詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(28)

2011-05-31 23:59:59 | 詩の礫

2011年05月31日(火曜日)

和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(28)(「現代詩手帖」2011年05月号)

 「10」には「激しい精神」と同じように、不思議なことばが出てくる。

緊急地震速報、もしくは、噂話、20キロ圏内。牛や犬やぶたが徘徊している、無人がそれらの家畜や番犬を追い回している。涙を流している、注意が必要です。

緊急地震速報、もしくは、噂話、20キロ圏内、柵につながれたまま牛は、大きな体を休ませている、いや、飢え死にしている、無人も飢えている、果てし無い、注意が必要です。

緊急地震速報、もしくは、噂話、20キロ圏内、豚は食べるものがなくて、仕方なく、豚の死骸を食べている、無人も仲間を睨みつけている、理由は無い、注意が必要です。
                               (70-71ページ)

 「無人」がよくわからない。何の「比喩」だろうか。「比喩」だとしたら、このことばには「矛盾」がある。比喩とは「いま/ここ」にないものをことばで呼び出すことだ。「いま/ここ」にはないが、「いつか/どこか」に存在する。「比喩」を語るとき、「いま/ここ」と「いつか/どこか」が結びつく。そのとき「比喩」の絶対条件は「ある」ということだ。けれど、和合は「無・人」と書いている。「無」は「ある」の反対のことばである。「無」は「比喩」にはなりえない。その「比喩」になりえない「無」を抱え込んだ「無人」--これは、一体何?
 「ひとがいない」が「無人」か。だが「無人」なら、それが「追い回す」ということはできるのか。「無人」は「人では無い」という意味だろうか。「人ではない」ということだけははっきりしているが、まだ「何」かわからない。「見えない」「触れない」「聞こえない」「匂いもしない」--と書いてくると「無人」が和合の書いている「放射能」に似てくる。
 でも、「無人」が「放射能」だとしたち、それが「涙を流している」とは、どういうこと? 「飢えている」とはどういうこと? 「仲間を睨みつけている」とはどういうこと? よくわからない。
 たぶん、それは「人格」を持ってしまった「放射能」なのである。
 「余震・地震」が「激しい精神」であったように、「放射能」は「無人」なのである。「人ではない」が「人格」を持っている存在。
 「放射能」に「人格」を与える(比喩を媒介にして人格を与える)というのは、なんだか変な感じがするかもしれない。戦うべき相手に、わざわざ「人格」を与える必要があるのか--という疑問が生まれてくる。
 しかし、もし戦う相手が「人格」を持たないのだったら、私たちはどう戦えばいいのだろう。
 もし戦う相手が「精神」を持たないのだったら、私たちはどう戦えばいいのだろう。
 「矛盾」したことをしてしまうようだけれど、人は「余震・地震」と戦うとき、「余震・地震」を自分自身の「精神」に向き合っている「精神」のひとつであると仮定しないことには、ことばを武器に戦えないのではないのか。
 同じように「放射能」という非人間的なものと向き合い、ことばを武器に戦うとしたら、放射能を「人」ということばで「比喩」にしてしまわないと、戦えないのではないのか。
 「余震・地震」も「放射能」も「ことば」を持っている。その「ことば」を見極め、自分のことばと対峙させる。戦わせる。どちらのことばが勝つのか--勝つためには、ことばをどう鍛えるべきなのか……。

 私の書いていることは、「説明」になりえていないかもしれない。
 説明になりえていないことを承知でもう少し書く。

 「無人」とともに「噂話」が出てくる。「噂話」とは何だろう。根拠のないことば。それは誰が口にしたことばなのか。大震災の被災者か。あるいは、「人では無い何か=無人=放射能」か。和合は、被災者ではなく「無人」が語り、押し広げたのが「噂話」であると言いたいのかもしれない。
 「無人」がことばでも詩人(和合)に襲い掛かってくる。「噂話」ということばになって。
 だが、ほんとうに、その「話」には根拠がない? 「無人」のことばだから、根拠がない? そこには人間のことばは少しも含まれていない?
 そんなことはないだろう。
 実際は私は、ニュースで牛や豚や犬を見た。その悲惨な姿を見た。和合が聞いたのは「噂話」であると、否定できない。そこには「真実」もある。
 ああ、だからこそ、問題なのだ。
 「無人」(放射能)の脅威と、人間のことばは、「ことば」のなかで重なり合う部分があるのだ。どっちが、どっち? わからなくなる部分がある。こういう不明瞭な部分、あいまいな部分は、ふつうの詩では、まあ、どっちでもいい、詩なのだから、好きなふうに読んでおけばいい--実際、好きなふうに読んだ方が詩がいきいきするということがある。けれど、和合の書いている詩では、それはあいまいにはできない。どっちがどっちか、それを明確にして、「人間のことば」が「無人のことば」に打ち勝たなくてはならない。
 でも、これは、難しいなあ。

