和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(15)(「現代詩手帖」2011年05月号)
和合が一日で書いた「詩の礫」を読むのにちょうど2週間かかった。もっとていねいに読まなければ和合の声を聞いたことにはならないのかもしれないという思いと、こんなふうに遅れながら読み進むと和合の声からどんどん遅れてしまうという思いが交錯する。どんなふうに読み進めばいいのかわからない。わからないけれど、少しスピードをあげて読んでみる。途中をとばしながら感想を書きつづけてみる。
きょう読むのは「2011.3.17 」の日付かある「02」の部分。
「しーっ。余震だ。」あるいは「しーっ、余震だ。」という表現は、このあと何度も出てくる。
和合は、何かを聞き取ろうとしている。何かが聞こえる。けれど、そのほんとうの「ことば」が聞こえないとき、私たちは「しーっ、静かに」という。それは「ほら、いま聞こえることば(音)をしっかり聞いて、重要なことなんだから」という意味である。「余震」に何か「意味」があるかどうか、わからない。けれど、何かを和合は感じている。
これは一日目の、
ものみな全ての事象における意味などは、それらの事後に生ずるものなのでしょう。ならば「事後」そのものの意味とは、何か。そこに意味はあるのか。
と呼応しているように思える。「震災は何を私たちに教えたいのか」と問うとき、その「声(答え)」を聞きたいと和合は願っている。けれど、聞こえない。それが「静か」である。「静かな静かな」である。「震災の声」が聞こえない。
「震災」というものが「声」をもたないとすれば。
それは、和合には「意味」が見つからないということでもある。「震災」は起きた。その「事後」に「意味」は生まれてくる。そうだとして、その「意味」がまだ和合には見つからない。和合は、その答えを「震災」というよりも、その「事後」に聞こうとしている。「事後」というのは、その「震災」を受け止めた和合の「肉体」のことかもしれない。震災があり、肉体があり、何かを感じる。恐怖や不安や怒り。そういうものが「肉体」のなかに蓄積し、「意味」になろうとしている。しかし、まだ「意味」になりきれていない。「声」にならない「声」がどこかにある。和合はそれを聞き取ろうとしている。
余震のたびに、「肉体」が反応する。それは、また「肉体」のなかで、ことばが生まれようとする瞬間かもしれない。だから、和合は言うのだ。
そして、この「しーっ、余震だ。」は、とても不思議なことに、矛盾を含んだことばといっしょに書かれている。
「この静けさは騒がしい。」静けさは静けさであり、そこに音がないはずなのだが和合は「騒がしい」と感じる。それは、和合の「肉体」の外にある「騒がしさ」ではない。和合の「肉体」の内部の「騒がしさ」なのだ。何かを感じる。そして、それがことばにならない。声にならない。けれど、うごめく--それを感じて「騒がしい」と和合は呼んでいるのだ。和合の肉体は、肉体から「声」そのものを聞きたくて、「しーっ、静かに」と言っているのだ。
「誰とも語らず、何も考えない。」誰とも語らずというのは「真実」かもしれない。けれど「何も考えない」は変である。「何も考えない」と書いているかぎり「何も考えない」と考えている。思っている。ことばを、そうやって動かしている。矛盾している。だから、ここに「思想」がある。それまでのことばでは言えない何かがある。
「この部屋そのものが自分で、私はここには居ないことに気づいた。」私はいるけれど、「いない」と感じてしまう。この矛盾のなかにも「思想」がある。いままでのことばでは言えない「こと」がある。ことばにならない「こと」がある。
「私が居ない」のはなぜか。
「私(和合)」は、この部屋には居ない「死者・行方不明者、13400人」とともにいるからだ。
そして、「しーっ、余震だ。」(しーっ、静かに、耳をすませて)というとき、それはここにいない死者・行方不明者、13400人の「肉体」の声を聞くことでもあるのだ。和合は自分自身の肉体の内部でうごめいている「声」(ことばにならないことば)を聞くように、死者・行方不明者のことばを聞こうとしているのだ。
ことばを聞く--耳をすます。そのとき、
正確に、ではないが、和合は高村光太郎のことばを思い出している。
この部分を読んだとき、私は季村敏夫の『日々の、すみか』を思い出した。阪神大震災を体験した季村のその詩集のなかに、よく似たことが書かれていた。ことはば、自分のことばが動きだす前に、誰かのことばを借りて(すでにあることばを借りて)動きだすのである。他人のことば、既成のことばをそのままに--必ずしも、既成のことばそのままにというのではないけれど、自分が知っている「確かなことば」に励まされるようにして、誘い出されるようにして、ことばは動きだすのだ。
