和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(9)(「現代詩手帖」2011年05月号)
和合の激しい怒りは「天体の精神力」に対する怒りである--と、私は、最初はそう思った。けれど、怒りというのは、そういう「抽象的」な存在に対して向けつづけるのはなかなかむずかしい。
だから、その矛先(?)を和合は、「安全神話=原発」に向ける。
その瞬間、少し、不思議なことが起きる。
和合の意識が「天体の精神力」から原発に向かった瞬間、その原発とともに、なつかしい町、和合にとって親しんできた町がいっしょに浮かび上がってくるのだ。
怒りは、そして、そのとき、和合の個人のものから、そこに書かれている町全てのものになる。
同時に、怒りは、怒りでありながら、少し静まる。怒りは、少しなだめられる。あ、こんな言い方はよくないのかもしれないが、怒りは和合の知っている町によって吸収され、少し違ったものになる。町名を書いたとたんに、その町がいとおしくなり、「天体の精神力」のことを一瞬忘れる。
怒りよりも、いとおしさの方が強いのだ。怒りよりも哀しみの方が強いのだ。怒りたい。怒りたくてしようがない。でも、そのこころは、なつかしい町を思うと、急に哀しくなる。
ああ、あの町はどこへ行ってしまったのか。
激しい怒りのあと、和合のことばはいったん静まる。
思い出している。和合にとって親しみのある町を。それは、いま見ているのではなく、記憶の町だ。そして、いくつかの町名をことばが横切るとき、その名前のそこから「野、町、海」という名前以前のものが浮かび上がる。
固有名詞以前のものが浮かび上がる。それぞれにつけられた町の名前、そしてその前にあった固有名詞以前の「自然」。「自然」と向き合いながら、少しずつつくりあげてきた町。その歴史が名前のなかにある。その名前をつけたひとびとの暮らしがある。
和合は、町を思い出しながら、ひとびとの暮らしと歴史を、つまり「時間」を行き来しているのだ。往復しているのだ。
そして、とても悲しいことに、その「時間」のなかには、当然原発も入ってくるのだ。
「見えた」ということばが「過去」であること、「歴史」であることを語っている。かつて、その明かりは輝かしく見えたかもしれない。頼もしく見えたことがあったかもしれない。そんな記憶をも往復しながら、和合のことばは動いている。
和合の両親が故郷を離れたくない(避難したくない)のは、故郷が「歴史」だからである。両親の「時間」だからである。そこには、両親自身の「時間」を超える「時間」が、「歴史」がある。野や海が町にかわってきた「歴史」。野や海を町に変えてきた両親の、さらに両親の、そのまた両親の「時間」がある。ひとは、「歴史」を手放しては生きていけない。「歴史」を手放すことは、たぶんこころを手放すことなのだ。
「天体の精神力」、あるいは原子力(放射能)の「力」(破壊力)と向き合うとき、こころは何もできない。防御の方法がない。方法がないのだけれど、ひとはこころを手放すことができない。
「天体の精神力」に怒りながらも、破壊された町、取り残された町をみると、その瞬間から、いとおしさや哀しみがこみあげてきてしまう。怒りを突き破って、哀しみが溢れてしまうのだ。
これは、和合自身のこころに対する「怒り」かもしれない。もっと怒らなければならないのに、怒り方がわからないのだ。「天体の精神力」や「原発」に対して、どうやって怒ればいいのかわからない。ことばの動かしようがない。
だから、ことばは、とても内省的(?)になる。ことばは、ことばの中で「論理」を動かして行く。
同じような、論理そのものを追究することばは、最初の方にもあった。
和合のことば、和合の怒りは、そういう論理を潜り抜けながら、少しずつ「精神力」になっていくのかもしれない。和合は、そういうことばを通りながら「精神力」を高めようとしているのかもしれない。
「事実」を書き、その「事実」とともにある「こころ」を書き、追いつくことのできない「天体の精神力」に怒り、追いつけないことばを哀しみ、哀しみの中で同じ暮らしを生きている人間に触れ、その人々の哀しみと怒りをともに生きて、そこからもう一度、和合自身のことばの「論理」の力を試してみる。ことばを「論理的」に動かすことで、何かをつかもうとしている。
