和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(7)(「現代詩手帖」2011年05月号)
「放射能の雨の中で、たった一人です。」と「一人」を意識するとき、「一人」以外が見えてくる。それは「南相馬市」であり、「故郷」であり、「家族」であった。「故郷」を和合は「私の全て」とも書いていた。
このことを和合はまた書き直している。
「私の全て」を和合は「大切な」ということばで言いなおしている。言わなければならないとき、ひとは何度でも繰り返す。繰り返すだけではなく、何度も言いなおす。それはひとことでは言えないからである。ことばに「意味」があるとして、そのことばでつたえられる「意味」はかぎられている。だから、少しずつ言いなおし、同時に繰り返す。
「故郷は私の全てです」は「故郷は私の大切なものです」ということになる。そして、いま私は「大切なもの」と書き直してみたのだが「故郷」はもちろん「もの」ではない。「故郷は私に大切な場です」と言いなおせば、少しは正確になるのか。そうでもないだろう。「故郷」とは「場=空間」でもない。それを超えている。だから、和合は言い換えてみる。
「故郷」と呼ばれていたのは「場」であると同時に「大切な人」だったのだ。
ということばは、
ということと、同じ「意味」なのである。そして、「大切な人」は「家族」でもある。つまり、「私(和合)」と同時に生きている人のことである。「同時に生きている人」は、「一家」を超えて、その地域全体に広がる。そのとき、「故郷」というものがもう一度ことばとしてあらわれてくる。
ことばは言いなおされ、繰り返され、少しずつ「意味」を回復してくるのだ。和合は言い直し、繰り返すことで、ことばを回復させようとしているのだ。
きょう読んでいる3行には、ひとつ不思議なことばがある。「世界」である。
和合がこう書くとき、「世界」は「故郷」ではない。「世界」のなかに「故郷」があるが、それは「世界」とは合致しない。「地球」でもない。いままで和合がつかってきたことばで言いなおすなら、それは何になるだろうか。和合は何を言い換えて「世界」と言っているのだろうか。
ここで書かれていることは東日本大震災であり、津波である。大震災、津波が「大切な人」を奪っていった。大震災(津波)のことを、和合は「事象」と呼んでいた。ここでいう「世界」は「事象」の言い換えなのである。
でも、その「事象」に「大切な人」を奪われないためには何をすればいい?
強固なビルを建てる? 強固な、そして巨大な防潮堤をつくる?
ああ、そんなことは、いまは間に合わない。次のときのためにもちろんそうすることは重要だが、それとは違うことも和合は考えている--と私は思う。
「事象」ということばは、こういう文脈でつかわれていた。
「事象」に遅れて「意味」が生まれる。「事象」はそれまでの「意味」を根こそぎ奪っていく。大震災は、それまでのことばで考えられていた意味をたしかに奪っていった。だから、大震災を語ることばが、いまは、まだないのだ。手さぐりで、和合は、そのことばを探している。
「物事」ということばも、もぼ「事象」と同じつかわれ方をしていた。
「事象(物事)」はまた、「大切な人」を奪っていった。それを「奪われてしまわない為に」何をすべきか。
あ、和合は、ことばをとてもていねいにつかいわけている。「事象・物事(大震災)」は「大切な人」を奪っていった。命を奪われた。けれど、その「大切な人」が奪われて「しまわない」為に何をすべきか。どんな方法があるが。
言い換えると、「奪われた」大切な人を、その奪っていった「事象・物事」から、どう奪い返すか。
「いのち」は奪い返せないかもしれない。亡くなった人を生き返らせることはできない。けれども、「意味」はどうだろうか。「意味」は奪い返せるかもしれない。
これは、あなたに「大切な意味」がありますか?でもあるのだ。「大切な意味」をもっていますか? いま、起きたこと、いま起きている「事象・物事」に全ての「意味」が奪われ、どんな「意味」も見つけることができないでいる。そこから、どんな「意味」を語ることで、いま起きたことと戦うのか--どんなふうに「睨みつけ」、「私」を世界と向き合わせるのか。「大切な意味」をどうやって生み出すか--生み出すことによって、奪われた「意味」を奪い返すか。
この答えは簡単には出ない。ただ、「考えるしかない」。
この「考える」こと、これが「命のかけひき」そのものになる。「事象」が「命」を奪っていく。奪っていった。それを奪われたままにしておくのではなく、奪われてしまわないように、奪い返す--それを考える。
でも、むずかしい。
「世界」はもしかすると、「事象」を超えるものかもしれない。「世界」は人間のかかわることのできないものを含んでいるかもしれない。--と思うのは、次のことばがあるからだ。
「世界」は「事象」を超えて、「事象」が起きた「宇宙(天体)」全体を指している。「天体の精神力」ということばが、そのことを語っている。「世界」は「天体の精神力で支え」られている。
そして、ここでも「意味」「離反」ということばがつかわれている。「意味」「離反」は最初は、次のようにつかわれていた。
そのことばは、「世界は誕生と滅亡の……」に重ね合わせると、「世界」(事象・物事をのみこむ天体)と「大切な人・大切な意味」との間には、明らかな境界があり、「離反」している。「世界(事象・物事)」は人間とは違った「精神力」で動き、存在しつづけている。「天体」の運動はたしかに人間の運動とは違う。人間が何をしようが天体は関係なく動いている。
ここで和合か書きたいことが、私にはよくわからないが、気にかかることがひとつある。
ここで、和合は「精神力」ということばをつかっている。「天体の精神力」。和合は大震災を、人間の範疇、あるいは地球という範疇を超えて、宇宙のできごととしてとらえると同時に、そこに「精神力」を見ている。
「天体の精神力」とは、しかし、何?
