詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(12)

2011-05-15 23:59:59 | 詩の礫
和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(12)(「現代詩手帖」2011年05月号)

また揺れた。とても大きな揺れ。ずっと予告されている大きな余震がいよいよなのかもしれない。階段を下まで行って、揺れながら、階段の先の扉を開けようか、どうしようか、悩んだ。放射能の雨。
                                 (40ページ)

 「悩んだ」。だれもがつかうこはである。和合は、ここではじめてつかっている。それまでもいろいろなことを「悩んだ」はずである。

家族は先に避難しました。子どもから電話がありました。父として、決断しなくてはいけないのか。
                                 (39ページ)

 の「決断しなくてはいけないのか」は「悩み」そのものだろう。また「事象」「事後」「意味」についてあれこれ考えていたのも、「悩み」に含まれるだろう。こころ・意識が動き、それが「答え」のないことばになるとき、ひとは「悩んでいる」。どうしようかまよっている。わからずにいる。
 これは、ごく普通のことなのかもしれないが、和合は、そのことをていねいに書いている。こころ・意識・精神としてだけではなく、そこに「肉体」を結びつけながら、ていねいに書いている。「階段を下まで行って」という動きが、不思議と私のこころに届いてくる。まず「肉体」が動き、それを追いかけるようにして、こころ・意識・精神が動いてくる。あ、「悩み」というのは、こんなふうに「遅れて」やってくる--ということが、印象に残るのである。「悩み」が「悩み」として自覚される(反芻され、意識化される)までには、「時間」が必要だということが、印象に残る。
 次の「つぶやき」に、その「悩み」とつながることばが出てくる。

ガソリンはもう底を尽きた。水がなくなるか、食料がなくなるか、心がなくなるか。アパートは、俺しかいない。
                                 (40ページ)

 まず、ガソリンからことばが動く。ガソリン→水→食料→心。数えあげるものがなくなったとき、心が「対象」としてあらわれる。それは、それまでこころがガソリン、水、食料といっしょにあったからだ。こころは単独では存在せず、何かと結びついている。対象があって、こころがある、という「二元論」ではなく、「対象=こころ」という「一元論」が、ガソリン=こころ、水=こころ、食料=こころ、を経て、「こころ=こころ」にたどりついているのである。こころが、こころを対象とするとき、それが「悩み」になるのだ。
 前の部分で「悩んだ」と書いたから、和合は、ここでようやく「心」ということばをつかい、こころの存在を自覚している。
 38ページに、「家族の健康が心配です」という表現があり、その「心配」のなかに「心」という文字がつかわれ、そこにも「心」はあるのだが、この「心」は「家族の健康」という対象と結びついている。「家族の健康」という「対象」に「配られている」。(心を配ることが「心配」ということである。)
 そして、この「心」の存在を自覚したとき、和合が「詩の礫」を書く「理由」(書く根拠)もはっきりする。
 こころをなくさないためである。

 大震災のなかで、何をどうしていいか、わからない。何が起きたかも、実はわからない。そこから、どうやって生きていけばいいのか。「肉体」はたしかに「生きている」。ここにある。しかし、「こころ」は? こころは、何と結びついていいかわからず、うろたえている。何とも結びつくことができずに、そこに「いる」(ある)。

震災にあいました。避難所に居ましたが、落ち着いたので、仕事をするために戻りました。みなさんにいろいろとご心配をおかけいたしました。励ましをありがとうございました。

 「詩の礫」のこの書き出しの「落ち着いた」は、こころがようやく結びつく対象を見つけ出した、こころを対象に結びつけながら(一体のものとして)動かすことができるようになったということだろう。「ありがとうございました」は、和合を「励まし」てくれたひとに結びつけることばなのだ。
 「ありがとう」ということばのなかで、和合は、「他者」とともに生きているのだ。
 多くの被災者たちも繰り返した、この「ありがとう」には、「励ましをありがとう」(援助をありがとう)を超えて、「あなたが(つまり、被災しなかった私たちが)、こうやっていっしょに生きていてくれてありがとう」という意味合いを含んでいるのだと思う。だから、私は震えてしまうのだ。私がこうやって生きているのは、ごく自然なことのように私は感じているが、生きてこうしてここにいるということは、何かの力によるものなのだ。そのことを、被災者の「ありがとう」から、私は感じずにはいられない。「ありがとう」と言わなければいけないのは私の方なのだ。「被災者のみなさん、生きていてくれてありがとう」と言わなければならないのは、私たちの方なのだ。それなのに、被災者から「ありがとう」と言われてしまう。

