詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(7)

2011-05-10 23:59:59 | 詩の礫
和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(7)(「現代詩手帖」2011年05月号)

 「放射能の雨の中で、たった一人です。」と「一人」を意識するとき、「一人」以外が見えてくる。それは「南相馬市」であり、「故郷」であり、「家族」であった。「故郷」を和合は「私の全て」とも書いていた。
 このことを和合はまた書き直している。

あなたには大切な人がいますか。一瞬にして失われてしまうことがあるのだと…少しでも考えるなら、己の全存在を賭けて、世界に奪われてしまわない為の方法を考えるしかない。
                                 (39ページ)

 「私の全て」を和合は「大切な」ということばで言いなおしている。言わなければならないとき、ひとは何度でも繰り返す。繰り返すだけではなく、何度も言いなおす。それはひとことでは言えないからである。ことばに「意味」があるとして、そのことばでつたえられる「意味」はかぎられている。だから、少しずつ言いなおし、同時に繰り返す。
 「故郷は私の全てです」は「故郷は私の大切なものです」ということになる。そして、いま私は「大切なもの」と書き直してみたのだが「故郷」はもちろん「もの」ではない。「故郷は私に大切な場です」と言いなおせば、少しは正確になるのか。そうでもないだろう。「故郷」とは「場=空間」でもない。それを超えている。だから、和合は言い換えてみる。

あなたには大切な人がいますか。

 「故郷」と呼ばれていたのは「場」であると同時に「大切な人」だったのだ。

あなたにとって故郷とは、どのようなものですか。私は故郷を捨てません。故郷は私の全てです。

 ということばは、

あなたにとって「大切な人」とはどのようなものですか。私は「大切な人」を捨てません。「大切な人」は私の全てです。

 ということと、同じ「意味」なのである。そして、「大切な人」は「家族」でもある。つまり、「私(和合)」と同時に生きている人のことである。「同時に生きている人」は、「一家」を超えて、その地域全体に広がる。そのとき、「故郷」というものがもう一度ことばとしてあらわれてくる。
 ことばは言いなおされ、繰り返され、少しずつ「意味」を回復してくるのだ。和合は言い直し、繰り返すことで、ことばを回復させようとしているのだ。

 きょう読んでいる3行には、ひとつ不思議なことばがある。「世界」である。

(大切な人を)己の全存在を賭けて、世界に奪われてしまわない為の方法を考えるしかない。

 和合がこう書くとき、「世界」は「故郷」ではない。「世界」のなかに「故郷」があるが、それは「世界」とは合致しない。「地球」でもない。いままで和合がつかってきたことばで言いなおすなら、それは何になるだろうか。和合は何を言い換えて「世界」と言っているのだろうか。
 ここで書かれていることは東日本大震災であり、津波である。大震災、津波が「大切な人」を奪っていった。大震災(津波)のことを、和合は「事象」と呼んでいた。ここでいう「世界」は「事象」の言い換えなのである。
 でも、その「事象」に「大切な人」を奪われないためには何をすればいい?
 強固なビルを建てる? 強固な、そして巨大な防潮堤をつくる?
 ああ、そんなことは、いまは間に合わない。次のときのためにもちろんそうすることは重要だが、それとは違うことも和合は考えている--と私は思う。
 「事象」ということばは、こういう文脈でつかわれていた。

ものみな全ての事象における意味などは、それらの事後に生ずるものなのでしょう。

 「事象」に遅れて「意味」が生まれる。「事象」はそれまでの「意味」を根こそぎ奪っていく。大震災は、それまでのことばで考えられていた意味をたしかに奪っていった。だから、大震災を語ることばが、いまは、まだないのだ。手さぐりで、和合は、そのことばを探している。
 「物事」ということばも、もぼ「事象」と同じつかわれ方をしていた。
 「事象(物事)」はまた、「大切な人」を奪っていった。それを「奪われてしまわない為に」何をすべきか。
 あ、和合は、ことばをとてもていねいにつかいわけている。「事象・物事(大震災)」は「大切な人」を奪っていった。命を奪われた。けれど、その「大切な人」が奪われて「しまわない」為に何をすべきか。どんな方法があるが。
 言い換えると、「奪われた」大切な人を、その奪っていった「事象・物事」から、どう奪い返すか。
 「いのち」は奪い返せないかもしれない。亡くなった人を生き返らせることはできない。けれども、「意味」はどうだろうか。「意味」は奪い返せるかもしれない。

あなたに大切な人がいますか。

 これは、あなたに「大切な意味」がありますか?でもあるのだ。「大切な意味」をもっていますか? いま、起きたこと、いま起きている「事象・物事」に全ての「意味」が奪われ、どんな「意味」も見つけることができないでいる。そこから、どんな「意味」を語ることで、いま起きたことと戦うのか--どんなふうに「睨みつけ」、「私」を世界と向き合わせるのか。「大切な意味」をどうやって生み出すか--生み出すことによって、奪われた「意味」を奪い返すか。
 この答えは簡単には出ない。ただ、「考えるしかない」。
 この「考える」こと、これが「命のかけひき」そのものになる。「事象」が「命」を奪っていく。奪っていった。それを奪われたままにしておくのではなく、奪われてしまわないように、奪い返す--それを考える。
 でも、むずかしい。

 「世界」はもしかすると、「事象」を超えるものかもしれない。「世界」は人間のかかわることのできないものを含んでいるかもしれない。--と思うのは、次のことばがあるからだ。

