詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(10)

2011-05-13 23:59:59 | 詩の礫
和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(10)(「現代詩手帖」2011年05月号) 

どんな理由があって命は生まれ、死にに行くのか。何の権利があって、誕生と死滅はあるのか。破壊と再生はもたらされるのか。

行方不明者は「行方不明者届け」が届けられて行方不明者になる。届けられず、行方不明者になれない行方不明者は行方不明者ではないのか。
                                 (39ページ)

 わからないこと、理不尽なこと--それを和合はていねいにことばにしている。ことばにすることで、わからないことや理不尽なことは解決するわけではないのだが、そのときそのとき、感じたことをことばにしないではいられない。
 「行方不明者」のことばのなかに「なる」ということばが出てくる。
 「行方不明者」にひとはなりたくてなるわけではないのだが、この「なる」ということばに、私は、不思議な感じがした。どう書けばいいのかわからない何かを感じた。あっ、と思った。
 「なる」というのは、変化である。
 人間は生きているとき「ある」と「なる」を行き来する。「いる」と「なる」を行き来すると言った方がいいのかもしれない。
 いま、和合は、「ここ」に「いる」。そして、ことばを「書く」。そのとき和合は「いる」を超えて、ことばを書くひとに「なる」。
 詩を書いているのだから「詩人」に「なる」と言うべきか。
 この「なる」は「行方不明者」ということばを主語にするととても悲しくてやりきれないが、ほかのことばを主語にすると、生きることに、すこし明るさが見えてくるような気がする。
 きのう書いたことばを別の形で言いなおすと、ひとは大震災に遭って哀しく「なる」、そしていま起きたことに対して怒りを感じるように「なる」(怒るように「なる」)、その怒りをうまく組織化すれば、それは力に「なる」。
 「なる」は、いや、そんな抽象的なことではないというか、もっと身近なことでもあるのだ。「なる」とは「自分」が自分でなく「なる」ということ。自分を超えること。そして、その自分を超えることというのは、同時に自分の深みを降りていくこと--ほんとうの自分に「なる」ということでもある。
 自分でなくなりながら、自分でなくなることによって、自分に「なる」。
 そういうことを、私は、ふと感じた。
 「なる」ということばをつかったあと(発見したあと)、和合が書いていることは、そして、和合が和合ではなくなり、そうすることでほんとうの和合に「なる」ということである。

スーパーに3時間並んだ。入れてもらって、みんなと奪い合うようにして品物を獲った。おばあちゃんが、勢いにのれずにしゃがみこんだ。糖尿病でめまいがしたと言った。のりまきと、白米と、ヨーグルトを取ってあげた。

 スーパーに並んでいるとき和合は和合のままで「ある」。みんなと品物を奪い合ったときも和合のままで「ある」。ところが、和合は和合のままで「ある」ことができない。自分のために品物を「獲る」ということだけに自分を集中できない。おばあちゃんに出会う。おばあちゃんはうまく品物を手に入れることができない。それを知った瞬間、和合は和合で「ある」ことをやめて、おばあちゃんのために品物を「取ってあげる」人間に「なる」。
 和合は最初からひとに気配りをする人間で「ある」。突然親切な人間に「なった」わけててはない--というひとがいると思う。たしかにそうなのだろうが、そうであったとしても、そこには変化がある。「なる」という変化がある。おばあちゃんに出会い、和合はひとに親切な人間に戻るのである。
 他人、他者は、ひとを本来のひとに戻してくれる力を持っている。和合はおばあちゃんに出会って、本来の自分に「なる」。「戻る」とはほんとうの自分に「なる」ということなのだ。
 これにつづくことば、そこに描かれいる和合の自画像は、とても静かで気持ちがいい。

放射能が降っています。静かな夜です。

 最初の方に、和合は「静か」ということばを、そういう文脈でつかっていた。私は、ふとそのことを思い出す。私が和合のことばと行為を突然「静か」だと感じたのだが、そのときの「静か」と和合が「静かな夜です」と書いたときのことばはどこかで重なるかもしれないと感じた。「静か」のなかで、沈黙のなかで、和合は多くのひとに出会っているのではないのか。多くのひとの「声にならない声」に身を寄せて、やさしい、親切な人間に「なって」いたのではないのか。
 詩は、次のようにつづいていくのだ。

おばあちゃんに尋ねた。「ご家族の方をお呼びしますか」。おばあちゃんは一人暮らしなんだ」と教えてくれた。家まで送りましょうか。「家は近いんだ」

翌朝5時に、水をもらうために並んだ。すでに長蛇の列だった。1時間ぐらい経って、みぞれが降ってきた。男の子がお父さんに笑い顔で言った。「お父さんよりも僕の方が先だったね、起きたの」。その可愛らしい顔を見て、私は思った。おばあちゃん、水、大丈夫かな。

 「私は思った」。誰でもが何かを思うのだけれど、この和合の書いている「思った」はなんと美しいのだろう。
 他者、他人を思う--そのとき、和合はほんとうの和合に「なる」。ほんとうの和合に戻ることができる。他者につながる--そのとき、ほんとうの和合に「なる」。
 そこに、ほんとうに不思議な不思議な「静かさ」がある。
 この「静か」な感じは、和合が最初に書いていた「ありがとうございました」にほんとうに似ている。私が、多くのひとの「ありがとう」のことばにふれて驚いたときの印象に似ている。
 和合をはじめ大震災の被災者が「ありがとう」というとき、和合たちはだれかとつながっている。だれかを思っている。その思いが「ありがとう」に含まれているのだと感じた。その「静かな」つながりを思うとき、胸が震える。

