詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(25)

2011-05-28 23:59:59 | 詩の礫
和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(25)(「現代詩手帖」2011年05月号)

 私がいま読んでいる「10」の部分は、何日に書かれたものか正確にはわからない。「09」には2011.3.27 という日付があった。「10」の日付は2011.4.1である。2011.3.27 から2011.4.1までに書かれたものかもしれない。
 その後半(きのう読んだ部分の残り)では、和合は気弱になったり、その気弱になった自分に対して怒ったりしている。揺れ動いている。

おまえの弱音を聞いていたら、きょうも嫌になったわい。特におまえは相当、弱っているな。悔しいか、苦しいか。フン、相変わらず、取るに足らない男だ。

教えてやろう。悔しいのなら。拳で拳を殴るんだ、拳で拳を殴る、拳で拳を殴る、殴る、殴る、いいか、悔しかったらな、こうするんだ、拳で拳を殴れ、拳で拳を殴れ。拳で拳を殴れ。おまえの魂はおまえが潰すがいい。おまえの魂はおまえに潰されるがいい。
(68ページ)

 このことばを受け止めるためには、私は、ことばを補わないといけない。「おまえ(和合)の魂はおまえ(和合)に潰されるがいい」は、「おまえ(和合)の魂は大震災というの悪魔に潰されてしまうのなら、おまえ(和合)地震の拳に潰されるがいい」である。そしてそれは、大震災の悪魔に負けるんじゃない、という和合自身の「鼓舞」なのである。逆説的な鼓舞なのである。
 悪魔のことばを逆手にとって、和合は言いなおしている。

悪魔め、悪魔。フン、おまえの弱音を聞いていたら、今日もいやになったわい。特におまえは相当、弱っているな。ゆっくりと地の底から、大きな魚がやってきて、体をひるがえして潜っていくかのような、余震。
                                 (68ページ)

 何百の、何千の、何億の馬と呼ばれていた余震が、いまは「大きな魚」になっている。余震は小さくなっている。それは和合のことばが震災に勝っているからである。
  --勝つ、といっても、それは簡単なことではない。
 怒りを、怒りのまま、怒りとしてもつことかできるようになったということかもしれない。
 いつ、どこで、ということを私は指摘できないけれど、「精神」としての「比喩」を書いたころから、和合は確実に「精神」というものを「肉体」のように育てているように思える。ことばによって。

暗い夜道を走って、海まで行こうと思った。私は精神に、冷たい汗をかいている。

ならば福島の暗い夜の平野を、怒りの速度となって、私は行け。
                                 (69ページ)

 この「怒りの速度」は「精神の、冷たい汗」の「精神」のように「比喩」である。書くことによって、「いま/ここ」に出現する「なにか」である。
 この「比喩」に別の「比喩」が呼応する。そして、そこに



 が、まぎれもなく屹立する。

福島の暗い平野を、怒りの速度となって、私は行く。

福島の暗い平野を、怒りの速度となって、私は行き過ぎる。この時、私は野の馬のいななきの本当の意味を知る。

福島の暗い平野を、怒りの速度となって、私は行き過ぎる。この時、私は母の子守歌の本当の意味を知る。

福島の暗い平野を、怒りの速度となって、私は行き過ぎる。この時、私は雨の後の風の本当のソプラノを知る。
                                 (69ページ)

 「野の馬のいななきの本当の意味」「母の子守歌の本当の意味」「雨の後の風の本当のラブソング」は、すべて「怒りの速度」が呼び寄せたもの、「ことばのスピード」である。そこにあるのは「速度/スピード」としての「詩」である。「本当の意味」など、ない。「無意味」しかない。いや、「意味」はなるというかもしれないが、それは「ことば」としては語られていないから、ない、としかいいようがない。
 ない、のだけれど、感じることができる。
 もし、この一群のことばに、ほんとうに「意味」が与えられるとしたら、それは「事後」のことである。和合が書いている「詩の礫」が完結し、そこに書かれていることばを静かに読み返す時に、どこからともなくやってくるものだろう。
 それまでは、存在しない。
 それまでは、ことばを超越して、「いま/ここ」とは別の次元に存在している。
 こんなふうに「いま/ここ」を超越して、特権的に別の次元に存在し、そこから降ってくるもの--それが詩である。
 和合は、それを掴んでいる。

 こうしたことばに出会った後(たぶん、それは「怒りの速度」のなかだけで、そのときだけ出会えるものだと思う)、自分の拳を自分で殴っていた怒りと哀しみは、少し姿・形をかえる。ことばを増やす。美しくなる。
 この変化に、私は、なんとなくほっとする。

俺は少しも泣いてない。

じゃあ、誰が泣いている?

