詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

東野正『言誤調』

2011-05-01 23:59:59 | 詩集
東野正『言誤調』(セスナ舎、2011年01月11日発行)

 東野正『言誤調』は5冊組の詩集のうちの一冊である。『難破調』『書損調』『戯私調べ』『比熱調』とつづく。
 城戸朱理は2011年04月26日の毎日新聞夕刊(西部本社発行)文化欄「詩の遠景・近景4月」で、東野の詩集「書き損じ、言い間違いを積極的に生きることで、私という主体と世界を言葉の次元から考察しようとする詩集」と定義した上で、

言葉の意味を解体し、再び構築し、世界と生の意味を問う大冊である。

 と評価している。
 ふーん、そうなのか。

 私の印象は、ずいぶん違う。(と、いっても読みはじめたばかりなので、たぶん私の感想は詩集全体をとらえきってはいないだろうけれど)。
 5冊の詩集のタイトルを並べてみると、全部「調」がついている。「調」って何? 東調子、調べ、かな? そうとらえていいのかな? 詩集から、どんな「調子」や「調べ」が聞こえるか。
 「悲迷」という作品。

唐突な の異常分娩に便乗し分乗し
異様な を吐き散らし撒き散らし
銑舌な と寡黙な言葉の衝突実験で
砕けた に珍み出た沈黙を追い詰めひきずり倒し
呆けた は失禁し意味を失念し
無音の へ騒々しく踏み込み踏み外し
狂乱の が乱交を重ねる様を楽しむ
制度の で内側で自己規制する自虐の帝国
空虚な がたくみに地図を捏造してしまう

 「悲迷」は「ひめい」と読むとき、「悲鳴」と重なる。ここにはたしかに「音」があるから、「調べ」もある。でも、この「調べ」と、詩を読みはじめるとすぐに消える。「分娩に便乗し分乗し」「吐き散らし撒き散らし」という「音」の重なりや「ずらし」もあるにはあるのだが、それよりも行頭に3文字を並べ、1字空きのあとにことばをつなげるという「構造」の方が目に飛びこんでくる。「音」よりも「文字」、「耳」よりも「目」、「聴覚」よりも「視覚」。
 東野は、耳で受け止める「調べ(調子)」よりも、目で理解する「何か」を「調」と呼んでいることがわかる。東野は「調」ということばをつかっているが、基本的には目の詩人、視覚の詩人である。
 「銑舌な」「珍み出た」というのは、私には読めない。東野が正しくそう書いているのか、印刷過程で発生したことがらなのかわからないが、これが「誤植」だとしたら、これはやはり東野の「視覚」詩人のひとつの「証拠」になるかもしれない。ことばを「音」ではなく「形」でとらえているので、形に共通のものがあれば、それを混同してしまうのである。
 行頭の3字ずつの構成も、まず「視覚」調べ、形の「共通性」を優先している。
 視覚の「調べ」、視覚優先の「調子」だから、「分」娩「分」乗、便「乗」分「乗」があり、吐き「散」らし撒き「散」らし、「失」禁「失」念、「自」己規制「自」虐とことばが動くのである。「音」も重なるが、「音」より先に「漢字」がまず動く。それを「音」が追いかけている--視覚情報を聴覚情報で補っているというのが東野の「調」である。
 東野が視覚の「調」を優先しているのは、「迷私」を「見る」とさらにはっきりする。

引きずり回してきた<私>
と引きずられてきた<私>
の間で引き裂かれた<私>
を見つめている<私>
とは全く関係ない<私>
と言い切っている<私>
をいじいじ後ろめたく思う<私>
の背中を思いっきり叩く<私>
に咳こむ<私>
それを本当の<私>
だと思い詰めている<私>

