詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(17)

2011-05-20 23:59:59 | 詩の礫
和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(17)(「現代詩手帖」2011年05月号)

 きのうの「日記」に書けなかったことがある。

2時46分に止まってしまった私の時計に、時間を与えようと思う。明けない夜は無い。
                                 (44ページ)

 「時間を与える」とは、どういうことか。和合は「3月18日」には具体的には書いていない。けれど、時間を動かしたいのだということはわかる。時間を動かして、夜を朝に運び出すのだ。
 「動かす」こと、「動く」こと。「動き」とともに「時間」がある。
 
 動く、動かす--動かすことができるものに何があるか。和合に何が動かせるか。ことばを動かすことができる。そして、実際、和合はことばを動かしている。そうすると、 3月19日に不思議なことが起きる。

一昨日から始まった私のこの言葉の行動を、「詩の礫」と名付けた途端に、家に水が出ました。私の精神と、私の家に、血が通ったようでありました。「詩の礫」と通水。駄目な私を少しだけ開いてくれた。目の前の世界のわだかまりを貫いてくれた。
                                 (45ページ)

 これは「偶然」のかもしれない。けれど、それが偶然であっても、私たちはそれを必然にできる。ことばを動かすと、世界が動く。つまり、時間が新しく時を刻みはじめるのだ。世界が新しい動きをはじめるためには、ことばが動かなければならないのだ。
 ことばが動けば、世界が動く。ことばが何かを必要とすれば、その何かは動いていやってくる。ことばは必要なものを呼び寄せるのである。ことばとは、もともとそういうものだろう。何かを呼ぶ、その呼ぶために声があり、ことばがある。

 和合は、水を手に入れたあと、その水がつかうにはなかなか不便な水だったために、タクシーに乗って風呂に行く。

タクシーを呼んだ。来てくれた。運転手さんに全部話す。「いやあ。人間は垢では死にませんよ。元気出して。」

涙が止まらねえや、畜生。そこで立って待ってろ、涙。ぶん殴ってやる。逃げんじゃねえぞ、決着つけろ。涙。
                                 (46ページ)

 この部分に、とても感激した。特に「運転手さんに全部話す。」が正直で、気持ちがいい。和合は、ツイッターでことばを書きつづけた。それは誰かに「話す」ということの一部なのだが、人と会って話すということとは少し違う。いま、運転手さんに、和合は話しかけている。「全部」話している。話したいことがあるのだ。聞いてもらいたいことがあるのだ。聞いてもらうというのは、受け止めてもらうということである。
 受け止めてもらわなくても、ことばは動かすことができる。けれど、受け止めてもらった方が、もっと動きやすくなる。そして、ことばが受け止めてもらえたという実感の、その瞬間、ことばを追い越して涙が溢れてくる。涙は、ことばにならないことばである。こらえてもこらえても、泣くまいとしても溢れてくるものが涙である。
 これは、ことばを書く人間としては、悔しいねえ。
 ことばを涙が追い越していく、というのは悔しいねえ。そして、うれしいねえ。その涙に追いかければ、ことばはきっと動けるからだ。ことばが動いていく先があるということを教えてくれるのが涙でもあるのだ。
 和合は、ことばに追いつきたいのだ。「いやあ。人間は垢では死にませんよ。元気出して。」という運転手さんのことばを聞いた瞬間、何か言おうとして、それを言わない先に溢れてしまったことばにならないもの、涙--それに追いつきたいのだ。言わなければならないことがまだまだあるのだ。「全部話した」けれど、まだまだ溢れてくるのだ。話さなければならないことが。

花を咲かせるには、未来が必要だ。子どもたちは、私たちの夢。昨日の帰りのタクシーでは、遅い夕暮れの山を見た。守らなくてはいけないもの。語りましょう、交わし合おうよ。何を。言葉を。今が、最も言葉が必要なとき。一人になってはいけない。
                                 (47ページ)

 ことばは、ひとりで動かすものではない。交わすことで動かすものなのだ。和合はタクシーの運転手とことばを交わし、交わすことでことばの力を実感した。

あなたとにって、懐かしい街がありますか。わたしには懐かしい街があります。その街は、無くなってしまったのだけれど。言葉を。もっと、言葉を。
                                 (47ページ)

