和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(19)(「現代詩手帖」2011年05月号)
私は眼の手術をして、以後、長い間パソコンに向かっていることがむずかしいので、とぎれとぎれにしか書くことができないのだが、きのう書いたこと--存在しなくても「書くことができる」何かがあるということ、和合のことばの運動は深いつながりがあると、私は感じている。
きのう読んだ部分のつづき。
いま、和合が書いている「余震」は現実の余震ではない。余震は、ない。ないけれど、そのないはずの余震を和合は書くことができる。
では、そのないはずの余震を書くとき、和合は、嘘を書いているのか。
そうではない。
余震は、現実には存在はしない。けれど、「(和合)の中には余震がある。」それは「余震が私(和合)に宿るようになってしまった」からである。
和合の「中」--この「中」は、きのう読んだことばに置き換えるなら、「内側」である。(私たちの暮らしの内側に、果肉がある。)その内側にあるものを、和合は「宿る」とも言い換えている。「肉体」そのものとして和合は感じ取っている。
現実には(和合の「外側」には)余震はない。けれど、和合の「内側・中」にそれは「肉」として「宿っている」。
和合の外側(現実)にはないけれど、和合は和合の「内側」にあるものを書いている。それは、余震について語ったことばであるが、また、「鹿の鳴き声」も、同じように和合の「内側」にあるものなのだ。
そして、その和合の「内側」にあるものこそ、もしかすると「絶対」かもしれない。
「内側」にある余震、肉体に宿っている肉体としての余震というものを書いたあと、和合は、また不思議なことばを書いている。
これは、部屋の中で紙を蹴散らしている男が「宇宙の中に一人」しかない、ということをあらわしているわけではない。そういう男がほんとうに「一人」かどうかなど、誰にもわからない。けれど「宇宙に一人」と和合は書く。
このとき和合が感じているのは「孤独」というものとは少し違うと思う。「一人」と書きながら、和合が感じているのは「一人」と「宇宙」が「一体」になっている感覚だ。「宇宙」と「和合」が区別がつかなくなっているという感覚だ。
その「一体感」に「鹿の鳴き声」がさらに重なる。
「宇宙」「鹿の鳴き声」が「和合(ひとりの肉体)」のなかで、緊密に結びつく。それを結びつける説得力のあることば(説明できることば)は、きっとどこにもないのだが、そのどこにもないことばだけがつかみとれる「真実」を和合はここでは書いているのだ。
存在しなくても「書く」ことができる。その、ことばの、不思議な力で、存在しないものを、存在させているのだ。
このことばの不思議な力に突き動かされているからこそ、逆に、次のようにも書く。
「私の文字は私の心など少しもとらえない。」とは、和合がほんとうに書きたいのは和合の「肉体の内側にある余震」「肉体の内側に宿っている宇宙」「肉体の内側の鹿の鳴き声」だからである。それは、いま、こうやって、かりそめに「余震」「宇宙」「鹿の鳴き声」ということばにしているが、ほんとうは違うことば--もっと違うことばで書かなければならないものだと和合は感じているのだ。
「時の昂然」だけがある。ことばは動いているけれど、その動いたことばが何を捕らえるか--それは「定かでは無い」。ことばと、もの、ものの運動、あるいは精神の運動は、合致しているかどうか、わからないのだ。
確かなことは、ことばが動いて、何かを書きたいと思っていること、それだけだ。何かを書きたいと思っている、というのは、ことばになろうとして、まだことばにはならないことばがあるということだ。
「鹿の鳴き声」と、ことばにしてみた。それは確かにことばではある。けれどそれだけでは、和合の「肉体の内側に宿っている余震」とともにある和合の思っていること、感じていることと強固な結びつきはない。「鹿の鳴き声」は和合の「肉体の内側」では確かなものだが、ことばにしたとたん、つまり外に出た途端「絶対」ではなくなる。それ、何?と問われたら、それを説明することばが見つからない何かでしかない。
和合は、「矛盾」そのものを書いている。ことばを書きながら、その書いたものを「言葉が何を捕らえようとしたのか、定かではない」と平気で書いている。この「平気」と「矛盾」のなかに、「思想」がある。ここからしか、「思想」は生まれてこない。
私は眼の手術をして、以後、長い間パソコンに向かっていることがむずかしいので、とぎれとぎれにしか書くことができないのだが、きのう書いたこと--存在しなくても「書くことができる」何かがあるということ、和合のことばの運動は深いつながりがあると、私は感じている。
きのう読んだ部分のつづき。
余震か。否。
余震か。否。しかし、常に、余震が私に宿るようになってしまった。揺れは恐ろしい。この恐怖が、常に私に何かを書かせる。詩の礫が夥しく湧いてくる。キーを叩き、メモをする。レコーダーに吹き込む。叫びながら部屋を歩き、床の紙片をこの男は、蹴散らしている。宇宙の中に一人。鹿の鳴き声。
