和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(25)(「現代詩手帖」2011年05月号)
私がいま読んでいる「10」の部分は、何日に書かれたものか正確にはわからない。「09」には2011.3.27 という日付があった。「10」の日付は2011.4.1である。2011.3.27 から2011.4.1までに書かれたものかもしれない。
その後半(きのう読んだ部分の残り)では、和合は気弱になったり、その気弱になった自分に対して怒ったりしている。揺れ動いている。
このことばを受け止めるためには、私は、ことばを補わないといけない。「おまえ(和合)の魂はおまえ(和合)に潰されるがいい」は、「おまえ(和合)の魂は大震災というの悪魔に潰されてしまうのなら、おまえ(和合)地震の拳に潰されるがいい」である。そしてそれは、大震災の悪魔に負けるんじゃない、という和合自身の「鼓舞」なのである。逆説的な鼓舞なのである。
悪魔のことばを逆手にとって、和合は言いなおしている。
何百の、何千の、何億の馬と呼ばれていた余震が、いまは「大きな魚」になっている。余震は小さくなっている。それは和合のことばが震災に勝っているからである。
--勝つ、といっても、それは簡単なことではない。
怒りを、怒りのまま、怒りとしてもつことかできるようになったということかもしれない。
いつ、どこで、ということを私は指摘できないけれど、「精神」としての「比喩」を書いたころから、和合は確実に「精神」というものを「肉体」のように育てているように思える。ことばによって。
この「怒りの速度」は「精神の、冷たい汗」の「精神」のように「比喩」である。書くことによって、「いま/ここ」に出現する「なにか」である。
この「比喩」に別の「比喩」が呼応する。そして、そこに
が、まぎれもなく屹立する。
「野の馬のいななきの本当の意味」「母の子守歌の本当の意味」「雨の後の風の本当のラブソング」は、すべて「怒りの速度」が呼び寄せたもの、「ことばのスピード」である。そこにあるのは「速度/スピード」としての「詩」である。「本当の意味」など、ない。「無意味」しかない。いや、「意味」はなるというかもしれないが、それは「ことば」としては語られていないから、ない、としかいいようがない。
ない、のだけれど、感じることができる。
もし、この一群のことばに、ほんとうに「意味」が与えられるとしたら、それは「事後」のことである。和合が書いている「詩の礫」が完結し、そこに書かれていることばを静かに読み返す時に、どこからともなくやってくるものだろう。
それまでは、存在しない。
それまでは、ことばを超越して、「いま/ここ」とは別の次元に存在している。
こんなふうに「いま/ここ」を超越して、特権的に別の次元に存在し、そこから降ってくるもの--それが詩である。
和合は、それを掴んでいる。
こうしたことばに出会った後(たぶん、それは「怒りの速度」のなかだけで、そのときだけ出会えるものだと思う)、自分の拳を自分で殴っていた怒りと哀しみは、少し姿・形をかえる。ことばを増やす。美しくなる。
この変化に、私は、なんとなくほっとする。
ここにあることばの繰り返しは「拳で拳を殴る」のように、行き止まりにぶつからない。ことばを開きながら動いている。ことばを開いて行くところまで、和合のことばは甦ったのである、と思う。
ことばが、大震災で苦しんでいたことばが、ことばをおし開きながら動いているがわかる。
それまで「祈り」だったことばが、いまは「実感」になっている。
ことばは、語ること(書くこと)で、ほんものになるのだ。
私がいま読んでいる「10」の部分は、何日に書かれたものか正確にはわからない。「09」には2011.3.27 という日付があった。「10」の日付は2011.4.1である。2011.3.27 から2011.4.1までに書かれたものかもしれない。
その後半(きのう読んだ部分の残り)では、和合は気弱になったり、その気弱になった自分に対して怒ったりしている。揺れ動いている。
おまえの弱音を聞いていたら、きょうも嫌になったわい。特におまえは相当、弱っているな。悔しいか、苦しいか。フン、相変わらず、取るに足らない男だ。
教えてやろう。悔しいのなら。拳で拳を殴るんだ、拳で拳を殴る、拳で拳を殴る、殴る、殴る、いいか、悔しかったらな、こうするんだ、拳で拳を殴れ、拳で拳を殴れ。拳で拳を殴れ。おまえの魂はおまえが潰すがいい。おまえの魂はおまえに潰されるがいい。
(68ページ)
