詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

大野直子『化け野』

2011-11-13 23:59:59 | 詩集
大野直子『化け野』(澪標、2011年10月30日発行)

 大野直子『化け野』は、読みはじめると、ぐいっと引き込まれる。
 きのう読んだ田中清光『三千の日』が「意味」の力で動くことばだとすると--つまり、「繋がる」ことをととのえることで世界そのものをととのえ、美しくする詩だとすると、大野の詩はなんといえばいいだろうか。
 繋がりたくない--けれど、のみこまれてしまう。そういう感じ。母、父のことを書いた詩がある。肉親。その死--当然、その前に病気という面倒くさいものがある。こんなことを書いてしまうと親に申し訳ない気がするのだが、病気の親というのは面倒だねえ。なかなか死なない。見捨てるわけにもいかない。繋がりたくなくても、繋がりがあって、繋がっていないといけない。ずるずるっという感じ。そこにだって「意味」はあり、美しい何かがあるのだけれど、いやあ、きれいごとじゃないからね。
 まあ、考えてはいけないこと(?)を考えながら、生きている。その感じが、不思議に「正しい」と思えるのである。
 どうしてかな?
 「弔いの木」に、その「答え」とは言えないけれど、その「正しさ」について考える手がかりがあるように思う。--なんて、格好つけてもしょうがないねえ。「弔いの木」から、私は、大野に近づいて行けると思ったのだ。「誤読」していけると感じた。

とめどなく降らせた
最後の一葉まで
木漏れ日のザワッとした感触まで
しかし無になったときからがほんとうの降りはじめだった
真っ裸のカツラの木が降らせつづけたものは
吐息
生への執着のような ねっとりした甘い吐息
いや それはたんに
腋臭(わきが)のようなものだったかもしれない
愚痴のようなものだったかもしれない
たしかなことは 何かを放出しきるということ
弔いだった

 「真っ裸のカツラの木」は「母」のことかもしれない。「比喩」である。「象徴」である--ということは、この際、どうでもいい。(どうでもよくないかもしれないけれど。)「比喩」とか「象徴」というのは、「意味」に繋がるから、私は苦手である。ちょっとわきに置いておきたい。(田中の詩を読んだあとなので、一種の「反動」が私に働いているかもしれない。そういうものを「修正」せずに、ただ書き継いでゆく--それが「日記」の醍醐味だろうと、自分で言ってしまっておこう。)
 私が、あ、大野に触れた、触れることができたと感じたのは、

腋臭(わきが)のようなものだったかもしれない
愚痴のようなものだったかもしれない

 である。「腋臭」と「愚痴」が同じものとして書かれている。それが「母」だと、大野は言っている。「カツラの木」は、「母」の「比喩」だが、そしてそれは簡単に言うと「人生の秋(さらには死)」という「意味」に繋がっていくのだが、そんな「意味」を拒絶して、ふいにあらわれてくる「腋臭」という「肉体」。
 拒めないねえ。匂いは。匂いは、鼻の穴を通って、空気といっしょに肺のなかへ入ってきてしまう。「肉体」のなかへ入ってきてしまう。この「生理」のなかに「正しさ」がある。「生理」が間違っていたら、人間は生きていけない、というときの「正しさ」がある。
 その「正しさ」はめんどうくさいことに、嫌悪感(たぶん)といっしょになって「肉体」をかきまぜる。そして、住みついてしまう。
 「愚痴」も同じだ。
 「愚痴」というのは「ことば」、そして「ことば」というのは「こころ」。そこにも「正しさ」がある。いやなことは言ってしまう、言ってしまうってこころを解放するという「こころの生理」の「正しさ」。
 「生理の正しさ」のなかで、「腋臭」という「肉体」と、「愚痴」という「こころ(精神)」の区別がなくなっている。
 大野は、「肉体」と「こころ(精神)」を区別しないのだ。ごちゃ混ぜにするのだ。田中は、それをはっきり区別して、区別したうえで「繋ぐ」。しかし、大野は、それを区別しないだけではなく、かきまぜてしまう。「繋ぐ」を拒絶して「繋ぐ」が不可能な混合物にしてしまう。
 そうすると、そこから「生理反応?」が起きて、「正しさ」が「美しさ」にかわる。--と、私は言いたいのだが、ちょっと急ぎすぎているね。