 そして、ここにある「会話」と、それ以前の、

この震災は何を私たちに教えたいのか。

 を比較すると、和合の「肉体」のつながりの「静かさ」が、またとても深いものに見えて着る。震災は何も語らない、何を教えたいのか語らない。そういう不気味な「静かさ」、肉体を不安にする静けさ(耳が聞こえない、という不安、震災が語ることばが聞こえないという恐ろしい静けさ)とは違った「触れ合い」のたしかさを感じる。
 見知らぬおばあちゃんを、「静かに」思いやり、ことばを交わすことができるやすらぎ。「不安」が解消するわけではないのだが、そこには、ことばが「聞こえる」やすらぎがある。



現代詩手帖 2011年 05月号 [雑誌]
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思潮社
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成島出監督「八日目の蝉」(★★★★★)

2011-05-13 11:00:33 | 映画
監督 成島出 出演 井上真央、永作博美

 永作博美を私はそれほど多く見ていない。「腑抜けども、悲しみの愛を見せろ」で気弱な「嫁」を演じていたのを思い出すくらいである。しかし、感動したなあ。こんなにうまい役者とは思わなかった。
 主人公は、永作博美に誘拐された井上真央なのだが、永作博美が逮捕されたあとも、いつ永作博美が出てくるか、いつ永作博美が出てくるか、いつ永作博美が出てくるか、いつ永作博美が出てくるか--それがとても気になった。待ち遠しくてしようがなかった。
 乳児を誘拐し、自分のこどもとして4年間育てるという、いわば「悪女」なのだが、悪人という感じがない。かといって、善人というわけでもない。そんなことをするつもりはなかったのに、ふと、してしまった。自首して、こどもを返せば、まあ、いいのかもしれないが、いったん抱いてしまうとその子が好きになってしまう。自分のこどもに思えてしまう。--背景には、愛人のこどもを妊娠し、堕胎を迫られ、その後妊娠できない体になってしまった、という事情もあるのだけれど、そのことが「悲惨さ」につながらない。特殊な「不幸」とは無関係に、乳児と女という普遍的な関係にすーっと入って行ってしまう。特殊なことなのに、それを普遍にしてしまうというのは、理性的に(?)考えれば変は変なのだが、変と感じさせない。
 こどもを育てたことがないので、ミルクをやるにもミルクの温度がわからない。量がわからない。おっぱいをやろうにも、もちろん母乳も出ない--という「どたばた」になりかねない状態からスタートするのだが、その場の「困った」に集中する力がすばらしいので、「誘拐犯」であることを見ていて忘れてしまう。永作博美の「困った」という瞬間に引きずり込まれ、思わず、哺乳瓶はこうもって、とか、ほらほらおなかがすいてるんじゃなくて襁褓が濡れて泣いてるんだろう、と手助けしたいような気持ちになってしまうのである。
 カルトまがいの「エンジェル」集団に逃げ込み、そこで保護(?)されながら暮らすときも、そこしか居場所がないという「困った」に真剣に取り組んでしまう。これからどうすればいいのか--というような目標(?)はない。ただ、大好きなこどもといっしょにいる。いっしょにいることで母に「なる」。その「なる」ことに夢中なのである。
 永作博美に演技計画があったのかなかったのか。また、成島出監督に演出計画があったのかなかったのか。よくわからないが、その瞬間、瞬間、母に「なる」のである。そして、同じように、状況が変わった瞬間、突然「誘拐犯」、いや、「逃走犯」になるのである。
 あ、そうなのだ。永作博美は「誘拐犯」ではなく「逃走犯」なのだ。母であるためにただ逃げているだけなのだ。逃げる、に目的地はない。目的地はなく、ただ追いかけてくるものから逃げるというその「行為」だけがある。その「瞬間」だけがある。こどもとの暮らしも同じである。目的地はない。そのこどもをどういう人間に育てたい、このこにこんなふうになってもらいたい、という目的、夢はない。ただ一日でも長くいっしょにいたい、いっしょに「いる」、そしていっしょにいるときははに「なる」。そういう瞬間だけを生きている。
 永作博美が生きているのは「瞬間」だけであるから、それを持続した時間のなかでとらえて(持続した時間が抱え込む法や倫理をあてはめて)批判しても意味がない。永作博美の行為を「矛盾」していると指摘しても意味がない。「瞬間」には矛盾は存在しない。その、矛盾しない瞬間の美しさを永作博美は完璧に演じきっている。
 だから、最後。
 井上真央が、記念写真をとった写真館を見つけ出し、昔の写真をみつめ、永作博美が同じようにこの写真館を尋ねてきたと知ったとき--あ、それは映像ではなく、ことばだけで(つまり台詞だけで)語られるのだが、私には、永作博美が田中泯がネガを現像するのを見ている姿が見えたのである。現像液のなかからあらわれる「美しい日」をみつめ、「美しい瞬間」に胸をつまらせる姿が見えたのである。それはスクリーンでは、井上真央が演じているのだが、その井上真央が永作博美そのものに見えたのである。
 そして、その永作博美と井上真央の哀しいくらいに美しい「一体化」があって、ラストシーンの解放感につながっていく。井上真央は永作博美を生きることを、こころにきめる。生まれてくるこどものために、何でもする。生まれてくるこどもに、この世界のすばらしさをすべて見せてやりたいと、心底思う。それはまた、井上真央自身が、この世の中の美しさ、すばらしさをすべて見たいと思い、新しく生きはじめる瞬間でもある。

 人間の再生を描いた傑作である。書きたいことは、まだいろいろあるが、私の書く文章はどうしても「ネタバレ」になるので、ちょっと控えることにする。ともかく、見てください。間違いなく2011年の日本映画の代表作。ベスト1。永作博美は主演女優賞。見逃してはいけません。
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八日目の蝉 (中公文庫)
角田 光代
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コメント (1)
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