渡辺玄英『破れた世界と啼くカナリア』(思潮社、2011年10月25日発行)
渡辺玄英『破れた世界と啼くカナリア』を読みながら考えたことは、渡辺のことば、表現は「意味」を持っているのか、あるいは持っているとみせかけているのか。そのことをつきつめて考える必要があるのか、ないのか、ということである。こんなことを考えるのは、渡辺のことばは、「意味」を持っているのか、いないのかを決定しないまま動いていくように感じられるからである。なにごとかを決定しないでことばを動かしていく--そのときのスピードそのものが渡辺の詩である。
言いなおすと。
渡辺の詩を読みながら、何が書いてあったか、私は思い出せない。そして、私は、思い出せなくていいのだと開き直ってしまう。
ことばは「ひとつ」を(あることばの「意味」を、といってもいいのかもしれない)決定せずに複数化し、その複数を表層として滑っていく--そのスピード、これが渡辺の詩である。
あ、これでは、何もいっていないか。渡辺のことばのスピードにつられて、私のことばも勝手に動いてしまうのかもしれない。
「破れた世界と啼くカナリア」(ユリイカばーじょん)という作品を読み直してみる。ことばを追いかけずに、ことばを私の方に引き寄せてみる。つまり、できる限り「誤読」してみる。
「4H」ということばが持っている「意味」が、「キズ」「うすく」「鋭く」「ひりひり」「跡」「リンカク」「微かに」と繰り返し、「意味」が重ねられる。ほんとうは「ひとつ」でいい。硬質の鉛筆が描く線、の傷のような線に読みとられた「抒情」は、こんなに繰り返されなくてもいい。繊細を強調しなくてもいい。こんなに強調してしまうと、「情緒」(繊細)は上滑りして、先へ先へと進んでゆくだけで、いっこうに「いま/ここ」に踏みとどまらない。根を下ろさない。
「いま/ここ」が何か、そこにある情緒・抒情(あると仮定してだが)とは何か--それを渡辺は探してはいない。むしろ「いま/ここ」にあらゆる「繊細」という「抒情」をまき散らして「いま/ここ」を捨て去ろうとしているように見える。「いま/ここ」を棄てることで、「いま/ここ」に、書いたばかりの抒情を捨て去ろうとしているようにも感じられる。
--それならそれでいいのだろうけれど。
と、思わず私は書いてしまう。書いてしまって、ほんとうにそうかなあ、と考え直してみたりするが、渡辺のことばのスピードに抵抗して「いま/ここ」に踏みとどまるのは、なかなか難しい。
と、思っていると、とんでもないことになる。
詩のつづきである。
「キズの上にキズ」「震え」「ほそい」「三日月」。それは「4H」につながる「抒情」なのか。それを狙って書いているのか。どうも、「重さ」が違う。「遠くの夜空」「三日月」。この重たさは何なのだろうか。
「キズの上にキズが重なり」のこの「重なり」からして奇妙である。だいたいが違うものが重なってこそ、「表層」になるのだ。あるものから、それではないものが浮かびあがり、剥がれるようにして滑空するとき、不思議なスピードが加速する--はずである。
ところが、表層を滑りはじめたと思ったときに、渡辺は急ブレーキをかける。渡辺はブレーキをかけたつもりはないかもしれないが、私は、ここでつまずく。
で、そういうことがあるので、最初に書いたような、変なことを感じてしまう。ほんとうに渡辺のことばのスピードに乗って、どこまでもどこまでも滑っていくなら、私が書いたようなことを私は思いつかないはずである。滑りつづけて、滑っていることに気がつかないはずである。
でも、気づいてしまうのだ。
そして、あ、つまずく前、つまりブレーキがかかる前がよかったなあ、そのスピードに乗って、なんとかもう一度上滑りをしたいなあ、というようことを思うのだ。
まあ、これは、私がことばに期待しているものとは違うものを渡辺は書いているというだけのことである。(裏側から見れば。)
そして、といっていいのかどうかわからないのだが、ここでちょっと疑問に思うことがあるのだ。
私はいま九州に住んでいるが、九州の生まれではない。九州のことばは私のことばとは何か相いれないものをもっている。すっきりとは読めないのである。それは、渡辺のことばに対してもそうなのだ。その奇妙なつまずきの感じが、いま、ここであらわれているのだと思う。
すこし逆戻り(?)する形でいうと。
たとえばタイトルの「破れた世界と啼くカナリア」。これは、どういうことだろう。「破れた世界」と「啼くカナリア」なのか。それとも「破れた世界と啼く」「カナリア」なのか。