世界は誕生と滅亡の両方を、意味とは離反した天体の精神力で支えて、やすやすと在り続けている。

 「世界」は「事象」を超えて、「事象」が起きた「宇宙(天体)」全体を指している。「天体の精神力」ということばが、そのことを語っている。「世界」は「天体の精神力で支え」られている。
 そして、ここでも「意味」「離反」ということばがつかわれている。「意味」「離反」は最初は、次のようにつかわれていた。

物事と意味には明らかな境界がある。それは離反していると言っても良いかもしれません。

 そのことばは、「世界は誕生と滅亡の……」に重ね合わせると、「世界」(事象・物事をのみこむ天体)と「大切な人・大切な意味」との間には、明らかな境界があり、「離反」している。「世界(事象・物事)」は人間とは違った「精神力」で動き、存在しつづけている。「天体」の運動はたしかに人間の運動とは違う。人間が何をしようが天体は関係なく動いている。
 ここで和合か書きたいことが、私にはよくわからないが、気にかかることがひとつある。
 ここで、和合は「精神力」ということばをつかっている。「天体の精神力」。和合は大震災を、人間の範疇、あるいは地球という範疇を超えて、宇宙のできごととしてとらえると同時に、そこに「精神力」を見ている。
 「天体の精神力」とは、しかし、何?
 わからない。
 わかるのは、いや、私がおぼろげに感じるのは、いま、人間こそ「精神力」を必要としていると和合が感じているに違いない、ということだ。
 人間の思いとは完全に乖離した「精神力」(離反した「精神力」)が「天体」を支えている。そして、それが人間から「大切な人」を奪いさっていく。それを奪いさられたままにしておくのではなく、人間の側に取り戻すには、「人間の精神力」が必要だと和合は感じている。
 「世界」が「意味」を奪いさっていくなら、その「意味」を奪い返すのもまた「精神力」なのだ。
 そして、「人間の精神力」とはどんな方法で、そこにあるということを示すことができるか。また、それはどんな方法でうごかすことができるのか。
 ことばを動かすこと。
 和合は、そう明確には書いていないが、私は、そう感じる。ことばを動かす。そのことばのなかに「人間の精神」がある。
 「意味」ではなく「精神」。
 「意味」に対して「精神(精神力)」で和合は戦おうとしている。「たった一人」で。私は、その戦いの側に立ちたい。私のことばは、まだ動かない。和合のように大震災とは向き合うことができない。だから、和合の側に立ち、和合のことばに沿う形で、私のことばが動いていけるようにしたい。
 いま、そう思っている。


地球頭脳詩篇
和合 亮一
思潮社
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誰も書かなかった西脇順三郎(216 )

2011-05-10 10:47:15 | 誰も書かなかった西脇順三郎
誰も書かなかった西脇順三郎(216 )

 『禮記』のつづき。「生物の夏」のつづき。

ピー
紙のみどりの蛇ののびる音だ
プッスー
ゴムの風船玉がしぼむ音だ
ポウー
孔子やナポーレオンのメリケン粉の
人形やきの言葉だ

 この部分の「音」もとてもつまらない。即物的すぎて、イメージが破られない。イメージがかたまってくる。粘着力をもって、しつこくからみついてくる感じがする。
 西脇がこんな音を書くとは不思議でしようがない。
 唯一おもしろいと思うのは(私がこの部分について書く理由は)、「音」が「言葉」にかわっていることだ。「ピー」は「音」、「プッスー」も「音」、けれど「ポウー」は「言葉」。--これは、しかし「意味的」には同じなのである。私がおもしろいと思うのは、西脇が「音」をはっきりと「言葉」と同義につかっている「証拠」がここになるからだ。
 西脇にとって「音」とは「言葉」なのである。
 そして、「音」と「言葉」に何か違いがあるかといえば、「言葉」には「意味」があるということだろう。「音」は「無意味」であるのに対し、「言葉」は確実に「意味」をもっている。
 この「意味」を含んだ「言葉」という表現をつかったために、西脇のことばは次の行からびっくりするくらい変わってしまう。「意味」だからけになってしまう。「音」の軽さを失ってしまう。

プッスーンー
経水で呪文を書き杉林で
藁人形に釘をうちこむ
女の執念の山彦の
かすかな記憶の残りだ

 「経水」には広辞苑によればふたつの「意味」がある。ひとつは「山からまっすぐ一本の流れで海に入る水」。まあ、清らかな水ということ、純粋な水ということになるのかもしれない。それで「呪文」を書く--というのは、あってもいいかもしれない。
 けれど、もうひとつ意味「月経、月のさわり」がある。この詩の場合、どうも、これにあたる。女が執念で藁人形に釘を打ち込んでいる。しかも月経の血で呪文を書いている。これは、どうもおどろおどろしい。「神話」になりきれていない。「かすかな記憶の残り」というのが、また、執念深い。ギリシャ神話のように、激烈な運動にまで高まってしまえばおもしろいのかもしれないが、そんなふうにはならない。私には、そんなふうには感じられない。
 これもそれも、私には、書き出しにでてきた「たのみになるわ」という音が原因のような気がしてしようがない。このことばは、詩のなかほどにも出てくる。

苦痛を感ずる故にわれ存在すると
言つたとき天使は笑つた
「たのみになるわ」
この天使の存在は
永遠に夢見る夢だ
永遠は夢のかたまりだ

 ここも、私には非常につまらなく感じられる。「永遠は夢のかたまりだ」という結論(?)は、西脇のことばにしては「音楽」が欠如していて、気持ちが悪いくらいである。
 西脇の詩から嫌いな作品を選べといわれたら、私は間違いなくこの作品を選ぶだろう。

西脇順三郎コレクション (1) 詩集1
西脇 順三郎
慶應義塾大学出版会
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