滝川優美子『オーロラいため』(砂子屋書房、2011年11月15日発行)
滝川優美子『オーロラいため』では「収穫」という作品がおもしろかった。
この書き出しがとてもいい。「浸みてくる」は「しみてくる」と読ませるのだと思う。「野良着がじんわり浸みてくる」というのは正確(?)な日本語ではない。状況から判断すると「野良着に」何かが「じんわり浸(し)みてくる」ということを書いている。しかし、その「何か」を省略して、滝川は「野良着が」と「野良着」を主語のようにして書いている。この「が」は「水が飲みたい」というときと同じ「が」。「補語」を提示するときの「が」なのだが、そうだとしても舌足らずである。正確な文章になっていない。滝川は、「野良着」に何かが「しみてきて」、野良着「が」しみてきたものによって変化していく--と書きたいのだ。しかし、それを正確に書けずに主語、述語、補語が入り乱れ、その入り乱れのなかで交錯し、重なり合っている。それが、私には、とても美しく感じられる。
その入り乱れ、交錯し、重なり合うことばが「土の息で湿ってくる」と言いなおされる。野良着「が」土の息で湿ってくるのである。土の息「が」じんわり浸透して(この意識が働いているので、浸みてくる、という表記になってしまう)、湿り気を帯びた感じになる。
1行1行を独立して読むと文法的に変なのだが(学校教科書では許されないような--つまり、そのまま直訳すると外国語に置き換えられないようなことばの動きなのだが)、2行を続けて読むと、「頭」ではなく「肉体」でわかってしまう。土の上にねころんで、土から「湿り気」が浸透してくるのを感じたことを「肉体」が覚えていて、書かれていることを納得してしまう。(土の上にねころんだことのないひとはたぶんいないだろう。)
そして、その「土の湿り気」を「息」ということばでつかみ取っていることも「肉体」にはとてもいい感じでひびいてくる。土が息をしている。それだけでは何かわからないことがあるのだが、「息」ということばそのものは人間の「息」を思い出させる。「肉体」が覚えているのは、結局自分の「肉体」のことだけでなのかもしれない。
で、息。
息のなかには「水分」がある。人間の息のなかには「水分」があるのだ。はーっと吐いただけではわかりにくいが、冬のつめたい朝に息を吐き出すことを思い出すとわかりやすい。息のなかの水分が白い蒸気になってみえる。--いや、そうではなくて、温かい息によって、空中の水分が反応して白く見えるだけなのだ。その現象は飛行機雲と同じ現象なのだ、と「科学的」なひとなら言うかもしれないけれど……。
いいんです。そういうことは。私は錯覚したい(誤読したい)のだから。
科学的にはどうであれ、息をふきかけると、何かしっとりした感じになる。息に水分があると思いたくなる。--その息の水分と似たものが耕した土にある。そういうことを滝川は書いている。
土にはじっさいに水分が含まれている。そこから、「息」ということば、滝川の「肉体」が覚えている「息」を思い出し、滝川は、いわばその前の行の変な文法の間違い(?)を強引に整えているのだけれど、いいなあ、この感じ。
何が正解、何が間違いということは問題じゃない。そこに動いていることばに「肉体」が反応して、納得するかどうかが問題なのだ。肉体が納得すれば、それでいい。あとから「頭」で適当になんでもでっちあげればいい。
このあと、詩はつづいてゆく。
童話のような明るい風景、明るい感想である。2連目の2行のように、不思議なおもしろさがあるわけではなく、単純な明るさがあるだけなのだが、なんとなくうれしい。「五段重ね」に、空と大地が自然に含まれる広がりが楽しいのである。2連目2行の、一種の入り組んだ感じ、交錯し、重なり合い、肉体の内部(?)が深まるような感じが、ここで一気に解放される。宇宙的になる。それが、とてもいい。
滝川優美子『オーロラいため』では「収穫」という作品がおもしろかった。
彼はごろんとねころんだ
彼の耕した土の上に
野良着がじんわり浸みてくる
