詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(9)

2011-05-12 23:59:59 | 詩の礫
和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(9)(「現代詩手帖」2011年05月号) 

気に入らなかったのかい? けっ、俺あ、どこまでもてめえをむちゃくちゃにしてやるぞ。

絶対安全神話はやはり、絶対ではありませんでした。大熊、広野、浪江、小高、原町。野、町、海。夜の6号線から見えた、発電所の明かり。
                                 (39ページ)

 和合の激しい怒りは「天体の精神力」に対する怒りである--と、私は、最初はそう思った。けれど、怒りというのは、そういう「抽象的」な存在に対して向けつづけるのはなかなかむずかしい。
 だから、その矛先(?)を和合は、「安全神話=原発」に向ける。
 その瞬間、少し、不思議なことが起きる。
 和合の意識が「天体の精神力」から原発に向かった瞬間、その原発とともに、なつかしい町、和合にとって親しんできた町がいっしょに浮かび上がってくるのだ。
 怒りは、そして、そのとき、和合の個人のものから、そこに書かれている町全てのものになる。
 同時に、怒りは、怒りでありながら、少し静まる。怒りは、少しなだめられる。あ、こんな言い方はよくないのかもしれないが、怒りは和合の知っている町によって吸収され、少し違ったものになる。町名を書いたとたんに、その町がいとおしくなり、「天体の精神力」のことを一瞬忘れる。
 怒りよりも、いとおしさの方が強いのだ。怒りよりも哀しみの方が強いのだ。怒りたい。怒りたくてしようがない。でも、そのこころは、なつかしい町を思うと、急に哀しくなる。
 ああ、あの町はどこへ行ってしまったのか。
 激しい怒りのあと、和合のことばはいったん静まる。
 思い出している。和合にとって親しみのある町を。それは、いま見ているのではなく、記憶の町だ。そして、いくつかの町名をことばが横切るとき、その名前のそこから「野、町、海」という名前以前のものが浮かび上がる。
 固有名詞以前のものが浮かび上がる。それぞれにつけられた町の名前、そしてその前にあった固有名詞以前の「自然」。「自然」と向き合いながら、少しずつつくりあげてきた町。その歴史が名前のなかにある。その名前をつけたひとびとの暮らしがある。
 和合は、町を思い出しながら、ひとびとの暮らしと歴史を、つまり「時間」を行き来しているのだ。往復しているのだ。
 そして、とても悲しいことに、その「時間」のなかには、当然原発も入ってくるのだ。

夜の6号線から見えた、発電所の明かり。

 「見えた」ということばが「過去」であること、「歴史」であることを語っている。かつて、その明かりは輝かしく見えたかもしれない。頼もしく見えたことがあったかもしれない。そんな記憶をも往復しながら、和合のことばは動いている。

父と母に避難を申し出ましたが、両親は故郷を離れたくないと言いました。おまえたちだけで行け、と。私は両親を選びます。

家族は先に避難しました。子どもから電話がありました。父として、決断しなくては鳴りません。

 和合の両親が故郷を離れたくない(避難したくない)のは、故郷が「歴史」だからである。両親の「時間」だからである。そこには、両親自身の「時間」を超える「時間」が、「歴史」がある。野や海が町にかわってきた「歴史」。野や海を町に変えてきた両親の、さらに両親の、そのまた両親の「時間」がある。ひとは、「歴史」を手放しては生きていけない。「歴史」を手放すことは、たぶんこころを手放すことなのだ。
 「天体の精神力」、あるいは原子力(放射能)の「力」(破壊力)と向き合うとき、こころは何もできない。防御の方法がない。方法がないのだけれど、ひとはこころを手放すことができない。
 「天体の精神力」に怒りながらも、破壊された町、取り残された町をみると、その瞬間から、いとおしさや哀しみがこみあげてきてしまう。怒りを突き破って、哀しみが溢れてしまうのだ。

ところで腹が立つ。ものすごく、腹が立つ。

 これは、和合自身のこころに対する「怒り」かもしれない。もっと怒らなければならないのに、怒り方がわからないのだ。「天体の精神力」や「原発」に対して、どうやって怒ればいいのかわからない。ことばの動かしようがない。
 だから、ことばは、とても内省的(?)になる。ことばは、ことばの中で「論理」を動かして行く。

どんな理由があって命は生まれ、死にに行くのか。何の権利があって、誕生と死滅はあるのか。破壊と再生はもたらされるのか。

 同じような、論理そのものを追究することばは、最初の方にもあった。

ものみな全ての事象における意味などは、それらの事後に生ずるものなのでしょう。ならば「事後」そのものの意味とは、何か。そこに意味はあるか。

 和合のことば、和合の怒りは、そういう論理を潜り抜けながら、少しずつ「精神力」になっていくのかもしれない。和合は、そういうことばを通りながら「精神力」を高めようとしているのかもしれない。
 「事実」を書き、その「事実」とともにある「こころ」を書き、追いつくことのできない「天体の精神力」に怒り、追いつけないことばを哀しみ、哀しみの中で同じ暮らしを生きている人間に触れ、その人々の哀しみと怒りをともに生きて、そこからもう一度、和合自身のことばの「論理」の力を試してみる。ことばを「論理的」に動かすことで、何かをつかもうとしている。
 「答え」のためではなく、「答える」ためのことばの運動--その力を求め、和合のことばは動くのだ。

