山本純子「朝」「シャボン玉」(「息のダンス」10、2011年12月01日発行)
山本純子「朝」は、読んでもらえば、それだけで紹介したことになる作品である。私があれこれ感想を書くことはないかもしれない。
4連目がとてもいい。
1-3連は、誰もが経験したことがあることかもしれない。朝のあいさつだから、無意識的に「おはよう」と言う。言ったか、言わなかったか、なんていちいち考えない。めんどうくさいからね。でも、言ってしまったあとで、あ、さっきもあいさつしたな、と思う。
そのあと。
「明日も会う人でよかったわ」から「明日も会う人ばかりで/よかったわ」までの呼吸のつながりぐあいがいい。
「と」
これは、「明日も会う人でよかったわ」の直前の「と」からはじまっている。
いや。
この「と」は3連目にも登場している。3連目では「と思いあたると」「と、するっと」。ふたつの、行頭の「と」はよく見ると(よく読むと)、呼吸がちょっと違う。
「と思いあたると」はとても早い。「呼吸」がない。「息継ぎ」がない。行末の「と」と呼応している。ほんとうは行頭にこないことば。ことばのあとについでに(?)、ついてくる「呼吸」をふくまないことばだ。
「と、するっと」は行頭にくることで、息が深くなる。意識が飛躍する。飛躍の呼吸である。
この「飛躍」を引き継いで、4連目がある。
「と」があらわれるたびに、少しずつ「飛躍」する。この「飛躍」は「飛躍」といっても、「日常」と地続きである。「きょう」と「明日」がつながっている感じで、つながっている。
「きょう」と「明日」のあいだ、つながっている場所(?)なんて、わからないでしょ? でも、「きょう」があり、「明日」がある。その区別--「区別」があるから、「飛躍」もある、という程度のことである。
で、とっても軽い「飛躍」の「と」なのだけれど、
さて、ここから、つぎにどこに飛んでいいのか、わからない。
さて、困ったねえ。
山本は、どうしたか。
飛ばない。
1行開けて「一日がはじまるのである」と「きょう」へもどってくる。
これが、じつに、気持ちがいい。
「飛躍」がかっこいい、気持ちがいいからといって「飛躍」しつづける必要はない。無理をする必要はない。「飛躍」は「呼吸」なのだ。吸ったら、吐く。吸いつづける(吐きつづける)という無理はしない。
「シャボン玉」は人と会ったとき「はじめまして」というあいさつをかわすが、その「はじめまして」という誰もが知っていることばの「言い方」をていねいに教えてくれる詩である。
そうか、その「呼吸」、その「息の強さ(おだやかさ?)」が重要なのか。
山本は、いつも「声」のなかにある「呼吸」の加減を教えてくれる。
山本純子「朝」は、読んでもらえば、それだけで紹介したことになる作品である。私があれこれ感想を書くことはないかもしれない。
おはよう、
って言ったら
おはよう、
って言われて
また会ったから
おはよう、
って言ったら
おはよう、
って言われて
あら、
さっきもたしか
言ったわね
と思いあたると
今のは明日のぶんですよ
と、するっと
わきを抜けられて
わたしも
明日の分を言ったのかな
と
明日も会う人でよかったわ
と
明日も会う人ばかりで
よかったわ
と
一日がはじまるのである
4連目がとてもいい。
1-3連は、誰もが経験したことがあることかもしれない。朝のあいさつだから、無意識的に「おはよう」と言う。言ったか、言わなかったか、なんていちいち考えない。めんどうくさいからね。でも、言ってしまったあとで、あ、さっきもあいさつしたな、と思う。
そのあと。
「明日も会う人でよかったわ」から「明日も会う人ばかりで/よかったわ」までの呼吸のつながりぐあいがいい。
「と」
これは、「明日も会う人でよかったわ」の直前の「と」からはじまっている。
いや。
この「と」は3連目にも登場している。3連目では「と思いあたると」「と、するっと」。ふたつの、行頭の「と」はよく見ると(よく読むと)、呼吸がちょっと違う。
「と思いあたると」はとても早い。「呼吸」がない。「息継ぎ」がない。行末の「と」と呼応している。ほんとうは行頭にこないことば。ことばのあとについでに(?)、ついてくる「呼吸」をふくまないことばだ。
「と、するっと」は行頭にくることで、息が深くなる。意識が飛躍する。飛躍の呼吸である。
この「飛躍」を引き継いで、4連目がある。
「と」があらわれるたびに、少しずつ「飛躍」する。この「飛躍」は「飛躍」といっても、「日常」と地続きである。「きょう」と「明日」がつながっている感じで、つながっている。
「きょう」と「明日」のあいだ、つながっている場所(?)なんて、わからないでしょ? でも、「きょう」があり、「明日」がある。その区別--「区別」があるから、「飛躍」もある、という程度のことである。
で、とっても軽い「飛躍」の「と」なのだけれど、
明日も会う人ばかりで
よかったわ
と
さて、ここから、つぎにどこに飛んでいいのか、わからない。
さて、困ったねえ。
山本は、どうしたか。
飛ばない。
1行開けて「一日がはじまるのである」と「きょう」へもどってくる。
これが、じつに、気持ちがいい。
「飛躍」がかっこいい、気持ちがいいからといって「飛躍」しつづける必要はない。無理をする必要はない。「飛躍」は「呼吸」なのだ。吸ったら、吐く。吸いつづける(吐きつづける)という無理はしない。
「シャボン玉」は人と会ったとき「はじめまして」というあいさつをかわすが、その「はじめまして」という誰もが知っていることばの「言い方」をていねいに教えてくれる詩である。
はじめて
シャボン玉を吹いたとき
たぶん
吹き方が
つよかった
すぐに
自分を小出しにする
吹き方を
身につけた
それで
いまでも
シャボン玉を吹くように
はじめまして
と、言う
そうか、その「呼吸」、その「息の強さ(おだやかさ?)」が重要なのか。
山本は、いつも「声」のなかにある「呼吸」の加減を教えてくれる。
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