確かめる術はないのだが、渡辺は「と」を並列の助詞としてつかっているように思える。その並列の感じが、詩の前半にもある。次々に繰り出される「4H」の抒情をあらわすことば--その並列、並列の加速。そこには書かれていない「と」が次々に駆け抜けている。
で、その駆け抜けるスピードが「啼くカナリア」ということばに出会うと、ぐぐぐっとブレーキがかかる。私の印象では。そして、つまずく。カナリアには鳴く、飛ぶが含まれているから、そこにわざわざ「啼く」があると、とても重たいのだ。
その「重たさ」というか、どうしてここにこういうことばがあるのかわからない--ということが、私は九州のひとのことばを読むと感じるときがあるのだ。
私は「破れた世界と啼く/カナリア」は理解できるけれど、「破れた世界/と/啼くカナリア」は想像できない。「破れた世界」と並列するなら、単に「カナリア」、つまり「破れた世界/と/カナリア」ということばになる。「啼く」はない。「啼く」はなくてもカナリアは鳴く。そして飛ぶ。
--そういう違いというが、ずれのようなものが、どうも、私と渡辺のあいだに入り込む。これは私の一方的な「誤解」であって、渡辺は「壊れた世界と啼く/カナリア」と書いていると主張するかもしれないけれど……。
あ、変なことを書いてしまったね。
まあ、これからどう私のことばが動いていくか私にはわからないけれど、先に、渡辺のことばに対する「違和感」を言ってしまっておきたかった--というのが私の本音。
言っておかないと、ことばが動いてくれない。
表層を滑っているようで、渡辺は、ほんとうは「重たい」ものが好きなのかもしれない、と私は思うのだ。表層を滑って見せるのが、ほんとうの渡辺なのか、それはみせかけだけなのか、それをつきつめて考える必要があるのか、ないのか。
まあ、そんなことがちらちら頭をよぎるのだが……。
「4H」の「芯」「繊細」「折れる」と、ことばは必死になって「抒情」を上滑りさせようとするけれど。
「世界」と「セカイ」が並列する。それは並列というより「対峙」かな? 何かとってもつらい感じがする。私のようにノーテンキな人間には、その「対峙」が苦しい。滑っていってほしいのに滑っていかない「表層」のありようが苦しい。
ねばねばしている。
ほら、出た。幽霊じゃないけれど、私はそう思ってしまう。思わず声が出てしまう。
「だれもいない」のではなく、「きみがいない」。だから「だれもいない」。「きみがいない」から「だれもいない」。「きみ」さえいれば、「すべて(だれもが)」いるのだ。
こんなべたーっとした情緒の動き方--これに私はつまずいてしまう。
「ぼくたち」か。「だれもいない」「きみもいない」はずなのに、こころはいつでも「ぼくたち」と「きみ」を含んで「セカイ」を考えてしまう。「きみ」を拒絶して「セカイ」を滑っていくことができない。
これが、ほんとうは渡辺の本質、本能、かな、と私は思うのだが……。
複数が重なる--そのとき磁石の同極どうしだと反発し、リニアカーのように滑空する。けれど、それが同極をよそおった反対の極(ぼくときみ)だったら、どうなる? 動きが突然ストップするね。
これは、もう先へ先へと上滑りするではなく、まったく逆に、「明日」ではなく「昨日」へ、それよりさらに「過去」へ沈んでいく。「笑います(笑ってみます(笑ってみるために」というのは、ことばの「複製」ではなく、むしろことばを引き剥がし、「こころ」へ沈んでいく意識だなあ。
だから「明日」ということばのあとに「おわり(明日が行き着く果て)」ではなく、まったく逆の「はじまり」ということばが出てくる。
どんなに軽快に装っていても、詩は、重い「真実」(真理)へむけて動いている--と言っていいなら、そう言えばいいのかもしれないけれど。
ちょっと重いたことを書きすぎたかなあ。
渡辺玄英『破れた世界と啼くカナリア』を読みながら考えたことは、渡辺のことば、表現は「意味」を持っているのか、あるいは持っているとみせかけているのか。そのことをつきつめて考える必要があるのか、ないのか、ということである。こんなことを考えるのは、渡辺のことばは、「意味」を持っているのか、いないのかを決定しないまま動いていくように感じられるからである。なにごとかを決定しないでことばを動かしていく--そのときのスピードそのものが渡辺の詩である。