 懐かしい街はなくなってしまった。けれど、その街を語ることばがある。ことばのなかで、街がなつかしく甦ってくる。同じように、ことばを語るとき、そこでは何かが甦るのである。それはなつかしい思い出だけではない。まだ知らないもの--希望も、そのことばから甦るのである。希望とは、未来の「時間」に属するものである。止まってしまった時計に時間を与える、時間を動かすために、ことばが必要なのだ。

もうじき朝が来る。それはどんな表情をしている? 春。鳥のさえずり。清流のやわらかさ。光る山際。頬をなでる風の肌触り。揺れる花のつぼみ。はるかな草原を行く野馬。朝食の支度をする母の足音。雲の切れ間。あなたにも、私にも。あなただけの、私だけの。同じ朝が来る。明けない夜は無い。
                                 (47ページ)

 「あなたにも、私にも。あなただけの、私だけの。同じ朝が来る。」この矛盾が美しい。あなただけの、私だけの「同じ朝」というものはない。あなただけの朝と、私だけの朝は同じではない。同じではないからこそ、あなただけの、私だけのという表現が成り立つのだけれど、その違いがあってもなお「同じ朝」と呼べる瞬間があるのだ。時間が動く。時が動くという、その「動き」が「同じ」なのだ。
 それは「明けない夜は無い」というときの「時間」の動きと「同じ」である。そして、それはことばとともに動くのだ。ことばとともに生き返るのだ。




パパの子育て奮闘記―大地のほっぺたに顔をくっつけて
和合 亮一
サンガ



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ジャウム・コレット=セラ監督「アンノウン」(★★★+★)

2011-05-20 22:28:11 | 映画
監督 ジャウム・コレット=セラ 脚本 オリヴァー・ブッチャー、ステファン・コーンウェル 出演 リーアム・ニーソン、ダイアン・クルーガー、エイダン・クイン、ブルーノ・ガンツ

 あっ。
 私は、こういうストーリーが主体の映画、特にトリックを「売り」にしている映画は嫌いなのだけれど。
 あっ。
 やられましたねえ。
 優秀な科学者が事故に巻き込まれ記憶喪失になる。おぼろげながら記憶を取り戻してみると、自分がもうひとりいる。妻も自分は知らないという。どうなっている?
 --よくあるストーリーと思っていたら。
 なんと、記憶喪失になったのは科学者ではなかった。暗殺集団の、ヒットマン(狙撃者)だった。自分がヒットマンであることを思い出せず、科学者であると思い込む。そこから始まるトラブル。
 これは「脚本」の勝利ですねえ。設定の勝利ですねえ。
 暗殺集団にとって、「目的」を忘れてしまった男は邪魔者以外の何者でもない。だから執拗に男を殺そうと襲い掛かってくる。かつての仲間に狙われつづける男。しかも、笑ってしまうのは、この暗殺集団の、いわば企画者である男がヒットマンであるという「自己」を忘れてしまったとき、善良な男になる--科学者になってしまうというのが、ねえ、すばらしくおかしい。
 これを「シンドラーのリスト」のリーアム・ニーソンがやるから、だまされちゃいますねえ。
 まあ、ストーリーはそんな具合で。
 映画としておもしろいのは、記憶を失ったリーアム・ニーソンが「代役」の暗殺者と出くわすシーン。「代役」の科学者ももちろん科学者ではなくニセモノなのだけれど、そのいわばニセモノ同士が、狙われている対象の本物の科学者の前で、私が本物と言い合うシーン。あ、私の説明、わかりにくい? わからなくていいんです。ネタバレの部分ですから。暗殺者であることを忘れてしまった男と暗殺者が、暗殺者になるために記憶したストーリーを科学者の前で披露する。それがねえ。傑作。音楽でいうと「斉唱」になる。二人が同じスピード、同じ抑揚で同じことばを繰り出す。
 本物の科学者はびっくりしますねえ。これいったい何?
 あ、私もびっくり。見ている観客はみんなびっくりすると思う。これ、何? どうしてここまでことばがそっくりそのまま? リーアム・ニーソンになりすましている男は、どうしてリーアム・ニーソンの記憶をそのままそっくり知っている?
 実は「記憶」ではなく、仕組まれたストーリーの「細部」だからですねえ。いつでも、その細部を言えるように訓練してきたからですねえ。
 で、そういうことは後からわかることなんだけれど、あとからわかることには、リーアム・ニーソンの肉体の動き--これもある。科学者らしからぬ行動力がある。行動力といっても「善良」な市民の記憶しかないので、逃げるだけなんだけれど、ふつうはそんなうまい具合に逃げられません。一般市民は。科学者は。
 でも、ほら。観客って(私だけ?)、やっぱり逃げている主人公が無事逃げられると安心するでしょ? そういう「心理」を巧みに応用して、はらはら、どきどきをつないで行く。
 あざといくらいによく練られた映画だなあ。
 ブルーノ・ガンツがベルリンの天使ではなく、かといって悪魔でもない、でも悪魔のような匂いをただよわせて映画の嘘を支えているのもいいなあ。
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倉橋健一「化身」、橋本和子「季節」

