詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(8)

2011-05-11 23:59:59 | 詩の礫
和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(8)(「現代詩手帖」2011年05月号)

 人間の意思を超えて動く「天体の精神力」、そしてその「精神力」が引き起こす「事象・物事」は、「意味」を奪っていく。「大切な人」を奪っていく。その「天体の精神力」と戦い、「大切な人」と「意味」を、どうやって奪い返すか。
 (ふと、ここまで書いてきて、--私は「大切な人」「私の全て」が、また「意味」であると気づいた。「意味」は「精神力」で作り出すもの--と定義するとき、「大切な人」や「故郷」は「作り出すものではない」という声も私のなかから聞こえてくるが、そうではないかもしれない。「大切な人」や「故郷」も「精神の力」でつくりだすものなのだ。「私」を積極的に「他者」にかかわらせていくこと、かかわらせながら、そこに「大切」を結びつけるとき、人は普通の人から「大切な人」になり、ある土地が「大切な故郷」になる。)

 「意味」は、急にはつくれない。それでも、和合はことばを動かす。「精神力」ということばをつかったあとに書いていることば--それをなぜ書いたのか。そこには何が書かれているのか。
 じーっと、見つめてみる。耳をすましてみる。

私の大好きな高校の体育館が、身元不明の死体安置所になっています。隣の高校も。
                                 (39ページ)

 ここから、「天体の精神力」と向き合う「人間の精神力」を引き出すのはむずかしい。「意味」も、どうしたら引き出せるのか、私にはわからない。
 けれど、ひとつのことばに、私はこころを奪われる。

私の大好きな

 あ、「大好き」というのは「大切」ということではないだろうか。
 「あなたには大切な人がいますか」とは「あなたには大好きな人がいますか」ということなのである。あるいは「私の全て」と言えることなのである。「故郷は私の全てです」とは、「故郷は私の大切なものです」であり、また「故郷は私の大好きなところです」でもある。
 それはまた「己の全存在を賭けて」もいいと思えるもののことである。「大好き」なものに、人は自分の全てを賭ける。
 和合は、「天体の精神力」というものに向き合ったあと、もう一度「いま」「ここ」を見つめなおしている。そして、そこにある「事実」(事象)と自分の「感情」を向き合わせている。「精神力」というおおげさなものではなく、もっと「自分らしさ」そのもののようなものを向き合わせている。「精神力」は、発揮したいけれど、なかなか「精神力」にはたどりつけない--そういうむずかしさがある。
 むずかしさを承知で、それでもことばを動かす。その動き。それについて考えるとき、ひとつ思い出すことがある。
 「大好きな」に似たことばは、「大切」より以前にも書かれていた。「私が避暑地として気に入って、時折過ごしていた南三陸海岸」ということばがあった。「大好き」とは「気に入って」と通い合う。「大好き」「大切」「気に入る」これは、みな同じである。そして、それはみな「身近なもの」と結びつく。「天体」という手の届かないものではなく、常に手の届くもの(手の届く相手)を対象としている。
 「精神」は、目に見えないものである。「精神力」は考えはじめると、よくわからないものである。けれど、大切なもの、大好きなもの、気に入ったものは手が届く。あるいは、手に触れたものである。和合は「精神力」というものをめざしている。「意味」をめざしているけれど、そういうものにたどりつくための出発点には、手に触れるものを据えている。そこから出発しようとしている。何か、手に触れるものを大事にしながら、ことばを動かしている。「大切なもの」とは、結局、常に手に触れていたいものだからかもしれない。
 この「大好き」「大切」「気に入る」ということ、そして身近な手に触れることができるものから語りはじめる、そのものとともにある「感情」から語りはじめる--それこそ、和合の選んだ「精神」かもしれない。
 架空のものではない、手に触れることのできないものではない。そうではなくて、必ず自分が知っていて、なじんだもの、手に触れることができるものを離れずにことばを動かす。その先にしか「精神」はない、と和合は知っているだろう。