「答え」のためではなく、「答える」ためのことばの運動--その力を求め、和合のことばは動くのだ。
それは、たしかにそうなのだが、そのことばだけでは戦えない。怒りだけでは戦えない--そのことに和合は苦悩している。「精神力」は苦悩している。
どうすることもできない破壊、そして死にふれて、和合のこころは哀しみ、その哀しみを怒りにかえ、そしてその怒りを、いま「力」にかえることを考えている。
そして、私は、唐突に思い出すのだが、和合は最初のことばを「ありがとうございました」とはじめていたが、この「感謝」のことばは、「力」のための「連帯」の形だったのかもしれない。哀しみを怒りに、怒りを力にかえるためには、一人ではできない。だれかいっしょに手をとりあわなければならない。その「手」のつなぎあい、連帯を感じて、和合は「ありがとう」と言ったのかもしれない。
多くの被災者も連携こそが「力」であることを知っていて、「ありがとう」と言ったのだろう。被災者の「ありがとう」にこころが震えてしまうのは、あ、私もその連携にくわわることができるかもしれない、何かできるかもしれないと、自分の力に気がつく--自分の何かをめざめさせられるからかもしれない。
私に、では、何ができるのか。
いまできるのは、ただ、和合のことばをどう読んだか、を書くことだけである。だから、書きたい。書かずにはいられない。
気に入らなかったのかい? けっ、俺あ、どこまでもてめえをむちゃくちゃにしてやるぞ。
絶対安全神話はやはり、絶対ではありませんでした。大熊、広野、浪江、小高、原町。野、町、海。夜の6号線から見えた、発電所の明かり。
(39ページ)
和合の激しい怒りは「天体の精神力」に対する怒りである--と、私は、最初はそう思った。けれど、怒りというのは、そういう「抽象的」な存在に対して向けつづけるのはなかなかむずかしい。
だから、その矛先(?)を和合は、「安全神話=原発」に向ける。
その瞬間、少し、不思議なことが起きる。
和合の意識が「天体の精神力」から原発に向かった瞬間、その原発とともに、なつかしい町、和合にとって親しんできた町がいっしょに浮かび上がってくるのだ。
怒りは、そして、そのとき、和合の個人のものから、そこに書かれている町全てのものになる。
同時に、怒りは、怒りでありながら、少し静まる。怒りは、少しなだめられる。あ、こんな言い方はよくないのかもしれないが、怒りは和合の知っている町によって吸収され、少し違ったものになる。町名を書いたとたんに、その町がいとおしくなり、「天体の精神力」のことを一瞬忘れる。
怒りよりも、いとおしさの方が強いのだ。怒りよりも哀しみの方が強いのだ。怒りたい。怒りたくてしようがない。でも、そのこころは、なつかしい町を思うと、急に哀しくなる。
ああ、あの町はどこへ行ってしまったのか。
激しい怒りのあと、和合のことばはいったん静まる。
思い出している。和合にとって親しみのある町を。それは、いま見ているのではなく、記憶の町だ。そして、いくつかの町名をことばが横切るとき、その名前のそこから「野、町、海」という名前以前のものが浮かび上がる。
固有名詞以前のものが浮かび上がる。それぞれにつけられた町の名前、そしてその前にあった固有名詞以前の「自然」。「自然」と向き合いながら、少しずつつくりあげてきた町。その歴史が名前のなかにある。その名前をつけたひとびとの暮らしがある。
和合は、町を思い出しながら、ひとびとの暮らしと歴史を、つまり「時間」を行き来しているのだ。往復しているのだ。
そして、とても悲しいことに、その「時間」のなかには、当然原発も入ってくるのだ。
夜の6号線から見えた、発電所の明かり。
「見えた」ということばが「過去」であること、「歴史」であることを語っている。かつて、その明かりは輝かしく見えたかもしれない。頼もしく見えたことがあったかもしれない。そんな記憶をも往復しながら、和合のことばは動いている。
