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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(24)

2011-05-27 23:59:59 | 詩の礫
和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(24)(「現代詩手帖」2011年05月号)

 きのう読んだ「09」(2011.3.27 )の最後の美しいことばがある。

幼い頃。僕は家の近くの野原で星座早見盤をまわしている。妹が追っかけてきた。懐中電灯を持ってきた。「早く、早く、お兄ちゃん」。待ってろよ。妹が照らす灯りを頼りに、星空と手の中の早見盤を合わせる。出来た。ぴったりだ。はしゃぐ、僕と妹。瞬く星。もう一度、星と空を探させて下さい。
                                 (64ページ)

 ここにある「幸福」は「ぴったりだ」ということばに結晶している。何かを探す。それが一致する。探しているものと、探されているもの--であると同時に、僕と妹の、気持ちが「ぴったり」なのだ。星と早見盤の「一致」を借りて、ほんとうは僕と妹が「ぴったり」に重なり、その重なりに「宇宙」が重なることで祝福する。
 ここには和合が、だれかと「ぴったり」と重なりたいという願いが込められている。
 それは何度も繰り返される次のことばでも同じだ。

明けない夜は無い。
                                 (64ページ)


 
 「10」は、「09」に書かれていた幸福とは逆のところからはじまる。

私たちは精神に、冷たい汗をかいている。

私たちは魂に、垂らしているのだ。冷たい汗を。そして東日本の時計はものみな、1分だけ遅れたままだ。
                                 (64ページ)

 「汗」は「比喩」である--と、書いて、私はふと疑問にとらわれるのである。「汗」が比喩? 「比喩」とは、「いま/ここ」にないものを借りて、自分が向き合っているものを明瞭に浮かび上がらせる「ことばの技法」だが、汗が比喩?
 正確には「精神の汗」「魂の汗」が「比喩」ということかもしれないが。
 でも、違うのだ。
 「汗」が「比喩」なのではなく、「精神」「魂」こそが「比喩」なのだ。

 私の書いていることは、変に聞こえるかもしれない。私自身も、変なことを書いていると承知しているのだが、その変なことを追い詰めてみる。

 「比喩」とは「いま/ここ」にないものを借りて「いま/ここ」にあるものを印象づける方法である。たとえば「きみの微笑みはバラである」というとき、「いま/きみのほほえみ」自体は「バラ」ではない。あくまで「ほほ」にひろがる「やわらかなふくらみ」あるいは「輝き」である。その周囲の「目」や「唇」--ようするに顔全体かもしれないが、顔はバラではないということを前提として、バラという比喩が成り立っている。バラが顔の上にないということを前提としている。
 「私たちは精神に、冷たい汗をかいている。」はどうだろうか。「汗」は何をあらわしているのだろうか。「いま/ここ」にある何を「意味」して「汗」と言っているのだろうか。
 実は、私は、わからない。
 けれども、その「汗」そのものを強く感じる。「冷たい汗」を強く感じる。それは「肌」で感じる「冷たい何か」である。何かの拍子に、私自身がかいた「汗」の記憶がふいに甦ってくる。「汗」は実感である。「冷たさ」は実感である。
 そうすると(というのは、飛躍があるかもしれないが、私のことばはそんなふうにしか動かない)。
 そうすると「汗」が「比喩」なのではなく、もしかすると「精神」「魂」の方が「比喩」なのかもしれない。
 「精神/魂」が「比喩」というのは奇妙な言い方だが、「比喩」の最初の定義にもどって言いなおすと、「いま/ここ」にないものを借りて、「いま/ここ」にあるものを明確にするのが「比喩」ならば、「精神/魂」が「いま/ここ」にないのだ。「精神/魂」を「いま」「ここ」に呼び出し、共有するために、和合は「汗」と「冷たい」をことばにしているのだ。
 「冷たい汗」とともにある「精神/魂」。それを共有したいのだ。
 次の部分を読むと、それを強く感じる。

私たちは、冷たい汗をかいている。仕方がないから夕暮れには、大衆サウナへと行った。そこでは精神に、冷たい汗をかく屈強な男たちが、相当の熱気の中で座っていた。

私たちは、汗をかいている。ある男が言う。「昨日は、飯館で何も知らない牛が、トラックに並べられて、場へいくのを見た。何台もトラックが牛を乗せて、走っていった。ナチスドイツがかつてもたらした光景のようだった」。私たちは精神に、冷たい汗をかいている。

