和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(11)(「現代詩手帖」2011年05月号)
「聞こえる」というのは不思議なことである。
と和合が書いたとき、「聞こえる」ことのやすらぎをどんなふうに意識していたのかわからないが、こうやって「聞いてしまった声」に出会うと、やはり「聞く・聞こえる」というのはとても重要なことなのだと思う。
ここで和合が聞いていることば「お父さんよりも僕の方が先だったね、起きたの。」には、「意味」がない。そのこどもの声は、なぜ震災か起きたのか、震災が何を教えようとしているのかという「答え」とはまったく関係かない。また、和合たちが水を求めて並んでいることとも無関係である。つまり、あと何十分したら水が手に入るとか、あるいは水はひとりペットボトル3本分だとか--そういう「情報」をまったく含んでいない。何の「目的」ともつながらない。「無意味」である。
そして、その「無意味」が人間を人間に戻してくれる。
人間がどんな具合に生きているかを「教えてくれる」。震災は何を教えたいのかわからない。けれど、和合が聞いたこどものことばは「教えてくれる」。可愛らしさを。無邪気なよろこびを。お父さんといっしょに寝て、いっしょに起きる。いつもならお父さんが「起きろよ」とこどもに言うのかもしれない。けれど、その日はこどもの方が先に目を覚ました。そして、そのことがこどもにはとてうれしいできごとだったのだ。震災のなかでも、そういう「暮らし」があるのだ。「暮らし」のなかには、「声」が響きあって、その「声」を私たちは聞きあうのだ。
そこで「聞きあう声」、その「無意味な声」(意味を必要としない声)こそが、私は「思想」だと思う。「肉体」だと思う。こういう「声」を聞きあうために、私たちは生きているのだと思う。「思想」とか「哲学」とか、いろいろなことば(声)があるが、そのことば、その声が、こどもの何気ないことば(声)の美しさ、よろこびをきちんと把握できなければ、そんなものは何にもならない。どんな「思想」「哲学」のことばよりも、和合がここで書いている「可愛らしい」にまさることばはない。
和合は「可愛らしい顔」と書いているだが、あ、このすばやいことばの「わたり」もいいなあ。「声」(ことば)を聞いて、そのことばを「可愛い」と思う。それがそのまま「目」に伝染(?)するのだ。「耳」が可愛いと感じたことが「目」につたわり、その「目の」なかでこどもは「可愛らしい笑顔」になるのだ。「声(ことば)」を聞かなくても、こどもは可愛らしい笑顔だったかもしれないが、聞いたからこそ、「可愛らしい」が増加するのだ。
そして、その耳→目と「肉体」を動いたことばは、自然に、和合の「肉体」の「思想」そのものを揺さぶる。きのう会ったおばあちゃん。おばあちゃんは、こどものような可愛らしい笑顔をしていたわけではないと思うのだが、こどもの可愛らしい笑顔をみて、和合はおばあちゃんを思い出す。おばあちゃんは、とてもつつましやかだった。気配りをする和合に遠慮して、家まで送ろうといえば「家は近いんだ」と答えていた。そこには和合には迷惑をかけたくないという思いがある。あ、そういう「遠慮」ではなく、いまこどもが発したような無邪気なよろこび--そういうものをおばあちゃんの「声」をとおして聞きたいなあ。そういう「声」とつながりたいなあ、そういう気持ちが和合の「肉体」のなか動いているのを感じる。
他人の(見知らぬひとの)、「暮らしの声」を聞いて、和合はやっと自分の中から響いてくる「肉体」そのものの「声」を聞き取る。それを聞こえるままに言ってみるようになる。
「暮らし」が、震災後なかったわけではないだろうけれど、それは「ことば」にならなかった。「声」にならなかった。「声」は単純には出てこないのだ。ほんとうに言いたいことは、なかなか姿をあらわさないのだ。そういう「声」が動きだすまでには、時間がかかる。そして、時間だけではなく、他人と出会うこと、他人の「声」を「聞く」ということが必要なのだ。
