詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(11)

2011-05-14 23:59:59 | 詩の礫
和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(11)(「現代詩手帖」2011年05月号)

翌朝5時に、水をもらうために並んだ。すでに長蛇の列だった。1時間ぐらい経って、みぞれが降ってきた。男の子がお父さんに笑い顔で言った。「お父さんよりも僕の方が先だったね、起きたの。」その可愛らしい顔を見て、私は思った。おばあちゃん、水、大丈夫かなあ。
                                (39ページ) 

 「聞こえる」というのは不思議なことである。

放射能が降っています。静かな静かな夜です。

 と和合が書いたとき、「聞こえる」ことのやすらぎをどんなふうに意識していたのかわからないが、こうやって「聞いてしまった声」に出会うと、やはり「聞く・聞こえる」というのはとても重要なことなのだと思う。
 ここで和合が聞いていることば「お父さんよりも僕の方が先だったね、起きたの。」には、「意味」がない。そのこどもの声は、なぜ震災か起きたのか、震災が何を教えようとしているのかという「答え」とはまったく関係かない。また、和合たちが水を求めて並んでいることとも無関係である。つまり、あと何十分したら水が手に入るとか、あるいは水はひとりペットボトル3本分だとか--そういう「情報」をまったく含んでいない。何の「目的」ともつながらない。「無意味」である。
 そして、その「無意味」が人間を人間に戻してくれる。
 人間がどんな具合に生きているかを「教えてくれる」。震災は何を教えたいのかわからない。けれど、和合が聞いたこどものことばは「教えてくれる」。可愛らしさを。無邪気なよろこびを。お父さんといっしょに寝て、いっしょに起きる。いつもならお父さんが「起きろよ」とこどもに言うのかもしれない。けれど、その日はこどもの方が先に目を覚ました。そして、そのことがこどもにはとてうれしいできごとだったのだ。震災のなかでも、そういう「暮らし」があるのだ。「暮らし」のなかには、「声」が響きあって、その「声」を私たちは聞きあうのだ。
 そこで「聞きあう声」、その「無意味な声」(意味を必要としない声)こそが、私は「思想」だと思う。「肉体」だと思う。こういう「声」を聞きあうために、私たちは生きているのだと思う。「思想」とか「哲学」とか、いろいろなことば(声)があるが、そのことば、その声が、こどもの何気ないことば(声)の美しさ、よろこびをきちんと把握できなければ、そんなものは何にもならない。どんな「思想」「哲学」のことばよりも、和合がここで書いている「可愛らしい」にまさることばはない。
 和合は「可愛らしい顔」と書いているだが、あ、このすばやいことばの「わたり」もいいなあ。「声」(ことば)を聞いて、そのことばを「可愛い」と思う。それがそのまま「目」に伝染(?)するのだ。「耳」が可愛いと感じたことが「目」につたわり、その「目の」なかでこどもは「可愛らしい笑顔」になるのだ。「声(ことば)」を聞かなくても、こどもは可愛らしい笑顔だったかもしれないが、聞いたからこそ、「可愛らしい」が増加するのだ。
 そして、その耳→目と「肉体」を動いたことばは、自然に、和合の「肉体」の「思想」そのものを揺さぶる。きのう会ったおばあちゃん。おばあちゃんは、こどものような可愛らしい笑顔をしていたわけではないと思うのだが、こどもの可愛らしい笑顔をみて、和合はおばあちゃんを思い出す。おばあちゃんは、とてもつつましやかだった。気配りをする和合に遠慮して、家まで送ろうといえば「家は近いんだ」と答えていた。そこには和合には迷惑をかけたくないという思いがある。あ、そういう「遠慮」ではなく、いまこどもが発したような無邪気なよろこび--そういうものをおばあちゃんの「声」をとおして聞きたいなあ。そういう「声」とつながりたいなあ、そういう気持ちが和合の「肉体」のなか動いているのを感じる。

 他人の(見知らぬひとの)、「暮らしの声」を聞いて、和合はやっと自分の中から響いてくる「肉体」そのものの「声」を聞き取る。それを聞こえるままに言ってみるようになる。

シンサイ6ニチメ。ウマイコーヒーガ、ノミタイ。ノンデナイ。ノメルミコミハ、ナイ。
                                 (39ページ)

 「暮らし」が、震災後なかったわけではないだろうけれど、それは「ことば」にならなかった。「声」にならなかった。「声」は単純には出てこないのだ。ほんとうに言いたいことは、なかなか姿をあらわさないのだ。そういう「声」が動きだすまでには、時間がかかる。そして、時間だけではなく、他人と出会うこと、他人の「声」を「聞く」ということが必要なのだ。
 ことばは他人と触れ合って動いているのだ。生きていくのだ。そして、生きていくとき、ことばは「目的」だけをめざしているわけではないのだ。
 いつでも「他人」の揺さぶりに揺さぶられながら、揺さぶられることで「肉体」を思い出し、「肉体」に還り、あらためて動きはじめるのだ。

続々と避難していきます。避難所にいたから分かりますが、そちらも大変です。頑張りましょう。
                                 (40ページ)

 だれにかけたことばかわからないが、たぶん、ツィッターのだれかのことばに反応してのことなのだろう。静かな、おだやかな「対話」である。「コーヒーガ、ノミタイ」と自分の「声」を正直に出すことによって、その声をだれかが聞き止めることによって、ことばが和合ひとりで支えなくてもいいものになった--という不思議な安定感がある。何でもないことばなのだけれど、その何でもないことばになるまでが、ほんとうに大変なのだと思う。「ありがとうございました」「南相馬市を救ってください」「腹が立つ」というふうに動いてきたことばが「頑張りましょうよ」と静かに手をとりあっている。
 この「つながり」のなかで、「頑張り」と同時に「哀しみ」も手をとりあう。

避難所で二十代の若い青年が、画面を睨みつけて、泣きながら言いました。「南相馬市を見捨てないで下さい」。あなたの故郷はどんな表情をしていますか。私たちの故郷は、あまりにもゆがんだ泣き顔です。
                                 (40ページ)

 こらえてもこらえても、こらえきれないものが涙である。そして、その涙が実際にながれままでには、その「こらえてもこらえても」という不思議な時間がある。不思議な「肉体」がある。
 信じられないことがおき、ことばにならない苦しみがあり、ことばにならないから涙も流れないのだが、それが、触れ合って、「肉体」があることを確かめあって、こらえてもこらえてもこらえきれないまでになる。

 何ができるだろう。私に何ができるだろう。いまは、ただ、私は和合のことばを読んで、それを受け止めたいと思っている、としか言うことができない。



にほんごの話
谷川俊太郎,和合亮一
青土社
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ロバート・アルドリッチ監督「ロンゲスト・ヤード」(★★★+★)

2011-05-14 19:00:26 | 午前十時の映画祭
監督 ロバート・アルドリッチ 出演 バート・レイノルズ、エディ・アルバート、エド・ローター、マイケル・コンラッド

 公開当時、とてもおもしろかった、という記憶がある。そのときの「興奮」をもう一度味わいたいと思ったのだが。うーん。時代とともに映像がこんなに変化するものなのか。出だしのカーチェイス。本物の車が、本気で走っている。いまはCGで処理するところを実際に車が走るから、スピードが速いようで遅い。その分、妙な温かさがあるねえ。「手作り」の味があるねえ。
 フットボール(アメリカンフットボール)の試合にもそれがつながる。肉体と肉体がぶつかる感じが、シャープではない。その当時はその当時で、激しい映像をもくろんでいたのだと思うし、実際激しさも感じたかもしれないが、(実際、当時は、その激しさに驚いたはずなのだが)、いまの映像と比較すると、何かのんびりしている。映像の動きをみせるというより、肉体の動きをみせるという感じ。あくまで肉体をみせるという感じ。映画の冒頭の、付録のような、バート・レイノルズの、セックスシンボル時代の裸。まず肉体、むき身の肉体が「主役」で、動きが「脇役」。動きは、肉体を感じさせるための方法だ。
肉体が主役か、動きが主役か。これは、似ているようで、違うなあ。――アクションのなかでは、それが統合されているはずだけれど、実は完璧に統合されているということはない。肉体はを見るとき、観客の視線が動く。動きをみるとき、観客の視線は止まっていて、止まった視界の中で映像が動くのだ。
止まった視線のなかで動く映像――それは、動きそのものとして純粋化できる。シャープさ、激しさは映像でどれだけでも過激にできる。いまのCGを思えばいい。けれど肉体は、肉体そのものの存在はかえられない。肉体がぶつかる痛さ、苦しさは、CGの激しい映像では痛さ、苦しさになるひまがない。観客が役者の肉体の細部の動きを追いながら、痛み、苦しみを感じている余裕がない。だから笑う余裕もない。でも、動きがもったり(?)していると、痛み、苦しさが感じられるから、おかしいね。看守チームのディフェンスの要が睾丸を狙い撃ちされ、息ができなくなる。そのふらふら感。それから、「人工呼吸しろよ」「お前がやれよ」なんていう反応、笑っちゃいけないけど、笑っちゃうよねえ。観客だけでなく、演じている役者が、やはりそこにいる役者の肉体を見ている。肉体を感じている。肉体を感じるから「人工呼吸? やだよ。じょうだんじゃないよ」になるんだよねえ。
こういうばかげた(?)肉体の実感(共感)があるから、肉体がぶつかりながら展開するゲームで、肉体をぶつけあったものだけが、敵・味方をこえてつながる。敵・味方を超えて友情に到達することができる。あ、このスポーツマンシップ(?)は美しいじゃないか、と・・・監督の思うがまま。
このメルヘンは、はやりのCGではだめだね。「肉体」を実感できる味わいがない。
こういうメルヘンがロバート・アルドリッチ監督は得意だね。「北の帝王」もおもしろかったなあ。集団ではないだけに、「北の帝王」の方が、メルヘン+ロマンチックという感じがして楽しいはずだ。「北の帝王」が再上映されることはないのかな? もう一度みたいなあ。

             (「午前10時の映画祭」青シリーズ15本目、天神東宝4、05月14日)


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伊藤浩子「夕焼け」

2011-05-14 09:22:34 | 詩(雑誌・同人誌)
伊藤浩子「夕焼け」(「hotel 第2章」27、2011年04月20日発行)

 伊藤浩子「夕焼け」は誰かと別れたあとの「肉体」のぼんやりとした空白を描いているように感じられる。誰かがいなくなっても、その記憶は残る。その記憶と向き合う「肉体」の感じがおもしろい。

ゆうべのきっちんに 
死体がころがっている
まだやさしげな

名前はありません
ふたりは呼びあうこともなく静かに
くらしていたのですから

さっき運んできたのです
ここにはいくつもの
はだかの死体があがっているのが見えて

 私は、「誰かと別れたあと」(誰かがいなくなっても)と書いたが、それはもしかすると「私(伊藤)」自身かもしれない。
 「私」が「私」殺す--捨てる。いままでとは違った「私」になって、けれども、「死んだ私」を引きずって、家に帰ってきた、ということかもしれない。
 どちらでもいいと思うのだが(と書くといいかげんだが、まあ、詩だからいいかげんでいいと私は思っている)、その過去の誰か(過去の私)を「死体」と突き放しながら、一方で「まだやさしげ」と呼ぶ矛盾(?)した感覚が、不思議になつかしい感じがする。それは1行目の「ゆうべのきっちんに」のひらがなの感じ--音だけがぼんやりと存在し、明確な形、「私」に厳しい「日常」とならない感じとも通い合う。
 「はだかの死体」の「はだか」という表記も、意味ではなく、「音」のひろがりの方へことばが動いていくようでおもしろい。何かが、ときほぐされ、ほどけていく感じがする。夕暮れ、ものの形がくずれ、それぞれが色に帰っていくような感じである。

空は
腫れもののようにふくらんで
(はじめて自慰をおぼえた
(そのおぼえたての指先をさがしている

 あ、ここはいいなあ。
 「自慰」というのは女性の場合、どうなのだろう。確実にエクスタシーにたどりつけるものなのだろうか。エクスタシーは何によって証明(?)されるのだろうか。男の場合は、射精という「外形的な事実」があるのだけれど……。想像でしか言えないけれど、「確実」なのはエクスタシーではなく、「指先」の方なのかもしれない。その、エクスタシーではなく、エクスタシーのための方法(?)としての指先を「さがす」ということへことばが動いていくのが、私には、なんともおもしろく感じられる。クリトリスではなく、クリトリスに触る「指先」を「さがす」というときの果てしなさというか、わかっているはずのもの、わからないと言い切ることばの動き--精神の運動がおもしろい。

 何か、この不思議なことばの動き--肉体と官能の動きと、先に見てきた「死体」「やさしげ」「はだか」の結びつきが、静かな「音楽」のように感じられるのである。



名まえのない歌 (現代詩の新鋭)
伊藤 浩子
土曜美術社出版販売
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