和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(10)(「現代詩手帖」2011年05月号)
わからないこと、理不尽なこと--それを和合はていねいにことばにしている。ことばにすることで、わからないことや理不尽なことは解決するわけではないのだが、そのときそのとき、感じたことをことばにしないではいられない。
「行方不明者」のことばのなかに「なる」ということばが出てくる。
「行方不明者」にひとはなりたくてなるわけではないのだが、この「なる」ということばに、私は、不思議な感じがした。どう書けばいいのかわからない何かを感じた。あっ、と思った。
「なる」というのは、変化である。
人間は生きているとき「ある」と「なる」を行き来する。「いる」と「なる」を行き来すると言った方がいいのかもしれない。
いま、和合は、「ここ」に「いる」。そして、ことばを「書く」。そのとき和合は「いる」を超えて、ことばを書くひとに「なる」。
詩を書いているのだから「詩人」に「なる」と言うべきか。
この「なる」は「行方不明者」ということばを主語にするととても悲しくてやりきれないが、ほかのことばを主語にすると、生きることに、すこし明るさが見えてくるような気がする。
きのう書いたことばを別の形で言いなおすと、ひとは大震災に遭って哀しく「なる」、そしていま起きたことに対して怒りを感じるように「なる」(怒るように「なる」)、その怒りをうまく組織化すれば、それは力に「なる」。
「なる」は、いや、そんな抽象的なことではないというか、もっと身近なことでもあるのだ。「なる」とは「自分」が自分でなく「なる」ということ。自分を超えること。そして、その自分を超えることというのは、同時に自分の深みを降りていくこと--ほんとうの自分に「なる」ということでもある。
自分でなくなりながら、自分でなくなることによって、自分に「なる」。
そういうことを、私は、ふと感じた。
「なる」ということばをつかったあと(発見したあと)、和合が書いていることは、そして、和合が和合ではなくなり、そうすることでほんとうの和合に「なる」ということである。
スーパーに並んでいるとき和合は和合のままで「ある」。みんなと品物を奪い合ったときも和合のままで「ある」。ところが、和合は和合のままで「ある」ことができない。自分のために品物を「獲る」ということだけに自分を集中できない。おばあちゃんに出会う。おばあちゃんはうまく品物を手に入れることができない。それを知った瞬間、和合は和合で「ある」ことをやめて、おばあちゃんのために品物を「取ってあげる」人間に「なる」。
和合は最初からひとに気配りをする人間で「ある」。突然親切な人間に「なった」わけててはない--というひとがいると思う。たしかにそうなのだろうが、そうであったとしても、そこには変化がある。「なる」という変化がある。おばあちゃんに出会い、和合はひとに親切な人間に戻るのである。
他人、他者は、ひとを本来のひとに戻してくれる力を持っている。和合はおばあちゃんに出会って、本来の自分に「なる」。「戻る」とはほんとうの自分に「なる」ということなのだ。
これにつづくことば、そこに描かれいる和合の自画像は、とても静かで気持ちがいい。
最初の方に、和合は「静か」ということばを、そういう文脈でつかっていた。私は、ふとそのことを思い出す。私が和合のことばと行為を突然「静か」だと感じたのだが、そのときの「静か」と和合が「静かな夜です」と書いたときのことばはどこかで重なるかもしれないと感じた。「静か」のなかで、沈黙のなかで、和合は多くのひとに出会っているのではないのか。多くのひとの「声にならない声」に身を寄せて、やさしい、親切な人間に「なって」いたのではないのか。
詩は、次のようにつづいていくのだ。
「私は思った」。誰でもが何かを思うのだけれど、この和合の書いている「思った」はなんと美しいのだろう。
他者、他人を思う--そのとき、和合はほんとうの和合に「なる」。ほんとうの和合に戻ることができる。他者につながる--そのとき、ほんとうの和合に「なる」。
そこに、ほんとうに不思議な不思議な「静かさ」がある。
この「静か」な感じは、和合が最初に書いていた「ありがとうございました」にほんとうに似ている。私が、多くのひとの「ありがとう」のことばにふれて驚いたときの印象に似ている。
和合をはじめ大震災の被災者が「ありがとう」というとき、和合たちはだれかとつながっている。だれかを思っている。その思いが「ありがとう」に含まれているのだと感じた。その「静かな」つながりを思うとき、胸が震える。
そして、ここにある「会話」と、それ以前の、
を比較すると、和合の「肉体」のつながりの「静かさ」が、またとても深いものに見えて着る。震災は何も語らない、何を教えたいのか語らない。そういう不気味な「静かさ」、肉体を不安にする静けさ(耳が聞こえない、という不安、震災が語ることばが聞こえないという恐ろしい静けさ)とは違った「触れ合い」のたしかさを感じる。
見知らぬおばあちゃんを、「静かに」思いやり、ことばを交わすことができるやすらぎ。「不安」が解消するわけではないのだが、そこには、ことばが「聞こえる」やすらぎがある。
どんな理由があって命は生まれ、死にに行くのか。何の権利があって、誕生と死滅はあるのか。破壊と再生はもたらされるのか。
行方不明者は「行方不明者届け」が届けられて行方不明者になる。届けられず、行方不明者になれない行方不明者は行方不明者ではないのか。
(39ページ)
わからないこと、理不尽なこと--それを和合はていねいにことばにしている。ことばにすることで、わからないことや理不尽なことは解決するわけではないのだが、そのときそのとき、感じたことをことばにしないではいられない。