 で、「腋臭」にもどる。

 大野は「嗅覚」の詩人なのだ。
 「嗅覚」の詩人というのは、別なことばで言えば「空気」を吸い込んで、吐き出す詩人であるということ。「空気」を呼吸する詩人である。(大野は「肉体の生理」にとても忠実な人である。誰だって空気を吸って、吐いて生きているが、その無意識の基本的な肉体の動きを、体全体でつかみ直すのである。)
 「空気」を「呼吸」するとき、面倒くさいことだが「におい」がついてまわる。ついつい「におい」を感じてしまう。「空気」に「におい」がなければ、なんでもないのだが、「におい」があるばっかりに、それに「肉体」が反応してしまう。その反応は、「生理的」である。「頭脳」であれこれ識別している余裕はない。
 そして、その「におい」は「におい」にとどまらない。

生への執着のような ねっとりした甘い吐息

 「ねっとり」という「触覚」を揺り起こし、「甘い」という「味覚」を揺り起こす。そこに「生への執着」という「意味(概念?)」も絡みついているが、それは「生の感覚」から押し出されてしまうねえ。印象に残るのは「ねっとり」「甘い(吐息)」であり、「腋臭」だ。「嗅覚」を刺激し、「肉体」の内部に入り、また「肉体」の周囲にからみついている。こういう一連の動きは、「肉体」の「正しい」反応である。たしかに「肉体」は、あれこれの感覚が重なり、まじりあって動いている。その「総体」が「人間」である。
 しかし、でも、わーっ、めんどうくさい。そんなものとひとつひとつていねいに向き合っていたら、やりきれない。だから、私なんかは、面倒くさいものは棄ててしまって(つまり頭で整理して)やりすごすのだけれど……。
 このめんどうくささを、大野は我慢して(?)、実にじっくりと向き合い、受け入れる。雪に閉じ込められて生きる北陸人だなあ、と私は感心し、こんなことを感じてしまうなんていやだなあ、とも思うのだ。こんなところから共感が始まるのは私が北陸人であるということの「証明」のような感じがして、いやだなあ、と思うのだが、もう感心してしまったのでしようがない……。

 で。
 「空気」にもどる。「呼吸」し、つまり吸い込んで吐き出しながら、「肺」だけではなく、他の器官(感覚)を動かし、動かされ、変質する「空気」にもどってみる。
 「たましいの質量」に、次のことばが出てくる。

 たましいに色や形や匂いはなかった。あるのはモワッとした質量だ。あえて形容するならば、そっとバウンドしてくるような空気玉のようなもの。

 「空気玉」か……。
 これも、ちょっとわきに置いておいて。
 「腋臭」と違って「たましい」には「においはない」というのだが、ここにわざわざ「においがない」と「におい」が出でくるところが大野が「嗅覚」の詩人である、「空気」を吸う詩人であることを証明している。
 いったん「空気」と「肉体」をなじませる。そのあとで「嗅覚」以外の「感覚」を総動員して「空気」をつかもうとする。そうすると、
 「モワッ」「そっとバウンドしてくる」
 この感触。触覚。ああ、よくわかるなあ。よくわかるけれど--自分のことばでは言いなおせない。「意味」ではなく、「肉体」が覚え込んでいる何かで感じる「モワッ」「そっとバウンドしてくる」。
 「意味」ではなく、つまり「頭」へではなく、「肉体」へ直接訴えてくる何かがある。それを大野はていねいに「肉体」で書いているから、私の「肉体」がそれに共感するのだ。
 そして、そのとき「空気」は、「全体」にひろがっているわけではない。「空気玉」となって、「ほかの空気(?)」とははっきりわかる形で「肉体」に触れている。「モワッ」「そっと(バウンド)」という形で、そこにある。
 このあと、次のことばがある。