言いなおすと。
渡辺の詩を読みながら、何が書いてあったか、私は思い出せない。そして、私は、思い出せなくていいのだと開き直ってしまう。
ことばは「ひとつ」を(あることばの「意味」を、といってもいいのかもしれない)決定せずに複数化し、その複数を表層として滑っていく--そのスピード、これが渡辺の詩である。
あ、これでは、何もいっていないか。渡辺のことばのスピードにつられて、私のことばも勝手に動いてしまうのかもしれない。
「破れた世界と啼くカナリア」(ユリイカばーじょん)という作品を読み直してみる。ことばを追いかけずに、ことばを私の方に引き寄せてみる。つまり、できる限り「誤読」してみる。
4Hのエンピツでセカイを描いて
消しては描くことを繰り返している
(セカイはキズのようだ
こんなにもうすく鋭く
空気はひりひりと流れ
(洪水の(跡のように
リンカクが微かに(残っている
「4H」ということばが持っている「意味」が、「キズ」「うすく」「鋭く」「ひりひり」「跡」「リンカク」「微かに」と繰り返し、「意味」が重ねられる。ほんとうは「ひとつ」でいい。硬質の鉛筆が描く線、の傷のような線に読みとられた「抒情」は、こんなに繰り返されなくてもいい。繊細を強調しなくてもいい。こんなに強調してしまうと、「情緒」(繊細)は上滑りして、先へ先へと進んでゆくだけで、いっこうに「いま/ここ」に踏みとどまらない。根を下ろさない。
「いま/ここ」が何か、そこにある情緒・抒情(あると仮定してだが)とは何か--それを渡辺は探してはいない。むしろ「いま/ここ」にあらゆる「繊細」という「抒情」をまき散らして「いま/ここ」を捨て去ろうとしているように見える。「いま/ここ」を棄てることで、「いま/ここ」に、書いたばかりの抒情を捨て去ろうとしているようにも感じられる。
--それならそれでいいのだろうけれど。
と、思わず私は書いてしまう。書いてしまって、ほんとうにそうかなあ、と考え直してみたりするが、渡辺のことばのスピードに抵抗して「いま/ここ」に踏みとどまるのは、なかなか難しい。
と、思っていると、とんでもないことになる。
詩のつづきである。
キズの上にキズが重なり
風景は震えがとまらない
(ここはどこなのか誰にもわからない(だから
夜
一人でたたずむあなたのために
遠くの夜空にほそい三日月を描いてあげよう
「キズの上にキズ」「震え」「ほそい」「三日月」。それは「4H」につながる「抒情」なのか。それを狙って書いているのか。どうも、「重さ」が違う。「遠くの夜空」「三日月」。この重たさは何なのだろうか。
「キズの上にキズが重なり」のこの「重なり」からして奇妙である。だいたいが違うものが重なってこそ、「表層」になるのだ。あるものから、それではないものが浮かびあがり、剥がれるようにして滑空するとき、不思議なスピードが加速する--はずである。
ところが、表層を滑りはじめたと思ったときに、渡辺は急ブレーキをかける。渡辺はブレーキをかけたつもりはないかもしれないが、私は、ここでつまずく。
で、そういうことがあるので、最初に書いたような、変なことを感じてしまう。ほんとうに渡辺のことばのスピードに乗って、どこまでもどこまでも滑っていくなら、私が書いたようなことを私は思いつかないはずである。滑りつづけて、滑っていることに気がつかないはずである。
でも、気づいてしまうのだ。
そして、あ、つまずく前、つまりブレーキがかかる前がよかったなあ、そのスピードに乗って、なんとかもう一度上滑りをしたいなあ、というようことを思うのだ。
まあ、これは、私がことばに期待しているものとは違うものを渡辺は書いているというだけのことである。(裏側から見れば。)
そして、といっていいのかどうかわからないのだが、ここでちょっと疑問に思うことがあるのだ。
私はいま九州に住んでいるが、九州の生まれではない。九州のことばは私のことばとは何か相いれないものをもっている。すっきりとは読めないのである。それは、渡辺のことばに対してもそうなのだ。その奇妙なつまずきの感じが、いま、ここであらわれているのだと思う。
すこし逆戻り(?)する形でいうと。
たとえばタイトルの「破れた世界と啼くカナリア」。これは、どういうことだろう。「破れた世界」と「啼くカナリア」なのか。それとも「破れた世界と啼く」「カナリア」なのか。