気に入らなかったのかい? けっ、俺あ、どこまでもてめえをむちゃくちゃにしてやるぞ。

ところで腹が立つ。ものすごく、腹が立つ。

 それは、たしかにそうなのだが、そのことばだけでは戦えない。怒りだけでは戦えない--そのことに和合は苦悩している。「精神力」は苦悩している。
 どうすることもできない破壊、そして死にふれて、和合のこころは哀しみ、その哀しみを怒りにかえ、そしてその怒りを、いま「力」にかえることを考えている。

 そして、私は、唐突に思い出すのだが、和合は最初のことばを「ありがとうございました」とはじめていたが、この「感謝」のことばは、「力」のための「連帯」の形だったのかもしれない。哀しみを怒りに、怒りを力にかえるためには、一人ではできない。だれかいっしょに手をとりあわなければならない。その「手」のつなぎあい、連帯を感じて、和合は「ありがとう」と言ったのかもしれない。
 多くの被災者も連携こそが「力」であることを知っていて、「ありがとう」と言ったのだろう。被災者の「ありがとう」にこころが震えてしまうのは、あ、私もその連携にくわわることができるかもしれない、何かできるかもしれないと、自分の力に気がつく--自分の何かをめざめさせられるからかもしれない。

 私に、では、何ができるのか。
 いまできるのは、ただ、和合のことばをどう読んだか、を書くことだけである。だから、書きたい。書かずにはいられない。




After
和合 亮一
思潮社
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ダーレン・アロノフスキー監督「ブラック・スワン」(★★★★★)

2011-05-12 09:12:00 | 映画
監督 ダーレン・アロノフスキー 出演 ナタリー・ポートマン、ヴァンサン・カッセル、ミラ・クニス、ウィノナ・ライダー

