柴田友里『子取りの産声』(思潮社、2011年10月31日発行)
柴田友里『子取りの産声』は、私には、わからない部分が多すぎる。いや、これは正確ではないなあ。私は誰の詩であっても「わかる」というよりも「誤読」するだけなのだから。
詩集の書き出しの、
という1行はとても魅力的に感じた。「入るだけの」ということばに、柴田の「欲望」を感じた。「肉体」を感じた。「本能」を感じた。あ、何かがはじまる、という予感があった。
1行開けて、次のようにつづく。
この3行もおもしろいと思った。「では次に装飾をしてみましょう」というのは、ことばとしては「散文」の動きだが、「本能」を順序立てて動かしていくようで、あ、柴田はことばを動かすことに夢中なのだと感じた。ことばを動かすと、世界がかわる。ことばが世界をつくりだしていく。その想像を「では次に」という具合に、意思でコントロールしていく。「入れましょう」「してみましょう」。自分が動けば世界が動く。
どうなるのかなあ。
この巻頭の詩は、そのことばで終わる。まあ、死んでも、かまわない。「死」は誰にもわかることではない。誰も体験したことはない。その道の体験にまで、ことばで攻めていこうとする「欲望」があって、おもしろいかなあ、と思う。
で、期待して読むのだが……。
わからなくなるのである。「陥没夜」の途中(12ページ)、
「いきなり」話が変わっていくのはいいのだが、それにあわせて(?)、ことばも「いきなり」変わってしまう。
この「思いきや」って、何語? 「日本語」であることは知っているけれど、いったいどこから引っぱりだしてきた「文体」なのだろう。
「小さな箱に 入るだけの霧を入れましょう」という1行にあったような、ていねいな欲望の動きがない。
先へ進むと、もっと変なことばが出てくる。
「見よ!」に私はつまずき、「あたかも」で倒れこみ「玉の汗のよう」で詩集を落としてしまう。--これは比喩ですけれどね。
ほんとうに、こういうことばを柴田は日常的につかっているのだろうか。
詩は日常つかっていることばで書かなければならないというきまりはない。どう書いてもいい。
でも、私は「文体」が入り交じったことばを読むのは苦手である。
たまたま読んだ吉田文憲の栞によれば、柴田は吉田の「教え子」らしい。「柴田さんはいまは大学院生だが、四年次からの私の教え子である。」と書いている。どうでもいいことかもしれないが、ふーん、吉田は、こんな「文体」の混合を平気で教えているのか、と関係ないことまで考えてしまった。
14ページには、「おお、なんという荘厳な景色であろう!」というようなことばも登場する。ちょっと引用すると……。
とても「肉体」で書いたことばとは思えない。
吉田は、「水子」(子取りとは、とられる子、水子の別名である--というのが吉田の読解である)の「いのちの場所」のイメージに「民話や聖書の物語がまなまなしく映像的に重なるところに、柴田友里の特徴がある」と書いているが、柴田のことばに重なっているのは「民話や聖書の物語」ではなく、「物語」を「頭」で要約した使い古しのことば、手垢にまみれた「流通言語」だろう。
そういうことばを読んでいると、私には、ここにはいったい何が書いてあるのかさっぱりわからなくなる。
なぜ、そのことば?
そのことばと柴田の肉体はどんな関係がある?
柴田友里『子取りの産声』は、私には、わからない部分が多すぎる。いや、これは正確ではないなあ。私は誰の詩であっても「わかる」というよりも「誤読」するだけなのだから。
詩集の書き出しの、
小さな箱に 入るだけの霧を入れましょう
という1行はとても魅力的に感じた。「入るだけの」ということばに、柴田の「欲望」を感じた。「肉体」を感じた。「本能」を感じた。あ、何かがはじまる、という予感があった。
1行開けて、次のようにつづく。
では次に装飾をしてみましょう
筆にたっぷりの水を含ませて
霧に色を垂らすのです
この3行もおもしろいと思った。「では次に装飾をしてみましょう」というのは、ことばとしては「散文」の動きだが、「本能」を順序立てて動かしていくようで、あ、柴田はことばを動かすことに夢中なのだと感じた。ことばを動かすと、世界がかわる。ことばが世界をつくりだしていく。その想像を「では次に」という具合に、意思でコントロールしていく。「入れましょう」「してみましょう」。自分が動けば世界が動く。
どうなるのかなあ。
じきに死にます
この巻頭の詩は、そのことばで終わる。まあ、死んでも、かまわない。「死」は誰にもわかることではない。誰も体験したことはない。その道の体験にまで、ことばで攻めていこうとする「欲望」があって、おもしろいかなあ、と思う。
で、期待して読むのだが……。
わからなくなるのである。「陥没夜」の途中(12ページ)、
いきなり背の小さい少女が背の高い少女の足を肩に乗せ、サー
カスのように立ち上がったかと思いきや、 いつの間にか浴場
の屋根に設置されていた縄の輪に 可憐な肩の上の少女の首
を 引っ掛けた!
「いきなり」話が変わっていくのはいいのだが、それにあわせて(?)、ことばも「いきなり」変わってしまう。
立ち上がったかと思いきや
この「思いきや」って、何語? 「日本語」であることは知っているけれど、いったいどこから引っぱりだしてきた「文体」なのだろう。
「小さな箱に 入るだけの霧を入れましょう」という1行にあったような、ていねいな欲望の動きがない。
先へ進むと、もっと変なことばが出てくる。
しかし見よ! 少女はまだ生きている 熱い胞子のような湯
気を一身に浴び、あたかも玉の汗のよう
「見よ!」に私はつまずき、「あたかも」で倒れこみ「玉の汗のよう」で詩集を落としてしまう。--これは比喩ですけれどね。
ほんとうに、こういうことばを柴田は日常的につかっているのだろうか。
詩は日常つかっていることばで書かなければならないというきまりはない。どう書いてもいい。
でも、私は「文体」が入り交じったことばを読むのは苦手である。
たまたま読んだ吉田文憲の栞によれば、柴田は吉田の「教え子」らしい。「柴田さんはいまは大学院生だが、四年次からの私の教え子である。」と書いている。どうでもいいことかもしれないが、ふーん、吉田は、こんな「文体」の混合を平気で教えているのか、と関係ないことまで考えてしまった。
14ページには、「おお、なんという荘厳な景色であろう!」というようなことばも登場する。ちょっと引用すると……。
しかしそれでも熱気は冷めやらぬ おお、なんという荘厳な
景色であろう! 雄叫びと黄色い声のさなかで観客たちはも
ろもろ湯の中に頭を沈めあっているではないか! 水しぶき
があがる 小刻みな舞いがついに終わるとき、興奮と歓喜は
最高潮に達し、恍惚の絶頂にさえたどり着き 感涙にむせび泣
く感動のフィナーレ!
とても「肉体」で書いたことばとは思えない。
吉田は、「水子」(子取りとは、とられる子、水子の別名である--というのが吉田の読解である)の「いのちの場所」のイメージに「民話や聖書の物語がまなまなしく映像的に重なるところに、柴田友里の特徴がある」と書いているが、柴田のことばに重なっているのは「民話や聖書の物語」ではなく、「物語」を「頭」で要約した使い古しのことば、手垢にまみれた「流通言語」だろう。
そういうことばを読んでいると、私には、ここにはいったい何が書いてあるのかさっぱりわからなくなる。
なぜ、そのことば?
そのことばと柴田の肉体はどんな関係がある?