確かめる術はないのだが、渡辺は「と」を並列の助詞としてつかっているように思える。その並列の感じが、詩の前半にもある。次々に繰り出される「4H」の抒情をあらわすことば--その並列、並列の加速。そこには書かれていない「と」が次々に駆け抜けている。
で、その駆け抜けるスピードが「啼くカナリア」ということばに出会うと、ぐぐぐっとブレーキがかかる。私の印象では。そして、つまずく。カナリアには鳴く、飛ぶが含まれているから、そこにわざわざ「啼く」があると、とても重たいのだ。
その「重たさ」というか、どうしてここにこういうことばがあるのかわからない--ということが、私は九州のひとのことばを読むと感じるときがあるのだ。
私は「破れた世界と啼く/カナリア」は理解できるけれど、「破れた世界/と/啼くカナリア」は想像できない。「破れた世界」と並列するなら、単に「カナリア」、つまり「破れた世界/と/カナリア」ということばになる。「啼く」はない。「啼く」はなくてもカナリアは鳴く。そして飛ぶ。
--そういう違いというが、ずれのようなものが、どうも、私と渡辺のあいだに入り込む。これは私の一方的な「誤解」であって、渡辺は「壊れた世界と啼く/カナリア」と書いていると主張するかもしれないけれど……。
あ、変なことを書いてしまったね。
まあ、これからどう私のことばが動いていくか私にはわからないけれど、先に、渡辺のことばに対する「違和感」を言ってしまっておきたかった--というのが私の本音。
言っておかないと、ことばが動いてくれない。
表層を滑っているようで、渡辺は、ほんとうは「重たい」ものが好きなのかもしれない、と私は思うのだ。表層を滑って見せるのが、ほんとうの渡辺なのか、それはみせかけだけなのか、それをつきつめて考える必要があるのか、ないのか。
まあ、そんなことがちらちら頭をよぎるのだが……。
芯(ココロが微細に(折れていって
(世界なんてどこにもなくって
ここが広がっているのは
花火が逝ったあとの夜空のセカイです。
「4H」の「芯」「繊細」「折れる」と、ことばは必死になって「抒情」を上滑りさせようとするけれど。
「世界」と「セカイ」が並列する。それは並列というより「対峙」かな? 何かとってもつらい感じがする。私のようにノーテンキな人間には、その「対峙」が苦しい。滑っていってほしいのに滑っていかない「表層」のありようが苦しい。
ねばねばしている。
だれもいなくて(きみもいなくて
ほら、出た。幽霊じゃないけれど、私はそう思ってしまう。思わず声が出てしまう。
「だれもいない」のではなく、「きみがいない」。だから「だれもいない」。「きみがいない」から「だれもいない」。「きみ」さえいれば、「すべて(だれもが)」いるのだ。
こんなべたーっとした情緒の動き方--これに私はつまずいてしまう。
たくさんのことが省略されて(狂いつづけて
コピーするほど劣化するコピーのように
くりかえし現われるぼくたちは
しだいに違う人になっていく(返事はない
「ぼくたち」か。「だれもいない」「きみもいない」はずなのに、こころはいつでも「ぼくたち」と「きみ」を含んで「セカイ」を考えてしまう。「きみ」を拒絶して「セカイ」を滑っていくことができない。
これが、ほんとうは渡辺の本質、本能、かな、と私は思うのだが……。
複数が重なる--そのとき磁石の同極どうしだと反発し、リニアカーのように滑空する。けれど、それが同極をよそおった反対の極(ぼくときみ)だったら、どうなる? 動きが突然ストップするね。
すこし笑います(笑ってみます(笑ってみるために
笑っているように見えますか?
(歪んでうつくしい(麻痺した複製の明日(そして明日
はじまりの姿なんて誰にもわからないから
(ただキズのように硬くひきつれて
これは、もう先へ先へと上滑りするではなく、まったく逆に、「明日」ではなく「昨日」へ、それよりさらに「過去」へ沈んでいく。「笑います(笑ってみます(笑ってみるために」というのは、ことばの「複製」ではなく、むしろことばを引き剥がし、「こころ」へ沈んでいく意識だなあ。
だから「明日」ということばのあとに「おわり(明日が行き着く果て)」ではなく、まったく逆の「はじまり」ということばが出てくる。
どんなに軽快に装っていても、詩は、重い「真実」(真理)へむけて動いている--と言っていいなら、そう言えばいいのかもしれないけれど。
ちょっと重いたことを書きすぎたかなあ。
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