父と母に避難を申し出ましたが、両親は故郷を離れたくないと言いました。おまえたちだけで行け、と。私は両親を選びます。
家族は先に避難しました。子どもから電話がありました。父として、決断しなくては鳴りません。
和合の両親が故郷を離れたくない(避難したくない)のは、故郷が「歴史」だからである。両親の「時間」だからである。そこには、両親自身の「時間」を超える「時間」が、「歴史」がある。野や海が町にかわってきた「歴史」。野や海を町に変えてきた両親の、さらに両親の、そのまた両親の「時間」がある。ひとは、「歴史」を手放しては生きていけない。「歴史」を手放すことは、たぶんこころを手放すことなのだ。
「天体の精神力」、あるいは原子力(放射能)の「力」(破壊力)と向き合うとき、こころは何もできない。防御の方法がない。方法がないのだけれど、ひとはこころを手放すことができない。
「天体の精神力」に怒りながらも、破壊された町、取り残された町をみると、その瞬間から、いとおしさや哀しみがこみあげてきてしまう。怒りを突き破って、哀しみが溢れてしまうのだ。
ところで腹が立つ。ものすごく、腹が立つ。
これは、和合自身のこころに対する「怒り」かもしれない。もっと怒らなければならないのに、怒り方がわからないのだ。「天体の精神力」や「原発」に対して、どうやって怒ればいいのかわからない。ことばの動かしようがない。
だから、ことばは、とても内省的(?)になる。ことばは、ことばの中で「論理」を動かして行く。
どんな理由があって命は生まれ、死にに行くのか。何の権利があって、誕生と死滅はあるのか。破壊と再生はもたらされるのか。
同じような、論理そのものを追究することばは、最初の方にもあった。
ものみな全ての事象における意味などは、それらの事後に生ずるものなのでしょう。ならば「事後」そのものの意味とは、何か。そこに意味はあるか。
和合のことば、和合の怒りは、そういう論理を潜り抜けながら、少しずつ「精神力」になっていくのかもしれない。和合は、そういうことばを通りながら「精神力」を高めようとしているのかもしれない。
「事実」を書き、その「事実」とともにある「こころ」を書き、追いつくことのできない「天体の精神力」に怒り、追いつけないことばを哀しみ、哀しみの中で同じ暮らしを生きている人間に触れ、その人々の哀しみと怒りをともに生きて、そこからもう一度、和合自身のことばの「論理」の力を試してみる。ことばを「論理的」に動かすことで、何かをつかもうとしている。
「答え」のためではなく、「答える」ためのことばの運動--その力を求め、和合のことばは動くのだ。
気に入らなかったのかい? けっ、俺あ、どこまでもてめえをむちゃくちゃにしてやるぞ。
ところで腹が立つ。ものすごく、腹が立つ。
それは、たしかにそうなのだが、そのことばだけでは戦えない。怒りだけでは戦えない--そのことに和合は苦悩している。「精神力」は苦悩している。
どうすることもできない破壊、そして死にふれて、和合のこころは哀しみ、その哀しみを怒りにかえ、そしてその怒りを、いま「力」にかえることを考えている。
そして、私は、唐突に思い出すのだが、和合は最初のことばを「ありがとうございました」とはじめていたが、この「感謝」のことばは、「力」のための「連帯」の形だったのかもしれない。哀しみを怒りに、怒りを力にかえるためには、一人ではできない。だれかいっしょに手をとりあわなければならない。その「手」のつなぎあい、連帯を感じて、和合は「ありがとう」と言ったのかもしれない。
多くの被災者も連携こそが「力」であることを知っていて、「ありがとう」と言ったのだろう。被災者の「ありがとう」にこころが震えてしまうのは、あ、私もその連携にくわわることができるかもしれない、何かできるかもしれないと、自分の力に気がつく--自分の何かをめざめさせられるからかもしれない。
私に、では、何ができるのか。
いまできるのは、ただ、和合のことばをどう読んだか、を書くことだけである。だから、書きたい。書かずにはいられない。
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