このことばを受け止めるためには、私は、ことばを補わないといけない。「おまえ(和合)の魂はおまえ(和合)に潰されるがいい」は、「おまえ(和合)の魂は大震災というの悪魔に潰されてしまうのなら、おまえ(和合)地震の拳に潰されるがいい」である。そしてそれは、大震災の悪魔に負けるんじゃない、という和合自身の「鼓舞」なのである。逆説的な鼓舞なのである。
悪魔のことばを逆手にとって、和合は言いなおしている。
悪魔め、悪魔。フン、おまえの弱音を聞いていたら、今日もいやになったわい。特におまえは相当、弱っているな。ゆっくりと地の底から、大きな魚がやってきて、体をひるがえして潜っていくかのような、余震。
(68ページ)
何百の、何千の、何億の馬と呼ばれていた余震が、いまは「大きな魚」になっている。余震は小さくなっている。それは和合のことばが震災に勝っているからである。
--勝つ、といっても、それは簡単なことではない。
怒りを、怒りのまま、怒りとしてもつことかできるようになったということかもしれない。
いつ、どこで、ということを私は指摘できないけれど、「精神」としての「比喩」を書いたころから、和合は確実に「精神」というものを「肉体」のように育てているように思える。ことばによって。
暗い夜道を走って、海まで行こうと思った。私は精神に、冷たい汗をかいている。
ならば福島の暗い夜の平野を、怒りの速度となって、私は行け。
(69ページ)
この「怒りの速度」は「精神の、冷たい汗」の「精神」のように「比喩」である。書くことによって、「いま/ここ」に出現する「なにか」である。
この「比喩」に別の「比喩」が呼応する。そして、そこに
詩
が、まぎれもなく屹立する。
福島の暗い平野を、怒りの速度となって、私は行く。
福島の暗い平野を、怒りの速度となって、私は行き過ぎる。この時、私は野の馬のいななきの本当の意味を知る。
福島の暗い平野を、怒りの速度となって、私は行き過ぎる。この時、私は母の子守歌の本当の意味を知る。
福島の暗い平野を、怒りの速度となって、私は行き過ぎる。この時、私は雨の後の風の本当のソプラノを知る。
(69ページ)
「野の馬のいななきの本当の意味」「母の子守歌の本当の意味」「雨の後の風の本当のラブソング」は、すべて「怒りの速度」が呼び寄せたもの、「ことばのスピード」である。そこにあるのは「速度/スピード」としての「詩」である。「本当の意味」など、ない。「無意味」しかない。いや、「意味」はなるというかもしれないが、それは「ことば」としては語られていないから、ない、としかいいようがない。
ない、のだけれど、感じることができる。
もし、この一群のことばに、ほんとうに「意味」が与えられるとしたら、それは「事後」のことである。和合が書いている「詩の礫」が完結し、そこに書かれていることばを静かに読み返す時に、どこからともなくやってくるものだろう。
それまでは、存在しない。
それまでは、ことばを超越して、「いま/ここ」とは別の次元に存在している。
こんなふうに「いま/ここ」を超越して、特権的に別の次元に存在し、そこから降ってくるもの--それが詩である。
和合は、それを掴んでいる。
こうしたことばに出会った後(たぶん、それは「怒りの速度」のなかだけで、そのときだけ出会えるものだと思う)、自分の拳を自分で殴っていた怒りと哀しみは、少し姿・形をかえる。ことばを増やす。美しくなる。
この変化に、私は、なんとなくほっとする。
俺は少しも泣いてない。
じゃあ、誰が泣いている?
主じゃない、福島の風と土が泣いている。
行き来る、行き来る風よ。そぼ降る、そぼ降る涙よ。広がる、広がる大地よ。俺は進む、海まで、進む。
(69-70ページ)
ここにあることばの繰り返しは「拳で拳を殴る」のように、行き止まりにぶつからない。ことばを開きながら動いている。ことばを開いて行くところまで、和合のことばは甦ったのである、と思う。
ガソリンが切れるか、命が切れるか、心が切れるか、時が切れるか、道が切れるか、俺はまた、一個の憤怒と激情となって、海へと向かうのか。悔しい、悔しい、悔しい、海へ、悔しい、海へ、海へ。
太平洋へ。
激怒する、悲憤する、嗚咽する魂よ。海へ。
海原よ、汝は炎。潮凪よ、汝は炎。水平線、空と海を切り分けよ。黎明。一艘の帆船。
(70ページ)
ことばが、大震災で苦しんでいたことばが、ことばをおし開きながら動いているがわかる。
明けない夜は無い。
(70ページ)
それまで「祈り」だったことばが、いまは「実感」になっている。
ことばは、語ること(書くこと)で、ほんものになるのだ。
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