を感じた。避難所で暮らしているひとがいる。医者(ボランティア?)が「必要なもの、ほしいものはないか」と聞いたら「バイアグラがほしい」とこたえたそうである。医者は、段ボールのしきりくらいしかないところで、バイアグラをつかうなんて、いったい、どうやって、と驚いたそうだが、「バイアグラがほしい」と言ったひとの「逸脱」する力にこそ、私たちは身を寄り添わせるべきなのだ。「そんなこと(?)するより、もっとすることがあるでしょ?」(だってねえ、勃起して困る、なんとか処理したいというんじゃないのだからねえ、よけい「そんなことするより」と言いたくなるかもねえ)、ではなくて、「復興」とか「協力」とかではなく、どうすることもできない「気持ち(欲望)」があるということ、それこそが生きているということなのだから。セックスしたって何も解決しない。失われた家がもどってくるわけではない。けれど、そういうときこそセックスしたいのだ。
 そこまでの「逸脱」ではないけれど、山本リンダがボランティアで避難所を訪問したときの話も感動的だった。「あ、山本リンダだ、『狙い撃ち』歌って」と声をかけられて歌を歌った。「歌なんか歌っているときじゃないのに」と思ったが、歌ったらみんながとても喜んでくれたと語っていた。山本リンダの歌も、復興とは関係がないし、食料や水の確保とも関係がない。効率的な暮らしからは「逸脱」している。けれど、人間は、そういう「逸脱」がないと生きていけないのである。
 そういう「逸脱」する力を、ことばにどう関係づけていくか。問われているのは、たぶん、そういうことだろう。そういうことばは「遅れて」やってくる。だいたい、「逸脱」を口にすることは、はばかられる。「バイアグラがほしい」というのは、まあ、普通はちょっとはばかられる。高血圧の薬、糖尿病の薬が必要というのとはかなり違うからねえ。でも、だからこそ「意味」がある。そういうことばこそ、「世界と生の意味を問う」のである。そういうことばこそ、「復興」という「意味」を解体し、「再び構築する」力なのである。



 感想が東野の作品から離れてしまった。セックスのことを書いたので、セックスにもどる。「月交」という作品。

満月の夜に真理は少し歪み月はその時だけ赤い声をいつも産声のようにあげるがその声は女たちにしか聞こえない男たちは外れた所で聞き耳をたててはいるのだが

満月の夜に月は少し膨らみ女たちは恥じらいのなかでそれを受け入れる準備をするの男たちは月をはがいじめにしてでも引き離そうとあがいている

満月の夜に月の精が地球に降り注ぎ地球の女たちは月の子を娠み男たちは月の東側に向かってあてもなく空砲を打ちつづけるのだ

 月の光をあびて、かわる女たち。月の光との性交(セックス)。これは、まあ昔からあるテーマではあるかもしれない。けれども、それは書くだけの価値はあることである。どんなふうに同じテーマからことばが「逸脱」していけるか--それはだれもがやってみるべきことなのだと思う。
 しかし。
 その「逸脱」を「月光(げっこう)」ではなく、「月交(げっこう)」と「視覚」のことばで「意味」を先取りしてしまう(効率的に「意味」を再構築してしまう)と、もう詩ではなくなる。

 「西洋現代哲学」というものを読んだことがないので、私の「脱構築・再構築」に対する考え方は間違っているのだろうけれど、私は「間違い」を選びとりたいのだ。「誤読」を選びとりたいのだ。
 城戸朱理が東野を評価して書いているような「言葉の意味を解体し、再び構築し、世界と生の意味を問う」方法に与することはしたくないのだ。
 と、きょうも城戸批判になってしまった。
コメント (2)
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