 <私>が各行のおわりに繰り返される。私が目立つように<私>と括弧でくくられている。「音」よりも「視覚印象」がことばを動かしている。

 これから書くことは、私の、独断・偏見の類になるのだが……。

 私は、こうした「視覚」優先のことばというものを信じていない。「頭」で書かれたことばというものを信じていない。
 人間が持っている感情だとか思想だとか、いろいろな情報伝達手段には、さまざまなものがある。「文字」をはじめとする「視覚」を利用した情報伝達手段は、とてもたくさんのことを盛り込める。だから人間に不可欠なものである。私は失明の危険があって眼を手術したから、目の大切さは十分知っているつもりだが、どうも「視覚」の世界というのは(視覚が伝える世界、視覚から受け取る世界は)いのちの本質とは違うような気がするのである。
 飛躍した言い方になるが、どんな動物も「声」をつかって何事かをつたえる。(もちろん動作も使うのだが。)文字とか絵とか、視覚表現で何かをつたえるということは人間しかしない。これはたぶん、人間が他の動物たちよりも生きる力が弱くて、その弱い部分を補うために「発明」した「道具」なのだと思う。この発明により、人間は他の動物たちよりも「進歩」しているように感じられるが、この「進歩」というものが、私にはうさん臭く感じられるのである。「声」(音)、肉体をとおって動く何かの方が、いのちを超えてつたわっていく。つたえることができる。
 ばかばかしい例かもしれないが、わが家には犬がいる。「声」をつかいわける。そして、そのつかいわけによって、「意味」がわかる。犬は絵を描かない。文字も書かない。けれど、「声」で人間と交流ができる。(もちろん、態度でも、できるが。)犬が猫と出会ったとき、猫が「ふーっ」と「声」で威嚇する。違う種類の動物が「声」をとおして何かをつたえあう。「声」は、きっといのちに深くかかわっているのだ。
 そしてまた、鳥を見ていてもそういうことを感じる。烏は何やらときどき変な声を出す。危険を知らせたり、こっちに餌があるぞと呼んだりしている。そのときも伝達手段は「声」なのだ。そして、その「声」というのは「ことば」ではなく、それこそ「調べ」なのだ。「声の調子」なのだ。
 この「調子」は、どうも動物の種類、動物と人間の垣根を越える。犬でも猫でも鳥でも、痛いときの「悲鳴」には何か共通の「響き」がある。苦しいときも共通の「響き」がある。
 だから、同じ人間でありながらことばの違う外国人の場合でも、「声」からいのちにかかわることは知ることができる。あ、苦しんでいる、なんとかしなきゃ、とわかる。

 「調べ」「調子」というのは、何か人間にとって、動物にとって根源的なものなのだ。(声以前の、つまりことばにならないもの、ことば以前のもの、匂いや味、触った感じなどは、もっと根源的かもしれない。)
 これに比べると「視覚」というのは、いわば洗練されすぎた情報である。「肉体」ではなく「頭」で処理された「意味」という感じがする。
 「悲迷」にもどると、それは「誤読」(誤記)というより、「頭」で処理された「もじり」だろう。そこに「意味」がある。最初から「意味」がつくられている。「文字」で「意味」をつくりだしている。そこには「調」はないのだ。

 繰り返しになるが(言い直しになるが、というべきか)、東野のことばには「調」はない。「調」のかわりに「頭」で処理された「意味」がある。「意味」を伝達する(流通経路にのせる)効率性がある。
 この効率性を指して、たぶん城戸は「言葉の意味を解体し、再び構築し、世界と生の意味を問う」の「問う」(問い方--思想のスタイル)と呼んでいるのだと思うが、私は城戸の「思想スタイル」にはなじめない。どうも、賛成できない。
 たとえば「自己検証」という作品。

言葉を宇宙大に縮小し
無意味を意味に退化させ
捏造された世界を攪拌し
無意識層を変換する

 これは、城戸の書いている「言葉の意味を解体し、再び構築し、再び世界の生と意味を問う」という操作だけれど、でも、いったい何のこと? どの「言葉」を宇宙大に拡大する? その「言葉」は「いつ」「どこ」で、「だれ」に対して言われた?

 抽象の世界がこわいのは、それが間違えないこと。そして、「正しい」を押しつけてくることだなあ--と、城戸と東野の詩集を結びつけて読んだときに、ふと「ひとりごと」として漏れてしまった。
 ちょっと東野には申し訳ない。城戸の文章を読まずに、東野の詩集を先に読んでいれば、違った感想を書いたかもしれない。





空記―東野正詩集 (1981年)
東野 正
青磁社
コメント
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