 感想が少し逆戻りしてしまった。

 「心がなくなるか」--そう書いたとき、和合は、こころをなくしてはいけないと決意している。こころをなくさないために、「詩の礫」を書こうとしたのだ。こころをなくさないために、「私は作品を修羅のように書きたいと思います」(39ページ)と書いたのだ。
 そして、そのときの「心」は、和合だけのこころではない。「ありがとうございました」ということばで、私たちとつながるこころなのである。
 私たちは、和合のことばをとおして、被災者とつながる。そのこころこそ、なくしてはならないものだろう。

だいぶ、長い横揺れだ。賭けるか、あんたが勝つか、俺が勝つか。けっ、今回はそろそろ駄目だが、次回はてめえをめちゃくちゃにしてやっぞ。
                                 (40ページ)

 「地震の揺れ(その力)」を、次は「めちゃめちゃにしてやっぞ」という強いこころ--そのこころと、私たちはつながらないといけないのだ。

 なんだか説教臭い感想になってしまったが……。




現代詩手帖 2011年 05月号 [雑誌]
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福田拓也「その絶えずゆらぎたゆたう……」

2011-05-15 15:37:50 | 詩(雑誌・同人誌)
福田拓也「その絶えずゆらぎたゆたう……」(「hotel 第2章」27、2011年04月20日発行)

 福田拓也「その絶えずゆらぎたゆたう……」は、句読点があったりなかったりする。

その絶えずゆらぎたゆたう不可視の壁を辿るようにしていくつもの斜面や断崖、段丘をめくる視線の跡地にさまざまな字面の空蝉がぼんやりと光を放っている複雑な画数を辿るもの進んでは後退するものその細かく仕切られた迷路をほとんど形の崩れた不定形な裸体が枝分かれしつつ多方向に伸びて行くがその奥底に光を反映する黒い水の瞳は瞬いているだろうか

 「断崖、段丘」のあいだにある読点「、」は漢字がつづいて読みにくいからつけたのだろうか。しかし、まあ、この読点こそ、なくても「文」には影響がないだろう。
 この句読点が不自然な福田のことばの特徴は、句点「。」が省略されることで、どこまでが一文かわからないところにある。さらに、その途切れ目のない文を、福田のことばをまねして言えば、「その」ということばが絶えず引き継ぎ、引き継ぐことで「ゆらぎ」「たゆたう」ところにある。そして、その「その」による引き継ぎが、実は句点「。」の役割を果たしている。

火を飲み込み赤く輝くような水面はあるにしても恐らく果てのない底なしの底にそこでむしろ目を閉じるようにして眠りをむさぼっているのでもあろうかそこにいたるまでの屈曲はそれ自体が肉の壁と地層を構成したそこここに埋まる骨の光る夜をどこかで囁いて羽のこすれるような微かな声たちが行き着けない高みを仰ぎ見る亡き視線の

 どこで引用を終えればいいのかわからないので、ここまでにしておくが、「底なしの底にそこで」の「そこ」がおもしろいのは、その「そこ」が前出の「底」から次の文章を切り離すためというか、次の文章のことばを自在に動かすための跳躍台になっていることである。いままで書いてきたことを無視(?)して、違ったことを書きはじめるために「その」ということばがつかわれている。
 いままで書いてきたことと無関係なことを書いてしまうと、文章というのは「でたらめ」になる。ことばの「論理」がなくなって、「無意味」になる。その「無意味」というか、「論理の否定(破壊)」を「その」がごまかしている。ごまかしているというのは、ちょっとことばがよくないのだが、言いなおすと、論理の否定(破壊)を、「その」によってあたかも「論理」があるかのように仮装している。「論理」というのは、ようするに「連続」のことだからである。切断ではなく、連続。あることがらが連続するなら、そこには連続をつらぬく「論理」がある--という仮装のこころみ。
 こういうことに、何か意味があるのかといえば。
 ない。
 そして、矛盾して聞こえるかもしれないが、この意味がない、無意味、がこの詩の面白さである。
 「その」によってむりやり「連続」が仮装され、ことばが動くとき、そこでは「無意味」が動いている。何の関係もないことばが動く。ことばは、前に書いたことと無関係に動ける。自由に動ける。そして、その自由とは、きっと「美」なのである。つまり(?)、そこには福田の「美意識」だけがはっきりと存在している。そして、その「美意識」は福田の場合、「視線」(目の力)がつかみとってくる。