私たちは、汗をかいている。別の男が言う。「農業を営んでいた男性が、畑の野菜を全て廃棄した夜に、悲しくも自らの命を絶った」。私たちは精神に、冷たい汗をかいている。 
                                (65ページ)

 サウナで流している汗。これはほんものである。「比喩」ではない。それは熱い汗である。その汗の実感--肌をたどって流れる実感は、私たちに何を教えてくれるだろうか。「肉体」の存在を教えてくれる。その汗と肉体の関係を実感しながら、和合は精神と汗とを感じている。「冷たい汗」というより「精神」を感じている。
 場へ向かう牛、野菜を全部は遺棄して自殺した男--それを思い描く精神は「汗」を流している。「汗」を実感することで「精神」を実感する。「精神」を共有する。和合は、そういうことを書きたいのではないのか。
 星座と星座早見盤が「ぴったり」重なるのを見て、「ぴったりだ」とはしゃいだとき、和合と妹の「こころ(精神/魂)」は「ぴったり」重なった。同じようよ、無残な牛、無残な農業の男性を思うとき、「精神」は「冷たい汗」を流しながら「ぴったり」重なる。「冷たい汗」ではなく、その「精神/魂」をこそ、和合は取り戻したい、共有したいと願っている。「冷たい汗」は、むしろ、共有したくないものである。「冷たい汗」をぬぐい去り、涙を拭くようにぬぐい去り、「精神/魂」をもう一度元気にしたいというのが和合の夢だろう。その夢のために、まず「精神/魂」というものがあることを、はっきりさせたいのだ。「精神/魂」を「いま/ここ」に呼び出したいのである。

私たちは魂に、垂らしているのだ。冷たい汗を。そして東日本の時計はものみな、1分だけ遅れたままだ。
                                
 この「1分」とは何だろう。私には、よくわからない。ただ「遅れたままだ」が、和合の実感であることは納得できる。
 和合は「遅れ」を次のように書いている。

私は地震の日の夕方、ある大きな建物へと出かけた。知人と合わなくてはいけなかったからだ。知人を待っている間に、警備室のテレビを、盗み見た。その時からだ。私の本当の震災が始まったのは。

黒い波、全てを飲み込み、辺りを覆い尽くす、今という脅威。何百、何千。繰り返される画面映像。牙を剥く、現在。

黒い波、全てを飲み込み、辺りを覆い尽くす、今という脅威。何百、何千の…。繰り返される画面映像。知人に方をたたかれた。すぐ尋ねた。「これ、何?」。私たちの震災の真顔だよ。
                                 (66ページ)

 大震災を和合は直接体験している。しかし、その「事象」がはっきりしてくるのはあとからなのだ。季村敏夫が『日々の、すみか』で書いたように「出来事は遅れてあらわれる」。「1分」は、その「遅れ」の象徴(比喩)である。
 この膨大な映像、あふれる「事象」と「精神/魂」はまだ向き合えない。「精神/魂」は「目」や「耳」に遅れてあらわれる。ことばで形をつくらないことにはあらわれることもできない。
 ああ、だから、せめて、まず「汗」を感じ、「冷たい汗」を感じることから「精神/魂」を「いま/ここ」に呼び出そうというのか。
 そのために、ことばは、どんなふうに動けばいいのだろうか。

バスに乗ろうとして、それを待っている、鳩の群れが遠くの空からやってくる、意味の深遠な雲から飛来する、未来の言葉なのか。
                                 (66ページ)

 和合は、あらゆるものに「ことば」を見出そうとしている。あらゆるものをことばにすることで、ことばが動きだすのを励ましている。ことばとともにあらわれる「精神/たましい」を励ますように。




現代詩手帖 2011年 05月号 [雑誌]
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南原充士『インサイド・アウト』

2011-05-27 21:55:52 | 詩集
南原充士『インサイド・アウト』(洪水企画、2011年04月01日発行)

 南原充士『インサイド・アウト』は喪失感がただよう詩集である。何かなくした。そして、なくしたものを思い出している。「いきいきとしたもの」があるとすれば、その「思い出す」という動きのなかにある。「思う」というこころの動きが人間のいのちをささえている、ということを感じさせる詩集である。
 清潔でシンプルである。でも、私には物足りない。
 「試みの五感」。その書き出し。