主じゃない、福島の風と土が泣いている。

行き来る、行き来る風よ。そぼ降る、そぼ降る涙よ。広がる、広がる大地よ。俺は進む、海まで、進む。
                               (69-70ページ)

 ここにあることばの繰り返しは「拳で拳を殴る」のように、行き止まりにぶつからない。ことばを開きながら動いている。ことばを開いて行くところまで、和合のことばは甦ったのである、と思う。

ガソリンが切れるか、命が切れるか、心が切れるか、時が切れるか、道が切れるか、俺はまた、一個の憤怒と激情となって、海へと向かうのか。悔しい、悔しい、悔しい、海へ、悔しい、海へ、海へ。

太平洋へ。

激怒する、悲憤する、嗚咽する魂よ。海へ。

海原よ、汝は炎。潮凪よ、汝は炎。水平線、空と海を切り分けよ。黎明。一艘の帆船。
                                 (70ページ)

 ことばが、大震災で苦しんでいたことばが、ことばをおし開きながら動いているがわかる。

明けない夜は無い。
                                 (70ページ)

 それまで「祈り」だったことばが、いまは「実感」になっている。
 ことばは、語ること(書くこと)で、ほんものになるのだ。






地球頭脳詩篇
和合 亮一
思潮社


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リドリー・スコット監督「エイリアン」(★★★★★)

2011-05-28 17:40:50 | 午前十時の映画祭
監督 リドリー・スコット 出演  シガニー・ウィーヴァー、トム・スケリット

 この映画ではファーストシーンから宇宙船が登場するまでが一番好きだ。宇宙空間に「モノリス」が1個浮かび上がる。それが5個に増え、「ALIEN」という文字に変わる。「2001年宇宙の旅」に対するオマージュだね。まったく新しい「宇宙の旅」が始まるのだ、未知の存在が人間を覚醒させるのだ、と予感させる一瞬。いいなあ。と、思った次の瞬間、度肝を抜かれる。宇宙船(貨物船)の姿が「2001年」とは大違い。シンプル、スマートとは無縁。ゴシック様式である。でも、考えてみれば宇宙は真空。空気抵抗がない。どんな形をしていても同じ。いいなあ。「宇宙の旅」なんかに負けないぞ、違ったものを作ってやるんだという気迫が伝わってくる。
 で、コンピュータという人間の英知の結晶と戦うというのではなく、人間では絶対にありえない存在と戦うという飛躍がいいし、なによりもエイリアンそのものの造形がすごい。全体がわからないのがすごさの頂点。タコ?みたいにくねくねする尻尾?があって、指があって、何よりも口だけの頭がある。口だけ、という印象が強いのは、口の中からまた口がむき出しになって出てくるからだねえ。口の中から歯、そしてその奥の喉からまた歯が触手のように伸びる。あるいは勃起する性器のようにむき出しになる、の方が近いのかなあ。なにしろ、アップ、アップ、アップで、なんでもレイプしてしまいそうな強靭な牙がみえるだけで、全体の大きさもわからない(こどもの時は、まあ全体が見える、見えた感じがするけど――これも何やら、子供の勃起する前の性器、子供なのに性器だけがいきいきしている、みたいなやわらかな感じがあるなあ)。わからないから、怖さが想像力のなかで拡大してゆくという映画の取り方が、それを強調する。血液が宇宙船を溶かしてしまうような強力な酸も怖いねえ。滴り落ちる、これも血というよりありあまった精液のねばねばな感じがする。
人間に寄生してしがみついていると思ったら、体内に入って体を突き破って出てくる。なんだか性器がそのまま体を突き破る感じだなあ。ジョン・ハートには申し訳ないが、エイリアンの快感が体を駆け抜ける。(あれっ、私って「男色主義」?)いやあ、「エクソシスト」の緑のへど、首の180度回転以来の何度も見てみたい気持ち悪さだねえ。好きだなあ。再見してみると意外と短くて、うーん、残念、と悔しい感じすらするなあ。何だったかタイトルは忘れたが、ジョン・ハートが類似のシーンを演じるパロディ映画があって、彼が「またか」というセリフがあったな。みんな、あのシーンが見たいんだ。やったジョン・ハートすら。
最後に生き残るのがシガニー・ウィーヴァー、女性と言うのも、この当時はびっくりするなあ。エイリアンが男むき出しの造形なので、男ではなく、女が生き延びる(最後の戦いをする)というのが生きてくるのかもしれない。女と言っても、女を売りにしていない。科学的に状況を分析し、弱みも見せない。(そのくせ、最後はスキャンティ姿をちゃんと見せるんだけれど。)で、その最後なのだけれど、やっぱりレイプシーンに見えるねえ。エイリアンがシガニー・ウィーヴァーをレイプしようとする。それをシガニー・ウィーヴァーがレイプされる寸前、ヴァギナの入り口で遠ざける。開いた宇宙船のドアからエイリアンが宇宙に蹴りだされる(真空がエイリアンを引っ張るのだけれど)、けり出されまいとしがみつく・・・。よかったというか、残念というか(と書くと叱られそうだけれど、映画だから許してね)。――続編の展開をみると、私のような期待?が多かったんだろうなあ。(映画だから許してね。)




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