詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(27)

2011-05-30 23:59:59 | 詩の礫
和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(27)(「現代詩手帖」2011年05月号)

 「11」の部分には日付がない。「詩の礫」というタイトル下には2011.3.16-4.9 という日付かあった。そして「10」には2011.4.1という日付があった。「11」は04月02日から04月09日にかけて書かれたものと推測できる。
 「11」には、もうひとつ、これまでと違ったことがある。「11--昂然」とサブタイトルがついている。和合の中で「詩の礫」に関する意識が変化したのかもしれない。「精神の発見」(精神が、冷たい汗をかいている、と書くことによって「精神」を「比喩」のようにうかひ上がらせること)が、和合のことばを突き動かしたのかもしれない。
 その「11」の冒頭。

余震。地の波。私たちをあらためて追い立てる、激しい精神。過酷にも地の震えは少しも手を休めない。逃げる私たちを執拗に追う、地の急襲。
                                 (70ページ)

 「激しい精神」とは何か。私は驚いてしまう。「10」のことろで「精神」ということばに出会った。それはあくまで「人間の精神」であった。しかし、ここではどうか。私たちを追い立てる、逃げる私たちを執拗に追うのは、「地」である。「地の波」である。自身であり、「余震」である。「激しい精神」は、文脈にしたがうかぎり「余震(地震)」でしかない。
 問題は(という言い方でいいかどうかわからない)、「余震」を「激しい精神」と呼ぶとき、その「激しい精神」が「比喩」であることだ。余震・地震という地殻の動きに「精神」はないから「比喩」としか言いようがないのだが、その「激しい精神」が「比喩」であるとき、「精神が、冷たい汗をかいている」というときの「比喩」としての「精神」と混じり合ってしまうことだ。融合してしまうことだ。
 もちろん文脈をていねいにたどれば「人間の精神」と「余震・地震の精神」はまぎれることはない。はっきり区別がつく。
 しかし、ほんとうにはっきり区別をしたいなら、そんなややこしいことばをつかわずに、もっと違ったことばを「余震・地震」の「比喩」にすればいいだろう。いままで「悪魔」ということばが何回かつかわれてきたが、その「悪魔」の方がはっきりするはずである。
 けれど、和合は「精神」を選ぶのだ。
 ここが詩のおもしろいところである。
 「人間の精神」と「余震・地震の精神」は敵対している。敵対関係にあるはずである。けれど、それはまた「共犯」というか、「競合」の関係にもあるのだ。「余震・地震の精神」が巨大であるとき、それに立ち向かう「人間の精神」も巨大になる。「人間の精神」が強靱なものになるには、それを強靱にする、強靱な「余震・地震の精神」が必要なのである。
 もちろん、巨大な余震・地震が起きてはいけないのだが、それは現実の世界のことであって、ことばの世界では違うのだ。互いに巨大、強靱であることによって、互いが成長していくのである。どちらがどちらを凌駕するか--それは、これからのことばの運動にかかるのである。
 そして。
 「精神が、冷たい汗をかいている」と和合が書いたとき、「汗」が「比喩」であると同時に、「精神」こそが「比喩」であると私は書いたが、似たようなことがこの部分についても言える。
 「激しい精神」。そのことばのなかの「比喩」は「精神」であるよりも「激しい」である。「激しさ」において、「余震・地震の精神」と「人間の(和合の)精神」は競い合うのだ。競い合うためには「精神」という共通分母が必要だったのだ。

 「精神」は「ことば」でもあるだろう。「ことば」を共通分母として、和合と地震の戦いはここから本格的に始まる。
 「大震災」をことばとして出現させながら、その出現した「大震災」に和合は詩人のことばをぶつけて、それを叩きのめすのである。そういう戦いをするのである。

俺はな、俺をぶっ潰してやる、文字をぶっ潰してやる、詩をぶっ潰してやる、一行をぶっ潰してやる、文字をぶっ潰してやる、詩をぶっ潰す、言葉をぶっ潰す、心をぶっ潰す、ぶっ潰すぶっ潰す、怒りをぶっ潰す、お前という悪魔をぶっ潰す、俺をぶっ潰す、俺俺をぶっ潰すぶっ潰すぶっ潰す俺ぶっす潰つス。
                                 (75ページ)

 激昂し、ことばがことばでなくなってしまう。あらゆる「もの」の区別がなくなり、そこにただことばが残される。「意味」もなく、ただことばがある。そこまで和合は行きたいのだ。そういう一緒の「ゴール」のようなもの、行先のようなものを、和合は、いいま、つかんでいるのかもしれない。





にほんごの話
谷川俊太郎,和合亮一
青土社


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川上亜紀「青海波」

2011-05-30 09:59:46 | 詩(雑誌・同人誌)
川上亜紀「青海波」(「モーアシビ」24、2011年05月20日発行)

 川上亜紀「青海波」はタイトル想像できるように、布巾に刺し子をしているときのことを書いている。

半円を描く単純な縫い取りを繰り返す
波は静かで空は静かに晴れている
遠くまで紺色の縞目が広がりカモメが飛ぶ
雅楽の音が聞こえてきそうだ
舞を舞う人の動作が見えてきそうだ
手で半円を描く動作を繰り返している