土の息で湿ってくる
この書き出しがとてもいい。「浸みてくる」は「しみてくる」と読ませるのだと思う。「野良着がじんわり浸みてくる」というのは正確(?)な日本語ではない。状況から判断すると「野良着に」何かが「じんわり浸(し)みてくる」ということを書いている。しかし、その「何か」を省略して、滝川は「野良着が」と「野良着」を主語のようにして書いている。この「が」は「水が飲みたい」というときと同じ「が」。「補語」を提示するときの「が」なのだが、そうだとしても舌足らずである。正確な文章になっていない。滝川は、「野良着」に何かが「しみてきて」、野良着「が」しみてきたものによって変化していく--と書きたいのだ。しかし、それを正確に書けずに主語、述語、補語が入り乱れ、その入り乱れのなかで交錯し、重なり合っている。それが、私には、とても美しく感じられる。
その入り乱れ、交錯し、重なり合うことばが「土の息で湿ってくる」と言いなおされる。野良着「が」土の息で湿ってくるのである。土の息「が」じんわり浸透して(この意識が働いているので、浸みてくる、という表記になってしまう)、湿り気を帯びた感じになる。
1行1行を独立して読むと文法的に変なのだが(学校教科書では許されないような--つまり、そのまま直訳すると外国語に置き換えられないようなことばの動きなのだが)、2行を続けて読むと、「頭」ではなく「肉体」でわかってしまう。土の上にねころんで、土から「湿り気」が浸透してくるのを感じたことを「肉体」が覚えていて、書かれていることを納得してしまう。(土の上にねころんだことのないひとはたぶんいないだろう。)
そして、その「土の湿り気」を「息」ということばでつかみ取っていることも「肉体」にはとてもいい感じでひびいてくる。土が息をしている。それだけでは何かわからないことがあるのだが、「息」ということばそのものは人間の「息」を思い出させる。「肉体」が覚えているのは、結局自分の「肉体」のことだけでなのかもしれない。
で、息。
息のなかには「水分」がある。人間の息のなかには「水分」があるのだ。はーっと吐いただけではわかりにくいが、冬のつめたい朝に息を吐き出すことを思い出すとわかりやすい。息のなかの水分が白い蒸気になってみえる。--いや、そうではなくて、温かい息によって、空中の水分が反応して白く見えるだけなのだ。その現象は飛行機雲と同じ現象なのだ、と「科学的」なひとなら言うかもしれないけれど……。
いいんです。そういうことは。私は錯覚したい(誤読したい)のだから。
科学的にはどうであれ、息をふきかけると、何かしっとりした感じになる。息に水分があると思いたくなる。--その息の水分と似たものが耕した土にある。そういうことを滝川は書いている。
土にはじっさいに水分が含まれている。そこから、「息」ということば、滝川の「肉体」が覚えている「息」を思い出し、滝川は、いわばその前の行の変な文法の間違い(?)を強引に整えているのだけれど、いいなあ、この感じ。
何が正解、何が間違いということは問題じゃない。そこに動いていることばに「肉体」が反応して、納得するかどうかが問題なのだ。肉体が納得すれば、それでいい。あとから「頭」で適当になんでもでっちあげればいい。
このあと、詩はつづいてゆく。
彼は採ったばかりのブロッコリーを
ふとんのように体にかけた
首だけ出して妻に言った
ちょっと上に乗っかってくれないか
まぶしい空にうす目をあけ
土の上にいる 横になっている
妻はブロッコリーのふとんの上から
そっとうつぶせに寝た
サンドイッチになっている二人
空と大地と五段重ねだ
童話のような明るい風景、明るい感想である。2連目の2行のように、不思議なおもしろさがあるわけではなく、単純な明るさがあるだけなのだが、なんとなくうれしい。「五段重ね」に、空と大地が自然に含まれる広がりが楽しいのである。2連目2行の、一種の入り組んだ感じ、交錯し、重なり合い、肉体の内部(?)が深まるような感じが、ここで一気に解放される。宇宙的になる。それが、とてもいい。