 人間にはだれでも二面性がある--ということを、ことばで言ってしまうのは簡単である。たとえばこの映画の重要なテーマとなっている「白鳥の湖」には純粋な白鳥と妖艶な黒鳥が登場するが、それはひとりの人間の両面である。だからそれを別々の人間が演じるのではなくひとりで演じる、ひとりで人間の両面性を具現化する、という課題はことばでは簡単である。ことばは「矛盾」を平気で結びつけることができるのである。ところが「肉体」は「矛盾」を内部に抱え込むことはできるが、それをくっきりとみえるようにすることはできない。できるひともいるにはいるが、ことばほど簡単にはいかない。
 これは「矛盾」だけではなく、あらゆることがらについていえる。簡単な例をあげると、人間は 100メートルを10秒で走ることができるとはだれでも言える。けれど、実際にそれを肉体で表現できるひとはかぎられている。ことばを動かし、ことばのなかで世界を実現することと、肉体を動かし肉体を世界のなかで実現することは別個の問題なのである。そして、めんどうくさいことに、ことばで書いてしまうと、こういうことはだれにでもわかるということである。人間にはだれにでも二面性がある--ということばが、だれにもわからないことばなら問題がない。だれにでもわかる。そのわかることを、しかし、人間は肉体では表現できない。ね、めんどうくさいでしょ。
 そのめんどうくさいことのために苦しむという役をナタリー・ポートマンが演じきっている。清純な白鳥向きのバレーダンサーであるという一面、そしていま白鳥と同時に妖艶な黒鳥を演じるというのではなく、その妖艶さがうまく表現できないという苦悩を演じきっている。「なりきれない」という中途半端な、つまり頭ではわかっているが、肉体ではそれが表現できないというめんどうくさいことを演じきっている。
 何がナタリー・ポートマンを邪魔しているのか。映画は、それを探る形でナタリー・ポートマンの「肉体」の内部へ侵入していくのだが、うーん、おもしろいですねえ。ナタリー・ポートマンは純粋な白鳥むきというのが「表向き」の姿だが、実際は純粋・無垢というわけではない。アトピーに苦しみ、無意識のうちに肌をひっかき傷つけるという癖をもっている。「白鳥」の外観にはふさわしくない肌をもっている。それをいっそう悪化させる癖をもっている。それを隠している。
 この隠しているという「意識」がいくつもの「幻覚」を引き起こす。たとえば、爪の間に入った皮膚、血の滲んだ爪、そして食い込んだ血の汚れをとろうとすると皮膚が破れる--というのは、どこまでが現実で、どこからが幻想かわからない。
 この幻覚に「鏡」がからんでくる。爪の間に食い込んだ皮膚を引き出すシーンも鏡のあるトイレでおきる。踊っている途中に背中が痒くなる。そうすると、鏡のなかでは肉体の内部にいる無意識のナタリー・ポートマンが背中を掻きむしる。それが現実のナタリー・ポートマンに見える、という具合である。
 鏡は、現実の鏡のほかに、ミラ・クニス、ウィノナ・ライダーというダンサーとしても登場する。彼女たちはナタリー・ポートマンとは別個の肉体をもった人間であるが、その肉体の中にナタリー・ポートマンの隠された肉体が動くのである。ミラ・クニスとのセックスシーンは、ナタリー・ポートマンの欲望が解き放たれた姿としてわかりやすいものだが、ウィノナ・ライダー相手にも、そういうことがおきるのである。ナタリー・ポートマンはウィノナ・ライダーのつかっていた化粧品、化粧のための道具を盗み、つかう。つかうことで、外見をウィノナ・ライダーに近づけるのである。ミラ・クニスが肉体の内部(本能)の鏡であるなら、ウィノナ・ライダーは肉体の外部(顔)の鏡である。(だから、最後の方で、ウィノナ・ライダーが顔を爪やすりで傷つけるという幻想が出てくる。)
 隠されていたものが、しだいに「具体的」になってくる。「鏡」としての「肉体」から、ナマの「肉体」が動きだしてくる。ミラ・クニス、ウィノナ・ライダーはナタリー・ポートマンの「内面」を映し出すだけではなく、ナタリー・ポートマンの「肉体」そのものとなるのである。ナタリー・ポートマンは、ときにミラ・クニスとなり、ときにウィノナ・ライダーになって動く。そして、その動きを、ナタリー・ポートマンは本物の鏡のなかにみる。鏡のなかには、ナタリー・ポートマンではなく、欲望をむき出しにしたミラ・ニクスがいて、また絶望したウィノナ・ライダーがいる。後半のクライマックスの、黒鳥ミラ・ニクスと白鳥ナタリー・ポートマンの衝突が「鏡」とナタリー・ポートマンが向き合う形でおきるのは、それが黒鳥もナタリー・ポートマンだからである。また、その黒鳥を傷つけるとき、ナタリー・ポートマンは爪やすりで顔を傷つけたウィノナ・ライダーにもなるのである。
 結局、ナタリー・ポートマンは「自分の内部」ではなく、「鏡」(自分を映し出すもの)によってしばられていたことになる。その最強の「鏡」が母親ということになる。ちょっとめんどうくさくて、これまで書いてこなかったが……。最後に、客席の母親がアップになる--ナタリー・ポートマンが母親を見つけ出すのは、母こそがナタリー・ポートマンをとじこめていた「鏡」であることを象徴である。
 母によって、かわいい、清純な女性(少女?)でありつづけることを要求され、母親の夢のために、その姿にあわせるように自分を律してきたナタリー・ポートマン。その鏡を破り、ほんとうの「人間」、ほんもののダンサーになるためには、死しかない。「白鳥」は王子を黒鳥に奪われて人間にもどることができず、死ぬことで愛を手に入れたように、バレーダンサーとして生きてきたナタリー・ポートマンは死ぬことでダンサーとしてはじめてダンサーになるのである。
 母と娘の深い固執が、鏡の裏の朱泥として見えてくる。この朱泥があって、ナタリー・ポートマンの「外見」も「内部」も存在するのである。
 この、映画全体をつらぬく「鏡構造」もおもしろいが、細部の「幻覚」の映像がそれを乱反射させるように美しい。効果的だ。予告編にもつかわれていたが、ナタリー・ポートマンが家でストレッチ(ウォームアップ?)をしているとき、その映像が人影で一瞬消える。母親がカメラとナタリー・ポートマンとの間を横切るのだが、その影がなんとも不気味である。母の影が、非常にうまくつかわれている。とても巧みな伏線になっている。爪を切るシーン、爪を切りながらナタリー・ポートマンを傷つけるシーンも効果的である。



 ナタリー・ポートマンの演技そのものについて書きそびれてしまった。1年間レッスンし、体重も何キロも減らしたという「肉体の外観」にも驚く。胸がぺちゃんこで、まさにバレエダンサーの体になっているのだが、冒頭の「白鳥」のシーンは、なんとなく手がぎこちない。これでずーっと押し通すのかなあ、少し不安になるが、後半がおもしろい。冒頭のシーンは冒頭のシーンで、まだ「完璧」なダンサーになっていなくて、「夢」のシーンだからあれくらいでいいのかもしれない。全身よりもアップで演技をするようになってから、そして黒鳥を舞っているうちにだんだん本物の羽が生えてくるという映画ならではの処理がほどこされたシーンは夢中になって見てしまう。白く厚化粧し、マスクをしているにもかかわらず、そこに「表情」を見る。そして「表情」こそが「肉体の内部」であるということがわかる。
 

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