 これから書くことは適切な例にはなりえないかもしれない。いま書いたことの適切な補足にはなりえないかもしれない--けれど、こういうことがあるのだ。


子どものころの僕の顔を思い浮かべて…、祖母は亡くなる前に、「雪だるま」の貼り絵をしてくれた(と思っている)…、その絵を本棚の一番よいところに飾っていた…。

僕の部屋の瓦礫の中で一番先に探したのは、祖母の貼り絵…。

探す。無い。探す。無い。祖母の絵。無い。探す。見つからない。私が探しているのは、貼り絵だが、それだけでは無い。探す。私が探しているのは貼り絵だが、祖母の姿を探している。探す。無い。余震。
                               (72-73ページ)

 「私が探しているのは貼り絵だが、祖母の姿を探している」。この文章は、論理的には変でしょ? 変だけれど、わかるでしょ? 論理的な文章より、強く感じるでしょ? これが、たぶん「無人」ということばのなかにもあるのだ。その変な矛盾した論理が。
 「無人」、人間ではないもの、そのむごたらしい放射能--それを、私たちはまず「ことば」にしないといけない。そして、自分たちで「ことば」にした「無人」と「無人のことば」を、さらに詩のことばで叩き潰していく。叩き潰すために、まず、「無人のことば」を正確に確立しなくてはいけない。
 貼り絵とおばあちゃんは「叩き潰す」という関係はない。だから、説明がよけいにややこしいのだが、貼り絵とおばあちゃんの関係(探すときに一つになる関係)とは正反対の関係が、「無人」という「比喩」のなかにあるのだ。

 今回書かれている「詩の礫」の最後。


目の前の目の前に 書き殴れ 一つの文字



あなたはここまで読んで、必敗者の私にこう教えてくれるのだ。

明けない夜は無い。
                                 (76ページ)

 「あなた」は「無人」の対極にある。「あなた」は「在(有)・人」なのだ。「僕(和合)」は「あなた」と「ことば」をとおして結合する。「詩」が結びつける。結びつく力で「無人」に勝つ。
 「放射能」の前ではだれもが「必敗者」である。防ぎようがない。大地震の前でも同じかもしれない。
 けれど、その起きたことを「ことば」で明確にし、同時にその「ことば」を乗り越えることばを書く。そういう力を獲得するまでことばを「書き殴る」。「詩」に高めていく--それしか「生きる」方法はない。
 和合のことばからは、そういう強い宣言が感じられる。





補記。

 「詩の礫」(「現代詩手帖」2011年05月号掲載分)を読み終え、振り返るとき、ふと気がついたことかある。

放射能が降っています。静かな夜です。
                                 (38ページ)

 と、和合は書いていた。それはひとの暮らしが破壊され、実際に「物音」がしないということをあらわしていると同時に、「ここまで私たちを痛めつける意味はあるのでしょうか。」「この震災は何を私たちに教えたいのか。」という「問い」に「答え」が帰って来ない、「答え」がどこからも聞こえないという状態をあらわしていたと思う。
 その「静かな夜」が最後の方では「静か」ではなくなっている。
 聞こえる「声」には、たとえば「噂話」がある。そのほかに「原子力」のささやきがある。地震の「悪魔」の声がする。

ここまで書いていると、原子力が私の家の扉のチャイムを押した。「どなたですか」。話があります。「私にはありません」。とにかく扉を開けて下さい。「開けるもんか」。
                                 (74ページ)

お坊ちゃン、福島のお坊ちゃン、何が、出来ますかイナ。
                                 (75ページ)

 「噂話」「原子力のささやき」「悪魔の高笑い」。これは、みんな「事実」ではない。「事実」ではないけれど、そこには「真実」がある。ひとが何かを思う--その思うことの真実がある。噂話に語れることごと、原子力や悪魔の声は、和合にとっては歓迎すべきものではない。あってはいけないことがらである。けれど、そういうものを和合は聞き取れるようになった。「静かな夜」ではなく、「声にあふれた夜」「騒々しい夜」を和合は生きている。そして、それらの「声」が聞こえるからこそ、和合は、その「声」を超えていく声を探すことができる。
 この運動は、和合が「詩の礫」を書くことによって始まった「事件」である。

ものみな全ての事象における意味などは、それらの事後に生ずるものなのでしょう。ならば「事後」そのものの意味とは、何か。そこに意味はあるか。
                                 (38ページ)