何かわからなくなったとき、本を読む--というのは、そういう「ことばの誘い水」の力を借りることだ。
高村光太郎のことば、その詩を思い出したあと、和合のことばは明らかに違ってくる。怒りや絶望や不安はまだ和合の肉体のなかにあるだろうけれど、それとは違ったことばが動きだすのだ。おばあちゃんにかけたやさしいことばとはまた違った美しいことばが動きだすのだ。だれもが、詩、と思うようなことばが動きはじめる。
予定されていた小学校の卒業式がなくなったと書いたあと、和合はことばをつづける。
ここにあることばは大震災に傷ついていない。いや、傷ついていないというと、それは間違いなるのだが、傷つきながら、その傷をはね返して生きている。生き返っている。
「しーっ、余震だ。」と書いたとき、和合は高村光太郎の「声」を聞くことを念頭においていたとは言えないと思う。何かわからないけれど、何かを聞こうとしていた。そして、偶然のように、「女川」を思い出し、高村光太郎の詩を思い出したのだと思うけれど、そこから、ことばがいのちを回復した。
「しーっ」という「肉体」そのものへ呼び掛けることば。
そして、肉体のなにか残っていた高村光太郎のことば。
そのことばに励まされるようにして、和合の、怒りでも、不安でも、恐怖でもないことばが生き返ってきた。「きみ」に語りはじめた。
和合が一日で書いた「詩の礫」を読むのにちょうど2週間かかった。もっとていねいに読まなければ和合の声を聞いたことにはならないのかもしれないという思いと、こんなふうに遅れながら読み進むと和合の声からどんどん遅れてしまうという思いが交錯する。どんなふうに読み進めばいいのかわからない。わからないけれど、少しスピードをあげて読んでみる。途中をとばしながら感想を書きつづけてみる。
きょう読むのは「2011.3.17 」の日付かある「02」の部分。
ひどい揺れの中で、眠っていたわけではないが、また目覚めた。眠ることなぞ、ほとんど無い。いつも目覚めさせられてばかり。揺り動かされてばかり、しーっ。余震だ。
(40ページ)
「しーっ。余震だ。」あるいは「しーっ、余震だ。」という表現は、このあと何度も出てくる。
まず地鳴りがする。そして揺れる。一瞬、何かがはしゃぐのだ。ほら、この静けさは騒がしい。しーっ、余震だ。
(42ページ)
ガソリンもなく、放射能が降ってくるので、今日は家に隠れていた。誰とも語らず、何も考えない。しだいに息を殺しているこの部屋そのものが自分で、私はここには居ないことに気づいた。死者・行方不明者は13400人。ここには居ない。しーっ、余震だ。
(42ページ)
和合は、何かを聞き取ろうとしている。何かが聞こえる。けれど、そのほんとうの「ことば」が聞こえないとき、私たちは「しーっ、静かに」という。それは「ほら、いま聞こえることば(音)をしっかり聞いて、重要なことなんだから」という意味である。「余震」に何か「意味」があるかどうか、わからない。けれど、何かを和合は感じている。
これは一日目の、
ここまで私たちを痛めつける意味はあるのでしょうか。
ものみな全ての事象における意味などは、それらの事後に生ずるものなのでしょう。ならば「事後」そのものの意味とは、何か。そこに意味はあるのか。
この震災は何を私たちに教えたいのか。教えたいものなぞ無いのなら、なおさら何を信じればいいのか。
放射能が降っています。静かな静かな夜です。
(38ページ)
と呼応しているように思える。「震災は何を私たちに教えたいのか」と問うとき、その「声(答え)」を聞きたいと和合は願っている。けれど、聞こえない。それが「静か」である。「静かな静かな」である。「震災の声」が聞こえない。
「震災」というものが「声」をもたないとすれば。
それは、和合には「意味」が見つからないということでもある。「震災」は起きた。その「事後」に「意味」は生まれてくる。そうだとして、その「意味」がまだ和合には見つからない。和合は、その答えを「震災」というよりも、その「事後」に聞こうとしている。「事後」というのは、その「震災」を受け止めた和合の「肉体」のことかもしれない。震災があり、肉体があり、何かを感じる。恐怖や不安や怒り。そういうものが「肉体」のなかに蓄積し、「意味」になろうとしている。しかし、まだ「意味」になりきれていない。「声」にならない「声」がどこかにある。和合はそれを聞き取ろうとしている。
余震のたびに、「肉体」が反応する。それは、また「肉体」のなかで、ことばが生まれようとする瞬間かもしれない。だから、和合は言うのだ。
しーっ、余震だ。
そして、この「しーっ、余震だ。」は、とても不思議なことに、矛盾を含んだことばといっしょに書かれている。