2011-05-20 09:34:35 | 詩(雑誌・同人誌)
倉橋健一「化身」、橋本和子「季節」(「イリプスⅡnd」07、2011年05月25日発行)

 倉橋健一「化身」は、一か所非常に気になるところがあった。

よくあることだが、冬場、とくに空気の乾いた明け方には、私はきまって一頭の草食動物に化身する。グルゴール・ザムザの経験した、ある朝目をさますと、自分が寝床の中で一匹の巨大な毒虫になっているのを発見したのと同じ経験だ。ただ私のばあいは、毒虫ならヌ中央アジア産のアルガリヒツジになっている。飼い慣らされて家畜になり、モーゼの十戒によって燔祭りの生贄になることを運命づけられた若いヒツジだ。そのまま私は寝床のなかで背中を丸め四肢を曲げて、ひたすら屠られる瞬間を待っている。食欲旺盛な神の胃袋を満たすための。そのあとはどうなるのか。いつのまにか夢とよばれる荒野をさまよっている。そのまま夢に助けられて私はいまこして体験を素(もと)にみじかい詩を書いているのだが、といってアルガリヒツジの孤独な吐息を忘れているわけではない。私は半身はヒツジ。屠られる寸前を生きている。

 「そのあとはどうなるのか。」ここがいいなあ。ここが美しいなあ。美しい--ということばでいいのかどうかわからないが、そこで私は立ち止まったのである。ほう、とことばをみとれてしまった。
 そうだねえ、生贄のヒツジは神に食べられたあと、どうなるのだろう。--そんなことは、考えたことはなかった。生贄のヒツジの行く末は、まあ、人間は考えない。生贄を捧げることによって、自分たちの暮らしがかわること(よくなること)を考えるけれど、食べられたヒツジのことは考えないなあ。
 そういう「考えないこと」を人間は考えることができる。そして、そのことをことばにすることができる。ことばにすることができるから考えることができるか、それとも考えることができるからことばにするのことができるのか--と、わけのわからないことを、私は即座に考えてしまったが……。
 あ、いや、これは正確ではないなあ。
 私が考えたのではなく、高橋のことばに「感染」して、そういう世界に誘い込まれたのである。