はっきりと覚悟する。私の中には余震がある。
(48ページ)
いま、和合が書いている「余震」は現実の余震ではない。余震は、ない。ないけれど、そのないはずの余震を和合は書くことができる。
では、そのないはずの余震を書くとき、和合は、嘘を書いているのか。
そうではない。
余震は、現実には存在はしない。けれど、「(和合)の中には余震がある。」それは「余震が私(和合)に宿るようになってしまった」からである。
和合の「中」--この「中」は、きのう読んだことばに置き換えるなら、「内側」である。(私たちの暮らしの内側に、果肉がある。)その内側にあるものを、和合は「宿る」とも言い換えている。「肉体」そのものとして和合は感じ取っている。
現実には(和合の「外側」には)余震はない。けれど、和合の「内側・中」にそれは「肉」として「宿っている」。
和合の外側(現実)にはないけれど、和合は和合の「内側」にあるものを書いている。それは、余震について語ったことばであるが、また、「鹿の鳴き声」も、同じように和合の「内側」にあるものなのだ。
そして、その和合の「内側」にあるものこそ、もしかすると「絶対」かもしれない。
「内側」にある余震、肉体に宿っている肉体としての余震というものを書いたあと、和合は、また不思議なことばを書いている。
宇宙の中に一人。
これは、部屋の中で紙を蹴散らしている男が「宇宙の中に一人」しかない、ということをあらわしているわけではない。そういう男がほんとうに「一人」かどうかなど、誰にもわからない。けれど「宇宙に一人」と和合は書く。
このとき和合が感じているのは「孤独」というものとは少し違うと思う。「一人」と書きながら、和合が感じているのは「一人」と「宇宙」が「一体」になっている感覚だ。「宇宙」と「和合」が区別がつかなくなっているという感覚だ。
その「一体感」に「鹿の鳴き声」がさらに重なる。
「宇宙」「鹿の鳴き声」が「和合(ひとりの肉体)」のなかで、緊密に結びつく。それを結びつける説得力のあることば(説明できることば)は、きっとどこにもないのだが、そのどこにもないことばだけがつかみとれる「真実」を和合はここでは書いているのだ。
存在しなくても「書く」ことができる。その、ことばの、不思議な力で、存在しないものを、存在させているのだ。
このことばの不思議な力に突き動かされているからこそ、逆に、次のようにも書く。
余震か。否。私はある日、避難所の暗がりで、手帳に何かを書き殴っていた。私の文字は私の心など少しもとらえない。しかし書くしか無い。この徒労感は初めから勝負が決定している。書いているが、何も書けていないからだ。避難所の暗がりで、私は阿呆な修羅であった。
(48ページ)
「私の文字は私の心など少しもとらえない。」とは、和合がほんとうに書きたいのは和合の「肉体の内側にある余震」「肉体の内側に宿っている宇宙」「肉体の内側の鹿の鳴き声」だからである。それは、いま、こうやって、かりそめに「余震」「宇宙」「鹿の鳴き声」ということばにしているが、ほんとうは違うことば--もっと違うことばで書かなければならないものだと和合は感じているのだ。
余震か。否。私はある日、避難所の正午。米と鶏肉とコンソメスープを貰った。むしゃぶり食べた。舌鼓を打ちながら、書き殴った。帳面を開く「このまま何かが大きく動き続けて、大きく変わらないとしたらどうなるか」。時の昂然だけが私には思い出せるが、言葉が何を捕らえようとしたのか、定かでは無い。
(48ページ)
「時の昂然」だけがある。ことばは動いているけれど、その動いたことばが何を捕らえるか--それは「定かでは無い」。ことばと、もの、ものの運動、あるいは精神の運動は、合致しているかどうか、わからないのだ。
確かなことは、ことばが動いて、何かを書きたいと思っていること、それだけだ。何かを書きたいと思っている、というのは、ことばになろうとして、まだことばにはならないことばがあるということだ。
「鹿の鳴き声」と、ことばにしてみた。それは確かにことばではある。けれどそれだけでは、和合の「肉体の内側に宿っている余震」とともにある和合の思っていること、感じていることと強固な結びつきはない。「鹿の鳴き声」は和合の「肉体の内側」では確かなものだが、ことばにしたとたん、つまり外に出た途端「絶対」ではなくなる。それ、何?と問われたら、それを説明することばが見つからない何かでしかない。
和合は、「矛盾」そのものを書いている。ことばを書きながら、その書いたものを「言葉が何を捕らえようとしたのか、定かではない」と平気で書いている。この「平気」と「矛盾」のなかに、「思想」がある。ここからしか、「思想」は生まれてこない。
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