「この静けさは騒がしい。」静けさは静けさであり、そこに音がないはずなのだが和合は「騒がしい」と感じる。それは、和合の「肉体」の外にある「騒がしさ」ではない。和合の「肉体」の内部の「騒がしさ」なのだ。何かを感じる。そして、それがことばにならない。声にならない。けれど、うごめく--それを感じて「騒がしい」と和合は呼んでいるのだ。和合の肉体は、肉体から「声」そのものを聞きたくて、「しーっ、静かに」と言っているのだ。
「誰とも語らず、何も考えない。」誰とも語らずというのは「真実」かもしれない。けれど「何も考えない」は変である。「何も考えない」と書いているかぎり「何も考えない」と考えている。思っている。ことばを、そうやって動かしている。矛盾している。だから、ここに「思想」がある。それまでのことばでは言えない何かがある。
「この部屋そのものが自分で、私はここには居ないことに気づいた。」私はいるけれど、「いない」と感じてしまう。この矛盾のなかにも「思想」がある。いままでのことばでは言えない「こと」がある。ことばにならない「こと」がある。
「私が居ない」のはなぜか。
死者・行方不明者は13400人。ここには居ない。
「私(和合)」は、この部屋には居ない「死者・行方不明者、13400人」とともにいるからだ。
そして、「しーっ、余震だ。」(しーっ、静かに、耳をすませて)というとき、それはここにいない死者・行方不明者、13400人の「肉体」の声を聞くことでもあるのだ。和合は自分自身の肉体の内部でうごめいている「声」(ことばにならないことば)を聞くように、死者・行方不明者のことばを聞こうとしているのだ。
ことばを聞く--耳をすます。そのとき、
女川。美しい港町だった。さんまが美味しかった。高村光太郎の碑があった。海で魚を捕ることは、人が原始に帰る興奮を味わうことだ、そんなことが美しく簡潔に書かれていた。
(41ページ)
正確に、ではないが、和合は高村光太郎のことばを思い出している。
この部分を読んだとき、私は季村敏夫の『日々の、すみか』を思い出した。阪神大震災を体験した季村のその詩集のなかに、よく似たことが書かれていた。ことはば、自分のことばが動きだす前に、誰かのことばを借りて(すでにあることばを借りて)動きだすのである。他人のことば、既成のことばをそのままに--必ずしも、既成のことばそのままにというのではないけれど、自分が知っている「確かなことば」に励まされるようにして、誘い出されるようにして、ことばは動きだすのだ。
何かわからなくなったとき、本を読む--というのは、そういう「ことばの誘い水」の力を借りることだ。
高村光太郎のことば、その詩を思い出したあと、和合のことばは明らかに違ってくる。怒りや絶望や不安はまだ和合の肉体のなかにあるだろうけれど、それとは違ったことばが動きだすのだ。おばあちゃんにかけたやさしいことばとはまた違った美しいことばが動きだすのだ。だれもが、詩、と思うようなことばが動きはじめる。
予定されていた小学校の卒業式がなくなったと書いたあと、和合はことばをつづける。
きみのまなざしは新しくなった春には花と鳥を映して夏には海と雲を求めて やさしくなったきみのまなざしは深くなった秋には銀杏の樹を見上げて冬には冷たい風の歌を耳にしていろんなことを知った
(41ページ)
きみたちは学んだ ある朝に 命について ある夏に 時間について ある本で 世界について あの丘で ともについて かけがえのない 「愛」について このことの勉強には 卒業はないのだけれど
(41ページ)
父もまた あどけない 幼いきみの笑い顔から いつか 卒業しなくてはいけないね 母もまた あどけない 幼いきみの泣き顔から いつか 卒業しなくてはいけないね
(42ページ)
きみのまなざしは一日を知ったきみのまなざしは宇宙を知ったきみはまた追い掛けるだろうきみはまた追い越すのだろう今日という一日を卒業するために明日という季節を卒業するために
(43ページ)
ここにあることばは大震災に傷ついていない。いや、傷ついていないというと、それは間違いなるのだが、傷つきながら、その傷をはね返して生きている。生き返っている。
「しーっ、余震だ。」と書いたとき、和合は高村光太郎の「声」を聞くことを念頭においていたとは言えないと思う。何かわからないけれど、何かを聞こうとしていた。そして、偶然のように、「女川」を思い出し、高村光太郎の詩を思い出したのだと思うけれど、そこから、ことばがいのちを回復した。
「しーっ」という「肉体」そのものへ呼び掛けることば。
そして、肉体のなにか残っていた高村光太郎のことば。
そのことばに励まされるようにして、和合の、怒りでも、不安でも、恐怖でもないことばが生き返ってきた。「きみ」に語りはじめた。
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