そのあとはどうなるのか。いつのまにか夢とよばれる荒野をさまよっている。

 変でしょ?
 「明け方には、私はきまって一頭の草食動物に化身する。」というのは、「現実」というよりは「夢」のなかのできごとだね。ほら、「私は寝床のなかで背中を丸め四肢を曲げて、ひたすら屠られる瞬間を待っている。」と「寝床」が出てくるでしょ?
 夢のなかで「そのあとはどうなるのか」と考えて、「夢とよばれる荒野」に目覚める。あれっ、何がどうなっている? いつのまに入れ代わっている?
 よくわからないのだけれど、そのよくわからない「入れ代わり」のターニングポイント(?)に「そのあとはどうなるのか」という「考え」が働いているところがおもしろいのだ。
 倉橋の文体は、何かを「感じる」ときに動くのではなく「考える」ときにうごきはじめるのだ--ということを、この「そのあとはどうなるのか」ということばが証明している。
 アルガリヒツジに化身すること、生贄になり神に食べられること、ヒツジが孤独な吐息を吐いていること--そういうことは、すべて「思考」というか、「考え」ではなく、むしろ「考え」(理性)から離れた「まぼろし」のようなものである。「理性」の外にあるものである。それが、しかし、くっきりと見えるのは「そのあとはどうなるのか」というしっかりとした(?)考え、理性の動きが働いたときなのである。
 理性、あるいは「論理」の存在が、倉橋の「幻想」を映し出す「鏡」になっているのだ。その「鏡」の一瞬の、透徹した輝き、美しい光に、私は、ほーっと息をもらしてしまったのである。 



 橋本和子「季節」に書かれているのは何だろう。なんとなく、入院している「母」、しかもいろいろなチューブで生命を維持している状態の母のことを思い出しているように読むことができるのだが……。
 2連目が、ともかくおもしろい。

こんな季節の変わり目は  どちらにしても地面が厚焼き玉子に似
ていて  食べるのが楽しみなのをきみにばれないよう  心を配
るから  中心がない
のかわくわくするのかぞわぞわするのかわんわんするのか
そういうのがくるくる回りながら
かけてく
あわてるでもなく  のんびりでもなく
そういえば
壊れたあたしを吊るす  というかくくる でもなくぐるぐるまき
にして箱に
放り込む  その箱持ってタクシーで  深夜についたら
くだというくだにまとわれて

 「地面」が「厚焼き玉子」という「比喩」のなかに入ってしまうのが、とても変。それを「食べる」というのがどういうことかわからないが、なぜか、厚焼き玉子になった地面・地面になった厚焼き玉子--その何かわからないものを食べてみたい気持ちになるのだ。この変な気持ちは「地面/厚焼き玉子」という「比喩」、「比喩」なのかのかけ離れた存在の一体化が、とても衝撃的で、私には消化しきれないところから生まれてくる。
 わけがわからなくて、そのわけのわからない「存在感」に圧倒されてしまうのだ。
 こういう「存在感」が確立されてしまうと、もう、ことばは自由だねえ。

のかわくわくするのかぞわぞわするのかわんわんするのか

 この区切りのなさがいいなあ。
 「地面/厚焼き玉子」を区別できないように(そんなふうに、まったくかけ離れたものさえ「比喩」になってしまうと区別がつかなくなるように)、何か区別のつかないことが起きて、くっついたまま動いていくのだ。
 あ、そうだなあ、と思う。
 私はもう両親が死んで、二人ともいないのだけれど、その両親が死ぬときの、その瞬間というのは、何か「現実的」ではない。何かが「くっついている」。自分が考えたいこと、感じたいこととは別の何かが勝手にやってくる。そして、考えなければならないこと、感じなければならないことを、攪拌してしまう。何か、急に忙しくなる。
 そういう感じが橋本のことばのなかに存在していて、おもしろい。あ、こういうことは「おもしろい」と呼んではいけないことなのかもしれないけれど、その不思議な「区別のつかないもの」に引っ張られてしまう。

 で。
 
 というのは、私の、何の根拠もない「飛躍」(誤読)なのだが、この橋本の不思議なことばは、もしかすると倉橋の書いた「あとはどうなるのか」という妙に冷徹な論理の力とどこかで通い合っている感じがするのだ。
 同じ「イリプスⅡnd」07に掲載されていることが、そういう印象を引き起こすのかもしれないが--そうだとすれば、おもしろいなあ。「同人誌」を出すおもしろさは、そういうことろにあるかもしれない。ほんとうは別々のものなのに、ひとつの雑誌に掲載された瞬間、何かが通い合う。通い合うように、ことばが自律して動いて行ってしまう。作者の手を離れ、ことば自体の力で互いを呼びあうように動いてしまう。

 そういうことが、ある、と思う。





詩が円熟するとき―詩的60年代環流
倉橋 健一
思潮社
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