模様は繰り返す(自然が繰り返すので)
そう考えながら針を持つ手が繰り返す
第二の波(内側の半円)にとりかかる
地下鉄の連絡通路を抜けるみたいに
布の裏側を糸がこっそり渡って
波の端のところからまた表に出てくる

 「繰り返す」ということばが象徴的だが、刺し子をしていくときの「目的」は布巾を仕上げることなのだが、その「目的」を忘れ(?)てただ繰り返す。完成をめざすというよりも「繰り返す」ことをめざして「今」が動く。そのとき「完成」(目的)がふわっと消えて行き、「完成(目的)」とは違うものがあらわれてくる。
 この感覚がいい。この自然な、「ずれ」がいい。「波」から「カモメ」があらわれるのは、まあ、自然なことかもしれない。でも、そのカモメが突然「雅楽の舞」にかわるところはどうだろう。カモメの舞。雅楽の舞の、手の半円。あるいは扇を持っているかもしれない。
 そこからさらに「ずれ」て地下鉄の通路になる。そうかと思っていると、また波にもどってくる。
 何か明確なもの、「ずれ」なら「ずれ」で、それを追いつづけて「いま/ここ」からどこか別な次元へ行ってしまうというのではない。ただ、「いま/ここ」に川上の知っている「過去」がなんでもないことのようにあらわれてくる。その「過去」は「いま」を否定し、川上をどこかへつれていくわけではない。
 どこかへつれていくわけではないが、少し川上を揺さぶりもする。

しだいに針を持つ指先が痛くなってきて息を吹きかける
こんなにたくさん縫うのだったたらテディベアだって作れるかもしれない
もうひとりの自分が肩越しに覗き込んで言う
そんなことするのはもっとずっと年をとってからでもいいのに
そうかもしれないね(単調な模様の縫い取り)
束ねてある木綿の糸の端が見つからなくなって糸が混乱する

 「過去」。カモメをみた過去。舞を見た過去。知多鉄の通路を通った過去。同じように、テディベアをつくれたらなあと思った過去。「過去」とは「もうひとりの自分」であり、それはいつも自分と同居している。その同居はちいさな「混乱」を引き起こすけれど、その混乱は小さくて、まあ、折り合いがつく。
 なんでもないことなのだが、この静かな「折り合い」に川上の「思想」がある。
 それは、次のように美しい結晶になる。

布の表面は模様で覆われていって
裏切りも救急車も入り込む隙間がなくなっていく
新年にはよいことだけが繰り返し起るように
海の波のようにどこまでも繰り返していくように

私はそのときすでに名前のない縫い子になっている
いままで同じ模様を繰り返してきた大勢の人々の一人になる
波と波のあいだにもぐるようにしてそのまま眠りに落ちる
明日はもっとたくさん縫って、来年はもっとたくさん縫って
さまざまな模様を色々な糸で縫って…

木綿の白いフチに囲まれた
青海波の模様の波の上で
角の豆腐屋の飼っている黒い出目金がちゃぽんと跳ねた

 「繰り返し」が「裏切り」や「救急車(命の危険?)」を少しずつ締め出していく。それは、まあ、祈りなのだけれど。そして、「私」は「大勢の人々の一人になる」。いいなあ、この感覚。人間は誰でもたった一人の人間であろうとする。個性であろうとする。詩人なら、なおのこと、そうだろう。しかし、「たった一人」でなくてもかまわないのだ。「大勢の人々の一人」でも、その「一人」が「名前のない縫い子」であっても、まったくかまわない。
 「名前」のない「誰でもない」人間、ただ「繰り返されてきたいのち」に「なる」。その瞬間、人は「角の豆腐屋の飼っている黒い出目金」にさえ生まれ変わることができる。この、ゆったりした思想がいい。
 「繰り返し」を生きること、「繰り返し」のなかで、人は「過去」へ、「過去」さえも通り越して「いのち」の原始へもどる。そのとき「大勢の人々の一人になる」のではなく、「いのち」の自在に「なる」。何にでも生まれ変われる「いのち」そのものに「なる」。その「いのち」に触れる、そういう「いのち」に「なる」ために、繰り返すということには意味があるのだ。
 私が最初に「ずれ」と呼んだものは、「いま/ここ」の「いのち」を縛っているものを、ひとつひとつ解きほぐしていくことだったのかもしれない。布巾の刺し子で同じ模様を繰り返す--布巾を強固にしていく、というその手仕事が逆に「いま/ここ」にある「過去」をひとつひとつ解きほぐして、そのさらにむこうの「いのちの原始」にで思いを運んで行く。
 どんな行為にも、どんなことばにも、それぞれは「対立」したもの、「矛盾」したものを含んでいて、それはていねいに向き合うと(ていねいに繰り返してみると)、「対立」や「矛盾」を通り越して、不思議な可能性にたどりつけるのだ。

グリーン・カルテ
川上亜紀
作品社



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