わからない。
わかるのは、いや、私がおぼろげに感じるのは、いま、人間こそ「精神力」を必要としていると和合が感じているに違いない、ということだ。
人間の思いとは完全に乖離した「精神力」(離反した「精神力」)が「天体」を支えている。そして、それが人間から「大切な人」を奪いさっていく。それを奪いさられたままにしておくのではなく、人間の側に取り戻すには、「人間の精神力」が必要だと和合は感じている。
「世界」が「意味」を奪いさっていくなら、その「意味」を奪い返すのもまた「精神力」なのだ。
そして、「人間の精神力」とはどんな方法で、そこにあるということを示すことができるか。また、それはどんな方法でうごかすことができるのか。
ことばを動かすこと。
和合は、そう明確には書いていないが、私は、そう感じる。ことばを動かす。そのことばのなかに「人間の精神」がある。
「意味」ではなく「精神」。
「意味」に対して「精神(精神力)」で和合は戦おうとしている。「たった一人」で。私は、その戦いの側に立ちたい。私のことばは、まだ動かない。和合のように大震災とは向き合うことができない。だから、和合の側に立ち、和合のことばに沿う形で、私のことばが動いていけるようにしたい。
いま、そう思っている。
「放射能の雨の中で、たった一人です。」と「一人」を意識するとき、「一人」以外が見えてくる。それは「南相馬市」であり、「故郷」であり、「家族」であった。「故郷」を和合は「私の全て」とも書いていた。
このことを和合はまた書き直している。
あなたには大切な人がいますか。一瞬にして失われてしまうことがあるのだと…少しでも考えるなら、己の全存在を賭けて、世界に奪われてしまわない為の方法を考えるしかない。
(39ページ)
「私の全て」を和合は「大切な」ということばで言いなおしている。言わなければならないとき、ひとは何度でも繰り返す。繰り返すだけではなく、何度も言いなおす。それはひとことでは言えないからである。ことばに「意味」があるとして、そのことばでつたえられる「意味」はかぎられている。だから、少しずつ言いなおし、同時に繰り返す。
「故郷は私の全てです」は「故郷は私の大切なものです」ということになる。そして、いま私は「大切なもの」と書き直してみたのだが「故郷」はもちろん「もの」ではない。「故郷は私に大切な場です」と言いなおせば、少しは正確になるのか。そうでもないだろう。「故郷」とは「場=空間」でもない。それを超えている。だから、和合は言い換えてみる。
あなたには大切な人がいますか。
「故郷」と呼ばれていたのは「場」であると同時に「大切な人」だったのだ。
あなたにとって故郷とは、どのようなものですか。私は故郷を捨てません。故郷は私の全てです。
ということばは、
あなたにとって「大切な人」とはどのようなものですか。私は「大切な人」を捨てません。「大切な人」は私の全てです。
ということと、同じ「意味」なのである。そして、「大切な人」は「家族」でもある。つまり、「私(和合)」と同時に生きている人のことである。「同時に生きている人」は、「一家」を超えて、その地域全体に広がる。そのとき、「故郷」というものがもう一度ことばとしてあらわれてくる。
ことばは言いなおされ、繰り返され、少しずつ「意味」を回復してくるのだ。和合は言い直し、繰り返すことで、ことばを回復させようとしているのだ。
きょう読んでいる3行には、ひとつ不思議なことばがある。「世界」である。
(大切な人を)己の全存在を賭けて、世界に奪われてしまわない為の方法を考えるしかない。
和合がこう書くとき、「世界」は「故郷」ではない。「世界」のなかに「故郷」があるが、それは「世界」とは合致しない。「地球」でもない。いままで和合がつかってきたことばで言いなおすなら、それは何になるだろうか。和合は何を言い換えて「世界」と言っているのだろうか。
ここで書かれていることは東日本大震災であり、津波である。大震災、津波が「大切な人」を奪っていった。大震災(津波)のことを、和合は「事象」と呼んでいた。ここでいう「世界」は「事象」の言い換えなのである。
でも、その「事象」に「大切な人」を奪われないためには何をすればいい?
