詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(19)

2011-05-22 23:59:59 | 詩の礫
和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(19)(「現代詩手帖」2011年05月号)

 私は眼の手術をして、以後、長い間パソコンに向かっていることがむずかしいので、とぎれとぎれにしか書くことができないのだが、きのう書いたこと--存在しなくても「書くことができる」何かがあるということ、和合のことばの運動は深いつながりがあると、私は感じている。
 きのう読んだ部分のつづき。

余震か。否。

余震か。否。しかし、常に、余震が私に宿るようになってしまった。揺れは恐ろしい。この恐怖が、常に私に何かを書かせる。詩の礫が夥しく湧いてくる。キーを叩き、メモをする。レコーダーに吹き込む。叫びながら部屋を歩き、床の紙片をこの男は、蹴散らしている。宇宙の中に一人。鹿の鳴き声。

はっきりと覚悟する。私の中には余震がある。
                                 (48ページ)

 いま、和合が書いている「余震」は現実の余震ではない。余震は、ない。ないけれど、そのないはずの余震を和合は書くことができる。
 では、そのないはずの余震を書くとき、和合は、嘘を書いているのか。
 そうではない。
 余震は、現実には存在はしない。けれど、「(和合)の中には余震がある。」それは「余震が私(和合)に宿るようになってしまった」からである。
 和合の「中」--この「中」は、きのう読んだことばに置き換えるなら、「内側」である。(私たちの暮らしの内側に、果肉がある。)その内側にあるものを、和合は「宿る」とも言い換えている。「肉体」そのものとして和合は感じ取っている。
 現実には(和合の「外側」には)余震はない。けれど、和合の「内側・中」にそれは「肉」として「宿っている」。
 和合の外側(現実)にはないけれど、和合は和合の「内側」にあるものを書いている。それは、余震について語ったことばであるが、また、「鹿の鳴き声」も、同じように和合の「内側」にあるものなのだ。 

 そして、その和合の「内側」にあるものこそ、もしかすると「絶対」かもしれない。

 「内側」にある余震、肉体に宿っている肉体としての余震というものを書いたあと、和合は、また不思議なことばを書いている。

宇宙の中に一人。

 これは、部屋の中で紙を蹴散らしている男が「宇宙の中に一人」しかない、ということをあらわしているわけではない。そういう男がほんとうに「一人」かどうかなど、誰にもわからない。けれど「宇宙に一人」と和合は書く。
 このとき和合が感じているのは「孤独」というものとは少し違うと思う。「一人」と書きながら、和合が感じているのは「一人」と「宇宙」が「一体」になっている感覚だ。「宇宙」と「和合」が区別がつかなくなっているという感覚だ。
 その「一体感」に「鹿の鳴き声」がさらに重なる。
 「宇宙」「鹿の鳴き声」が「和合(ひとりの肉体)」のなかで、緊密に結びつく。それを結びつける説得力のあることば(説明できることば)は、きっとどこにもないのだが、そのどこにもないことばだけがつかみとれる「真実」を和合はここでは書いているのだ。
存在しなくても「書く」ことができる。その、ことばの、不思議な力で、存在しないものを、存在させているのだ。

 このことばの不思議な力に突き動かされているからこそ、逆に、次のようにも書く。

余震か。否。私はある日、避難所の暗がりで、手帳に何かを書き殴っていた。私の文字は私の心など少しもとらえない。しかし書くしか無い。この徒労感は初めから勝負が決定している。書いているが、何も書けていないからだ。避難所の暗がりで、私は阿呆な修羅であった。
                                 (48ページ)

 「私の文字は私の心など少しもとらえない。」とは、和合がほんとうに書きたいのは和合の「肉体の内側にある余震」「肉体の内側に宿っている宇宙」「肉体の内側の鹿の鳴き声」だからである。それは、いま、こうやって、かりそめに「余震」「宇宙」「鹿の鳴き声」ということばにしているが、ほんとうは違うことば--もっと違うことばで書かなければならないものだと和合は感じているのだ。 

余震か。否。私はある日、避難所の正午。米と鶏肉とコンソメスープを貰った。むしゃぶり食べた。舌鼓を打ちながら、書き殴った。帳面を開く「このまま何かが大きく動き続けて、大きく変わらないとしたらどうなるか」。時の昂然だけが私には思い出せるが、言葉が何を捕らえようとしたのか、定かでは無い。
                                 (48ページ)

