山之内まつ子『徒花』(思潮社、2011年09月25日発行)
山之内まつ子『徒花』を開いて、巻頭の作品を読んだとき、瞬間的に詩のことばではないのではないか、と思った。
ここには比喩がある。「あまたのペン先が/あやめあいながら」というのは小説にはない比喩かもしれない。ことばとしては、ない、かもしれない。けれど、ことばの運動の形としてはありそうな気がする。
「コーヒーの苦みに/より多くの野性が/注がれる」になると、私には小説の文体そのものに見える。ここに書かれているのは「いま」ではなく、「過去」の説明である。「いま」を「過去」によって説明する文体である。--つまり、コーヒーが苦いのは、多くの野性が注がれているから(注がれたから)という具合に、私には読めるのだが、こんな具合に「過去」に原因があり、その結果として「いま」があるということばの動き方は、私には小説(散文)の文体に感じられるのである。
「意味」が「過去」によって、つまり「時間」の蓄積によってつくられる。
小説にもいろいろなスタイルがあるから一概には言えないのだけれど、山之内の「散文体」は、「いま」を動かすに当たって、何かが必要になったら、実は「過去」にこういうことがあったと補うような形で進む文体に見える。一般的な小説は、「過去」をととのえることによって、「いま」の時間をスムーズに流れさせる。
でも、「小説」と違って、山之内の時間、というか、ことばは先へは動いていかない。そういう意味では、山之内の書いているのは小説とは違うのかもしれないが、どうも「過去」と「いま」の関係が小説っぽいのである。
書き直してみる。
山之内は「いま」を明確にするために「過去」を描く。そのとき、山之内は「過去」を複数化する。「過去」をととのえて、時間を押す、押し進める--のではなく、「いま」を「過去」へ誘い込み、「いま」があるのは、こういう「過去」があるためだと、逆に「過去」へ進んでゆく感じがする。
「いま」を「過去」による因果関係でとらえるという点では「小説」っぽいのだが、因果関係に夢中になってしまって、「いま」を「未来」へ押し進めるのではなく、逆に「過去」へ引きずり込む。よく言えば「過去」を耕す--ということになるのかもしれないが……。
うーん。
そうでもない。
「過去」は耕せば耕すほど「未来」へとトンネルを掘るみたいに、変な具合に時間を突き抜けるものだが、山之内は「過去」にとどまる。「過去」が「いま」のように、ことばとして踊りだす。そういう印象がある。
「ピアス」とか「マスカラ」とか「アイライン」とか、アクセサリーや化粧を題材とした作品には、そういう印象が非常に強い。
「囲い」という作品。
「アイラインとは一死をとまどう苦笑である」が「いま」。その「いま」の「過去」はどうなっているか--男がいる。男がいて、女の存在がはっきりする。「湿地帯」というのは「眼」の比喩なのかもしれない。睫毛はきっと湿地帯にはえている草である。まあ、そんな比喩はどうでもよくて--その湿地帯は「初期化」によって、さらに「過去」へとすすむ。このことばの動きが「過去」へ、「過去」へと進む山之内の性質である。「太古」ということばが出てくるのは、山之内にとっては必然である。「過去」はどんどん追いかけていけば「太古」になる。
このあと、詩は、「いま」を
と再定義して、また
という具合に「過去」が「複数化」されていく。「複数化」の集合体として「囲い」という詩は成立する。
「化骨」には、もっと端的に「過去」ということばがつかわれている。
この文体の確立--というか、「方法」はわからないわけではないが。
でも……このことばの動き、「過去」の描き方は、なんとも「図式的」な感じがする。そこに「肉体」を感じることができない。山之内の「肉体」の「過去」ではなく、そこには、なんといえばいいのだろうか、「歴史」として書かれた「過去」(教科書の過去)しかないような気がする。
どうも、私には納得しかねるものがある。だから詩ではなく小説の文体--などと、言いがかりをつけているのかもしれない。
アクセサリーや化粧について書いているときは、そんなものかもしれないなあ、と思わないこともないけれど、「徒花」のように、「主役」が「男」になると、その欠点が如実になる。
ここには、まず男の「いま」が描かれる。社会の底辺となって働いている男。「いま」、猫の肉球のあいだで一瞬のやすらぎを感じている男の「過去」とは、ようするに底辺で働くということである。
これが 2連目になると、
男は、資本の「管理下」に生きている。それが男の「過去」。冷たく管理された組織で働いている。
3連目。
「仕事場」ということばが生な形ででてきてしまう。それをどうとらえるかという「精神」の「過去」まで登場してしまう。「刮眼の 冷淡さが決めることだ」なんて、非人間的な、私から言わせれば「資本の思想」さえ出てくる。
あ、「男」の「過去」は、こんな風に「図式化」されるのか、とげんなりする。
4連目。
「何千回も何万回も」などと簡単に言われたくないなあ。男の私は、そう思う。だいたい「何千回」と「何万回」の違いを、山之内は「肉体」で知っているのだろうか。「何千回」が「何万回」になるまでの「時間」について「肉体」で何か知っているのだろうか。「木目の裂ける音だけが 愉しげにひびいてくる」とは、何の「逆説」だろう。
最後の 1行。
「ゆえに」か。「過去」と「いま」の因果が「ゆえに」でくくられるのだけれど、この「頭脳」の論理には、いやあなものがある。
山之内のことばは、詩のことばというより小説のことば--といってしまったが、小説に悪いことをしてしまった気がするなあ。
小説は、こんなふうに「頭」では書かれてはいない。ことばを動かしつづけるには、どうしても「肉体」で書かないと、行き詰まる。
山之内は「小説」の書き方から、「過去」のつかい方を巧みに消化しているだけなのかもしれない。
山之内まつ子『徒花』を開いて、巻頭の作品を読んだとき、瞬間的に詩のことばではないのではないか、と思った。
わたしを素描し損ねた
あまたのペン先が
あやめあいながら
地上に刺さったかのようだ
穿たれた土が呻き声をあげ
痛みをわけあう雑草との
抱擁が谺するとき
コーヒーの苦みに
より多くの野性が
注がれる
ここには比喩がある。「あまたのペン先が/あやめあいながら」というのは小説にはない比喩かもしれない。ことばとしては、ない、かもしれない。けれど、ことばの運動の形としてはありそうな気がする。
「コーヒーの苦みに/より多くの野性が/注がれる」になると、私には小説の文体そのものに見える。ここに書かれているのは「いま」ではなく、「過去」の説明である。「いま」を「過去」によって説明する文体である。--つまり、コーヒーが苦いのは、多くの野性が注がれているから(注がれたから)という具合に、私には読めるのだが、こんな具合に「過去」に原因があり、その結果として「いま」があるということばの動き方は、私には小説(散文)の文体に感じられるのである。
「意味」が「過去」によって、つまり「時間」の蓄積によってつくられる。
小説にもいろいろなスタイルがあるから一概には言えないのだけれど、山之内の「散文体」は、「いま」を動かすに当たって、何かが必要になったら、実は「過去」にこういうことがあったと補うような形で進む文体に見える。一般的な小説は、「過去」をととのえることによって、「いま」の時間をスムーズに流れさせる。
でも、「小説」と違って、山之内の時間、というか、ことばは先へは動いていかない。そういう意味では、山之内の書いているのは小説とは違うのかもしれないが、どうも「過去」と「いま」の関係が小説っぽいのである。
書き直してみる。
山之内は「いま」を明確にするために「過去」を描く。そのとき、山之内は「過去」を複数化する。「過去」をととのえて、時間を押す、押し進める--のではなく、「いま」を「過去」へ誘い込み、「いま」があるのは、こういう「過去」があるためだと、逆に「過去」へ進んでゆく感じがする。
「いま」を「過去」による因果関係でとらえるという点では「小説」っぽいのだが、因果関係に夢中になってしまって、「いま」を「未来」へ押し進めるのではなく、逆に「過去」へ引きずり込む。よく言えば「過去」を耕す--ということになるのかもしれないが……。
うーん。
そうでもない。
「過去」は耕せば耕すほど「未来」へとトンネルを掘るみたいに、変な具合に時間を突き抜けるものだが、山之内は「過去」にとどまる。「過去」が「いま」のように、ことばとして踊りだす。そういう印象がある。
「ピアス」とか「マスカラ」とか「アイライン」とか、アクセサリーや化粧を題材とした作品には、そういう印象が非常に強い。
「囲い」という作品。
アイラインとは一死をとまどう苦笑である
る、る、と心があそぶとき 男はことばの根をうえたがる それら
はうす曇りの湿地帯に ふぞろいの切り株のように 青く匂いたつ
湿地帯が初期化されると 根こそぎことばは伐られ やがて晴れ
間をついて うっすらと女の貌があらわれる その眼のほとりに全
き線を描くことはできない 太古より女は湿地帯を詰問する
「アイラインとは一死をとまどう苦笑である」が「いま」。その「いま」の「過去」はどうなっているか--男がいる。男がいて、女の存在がはっきりする。「湿地帯」というのは「眼」の比喩なのかもしれない。睫毛はきっと湿地帯にはえている草である。まあ、そんな比喩はどうでもよくて--その湿地帯は「初期化」によって、さらに「過去」へとすすむ。このことばの動きが「過去」へ、「過去」へと進む山之内の性質である。「太古」ということばが出てくるのは、山之内にとっては必然である。「過去」はどんどん追いかけていけば「太古」になる。
このあと、詩は、「いま」を
アイラインは 古文書の眩しさにも適う
と再定義して、また
エジプト文明と日本は時代を漉かして 恋の文字を交換し合う
という具合に「過去」が「複数化」されていく。「複数化」の集合体として「囲い」という詩は成立する。
「化骨」には、もっと端的に「過去」ということばがつかわれている。
ペンダントとは思慕の重力である
殴るのなら男の眦を そこは嘘にうずくまられた過去か
らの 進化/退化から延びる歪線 殴りつけられて変容
するふるえから 昇りくる太陽の義肢を抜き出す
この文体の確立--というか、「方法」はわからないわけではないが。
でも……このことばの動き、「過去」の描き方は、なんとも「図式的」な感じがする。そこに「肉体」を感じることができない。山之内の「肉体」の「過去」ではなく、そこには、なんといえばいいのだろうか、「歴史」として書かれた「過去」(教科書の過去)しかないような気がする。
どうも、私には納得しかねるものがある。だから詩ではなく小説の文体--などと、言いがかりをつけているのかもしれない。
アクセサリーや化粧について書いているときは、そんなものかもしれないなあ、と思わないこともないけれど、「徒花」のように、「主役」が「男」になると、その欠点が如実になる。
猫の肉球を押し広げ その深淵に溺れてから 男ははじめて立ちあ
がる 濡れて乾かぬ杭として 社会の不安の地下にもぐり 地固め
をするのが仕事だ
ここには、まず男の「いま」が描かれる。社会の底辺となって働いている男。「いま」、猫の肉球のあいだで一瞬のやすらぎを感じている男の「過去」とは、ようするに底辺で働くということである。
これが 2連目になると、
管理下の男には家もなく その低体温ゆえに 抱き合った蛇ですら
も凍りつくだろう
男は、資本の「管理下」に生きている。それが男の「過去」。冷たく管理された組織で働いている。
3連目。
男の仕事場は広い と同時に狭小でもある それは地下を覗く刮眼
の 冷淡さが決めることだ
「仕事場」ということばが生な形ででてきてしまう。それをどうとらえるかという「精神」の「過去」まで登場してしまう。「刮眼の 冷淡さが決めることだ」なんて、非人間的な、私から言わせれば「資本の思想」さえ出てくる。
あ、「男」の「過去」は、こんな風に「図式化」されるのか、とげんなりする。
4連目。
何千回も何万回も 地下は徒花のようにむごくなり 肉球という蜜
をたたえた深淵は とても乾きたがって寒気だつ 杭からは木目の
裂ける音だけが 愉しげにひびいてくる
「何千回も何万回も」などと簡単に言われたくないなあ。男の私は、そう思う。だいたい「何千回」と「何万回」の違いを、山之内は「肉体」で知っているのだろうか。「何千回」が「何万回」になるまでの「時間」について「肉体」で何か知っているのだろうか。「木目の裂ける音だけが 愉しげにひびいてくる」とは、何の「逆説」だろう。
最後の 1行。
ゆえに世界はいつも 訓戒をあくびする
「ゆえに」か。「過去」と「いま」の因果が「ゆえに」でくくられるのだけれど、この「頭脳」の論理には、いやあなものがある。
山之内のことばは、詩のことばというより小説のことば--といってしまったが、小説に悪いことをしてしまった気がするなあ。
小説は、こんなふうに「頭」では書かれてはいない。ことばを動かしつづけるには、どうしても「肉体」で書かないと、行き詰まる。
山之内は「小説」の書き方から、「過去」のつかい方を巧みに消化しているだけなのかもしれない。
徒花 | |
山之内 まつ子 | |
思潮社 |