詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

山本純子「朝」「シャボン玉」

2011-11-30 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
山本純子「朝」「シャボン玉」(「息のダンス」10、2011年12月01日発行)

 山本純子「朝」は、読んでもらえば、それだけで紹介したことになる作品である。私があれこれ感想を書くことはないかもしれない。

おはよう、
って言ったら
おはよう、
って言われて

また会ったから
おはよう、
って言ったら
おはよう、
って言われて

あら、
さっきもたしか
言ったわね
と思いあたると
今のは明日のぶんですよ
と、するっと
わきを抜けられて

わたしも
明日の分を言ったのかな

明日も会う人でよかったわ

明日も会う人ばかりで
よかったわ


一日がはじまるのである

 4連目がとてもいい。
 1-3連は、誰もが経験したことがあることかもしれない。朝のあいさつだから、無意識的に「おはよう」と言う。言ったか、言わなかったか、なんていちいち考えない。めんどうくさいからね。でも、言ってしまったあとで、あ、さっきもあいさつしたな、と思う。
 そのあと。
 「明日も会う人でよかったわ」から「明日も会う人ばかりで/よかったわ」までの呼吸のつながりぐあいがいい。
 「と」
 これは、「明日も会う人でよかったわ」の直前の「と」からはじまっている。
 いや。
 この「と」は3連目にも登場している。3連目では「と思いあたると」「と、するっと」。ふたつの、行頭の「と」はよく見ると(よく読むと)、呼吸がちょっと違う。
 「と思いあたると」はとても早い。「呼吸」がない。「息継ぎ」がない。行末の「と」と呼応している。ほんとうは行頭にこないことば。ことばのあとについでに(?)、ついてくる「呼吸」をふくまないことばだ。
 「と、するっと」は行頭にくることで、息が深くなる。意識が飛躍する。飛躍の呼吸である。
 この「飛躍」を引き継いで、4連目がある。
 「と」があらわれるたびに、少しずつ「飛躍」する。この「飛躍」は「飛躍」といっても、「日常」と地続きである。「きょう」と「明日」がつながっている感じで、つながっている。
 「きょう」と「明日」のあいだ、つながっている場所(?)なんて、わからないでしょ? でも、「きょう」があり、「明日」がある。その区別--「区別」があるから、「飛躍」もある、という程度のことである。
 で、とっても軽い「飛躍」の「と」なのだけれど、

明日も会う人ばかりで
よかったわ


 さて、ここから、つぎにどこに飛んでいいのか、わからない。
 さて、困ったねえ。
 山本は、どうしたか。
 飛ばない。
 1行開けて「一日がはじまるのである」と「きょう」へもどってくる。
 これが、じつに、気持ちがいい。
 「飛躍」がかっこいい、気持ちがいいからといって「飛躍」しつづける必要はない。無理をする必要はない。「飛躍」は「呼吸」なのだ。吸ったら、吐く。吸いつづける(吐きつづける)という無理はしない。

 「シャボン玉」は人と会ったとき「はじめまして」というあいさつをかわすが、その「はじめまして」という誰もが知っていることばの「言い方」をていねいに教えてくれる詩である。

はじめて
シャボン玉を吹いたとき
たぶん
吹き方が
つよかった

すぐに
自分を小出しにする
吹き方を
身につけた

それで
いまでも
シャボン玉を吹くように
はじめまして
と、言う

 そうか、その「呼吸」、その「息の強さ(おだやかさ?)」が重要なのか。
 山本は、いつも「声」のなかにある「呼吸」の加減を教えてくれる。






豊穣の女神の息子―詩集
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