 あ、でも、ほんとうにむずかしい。

私が避暑地として気に入って、時折過ごしていた南三陸海岸に、一昨日、1000人の遺体が流れ着きました。


私が大好きな高校の体育館が、身元不明者の死体安置所になっています。隣の高校も。

 ここには、同じことばが書かれている。同じことが書かれている。いや、同じことではないのだが、「整理」してしまうと、「同じ」になってしまうしかないことがらへと、ことばは何度も帰ってしまう。それだけ、いま起きていることは激しいことなのだが、それにしても、ことばを、先へ先へと進めていくことはとてもむずかしいのだ。
 何が起きたか、まだ誰にもわからない。
 だから、同じことを何度も何度も繰り返し書いてみる。書きながらことばが動くのを和合は粘り強く待っている。
 「精神」が動かないなら、それが動きはじめるまで、自分が目にすることができるもの、知っていることをただ書いてみる。
 ここに和合の正直がある。
 この正直は、次の部分にとてもよくあらわれている。

また地鳴りが鳴りました。今度は大きく揺れました。外に出ようと階下まで裸足で降りました。前の呟きの「身元不明…」あたりで、です。外に出ようたって、放射能が降っています。

 ただ、ありのままを書く。「精神力」が必要なことはわかっているが、「精神力」はうまいぐあいに動いてはくれないのだ。動かないものを動かす前に、わかることを書く。自分のそのままを書く。どんなことでも、書くというのはことばを動かすことである。
 そうすると、その正直な動き、正確に何かを書いたことばの動きにあわせるようにして、正直そのものが噴出してくる。

気に入らなかったのかい? けっ、俺あ、どこまでもてめえをむちゃくちゃにしてやるぞ。

 あ、すごい。この怒りはすごい。これは「天体の精神力」に対する怒りである。
 「天体の精神力」が大震災を引き起こしている。「天体の精神力」は和合が何かを「大好き」であることが気に食わないらしい。それが、どうした。俺には大好きなものがある。大切なものがある。「己の全存在を賭け」るべきものがある。そのことを書くのだ。そして、それを書くことで「てめえ(天体の精神力)」をむちゃくちゃにしてやる。そうすることで、「天体の精神力」から「大切なもの」を奪い返してやる。
 和合は、ここで、はじめて怒っている。

 私は大震災でいちばん驚いたことを、被災者が「ありがとう」ということばをいうことだと書いた。怒りのことばではなく、まず「ありがとう」と言う。そのことはほんとうに衝撃的だった。和合も「ありがとうございました」と「詩の礫」を書きはじめていた。
 それが、ここでやっと、怒っている。
 正直に、ただ正直に、いま起きたこと、それを正確に書いたとき、その正直から怒りが噴出してきたのだ。正直が、正確が、怒りを励ましたのだ。
 「精神力」というものがあるとすれば、この正直、正確としっかりと結びついたものに違いないと私は思う。



RAINBOW
和合 亮一
思潮社
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千住博「空の庭」「ザ・フォールズ」

2011-05-11 22:57:22 | その他(音楽、小説etc)
千住博「空の庭」「ザ・フォールズ」(家プロジェクト「石橋」)

