詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

山崎純治『通勤どんぢゃら』

2011-11-26 23:59:59 | 詩集
山崎純治『通勤どんぢゃら』(思潮社、2011年09月05日発行)

 山崎純治『通勤どんぢゃら』はタイトルが象徴しているように、「通勤(電車?)」が主要な「内容」である。車内風景、それからつながってゆく「会社」の風景。ことばが「流通言語」のまま淀んでいる。あ、これは、と思うときもあるのだが、その肝心なときにことばが動いていかない。

べったり沈んだ屋根の群れ
高速道路が伸びるずっと向こうまで
隙間なく埋め尽くし
そこから這い上がってくる男たちの
朝は鈍く重たい
自動ドアが軋んでようやく閉まると
超過密の無人称空間で
初めて一人称になる
ネクタイを締めて立つ
妙になま温かいかたちとなり
ニンニク臭い息を吐きかけられ
無遠慮に押し付けてくる腰や肩が
どこまでも狭くするから
身を委ねるだけ
                                「リピート」

 私は満員電車・バスが苦手で、歩くか自転車で通勤しているので、山崎の書いていることが「リアル」かどうかはっきりとは判断できないのだが、まし、そういう感じだろうなあと思う。この知らないことなのに、そういうものだろうなあと思ってしまうのは、ここにかかれていることばが「通勤電車」を語るときに常用される「流通言語」だからである。私は現実を知らない。けれど、多くのひとが語る「通勤電車」にまつわることばと山崎のことばのあいだには「差異」がほとんどない。
 唯一、

超過密の無人称空間で
初めて一人称になる

 ここが、不思議である。人込みのなかで、「ひと」であることを許されず、ただ「こんでいる」状態を構成するだけの存在。それが「超過密の無人称空間」ということだと思う。そこでは誰も、そこにいる「ひと」のことを配慮しない。--それなのに、その「超過密の無人称空間」で「一人称になる」。「一人称」とは「私」。「私」に帰る、と山崎は書いているのだと思うが、
 どうして?
 どうしてそんな超過密な状態、人間が人間扱いされない空間で「私」を自覚するのだろうか。
 ここには何かしら矛盾--つまり、山崎のことばでしか語りえない「真実」があると思うのだが、それを追っていくことばがどうも「真実」っぽくない。「真実」にせまっていく迫力がない。
 きのう取り上げた時里二郎の詩に、

ことばになる萌芽のその芯に含んでいるような《声》、ことばを胚胎した《声》、

 ということばがあった。そのことばが何を指し示しているのか、私は私のことばで言いなおすことはできない。つまり、ほんとうに理解しているとは言えない。けれど、そのわからないままの時里のことばのなかで、私はかってに自分の思っていることを「捏造」できる。時里を置き去りにして、自分で何かを考えることができる。そのとき考えたこと、考えることによって動いた私のことばは「真実ではない」かもしれない。でも、少なくとも、いままで存在しなかった何か、ではある。
 山崎のことばを読んでいても、その「いままで存在しなかった」なにかが動きださない。あらわれて来ない。

ニンニク臭い息を吐きかけられ
無遠慮に押し付けてくる腰や肩が
どこまでも狭くするから

 これは簡単に想像がついてしまう。ニンニク臭い息はいやだねえ。触れるを通り越して圧迫してくる他人の肉体はいやだねえ。--というのは、もう語られ尽くしている。
 「一人称」はどこへ行ってしまったのか。
 「初めて」一人称になったのに、すぐ消えてしまっては、それが「一人称」であるかどうか、判断しようがない。

 「通勤電車」と関係があるのかないのかよくわからないが、「半島」という詩はおもしろかった。

毛の生えた耳が
いきなり突き出してくる
(半島だ)
がさがさした祖父の感触
幼い頃聞かされた記憶に
ぽつんと取り残され
そうじゃて、
塩生植物の砂浜で
膝を抱え
ぎざぎざの海岸線を
ひとりなぞっていた

 「通勤電車」に関係があるとしたら、ある拍子に、だれかの耳が目の前にあらわれ、その耳から祖父を思い出したということだろう。それも漠然と祖父を思い出したのではなく、記憶を語る祖父を、祖父がどこでその記憶を語ったかということまで、具体的に思い出したということだろう。その「思い出」へ、ことばが動いてゆく。
 「そうじゃて、」が何を肯定しているのか私(読者)にはわからない。けれど、祖父が何かを肯定するとき「そうじゃて、」ということがわかる。「声」がわかる。「声」というのは、耳と同じように肉体である。「がさがさ」という感触も「触覚」という肉体である。「膝を抱え」と肉体の名称も出てくる。そこに、私の知らない人間(祖父)が出現してくる。それも、山崎の聞いた「声」の調子そのものとして出現してくる。
 こういう感じはいいなあ。

もう返してくれないよね、
耳の祖父を
じゃがのう、
無造作に素描された等高線は
昔の声を刻みながら
勝手に縮んでゆき
ある日
水っ鼻をすすり上げながら
にじりよってくる
(半島だ)

 どんな記憶が語られたのか、私(読者)にはわからない。けれど、祖父が「そうじゃて、」とあることがらを肯定し、他方で「じゃがのう、」と意見を留保したということがわかる。肯定と留保のなかに、祖父がいる。そしてそれを「声」として聞き取った山崎がいる。「口調」として聞き取った山崎がいる。
 そのとき、山崎の、祖父のことばを聞いている耳と、祖父そのものの耳が何か重なって感じられる。「肉体」として「ひとつ」になっているような感じがする。
 この詩には書かれていないことが非常に多い。情報量は非常に少ない。けれど、その少なさのなかには「肉体」がはっきり存在している。
 こういう「肉体」が「リピート」の「一人称」にも加わると詩がおもしろくなると思う。





通勤どんぢゃら
山崎 純治
思潮社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする