豊原清明「草原の主人公」ほか(「白黒目」32、2011年11月発行)
豊原清明「草原の主人公」は「自主製作短編映画シナリオ」シリーズである。
というのは、豊原清明が画面にでてきて「声」で言ってしまうと情報が増えてしまう。「文字」だけであることが、観客(この映画を見ていないけれど、私は映画を見ているつもりで読んでいる)を、観客の日常から引き剥がす。情報の少なさが、観客の「過去」を結晶化させる。誰にでも、「家族の不和」というものを体験した経験がある。そのときのことを思い出させる。
父の絵と顔写真の対比へと映像が切り替わるとき、主観そのものである絵、あるいは豊原清明の肉体そのもの(具体)である絵と、写真というカメラのレンズの客観のが出会い、そこに一種の「不和」--つまり、「家族の崩壊」の悲しみが浮かび上がる。それは映像的には父の顔の「ずれ」なのだが、そのとき「悲しみ」は父の悲しみであり、また豊原清明の悲しみである。「ずれ」のなかで、父と豊原清明が重なり、同時に「ずれ」る。今回の「白黒目」には豊原清明の描いた幾枚かの絵の写真も掲載されていて、あ、この絵の色と線がスクリーンでも広がるのだなと感じられ、「ずれ」が目に浮かぶ感じがする。私は豊原清明の父の顔を知らないのだが……。
このあと、肉体と絵と写真が、声と文字と交錯しながら動いていく。
「過去」の出し方が(描き方)が、とてもいい。
少女の顔の絵、十七年前の初恋の少女。絵は、肉体ではない。絵の顔は、少女の肉体ではなく、豊原清明の「記憶の肉体」である。そこには少女というよりも、豊原清明がいる。少女の顔を、その形、色、線にするときの豊原清明の肉体の運動(手の動き、視線の動き)そのものである。
僕の顔。/複雑な表情。--これは、「いま」の肉体。「特権」としての「肉体」。どんな「肉体」も「過去」をもっている。「複雑な表情」とは「複雑な顔」である。「複雑」は「過去」が「いま」へ噴出してくるからである。役者の肉体がスクリーンに登場した瞬間に、そこには観客(私)ではない「過去」、役者の「過去」が動く。「過去」があると感じさせる。「肉体」は「過去」をもっていて、それが「いま」へと噴出してくる。その噴出の仕方は「複雑」であって、簡単には言えない。
そういう映像を経て、少女の絵(声)、豊原清明のことば(メモ、文字)、父の顔(現実/声)が一気に出会う。
父は「どうでもええやないか。」とだけ言うのだが、その「どうでもええやないか。」の「声」のなかに、誰もが知っている「過去」がある。誰もが知りすぎている「過去」がある。誰もが知りすぎていて、もうことばとしては説明できない「肉体そのものになってしまった過去」がある。
それは、「ながしの蛇口の流れる水」のようなものである。見たことあるでしょ? 激しく流れる水も、ゆるんだ蛇口の水も……。どんな勢い、どんな色(光)で流れているか--その映像を見れば誰にでも、それがどんな状態かわかる。説明の必要がない。それと同じように、現実の顔のアップがあり、生の声で「どうでもええやないか。」がことばとして動くとき、私たちは、そのことばの向こうに「過去」を見る。繰り返し見てきた「時間」そのものを見る。
もう一本、「ジネンムービー・後列」も豊原清明と父を描いている。ここに登場する「過去」はとてもおだやかで、豊原清明の美しい夢がそのまま現実になっている。
「○ 父の誕生日にあげた絵を撮る」という部分は、正式(?)の脚本なら、「父の誕生日にあげた絵」なのかもしれない。「を撮る」は、ないかもしれない。「……を撮る」というのは映画の「肉体」だからである。「基本」だからである。撮らなければ映画にはならない。
そういう「不必要」なことばが動いているから、脚本でありながら詩になっているのだとも思う。
豊原清明「草原の主人公」は「自主製作短編映画シナリオ」シリーズである。
○ タイトル「草原の主人公」
監督・脚・絵 豊原清明
撮影・出演 豊原宏俊
○ 小机に並べられた、家族写真
メモ「崩壊した家族を再生させたい!」
○ 父の絵
父の顔写真と並べる。
という具合にはじまる。テーマというのだろうか、描きたいことが素早く出てくる。映画としての情報量はとても少ない。
メモ「崩壊した家族を再生させたい!」