 2011年05月10日、香川県直島の「ベネッセアートサイト直島」で「空の庭」と「ザ・フォールズ」を見た。私が行ったときは雨が降っていた。
 「空の庭」はそのとき降っていた雨に溶け込んでいた。絵の中にも雨が降っていて、その雨のために山がかすんでいる、という感じである。実際の雨を呼吸して、木々も、そして空気もしっとりとまじりあう。
 その絵そのものもおもしろいのだが、絵の邪魔(?)をしている柱の感じがとてもいい。柱がつくりだす遠近感の向こうに、絵そのものの遠近感がある。絵そのものの遠近感といっても、西洋画と違ってどこかに焦点(透視図の中心)があるというわけではない。ただ奥行きがある。その遠近感は一点透視のように収斂する遠近感ではなく、むしろどこまでも無へ向かって広がっていく広大な遠近感である。柱がつくりだす遠近感は一点透視の遠近感なのだが、その向こうに焦点があるのではなく、広大な広がりがある。無、と呼んでもいいのかもしれない。しかし、その無というのは何もないということではなく、何があってもかまわない、どんなものでも受け入れる広がりとしての無、豊かさにつながるひろがりである。
 柱と床、天井がつくりだす真四角の構図、それが重なることでうまれる幾何学的な遠近感と、幾何学を無視した絵のなかの無(千住博は、私が無と呼んでいるものを「空」と名づけているのかもしれない)の不思議なアンバランス(?)がとても美しい。
 柱がつくりだす遠近感の枠組みはひとつではなく複数ある。それがまた、とてもおもしろい。私がこれまで書いたのは、正面から見た絵の印象なのだが、それを斜めから、つまり部屋の入り口から見たときは、また違った遠近感が働くのである。「空の庭」は右手に木々の塊があり、左手に行くに従って木々が低くなり空間が広くなる構図をとっているが、それをその部屋の入り口から斜めにみるとき、正面からみるときとは違った柱の遠近があり、その幾何学的な遠近感と絵の「無の空間」が交錯する瞬間が刺激的なのである。絵が動くのである。そして、その動きに誘われるようにして歩いて行った先で、床の間の上の小さな襖に、絵のつづきというか、大きな襖の絵に呼応するように小さな枝を見つけるとき、まるで山の中を実際に歩いている気持ちになる。家という空間がとつぜん解体し、外にほうりだされた感じになるのだ。
 この絵が飾られてある部屋の前には庭がある。そしてその庭には石の「椅子」がある。そこにすわって眺めると、また違った風景が見えるはずである。庭の芝があれるというので、いまは立入禁止だった。想像力で見た風景を書いてみると……。
 襖は部屋の向こうの現実の風景を隠している。絵は、その風景を隠している--はずなのだが、きっと石の椅子にすわってみると、それは開け放たれた「窓」にみえるだろう。「窓」を通り越して、あらゆる壁を取り払った家と、その向こうの風景にみえるだろう。特に私がその絵をみたときのように雨が降っていれば、そこに描かれているのは、まさに「現実」になる。「現実」の空間になる。描かれた空間があるのではなく、ほんとうの「無」がある。千住博の絵は、その現実の「無」に対してひとつの「形式」を与えることになる。絵が現実を真似るのではない。現実が絵を真似るのだ。現実の山や木々が千住博の描いた絵にあわせて自分の姿を整えるのだ。--そんなことを夢想した。
 そして、次の「ザ・フォール」を見るために、廊下を回っていった先で、「ザ・フォール」の描かれている「蔵」のなかに入る前に、ふとさっき見た襖の裏側を見ることになる。すると、そこには木々のつづき、小枝のつづきが描かれている。あ、私は部屋のまわりをまわったのではなく、ひとつの山そのものをまわったのだ。その絵は、というか、描かれている小枝自体は小さい。けれど、それは山の中に入って目の前の枝を小枝と思うのと同じであり、その枝のつづきには大きな山がある。小さい小枝に引きつけられていくとき、私は「家」がそこにあることを忘れるが、それが山に入り込む感じそっくりなのである。小枝をみて、山を見ない。けれど、そこには山があり、山が家を隠してしまっている。「空間」というか、「もの」の大きさが、その瞬間一気に逆転するのである。「現実」が千住博の絵によって、逆転するのである。
 これは、この展示方法以外ではありえない「絵」である。「石橋」へ来て見るしかない「絵」であり、またそこでしか味わえない「哲学」である。