その絶えずゆらぎたゆたう不可視の壁

 この書き出しの「不可視」は不可視といいながら、視力を離れることがない。むしろ、「可視」を追い求める。繰り返される「光」「輝き」が、そのことを語っている。

 で、このことが、私にはちょっと不思議。書きながら、何かを踏み外したような気持ちになる。福田のやっていることと、私の感じていることが、うまく重ならない。うまく福田のことばを追いつづけることができないという感じが、ふいにしてくるのである。おもしろいのだけれど、一方で、あれっ、とも思ってしまう。頭ではわかったつもりでも、何か、私の肉体がついていかない。

 「その」によって接続(連続)を仮装しながら、展開することばが「視力」の世界であるというのは、うーん、むずかしい。
 視力というのは「接続(連続)」とは相いれないものだからねえ。簡単に言うと、目は必ず「距離」を必要とする。目を対象にくっつけるとき、何も見えない。対象を見るには目と対象の間に「距離」がないといけない。接続していてはいけない。
 離れること、自己(目)と対象を話さないことには、対象は「像」を結ばないのが「肉体」と「対象」の関係である。--この「基本的なあり方」を福田は、わざとねじまげ、そこでことばがどれだけ動くか、不思議な力業を試みていることになる。
 どうなるのかなあ。

 福田も、まだ、福田自身の「決着」をつけていないのかもしれない。詩の最後の方は、最初の方とはまったく違ったことばの動きがある。読点「、」が頻繁に出てくる。

巨大な眼球の闇そこを通って遥か遠くに見えてくるのは斜面に見え隠れする黒白の語たち灌木の葉や草を食みながら常に移動し続けている、皮膚の凹凸を水のないたくさんの川筋が走り様々な文字を刻んでいる、どこまでが自分の体なのかはっきりわからない、文字たちが皮膚を傷つけながら這うその痛みで時折り体の所在と限界がはっきりするがその感覚も程なく消えてしまう、

 視覚から触覚への主体の変化がある。視覚の結ぶ「像」とは別に、触覚が結ぶ「像」がある。それが福田の「肉体」のなかでは融合しない。そして、その融合を拒否しているのが「文字」である。(書き出しの部分には「複雑な画数」という表現があったが、それも「文字」そのものを別なことばで言い換えたものだ。)
 ことばは、福田にとっては、「文字」(視覚表現)なんだなあ。
 だから、句読点を省き(もっぱら省かれている、拒絶されているのは「句点」であり、「読点」は書かれているが)、そのことによって「ことば」の「肉体」の連続性を仮装するのだともいえる。
 (あ、なんだか、私の書いていることはわかりにくいね。)
 視覚は距離がないと成立しない感覚である。視覚は必然的に私と対象を「切断」する。そしてその「切断」のかわりに「像」を「肉体」の内部にとりこむ。「像」が「連続」を仮装する。その「像」を福田は「文字」(ことば)によって確立する。さらに、「像」が必然的に内包する「距離(切断)」を、「その」によって強引に結びつける。
 どう言っていいか私にもわからないのだが(だから書くのだが)、福田のことばには、そういう切断と接続の強引な「かけひき」(やりとり)がある。そのなかで、福田は「どこまでが自分の体なのかはっきりわからない」というようなところまで動いてきた。
 で、そのとき、なのか、そのあと、ということになるのかわからないが。
 そのとき、福田は視覚(眼球)から触覚(皮膚)へと、読点「、」の切断をはさみながら動いてしまう。
 このときというか、この瞬間が、私にはおもしろい。いろいろ期待してしまう。考えてしまう。
 福田は「触覚」を発見しつつあるのかな?
 触覚を起点にして、いま書いてきたことばを動かし直すとき、「その」による接続(連続)はどう変わるのか。それは視覚にどう影響し、それは「文字(ことば)」にどう影響するのか。
 その変化を読みたいなあ、と思ったのである。


言語の子供たち―福田拓也詩集
福田 拓也
七月堂
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