目のみえない人に
ボッティチェリの「ヴィーナスの誕生」を説明します

海の泡から生まれた裸の女性が絵の真ん中にいます
侍女が薄物でヴィーナスの体を隠そうとしてます

耳の聞こえない人に
ベートーヴェンの「運命」を説明します

タタタターンと手のひらを叩いてみせます
山谷の曲線を背中に指でなぞってみます

 えっ、それだけ? それで、つたわる?
 だいたい「海の泡から生まれた裸の女性が絵の真ん中にいます」って、目のみえるひとのための説明じゃない? 私は目が見えないわけではないが、失明の危機を(恐怖を)体験した。目のみえないとき「裸の女性」とだけ言われても、私は、何も想像もできない。裸の女を見た記憶があっても、目を閉ざして裸の音を想像できない。裸の女ということばで裸の女を想像できるのは、きっと目の見える人だと思う。裸であるかないかは、たいてい「目」で確認するものだから。
 触ると、おっぱいの方が手のひらをはじき返してくるような弾力のある女が、なめると、山の奥の岩清水を口に含んだような透明感の広がる脇腹の女が、……とかなんとか、「視覚」以外のことばでないと、想像力を駆り立てないんじゃない?
 「侍女が薄物でヴィーナスの体を隠そうとしてます」はもっとひどいなあ。「体を隠す」なんて、目のみえる人に対してやっていること。目の見えない人には、無意味なことだねえ。そういう「無意味」まで、きちんと説明するということかもしれないけれど、もしほんとうに無意味まで説明するなら、もっともっと「意味」も説明しないと、おもしろくない。
 だいたい、絵って、「視覚」にだけ働きかけてくるもの? 「視覚」に働きかけてくるものだけをとりあげて、それを「目のみえない人」に説明するというのは、どういうこと?
 なんだかぎょっとするなあ。
 「運命」の説明も変だなあ。「タタタターンと手のひらを叩いてみせます」というのは、目のみえないひとの手のひらを叩くのかな? それなら、まあ、わからないでもないけれど、どうも南原が耳の聞こえないひとの目の前で南原自身の手のひらを叩いているように感じられる。音って、そういうもの? 動きで「見せる」もの? 音は振動。その振動を確認するのは「目」?
 なんだか違うなあ。

鼻の利かない人に
オーデコロンを説明します

バラ園と香水製造工場のようすを示します
香水を吹きかける女性の胸元をアップします

味のわからないひとに
懐石料理の説明をします

趣のある食器に盛られた料理の色合いを示します
料理を口に運ぶひとの表情を示します

 ここでも説明は「目」に頼っている。
 南原の「五感」はたぶん「視覚」優先のものなのだろう。「優先」というより「視覚」が他の感覚を統合する形で動いているのだろう。
 どの感覚を優先するかというのは、ひとそれぞれの問題だから、何もいうことはないのだが--といいながら、私は書くのだが……。
 南原のことばを読んでいると、その「五感」がまじりあわない。別々に存在している。それがおもしろくない。「ヴィーナスの誕生」にもどって批判すると、南原の説明には「視覚」的表現しかない。目のみえない人に説明するなら、視覚以外の感覚を総動員して説明してほしい。手で触った感じ、舌で味わった感じ、匂いを貝だ感じ、耳に聞こえる音楽で「ヴィーナスの誕生」を説明してほしい。
 もし本気で、南原の「五感」を動員して、その絵を説明しはじめたら、南原のことばはきっと変わっていくはずだ。
 手で触った感じと舌で味わった感じがどこで溶け合うべきかを探し求め、触覚も味覚もゆらぐからだ。その揺らぎは当然嗅覚や聴覚にも影響する。感覚の伝播が、感覚そのものを揺り動かし、覚醒させる。そして、新しいものを発見する。ことばが、つぎつぎにかわっていく。ことばがことばではなくなる。--そういうことがないと、それは詩とは呼べない。

 最初に南原の詩には喪失感が漂っていると書いたが、その喪失感は喪失感のままである。ゆらがない。清潔で美しい。それは、何かを喪失することで変わっていく自分をことばで追ってみようとしていないからだ。自分を「いま/ここ」に固定しておいて、「いま/ここ」からなくなってしまったものをただなつかしんでいるからだ。ことばは、ことばのまま、そこにある。
 これは、おもしろくない。




笑顔の法則
南原 充士
思潮社



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