 「ザ・フォール」はおびただしく落ちる水を描いている。滝である。落下する水は、ほとんど霧状に砕け、白くなっている。激しい音が聞こえる--はずである。どうしたって、こんなに水が落ちていれば、そこにはゴーゴーと鳴る音が響いているはずである。だが、私はまったく音を感じなかった。音がないばかりか、音を聞こうとする「意識」、あるいは「耳」さえもが、何かに吸い込まれていくような感じ--深い深い「静けさ」を感じた。
 これはいったいなんだろう。どうしてこんなに静かなのか。
 じっーと見ていると、最初に目にした「落下する水」の背後に黒い壁があることに気がつく。滝の岩壁、になるのかもしれない。この岩壁の不思議さは、荒々しくないことだ。ごつごつしていないことだ。そして、壁と書いたことと矛盾してしまうのだが、それは「壁」ではない。それはどこまでもどこまでも「奥」がある。「奥」だけがある。「空間」といってもいいのかもしれないが、私は「奥」と呼びたい。
 「空の庭」の木々や山の向こうにはたしかに「空間」につながるどこまでも開放的にひろがるひろがりがあったが、「ザ・フォール」の場合は、解放というより、底無しに吸い込まれていく感じなのである。「空間」にはきっと広がる空間と、吸い込まれる空間(ブラックホールのような空間)があるのだ。
 「ザ・フォール」というくらいだから「落下する水」を描いていることには間違いはないのだろうが、落下する水よりも、見ているとどうしても闇の方に吸い込まれてしまう。闇に「落下」していく感じがする。
 水は、上から下へ落下する。しかし、そのとき、音は上から下へではなく、「ここ」から水が落下する壁の向こう側へ「落下」する--水平に落下していく感じがする。あらゆるものが、水が落ちている壁の向こう側へ、水平に落下していくのだ。水平に落下するということばは、まあ、普通は言わないから、吸い込まれていくということになるのかもしれないけれど、その吸い込み方があまりに徹底しているので、水平に落下していくといいたくなってしまうのだ。
 だから、というのはたぶんこじつけめいているかもしれないが……。これだけ水が落ちてくるのに、少しも水が私をぬらしに来る感じがしない。落ちた水が、私の方に流れてくる感じがしないのである。足下に「滝壺」があるかもしれないが、そこには水がないという感じがするのである。もし、水に濡れるのなら、しぶきではなく、真っ暗な闇にふれたときこそ濡れるのだと思う。闇に吸い込まれるように、壁の向こう側へ行って濡れるのだ。
 この作品でも、私は、何か「空の庭」に通じる「空間」の解体を感じるのである。「空間」の意識が逆転するのを感じるのである。ここには落下する水はあっても、まんまんと広がる水はない。水は向こう側にある。そして、その水を存在させているのが暗い暗い闇なのだ。水があるのではなく、闇があるのだ。

 そんなことを考えているとき、絵の表情がぱーっと変わった。落下する白い水がきらきらと輝いた。あ、これは、私の思ったことと絵が何かしらの反応を起こしたのだ--と私は少し興奮した。うん、私の絵の見方を、この絵が喜んで、その喜びに絵が輝いたのに違いない。
 だが、そうではなかった。
 私が「空の庭」を見ていたとき雨が降っていた。「ザ・フォール」の部屋に入ったときも雨が降っていたのだと思う。それが突然晴れたのである。晴れて、外の光がかわった。その光がたまたま明かり取りの窓から入ってきただけなのだが、びっくりしてしまった。ほんとうにまぶしいくらいにきらきら輝き、絵が動いたのである。闇も明るんだ気がしたが、それが明るくなるということが、また逆に明るくなりうる奥深さをもった闇なのだということを実感させるのだ。
 私の考えた一種の思い付きは、まあ、どうでもいいことだなあ。絵が一瞬の光で表情をかえるということを知った。それだけわかれば、この絵を見た甲斐があるというものだ。こういう変化を見せるために、この絵の展示方法も工夫されている。「空の庭」と同様、展示方法を含めて「作品」なのだ。

 帰り際、「石橋」で絵の紹介をというか、鑑賞者の案内をしているひとに方角を聞いてみた。私は「窓は東側ですか」と聞いたのだが、「わかならい」ということだった。絵の表情が晴れて光が入ってきたとき、突然変わったというようなことを話したら、「夕方みると、色の変化がとても美しいは評判だ」と教えてくれた。夕暮れにもういちど来てみたいと思ったが、途中で携帯の電源がきれて時間がわからなくなり、帰りの船までの余裕もわからなくなった上に、雨が激しくなったので夕方の絵の変化は見ることができなかった。それが心残りである。




千住博の滝
クリエーター情報なし
求龍堂
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