詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

豊原清明「草原の主人公」ほか

2011-11-19 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
豊原清明「草原の主人公」ほか(「白黒目」32、2011年11月発行)

 豊原清明「草原の主人公」は「自主製作短編映画シナリオ」シリーズである。

○ タイトル「草原の主人公」
監督・脚・絵 豊原清明
撮影・出演 豊原宏俊

○ 小机に並べられた、家族写真
メモ「崩壊した家族を再生させたい!」

○ 父の絵
  父の顔写真と並べる。

 という具合にはじまる。テーマというのだろうか、描きたいことが素早く出てくる。映画としての情報量はとても少ない。

メモ「崩壊した家族を再生させたい!」

 というのは、豊原清明が画面にでてきて「声」で言ってしまうと情報が増えてしまう。「文字」だけであることが、観客(この映画を見ていないけれど、私は映画を見ているつもりで読んでいる)を、観客の日常から引き剥がす。情報の少なさが、観客の「過去」を結晶化させる。誰にでも、「家族の不和」というものを体験した経験がある。そのときのことを思い出させる。
 父の絵と顔写真の対比へと映像が切り替わるとき、主観そのものである絵、あるいは豊原清明の肉体そのもの(具体)である絵と、写真というカメラのレンズの客観のが出会い、そこに一種の「不和」--つまり、「家族の崩壊」の悲しみが浮かび上がる。それは映像的には父の顔の「ずれ」なのだが、そのとき「悲しみ」は父の悲しみであり、また豊原清明の悲しみである。「ずれ」のなかで、父と豊原清明が重なり、同時に「ずれ」る。今回の「白黒目」には豊原清明の描いた幾枚かの絵の写真も掲載されていて、あ、この絵の色と線がスクリーンでも広がるのだなと感じられ、「ずれ」が目に浮かぶ感じがする。私は豊原清明の父の顔を知らないのだが……。
 このあと、肉体と絵と写真が、声と文字と交錯しながら動いていく。

○ 祈る、手。

○ 絵に書いた、少女の顔。

○ 十七年前の、初恋の少女の落書き。

○ 教会の画像

○ 僕の顔。
  複雑な表情。

○ 写真の山となった、小机。

○ ながしの蛇口の流れる水。

○ 少女の絵が言う。
声「なにしてるんですか?」

○ メモ
文字「あんたの家族は仲ええか?」

○ 少女たちの背中・声
声「仲は好いけど、喧嘩もします。」

○ 父の顔
父「どうでもええやないか。」

 「過去」の出し方が(描き方)が、とてもいい。
 少女の顔の絵、十七年前の初恋の少女。絵は、肉体ではない。絵の顔は、少女の肉体ではなく、豊原清明の「記憶の肉体」である。そこには少女というよりも、豊原清明がいる。少女の顔を、その形、色、線にするときの豊原清明の肉体の運動(手の動き、視線の動き)そのものである。
 僕の顔。/複雑な表情。--これは、「いま」の肉体。「特権」としての「肉体」。どんな「肉体」も「過去」をもっている。「複雑な表情」とは「複雑な顔」である。「複雑」は「過去」が「いま」へ噴出してくるからである。役者の肉体がスクリーンに登場した瞬間に、そこには観客(私)ではない「過去」、役者の「過去」が動く。「過去」があると感じさせる。「肉体」は「過去」をもっていて、それが「いま」へと噴出してくる。その噴出の仕方は「複雑」であって、簡単には言えない。
 そういう映像を経て、少女の絵(声)、豊原清明のことば(メモ、文字)、父の顔(現実/声)が一気に出会う。
 父は「どうでもええやないか。」とだけ言うのだが、その「どうでもええやないか。」の「声」のなかに、誰もが知っている「過去」がある。誰もが知りすぎている「過去」がある。誰もが知りすぎていて、もうことばとしては説明できない「肉体そのものになってしまった過去」がある。
 それは、「ながしの蛇口の流れる水」のようなものである。見たことあるでしょ? 激しく流れる水も、ゆるんだ蛇口の水も……。どんな勢い、どんな色(光)で流れているか--その映像を見れば誰にでも、それがどんな状態かわかる。説明の必要がない。それと同じように、現実の顔のアップがあり、生の声で「どうでもええやないか。」がことばとして動くとき、私たちは、そのことばの向こうに「過去」を見る。繰り返し見てきた「時間」そのものを見る。

 もう一本、「ジネンムービー・後列」も豊原清明と父を描いている。ここに登場する「過去」はとてもおだやかで、豊原清明の美しい夢がそのまま現実になっている。

○ 家・居間・夕めし
  食う、僕。その瞬間で、カット。
  (食べ終わって)
  体崩して、ぼんやりしている。

○ 父の誕生日にあげた絵を撮る

○ 台所
  二歩、進む
  三歩下がる。
  汚れた皿。
  流れる水。

○ 台所の花。
  一句吟じる。
  俳句「夏過ぎて・風の中央・平泳ぎ 一四歳」

○ 本を読んでいる、父の背中

 「○ 父の誕生日にあげた絵を撮る」という部分は、正式(?)の脚本なら、「父の誕生日にあげた絵」なのかもしれない。「を撮る」は、ないかもしれない。「……を撮る」というのは映画の「肉体」だからである。「基本」だからである。撮らなければ映画にはならない。
 そういう「不必要」なことばが動いているから、脚本でありながら詩になっているのだとも思う。


夜の人工の木
豊原 清明
青土社
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マイケル・チミノ監督「ディア・ハンター」(★★★★★)

2011-11-19 19:24:52 | 午前十時の映画祭
2011年11月19日(土曜日)

マイケル・チミノ監督「ディア・ハンター」(★★★★★)