「行方不明者」のことばのなかに「なる」ということばが出てくる。
「行方不明者」にひとはなりたくてなるわけではないのだが、この「なる」ということばに、私は、不思議な感じがした。どう書けばいいのかわからない何かを感じた。あっ、と思った。
「なる」というのは、変化である。
人間は生きているとき「ある」と「なる」を行き来する。「いる」と「なる」を行き来すると言った方がいいのかもしれない。
いま、和合は、「ここ」に「いる」。そして、ことばを「書く」。そのとき和合は「いる」を超えて、ことばを書くひとに「なる」。
詩を書いているのだから「詩人」に「なる」と言うべきか。
この「なる」は「行方不明者」ということばを主語にするととても悲しくてやりきれないが、ほかのことばを主語にすると、生きることに、すこし明るさが見えてくるような気がする。
きのう書いたことばを別の形で言いなおすと、ひとは大震災に遭って哀しく「なる」、そしていま起きたことに対して怒りを感じるように「なる」(怒るように「なる」)、その怒りをうまく組織化すれば、それは力に「なる」。
「なる」は、いや、そんな抽象的なことではないというか、もっと身近なことでもあるのだ。「なる」とは「自分」が自分でなく「なる」ということ。自分を超えること。そして、その自分を超えることというのは、同時に自分の深みを降りていくこと--ほんとうの自分に「なる」ということでもある。
自分でなくなりながら、自分でなくなることによって、自分に「なる」。
そういうことを、私は、ふと感じた。
「なる」ということばをつかったあと(発見したあと)、和合が書いていることは、そして、和合が和合ではなくなり、そうすることでほんとうの和合に「なる」ということである。
スーパーに3時間並んだ。入れてもらって、みんなと奪い合うようにして品物を獲った。おばあちゃんが、勢いにのれずにしゃがみこんだ。糖尿病でめまいがしたと言った。のりまきと、白米と、ヨーグルトを取ってあげた。
スーパーに並んでいるとき和合は和合のままで「ある」。みんなと品物を奪い合ったときも和合のままで「ある」。ところが、和合は和合のままで「ある」ことができない。自分のために品物を「獲る」ということだけに自分を集中できない。おばあちゃんに出会う。おばあちゃんはうまく品物を手に入れることができない。それを知った瞬間、和合は和合で「ある」ことをやめて、おばあちゃんのために品物を「取ってあげる」人間に「なる」。
和合は最初からひとに気配りをする人間で「ある」。突然親切な人間に「なった」わけててはない--というひとがいると思う。たしかにそうなのだろうが、そうであったとしても、そこには変化がある。「なる」という変化がある。おばあちゃんに出会い、和合はひとに親切な人間に戻るのである。
他人、他者は、ひとを本来のひとに戻してくれる力を持っている。和合はおばあちゃんに出会って、本来の自分に「なる」。「戻る」とはほんとうの自分に「なる」ということなのだ。
これにつづくことば、そこに描かれいる和合の自画像は、とても静かで気持ちがいい。
放射能が降っています。静かな夜です。
最初の方に、和合は「静か」ということばを、そういう文脈でつかっていた。私は、ふとそのことを思い出す。私が和合のことばと行為を突然「静か」だと感じたのだが、そのときの「静か」と和合が「静かな夜です」と書いたときのことばはどこかで重なるかもしれないと感じた。「静か」のなかで、沈黙のなかで、和合は多くのひとに出会っているのではないのか。多くのひとの「声にならない声」に身を寄せて、やさしい、親切な人間に「なって」いたのではないのか。
詩は、次のようにつづいていくのだ。
おばあちゃんに尋ねた。「ご家族の方をお呼びしますか」。おばあちゃんは一人暮らしなんだ」と教えてくれた。家まで送りましょうか。「家は近いんだ」
翌朝5時に、水をもらうために並んだ。すでに長蛇の列だった。1時間ぐらい経って、みぞれが降ってきた。男の子がお父さんに笑い顔で言った。「お父さんよりも僕の方が先だったね、起きたの」。その可愛らしい顔を見て、私は思った。おばあちゃん、水、大丈夫かな。
「私は思った」。誰でもが何かを思うのだけれど、この和合の書いている「思った」はなんと美しいのだろう。
他者、他人を思う--そのとき、和合はほんとうの和合に「なる」。ほんとうの和合に戻ることができる。他者につながる--そのとき、ほんとうの和合に「なる」。
そこに、ほんとうに不思議な不思議な「静かさ」がある。
この「静か」な感じは、和合が最初に書いていた「ありがとうございました」にほんとうに似ている。私が、多くのひとの「ありがとう」のことばにふれて驚いたときの印象に似ている。
和合をはじめ大震災の被災者が「ありがとう」というとき、和合たちはだれかとつながっている。だれかを思っている。その思いが「ありがとう」に含まれているのだと感じた。その「静かな」つながりを思うとき、胸が震える。
そして、ここにある「会話」と、それ以前の、
この震災は何を私たちに教えたいのか。
を比較すると、和合の「肉体」のつながりの「静かさ」が、またとても深いものに見えて着る。震災は何も語らない、何を教えたいのか語らない。そういう不気味な「静かさ」、肉体を不安にする静けさ(耳が聞こえない、という不安、震災が語ることばが聞こえないという恐ろしい静けさ)とは違った「触れ合い」のたしかさを感じる。
見知らぬおばあちゃんを、「静かに」思いやり、ことばを交わすことができるやすらぎ。「不安」が解消するわけではないのだが、そこには、ことばが「聞こえる」やすらぎがある。
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