 「時の昂然」だけがある。ことばは動いているけれど、その動いたことばが何を捕らえるか--それは「定かでは無い」。ことばと、もの、ものの運動、あるいは精神の運動は、合致しているかどうか、わからないのだ。
 確かなことは、ことばが動いて、何かを書きたいと思っていること、それだけだ。何かを書きたいと思っている、というのは、ことばになろうとして、まだことばにはならないことばがあるということだ。
 「鹿の鳴き声」と、ことばにしてみた。それは確かにことばではある。けれどそれだけでは、和合の「肉体の内側に宿っている余震」とともにある和合の思っていること、感じていることと強固な結びつきはない。「鹿の鳴き声」は和合の「肉体の内側」では確かなものだが、ことばにしたとたん、つまり外に出た途端「絶対」ではなくなる。それ、何?と問われたら、それを説明することばが見つからない何かでしかない。

 和合は、「矛盾」そのものを書いている。ことばを書きながら、その書いたものを「言葉が何を捕らえようとしたのか、定かではない」と平気で書いている。この「平気」と「矛盾」のなかに、「思想」がある。ここからしか、「思想」は生まれてこない。





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手塚敦史『トンボ消息』

2011-05-22 15:08:13 | 詩集
手塚敦史『トンボ消息』(ふらんす堂、2011年04月23日)

 手塚敦史『トンボ消息』には複数の詩が書かれている。複数というのは、単に作品の数のことではなく、複数の種類のことである。--と、書いても、私の感じていることをあらわしたことにならない。
 少し私の個人的な体験を書く。
 私は網膜剥離で手術をした。失明は免れたが視力は甚だしく劣化した。ほとんど見えない。ほとんど見えないのだが眼鏡で矯正すると、視力は1.5 までは回復する。しかし、これからが問題である。右目と左目の視力に差がありすぎる。矯正するときのレンズの度数が違いすぎる。それで、たとえば左右とも1.0 まで見えるようにして眼鏡をつくると、世界が突然散らばったようになってしまう。遠近感が狂って像が一つにならない。左目の像と右目の像が、てんでに存在し、世界が複数になる。
 慣れてくると大丈夫らしいが、非常に疲れるらしい。私はテスト段階で諦めてしまった。ものが散らばる感じが、眩暈につながり、吐き気がしてくる。
 このときの感じに、手塚の詩は似ている。(吐き気がしてくるというのではないが、)世界が散らばってしまう感じがする。世界を繋ぎ止めているものが解体し、「もの」がそれぞれ独自にそこに存在している感じがする。
 これは一篇の詩のなかでも起きる。
 「物」というタイトル(と、思う)の作品。

もしも水をためる中の
物に いずれの世の事を
うずめたら
かかる際限が
波紋になる

 「水をためる中の/物に」とは何だろう。「水」と「ためる」と「物」がばらばらにことばとなっている。瓶とか壺とかを私は想像するが、瓶や壺を「水をためる物」とはいっても、「水をためる中の物」とはいわない。「中の」がことばをばらばらにしてしまっている。
 そして、その「中の」は、「うずめたら」と不思議な具合に結びついている。
 「水をためる物」、たとえば瓶の「中」に、水の代わりに「世の事を/うずめたら」と私は手塚の書いていることばを無視して読んでしまう。
 私の視力では、手塚の見ている世界をそのまま「遠近感」のある世界として把握できないから、ついついそうしてしまう。
 だが、そう読むと読んだで、不思議な反動がかえってくる。
 私の読み方が「むりやり」であるという意識が、「像」を結んだはずの世界をもう一度ばらばらに散らしてしまうのである。「水」「ためる」「中」「物」「世の事」「うずめる」が、独立したまま、けっしてひとつにはなるまいと踏ん張っている感じが強く響いて切る。
 これは、私のように視力の弱い人間にはつらい。くらくらする。眩暈がする。
 そして、あ、この眩暈はたしかに「波紋」の揺らぎかもしれないなあとも思うのである。

身を硬くした黒馬がはげしく
鼻で息をする。
運び出す土木は 道のほとりに
積まれ、
作業場で二人が顔を見合わせたら
なにかが沈殿していくばかり。

 これは先の詩のつづきだが、黒い馬が木材を運んでいるイメージがまず浮かぶが、ここには「材木」ではなく「土木」ということばがつかわれている。「運び出す土木」。そして、それは「積まれ」る。
 何が書かれている?
 ひとつひとつのことばはわかるが、そして、そこには何らかの脈絡を感じるが、「流通言語」に置き換えようとすると、置き換わらない。ひとつひとつのことばがばらばらに散らばってしまう。遠近感がなくなってしまう。
 「作業場」の「二人」が誰と誰なのか、それもわからない。
 けれど、この遠近感の散らばりを読んでしまうと、なぜか「なにかが沈殿していく」という感覚は納得できるのだ。
 ことばの遠近感がほどかれ、ばらばらになり、ことばを繋ぎ止めていたものが、「なにか」となってことばの底に沈んでいく--ような気がするのである。
 まあ、これは、私のいつもの「誤読」であるのだが……。

もしも水をためる中の
物に かつての世の事を
うつせたら
 一滴、二滴、
ひろがった中の
物は 水上(みなかみ)に照り返って揺らぎ、

水面にうつる
 陽の光を わたしの指さきが
かきまわしても
 一人のもつ値(あたい)により
あやうげに護られつづける 物質よ!

かかる際限の波紋となれ

 かかる際限の
波紋となれ

 何が書いてあるのか--それは、わからない。ただ私は、ことばがばらばらに散らばり、遠近感のない「波紋」となって揺れているのを感じる。
 そういう「感じ」を手塚は、彼のまわりに存在する「物」のひとつひとつに感じている、ということかもしれない。
 そして、その「物」はそれぞれの「ことば」になる。
 「物」が「ことば」になる、というのは変な言い方だが(変だと、私は承知して書いているのだが)、手塚は「物」(存在)ではなく、ことばで世界を考えている、感じているという印象がある。--私には、そう感じられる。
 手塚にとって、世界に存在するのは「ことば」である。「物」が名付けられ、その「名付け」が「ことば」である。名付けるとき「物」は「ことば」に「なる」。そして、いったん「ことば」になってしまうと、その「ことば」から「物」が引き剥がされ、「物」同士の連絡(遠近感)が崩れ、「ことば」が「物」とは関係なく不思議な遠近感を作り上げていく。
 そう感じられる。
 たとえば、「Sonnet 3」(たぶん、これがタイトル)。

指に来(きた)す感覚はあけがた見失ったカワセミの緑青(ろくしょう)を
なぞり、地上に雨をもたらした。パレットに溶いた感触は、
取りも直さず伝言となり、最愛のものに雨をもたらした。
…「わたしは狂ってなどいない、…「ただ溢れでている …「ぬくもりだ

 「指に来す感覚はあけがた見失ったカワセミの緑青を/なぞり、地上に雨をもたらした。」ということばがひとつの文章だと仮定して(仮定の根拠は、句点「。」がそこにあるからだ)、指の感覚がカワセミの緑青に、目のかわり触れるということはあっても、その感覚が「雨をもたらす」ということは「現実」にはありえない。「雨」は気象であり、人間の感覚とは無関係である。そこには「遠近感」というか、「脈絡」はない。ないのだけれど、「ことば」はそこに「脈絡」をつくりあげることができる。「遠近感」をつくりあげることができる。自分の肉体の中の感覚と雨を結びつけることができる。
 こういうことは、手塚のことばを離れて考えても、ありうる。ひじが痛むと雨が降る--というのは湿度や気温の変化がひじに響いてくるということなのだが、そのことを逆にひじの痛みが雨を降らせると言いなおすとき、そこには「肉体」が世界を統一する、世界に脈絡をつくる、遠近感をつくるものとして見えてくるということがある。

 この、ことばにならない「肉体感覚」のようなものが、ことばをどこかで統一している。どこかに、強い肉体があり、それがことばに独自の遠近感を与えている。
 ことばは、完全に遠近感を失って散らばっているのだが、散らばりながらも、どこかにそれをつないでいる「肉体」がある。感覚がある。
 違和感と共感が、ばらばらのまま押し寄せてくる。くっきり見えることが、逆に遠近感を壊し、世界をばらばらにする--左右の度の大きく違った眼鏡で世界を見たときのような、不思議な眩暈を私は感じる。私の視力ではとらえることのできない「遠近感」を手塚が生きているという生々しさが、強く押し寄せてくる。





トンボ消息
手塚 敦史
ふらんす堂


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