監督 マイケル・チミノ 出演 ロバート・デ・ニーロ、クリストファー・ウォーケン、メリル・ストリープ

 結婚式に始まり葬儀で終わる。結婚式・披露宴+出征兵士の送別会(?)のシーンがとてもすばらしく、あまりにうまく撮れすぎたために残りが長くなったのだろう。
 ペンシルベニアの鉄工所のある街が舞台だが、「同族」が街をつくっている。ロシア系、スラブ系になるのだろうけれど、私にははっきりとわからない。「同族」ゆえに、人間関係が濃密である。単なる知り合いを通り越して、「血がつながっている」ような感じである。それが結婚式・披露宴で非常に「情報量」の多い映像になっている。教会での結婚式の、独特の儀式。披露宴でのウオッカ、コザックダンス(?)や様々なダンス。音楽も映像のすきまに入り込んで、登場するひとびとの鼓動、呼吸そのものになっている。人間の鼓動・呼吸の熱い動きが、ひとびと全員を溶け合わせ、巨大な至福に包まれる。それぞれが「一人」なのに、同時に「一人ではない」のだ。「ゴッドファザー」の結婚式もそうだが、アメリカ映画はこういう「同族」のパーティーを描くのがとてもうまい。(日本人である私にそう見えるだけなのかもしれないが。)
 この「一人」であり、「一人ではない」がこの映画では何度も繰り返される。あるいは「一人ではない」けれど「一人」であるは、バリエーションを変えながら何度も繰り返される。
 披露宴のあと、ロバート・デ・ニーロが夜の街を走る。服を脱ぎ棄て、素っ裸になって走るのは「一人」を象徴にまで高めるシーンである。彼が「主人公」であることを明確にするシーンだ。その「一人」をクリストファー・ウォーケンが必死で追いかけてくる。クリストファー・ウォーケンは「一人ではいられない」人間である。誰かとつながっていないと生きてゆけない。二人の対比がしっかり描かれている。「戦場で自分を守ってくれ」と思わず言ってしまいもする。いま、裸のロバート・デ・ニーロを守っているのは、クリストファー・ウォーケンなのだが。
 ロバート・デ・ニーロはいつでも「一人」であるのは、最初の鹿狩りにも端的に表れている。他の仲間たちが、仲間として鹿狩りをしている。ブーツをいつもロバート・デ・ニーロから借りる男は、絶対に「一人」では鹿狩りにはこない。ロバート・デ・ニーロがいなければ、靴下もブーツもないのだから。そしてロバート・デ・ニーロといえば、彼はただ鹿と、山の自然と向き合っているだけである。仲間と鹿狩りをしているのではない。仲間を離れ、自然のなかで自分の「一人」のいのちを鹿と対峙させる。「一発」にこだわるのは、そうした「一人」と「一頭」の出合いは「一期一会」であり、自然の「運命」がそこにあるのだ。ロバート・デ・ニーロは仲間といても、「一人」の精神・哲学を生きているのだ。
 ベトナムへ行っても、ロバート・デ・ニーロは「一人」である。ロシアンルーレットは誰かを相手にしておこなう危険な賭けではなく、ただ自分の意思・精神と向き合う行為なのである。「一人」でやる賭けなのである。相手はいない。「一人」で生きることに慣れていないクリストファー・ウォーケンは、賭けを生き抜いたあと、賭けにのみこまれていく。「危険」がクリストファー・ウォーケンの「道連れ」になる。「一人ではない」ときの相手は「人間」とはかぎらない。「人間」がかかわる何かなのだ。
 というところまで拡大すると、ロバート・デ・ニーロも「一人」ではなく、彼が信じる「哲学」と「道連れ」かもしれない。それがわかりやすいかたちでは描かれていない。ロバート・デ・ニーロの肉体の特権にまかされている。――ということは書き始めると面倒なので、話を映画に戻すと・・・。
 ベトナムから帰還したロバート・デ・ニーロは、相変わらず「一人」を指向している。肉体も精神も無事に見えるが、戦争の影に侵食されている。彼を支えていたかつての「鉄学」がロバート・デ・ニーロから離れていったともいえる。それが、鹿狩りに克明に描かれる。巨大に雄鹿に出合い、以前なら絶対に射止めることができる距離なのに、外してしまう。「自覚」はできないが、精神が乱れている。
 この乱調をささえてくれるのが、最初に登場する「同族」であり、「仲間」である。戦争のあと、その「同族」にも変化が起きている。歌う歌は、ロシア民謡やスラブ民謡ではなく、アメリカ国歌。ベトナム戦争をくぐりぬけ、その後の精神的困難を支えるのは、「同族」だけでは無理――ということか。このラストシーンは、私には何か嫌な感じ(ぞっとする感じ)も残るのだけれど、移民集団でも、アメリカ国民でもないので、どう判断していいかわからない。



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秋の花(往復詩1)

2011-11-19 08:08:34 | 
秋の花       谷内修三

空から半壊の意味が舞い落ちる
セロファンが陰影をとじこめる水面に
そのとき花は死をおそれて息を吐き、浮上する (と
私は 鏡のなかにすら書くことができない

ひらがなで教えているのはだれ?

ふりかえらぬまま見つめる
夢に見る無音のなかを口が倒れていく

                           (2011年11月11日)


*


八柳李花さんと「往復詩」をはじめました。
これは1回目の私の作品。
八柳さんの詩集「サンクチュアリティー」からインスパイアされて書きました。
タイトルの「秋の花」は季節の秋と李花さんの花を組み合わせたもの。
「連句」の発句、あいさつのようなものです。

続きはファイスブックの「象形文字編集室」でお読みいただけるとうれしい。
私の作品は随時、ここで掲載します。
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