気配といったほうが正しいのか。

 なるほど、「気配」か。「空気玉」は「気配」か。それは自分が吸って、吐いたことによって(あるいはだれかが吸って吐いたことよって)、ひとかたまりになった「空気」だね。
 空間を、つまり空気のある場を私は「立方体」として考えてしまうが、大野は、その立方体としての空気ではなく、あくまで吸って、吐いて、人間の「肉体」にそまった(?)ものを「玉」、丸い塊として感じている。
 この「丸い」という感じから、やわらかさが生まれる。立方体より、丸い玉の方が、角がないからやわらかいよね。触れやすいよね。でも、ころがりやすいから、ちょっとめんどう。いや、ほら、知らない間にころがってきて、触れたくないのに触れてしまうというときがあるでしょ?

 「気配」は「弔いの木」にも出てきた。

(母さんは気配というかたちで、ときどき立ち現れた。抱きしめたときの耳の
 へりの冷たさだったり、補聴器のピーという小さな雑音になったりしながら。
 そしてとうとうわたしのなかに住みついた……。

 「わたしのなかに住みついた」というのは、「気配」が「空気」だからだねえ。呼吸によって「肉体」に取り込む。取りこれまた空気が少しずつ残っていく。それは「触覚」にまざって「冷たさ」となって「肉体」に響き、「聴覚」にまざって「音」となって「肉体」に残るのだ。でも、この住みついたは、逆かもしれない。「わたし」が母の気配のなかに住みついたのかもしれない。呼吸というのは、出たり入ったり、往復して、区別がなくなるものである。「なか」と「そと」を区別してもはじまらない。
 「すみついたもの」--その「肉体」の「うち」の「空気」は、あるときは「ことば」となるかもしれない。「声」となるかもしれない。その「声」は、母の場合「愚痴」という形でこぼれ、大野の場合は「詩のことば」という形であふれる。
 そしてそれは

放出しきる

 べきものなのだ。
 田中は「繋ぐ」ということにこだわった。
 それに対して大野は「放出」にこだわる。出し切る。棄てる。「肉体」を空っぽにしてしまうのだ。深呼吸するように、呼吸を「正しく」してやると、とても美しい瞬間がやってくる。「肉体」が変化し、同時に「こころ」も変化する。
 墓掃除にいったときのことを書いた「悠遊」の最後の部分。

 わたしは思い切って後ろ向きになり、燭台の端に腰掛けてみた。六年生にな
ってもまだ母のひざに乗るような子どもだったのだ。少し高くなって景色が変
わった。海の頭が見えた。権現森のあいまに見える、てのひらにすくったよう
な海。
 これが、母さんの日常なんですね。墓石にゆったりもたれかかると、霊園の
かたすみのサルスベリが長い首をしなわせて夕日を吸った。

 吐き出すべきものを吐き出してしまう。そうすることで大野は「母」そのものになる。母が毎日見ている海を見て、母そのものになる。そのとき、そばに咲いているサルスベリもまた、大野そのものになる。母になる。世界がひとつになる。
 そして、「吸う」。最後に「吸う」のだ。「空気」だけではない。「気配」だけではない。「夕日」、太陽、つまり「宇宙」を。
 この瞬間、いのちと死がひとつになる。溶け合う。

 もっとていねいに感想を書き直すべきなのかもしれない。
 しかし、ていねいに書き直すと、何かうまく説明できない部分ばかり出てきて書けなくなってしまうかもしれない。
 興奮して、何かわけがわからないままに書いたこの「日記」が、私が感じていることをいちばん正確に再現しているかもしれない。

 いい詩集だなあ、と思う。
 「現代詩手帖」の2011年の収穫のアンケートには書き漏らしてしまったが、収穫の10冊のうち1冊にはぜひ入れたい詩集である。
 いや、詩集というより、いい「ことば」という感じかなあ。いい「声」というべきなのかなあ。「肉体」を「空気」が通り抜けて、その「空気」が大野の「肉体」に染まっている。こういう「ことば(声)」の深さ、豊かさは、なかなかない。
 ぜひ、読んでください。
 発行所の「澪標」の住所、電話番号を書いておきます。
 大阪市中央区平野町2-3-11-203
 (06)6944-0869



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