というのは、豊原清明が画面にでてきて「声」で言ってしまうと情報が増えてしまう。「文字」だけであることが、観客(この映画を見ていないけれど、私は映画を見ているつもりで読んでいる)を、観客の日常から引き剥がす。情報の少なさが、観客の「過去」を結晶化させる。誰にでも、「家族の不和」というものを体験した経験がある。そのときのことを思い出させる。
父の絵と顔写真の対比へと映像が切り替わるとき、主観そのものである絵、あるいは豊原清明の肉体そのもの(具体)である絵と、写真というカメラのレンズの客観のが出会い、そこに一種の「不和」--つまり、「家族の崩壊」の悲しみが浮かび上がる。それは映像的には父の顔の「ずれ」なのだが、そのとき「悲しみ」は父の悲しみであり、また豊原清明の悲しみである。「ずれ」のなかで、父と豊原清明が重なり、同時に「ずれ」る。今回の「白黒目」には豊原清明の描いた幾枚かの絵の写真も掲載されていて、あ、この絵の色と線がスクリーンでも広がるのだなと感じられ、「ずれ」が目に浮かぶ感じがする。私は豊原清明の父の顔を知らないのだが……。
このあと、肉体と絵と写真が、声と文字と交錯しながら動いていく。
○ 祈る、手。
○ 絵に書いた、少女の顔。
○ 十七年前の、初恋の少女の落書き。
○ 教会の画像
○ 僕の顔。
複雑な表情。
○ 写真の山となった、小机。
○ ながしの蛇口の流れる水。
○ 少女の絵が言う。
声「なにしてるんですか?」
○ メモ
文字「あんたの家族は仲ええか?」
○ 少女たちの背中・声
声「仲は好いけど、喧嘩もします。」
○ 父の顔
父「どうでもええやないか。」
「過去」の出し方が(描き方)が、とてもいい。
少女の顔の絵、十七年前の初恋の少女。絵は、肉体ではない。絵の顔は、少女の肉体ではなく、豊原清明の「記憶の肉体」である。そこには少女というよりも、豊原清明がいる。少女の顔を、その形、色、線にするときの豊原清明の肉体の運動(手の動き、視線の動き)そのものである。
僕の顔。/複雑な表情。--これは、「いま」の肉体。「特権」としての「肉体」。どんな「肉体」も「過去」をもっている。「複雑な表情」とは「複雑な顔」である。「複雑」は「過去」が「いま」へ噴出してくるからである。役者の肉体がスクリーンに登場した瞬間に、そこには観客(私)ではない「過去」、役者の「過去」が動く。「過去」があると感じさせる。「肉体」は「過去」をもっていて、それが「いま」へと噴出してくる。その噴出の仕方は「複雑」であって、簡単には言えない。
そういう映像を経て、少女の絵(声)、豊原清明のことば(メモ、文字)、父の顔(現実/声)が一気に出会う。
父は「どうでもええやないか。」とだけ言うのだが、その「どうでもええやないか。」の「声」のなかに、誰もが知っている「過去」がある。誰もが知りすぎている「過去」がある。誰もが知りすぎていて、もうことばとしては説明できない「肉体そのものになってしまった過去」がある。
それは、「ながしの蛇口の流れる水」のようなものである。見たことあるでしょ? 激しく流れる水も、ゆるんだ蛇口の水も……。どんな勢い、どんな色(光)で流れているか--その映像を見れば誰にでも、それがどんな状態かわかる。説明の必要がない。それと同じように、現実の顔のアップがあり、生の声で「どうでもええやないか。」がことばとして動くとき、私たちは、そのことばの向こうに「過去」を見る。繰り返し見てきた「時間」そのものを見る。
もう一本、「ジネンムービー・後列」も豊原清明と父を描いている。ここに登場する「過去」はとてもおだやかで、豊原清明の美しい夢がそのまま現実になっている。
○ 家・居間・夕めし
食う、僕。その瞬間で、カット。
(食べ終わって)
体崩して、ぼんやりしている。
○ 父の誕生日にあげた絵を撮る
○ 台所
二歩、進む
三歩下がる。
汚れた皿。
流れる水。
○ 台所の花。
一句吟じる。
俳句「夏過ぎて・風の中央・平泳ぎ 一四歳」
○ 本を読んでいる、父の背中
「○ 父の誕生日にあげた絵を撮る」という部分は、正式(?)の脚本なら、「父の誕生日にあげた絵」なのかもしれない。「を撮る」は、ないかもしれない。「……を撮る」というのは映画の「肉体」だからである。「基本」だからである。撮らなければ映画にはならない。
そういう「不必要」なことばが動いているから、脚本でありながら詩になっているのだとも思う。
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