ことばは他人と触れ合って動いているのだ。生きていくのだ。そして、生きていくとき、ことばは「目的」だけをめざしているわけではないのだ。
いつでも「他人」の揺さぶりに揺さぶられながら、揺さぶられることで「肉体」を思い出し、「肉体」に還り、あらためて動きはじめるのだ。
だれにかけたことばかわからないが、たぶん、ツィッターのだれかのことばに反応してのことなのだろう。静かな、おだやかな「対話」である。「コーヒーガ、ノミタイ」と自分の「声」を正直に出すことによって、その声をだれかが聞き止めることによって、ことばが和合ひとりで支えなくてもいいものになった--という不思議な安定感がある。何でもないことばなのだけれど、その何でもないことばになるまでが、ほんとうに大変なのだと思う。「ありがとうございました」「南相馬市を救ってください」「腹が立つ」というふうに動いてきたことばが「頑張りましょうよ」と静かに手をとりあっている。
この「つながり」のなかで、「頑張り」と同時に「哀しみ」も手をとりあう。
こらえてもこらえても、こらえきれないものが涙である。そして、その涙が実際にながれままでには、その「こらえてもこらえても」という不思議な時間がある。不思議な「肉体」がある。
信じられないことがおき、ことばにならない苦しみがあり、ことばにならないから涙も流れないのだが、それが、触れ合って、「肉体」があることを確かめあって、こらえてもこらえてもこらえきれないまでになる。
何ができるだろう。私に何ができるだろう。いまは、ただ、私は和合のことばを読んで、それを受け止めたいと思っている、としか言うことができない。
翌朝5時に、水をもらうために並んだ。すでに長蛇の列だった。1時間ぐらい経って、みぞれが降ってきた。男の子がお父さんに笑い顔で言った。「お父さんよりも僕の方が先だったね、起きたの。」その可愛らしい顔を見て、私は思った。おばあちゃん、水、大丈夫かなあ。
(39ページ)
「聞こえる」というのは不思議なことである。
放射能が降っています。静かな静かな夜です。
と和合が書いたとき、「聞こえる」ことのやすらぎをどんなふうに意識していたのかわからないが、こうやって「聞いてしまった声」に出会うと、やはり「聞く・聞こえる」というのはとても重要なことなのだと思う。
ここで和合が聞いていることば「お父さんよりも僕の方が先だったね、起きたの。」には、「意味」がない。そのこどもの声は、なぜ震災か起きたのか、震災が何を教えようとしているのかという「答え」とはまったく関係かない。また、和合たちが水を求めて並んでいることとも無関係である。つまり、あと何十分したら水が手に入るとか、あるいは水はひとりペットボトル3本分だとか--そういう「情報」をまったく含んでいない。何の「目的」ともつながらない。「無意味」である。
そして、その「無意味」が人間を人間に戻してくれる。
人間がどんな具合に生きているかを「教えてくれる」。震災は何を教えたいのかわからない。けれど、和合が聞いたこどものことばは「教えてくれる」。可愛らしさを。無邪気なよろこびを。お父さんといっしょに寝て、いっしょに起きる。いつもならお父さんが「起きろよ」とこどもに言うのかもしれない。けれど、その日はこどもの方が先に目を覚ました。そして、そのことがこどもにはとてうれしいできごとだったのだ。震災のなかでも、そういう「暮らし」があるのだ。「暮らし」のなかには、「声」が響きあって、その「声」を私たちは聞きあうのだ。
そこで「聞きあう声」、その「無意味な声」(意味を必要としない声)こそが、私は「思想」だと思う。「肉体」だと思う。こういう「声」を聞きあうために、私たちは生きているのだと思う。「思想」とか「哲学」とか、いろいろなことば(声)があるが、そのことば、その声が、こどもの何気ないことば(声)の美しさ、よろこびをきちんと把握できなければ、そんなものは何にもならない。どんな「思想」「哲学」のことばよりも、和合がここで書いている「可愛らしい」にまさることばはない。
和合は「可愛らしい顔」と書いているだが、あ、このすばやいことばの「わたり」もいいなあ。「声」(ことば)を聞いて、そのことばを「可愛い」と思う。それがそのまま「目」に伝染(?)するのだ。「耳」が可愛いと感じたことが「目」につたわり、その「目の」なかでこどもは「可愛らしい笑顔」になるのだ。「声(ことば)」を聞かなくても、こどもは可愛らしい笑顔だったかもしれないが、聞いたからこそ、「可愛らしい」が増加するのだ。
そして、その耳→目と「肉体」を動いたことばは、自然に、和合の「肉体」の「思想」そのものを揺さぶる。きのう会ったおばあちゃん。おばあちゃんは、こどものような可愛らしい笑顔をしていたわけではないと思うのだが、こどもの可愛らしい笑顔をみて、和合はおばあちゃんを思い出す。おばあちゃんは、とてもつつましやかだった。気配りをする和合に遠慮して、家まで送ろうといえば「家は近いんだ」と答えていた。そこには和合には迷惑をかけたくないという思いがある。あ、そういう「遠慮」ではなく、いまこどもが発したような無邪気なよろこび--そういうものをおばあちゃんの「声」をとおして聞きたいなあ。そういう「声」とつながりたいなあ、そういう気持ちが和合の「肉体」のなか動いているのを感じる。
他人の(見知らぬひとの)、「暮らしの声」を聞いて、和合はやっと自分の中から響いてくる「肉体」そのものの「声」を聞き取る。それを聞こえるままに言ってみるようになる。
シンサイ6ニチメ。ウマイコーヒーガ、ノミタイ。ノンデナイ。ノメルミコミハ、ナイ。
(39ページ)
「暮らし」が、震災後なかったわけではないだろうけれど、それは「ことば」にならなかった。「声」にならなかった。「声」は単純には出てこないのだ。ほんとうに言いたいことは、なかなか姿をあらわさないのだ。そういう「声」が動きだすまでには、時間がかかる。そして、時間だけではなく、他人と出会うこと、他人の「声」を「聞く」ということが必要なのだ。
ことばは他人と触れ合って動いているのだ。生きていくのだ。そして、生きていくとき、ことばは「目的」だけをめざしているわけではないのだ。
いつでも「他人」の揺さぶりに揺さぶられながら、揺さぶられることで「肉体」を思い出し、「肉体」に還り、あらためて動きはじめるのだ。
続々と避難していきます。避難所にいたから分かりますが、そちらも大変です。頑張りましょう。
(40ページ)
だれにかけたことばかわからないが、たぶん、ツィッターのだれかのことばに反応してのことなのだろう。静かな、おだやかな「対話」である。「コーヒーガ、ノミタイ」と自分の「声」を正直に出すことによって、その声をだれかが聞き止めることによって、ことばが和合ひとりで支えなくてもいいものになった--という不思議な安定感がある。何でもないことばなのだけれど、その何でもないことばになるまでが、ほんとうに大変なのだと思う。「ありがとうございました」「南相馬市を救ってください」「腹が立つ」というふうに動いてきたことばが「頑張りましょうよ」と静かに手をとりあっている。
この「つながり」のなかで、「頑張り」と同時に「哀しみ」も手をとりあう。
避難所で二十代の若い青年が、画面を睨みつけて、泣きながら言いました。「南相馬市を見捨てないで下さい」。あなたの故郷はどんな表情をしていますか。私たちの故郷は、あまりにもゆがんだ泣き顔です。
(40ページ)
こらえてもこらえても、こらえきれないものが涙である。そして、その涙が実際にながれままでには、その「こらえてもこらえても」という不思議な時間がある。不思議な「肉体」がある。
信じられないことがおき、ことばにならない苦しみがあり、ことばにならないから涙も流れないのだが、それが、触れ合って、「肉体」があることを確かめあって、こらえてもこらえてもこらえきれないまでになる。
何ができるだろう。私に何ができるだろう。いまは、ただ、私は和合のことばを読んで、それを受け止めたいと思っている、としか言うことができない。
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