強固なビルを建てる? 強固な、そして巨大な防潮堤をつくる?
ああ、そんなことは、いまは間に合わない。次のときのためにもちろんそうすることは重要だが、それとは違うことも和合は考えている--と私は思う。
「事象」ということばは、こういう文脈でつかわれていた。
ものみな全ての事象における意味などは、それらの事後に生ずるものなのでしょう。
「事象」に遅れて「意味」が生まれる。「事象」はそれまでの「意味」を根こそぎ奪っていく。大震災は、それまでのことばで考えられていた意味をたしかに奪っていった。だから、大震災を語ることばが、いまは、まだないのだ。手さぐりで、和合は、そのことばを探している。
「物事」ということばも、もぼ「事象」と同じつかわれ方をしていた。
「事象(物事)」はまた、「大切な人」を奪っていった。それを「奪われてしまわない為に」何をすべきか。
あ、和合は、ことばをとてもていねいにつかいわけている。「事象・物事(大震災)」は「大切な人」を奪っていった。命を奪われた。けれど、その「大切な人」が奪われて「しまわない」為に何をすべきか。どんな方法があるが。
言い換えると、「奪われた」大切な人を、その奪っていった「事象・物事」から、どう奪い返すか。
「いのち」は奪い返せないかもしれない。亡くなった人を生き返らせることはできない。けれども、「意味」はどうだろうか。「意味」は奪い返せるかもしれない。
あなたに大切な人がいますか。
これは、あなたに「大切な意味」がありますか?でもあるのだ。「大切な意味」をもっていますか? いま、起きたこと、いま起きている「事象・物事」に全ての「意味」が奪われ、どんな「意味」も見つけることができないでいる。そこから、どんな「意味」を語ることで、いま起きたことと戦うのか--どんなふうに「睨みつけ」、「私」を世界と向き合わせるのか。「大切な意味」をどうやって生み出すか--生み出すことによって、奪われた「意味」を奪い返すか。
この答えは簡単には出ない。ただ、「考えるしかない」。
この「考える」こと、これが「命のかけひき」そのものになる。「事象」が「命」を奪っていく。奪っていった。それを奪われたままにしておくのではなく、奪われてしまわないように、奪い返す--それを考える。
でも、むずかしい。
「世界」はもしかすると、「事象」を超えるものかもしれない。「世界」は人間のかかわることのできないものを含んでいるかもしれない。--と思うのは、次のことばがあるからだ。
世界は誕生と滅亡の両方を、意味とは離反した天体の精神力で支えて、やすやすと在り続けている。
「世界」は「事象」を超えて、「事象」が起きた「宇宙(天体)」全体を指している。「天体の精神力」ということばが、そのことを語っている。「世界」は「天体の精神力で支え」られている。
そして、ここでも「意味」「離反」ということばがつかわれている。「意味」「離反」は最初は、次のようにつかわれていた。
物事と意味には明らかな境界がある。それは離反していると言っても良いかもしれません。
そのことばは、「世界は誕生と滅亡の……」に重ね合わせると、「世界」(事象・物事をのみこむ天体)と「大切な人・大切な意味」との間には、明らかな境界があり、「離反」している。「世界(事象・物事)」は人間とは違った「精神力」で動き、存在しつづけている。「天体」の運動はたしかに人間の運動とは違う。人間が何をしようが天体は関係なく動いている。
ここで和合か書きたいことが、私にはよくわからないが、気にかかることがひとつある。
ここで、和合は「精神力」ということばをつかっている。「天体の精神力」。和合は大震災を、人間の範疇、あるいは地球という範疇を超えて、宇宙のできごととしてとらえると同時に、そこに「精神力」を見ている。
「天体の精神力」とは、しかし、何?
わからない。
わかるのは、いや、私がおぼろげに感じるのは、いま、人間こそ「精神力」を必要としていると和合が感じているに違いない、ということだ。
人間の思いとは完全に乖離した「精神力」(離反した「精神力」)が「天体」を支えている。そして、それが人間から「大切な人」を奪いさっていく。それを奪いさられたままにしておくのではなく、人間の側に取り戻すには、「人間の精神力」が必要だと和合は感じている。
「世界」が「意味」を奪いさっていくなら、その「意味」を奪い返すのもまた「精神力」なのだ。
そして、「人間の精神力」とはどんな方法で、そこにあるということを示すことができるか。また、それはどんな方法でうごかすことができるのか。
ことばを動かすこと。
和合は、そう明確には書いていないが、私は、そう感じる。ことばを動かす。そのことばのなかに「人間の精神」がある。
「意味」ではなく「精神」。
「意味」に対して「精神(精神力)」で和合は戦おうとしている。「たった一人」で。私は、その戦いの側に立ちたい。私のことばは、まだ動かない。和合のように大震災とは向き合うことができない。だから、和合の側に立ち、和合のことばに沿う形で、私のことばが動いていけるようにしたい。
いま、そう思っている。
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