 これは大震災に対する怒りのことばだが、「詩の礫」ということばにあてはめると「怒り」とは違うものがみえてくる。和合が書いたことば、その運動。その「意味」は書いた後に生じてくる。実際、私は、その意味を感じている。何も聞こえない「静かな夜」から、聞くべきものを聞いて、それを乗り越えていくことばを探すということばの変化--そのなかに人間の「希望」を感じている。
 「希望」と書くと、和合は「希望とは何事だ。私は、そして福島は、まだ絶望の中でもがいている」というかもしれない。それはそうなのだが、そんなふうに、もがき、生きることができるということは、やはり「静かな夜です」と黙りこくっているとはまったく違った状況だと思うのである。
 ことばは、状況をつくり、状況をかえていく。その力を感じた。






詩の礫
和合亮一
徳間書店



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ジョージ・ノルフィ監督「アジャストメント」(★)

2011-05-31 22:48:11 | 映画
監督 ジョージ・ノルフィ 出演 マット・デイモン、エミリー・ブラント

 フィリップ・K・ディックの小説は一時期興味をもって読んだことがあるが、映画むきとは言えない。「アメリカン民主主義」の「思想」を丸出しにしたSF小説というよりは、観念(理想)小説の趣がある。映画(あるいはテレビ番組)でいうなら「スタートレック」の世界というか……。
 この映画では(原作は、私は読んだかどうか覚えていない)、主役が将来の「大統領」。彼ははめも外すが、スラム出身で、理想に燃えている青年である。その青年の前に「調整局」という変な組織があらわれ、「こうしないと(愛をあきらめないと)大統領になれない」と運命をあやつろうとする。それに対して「自由」を求める主人公は、愛を貫きながら自分の手で未来を切り開いていく。そのフロンティアスピリッツ。それにそった展開。
 まあ、映画だからいいんだけれど。
 --でも、つまらないねえ。ばかばかしいねえ。
 フィリップ・K・ディックの小説は、もともと「頭」で読む小説。お馬鹿さんは読んでもわからないよ、アメリカ民主主義の精神を理解し、理想実現には「頭」を働かして、論理を正確に追っていく力が必要だよ、という読者を小馬鹿にしたことろがある。こういうことは「ことば」で書かれる小説では成立するが、映像ではうまくいかないねえ。
 この映画で言うと、「調整局」の存在--これが、薄っぺらい。ぜんぜん、怖くない。組織の「わけのわからなさ」もまったく伝わってこない。小説では「調整局」という存在(そこに動いている人間)は「観念」のままでいいのだが、映像は観念ではないからねえ。調整する前に、ことばの「論理」が整いすぎている。映像が入り込む余地がない。「不思議」どころか、ほんのひとかけらの「謎」もない。「わかりすぎる」。その結果として、「わけのわからない」おもしろさが完全に欠落する。
 「調整」をことばでなく、「肉体」で表現しないことには、不気味さは出てこないのである。映像の主体は、あくまで目に見える肉体。わけのわからない「論理」の強靱さと複雑さは、ふつうの「肉体」では「論理」の具体化(観念の具体化)にならない。
 まあ、「論理」にならないから、「帽子」の小道具(ドラえもんの「どこでもドア」の役割の一部を帽子が担っている)と、ばかばかしい「本」のなかの「設計図(といっても、都市動くときの平面図、というか鳥瞰図)」を使って、超能力と運命を説明することになる。
 小説では「帽子」も「設計図」も「文字」をはみだしているから、それはそれで「不思議」な効果を獲得できるが、「映像」にしてしまうと「映像」を超えたものにならない。「映像」にすっぽりとおさまってしまう。「不思議」ではなくなる。ばかばかしい「図」(絵解き)になってしまう。やだねえ。
 ことばと映像では「不思議」をあらわす方法が違うのだ。読者・観客の想像力を刺激する方法が違うのである。文字で書かれたものをそのまま映像化しても、映像は不思議でもなんでもない。複雑な「設計図」もあほらしい鳥瞰図にすぎなくなる。「時間」を水平に動かして「運命」なんて言ったって、そんなもの、だれが「運命」と思う? 空間、時間を超えて、動かないとねえ。
 さらに。
 本物のキスをすれば、「波動」(だったっけ?)が広がり、全体の「運命」がかわる--って、なんだこれは、「中学生向けの恋愛講座」か。
 私は3回ほど、舟を漕いでしまった。
 恋愛なら恋愛を描くでいいのだけれど、「運命」に関係する男を将来の大統領(下院議員であり、上院議員の候補者)ではなく、ふつうの市民にして、「調整局」のエージェントももっと不気味な冷徹さを具現しなくては、「筋書き」に終わってしまう。映画は「筋書き」ではなく、筋書きを破って動いていく映像でつくるものだということを、この監督は忘れてしまっている。
                        (2011年05月31日、天神東宝3)




2011年05月のベスト3
1「八日目の蝉」
2「トスカーナの贋作」
3「ブラックスワン」



アジャストメント―ディック短篇傑作選 (ハヤカワ文庫 SF テ 1-20)
フィリップ K.ディック
早川書房


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