中井ひさ子『思い出してはいけない』(土曜美術社出版販売、2011年10月28日発行)
中井ひさ子『思い出してはいけない』は「童話」と交錯しながらことばが動く詩集である。すでに、そこに「物語」がある。それと、どう交わるか。すでにある「物語」の「時間」をどう突き抜けるか。--なかなか難しい。
こういうときは、説明が少ないほどおもしろい。「物語」とは無関係の、中井の「現実」が硬質のまま、いいかえると輪郭をもったまま輝くからである。
「ねえ」「またなの」は、そういう作品である。ともに、私にはどの「童話」を題材にしているかわからない。「童話」は題材ではないかもしれない。「童話」の構造を借りて、そこに中井の「現実」を挿入しているのかもしれない。まあ、こんなことはどっちでもいいのだが……。「ねえ」をひいてみる。
3、4連目が、とてもおもしろい。だれか、知っているけれど知らない人になってしまった人。怒りか、悲しみか、絶望か。まあ、なんでもいいというと申し訳ないけれど、自分の「殻」にとじこもってしまった人。
その人のそばに座る。そうして、ちょっと話しかけてみる。いや、話しかけないかもしれない。多々、そばにいるよ、という気持ちだけ。でも、そのとき話しかけなくても、こころは動いている。「ねえ」と声にならない声で呼びかけている。
ひとはひとはどんなふにふうに接近していくのだっけ。「練習してみる?」--これは、自問。同時に、相手に対する呼びかけかもしれない。
いいなあ。「耳」はほんとうは語りたい。何か聞いたら語りたい。それは「口」ではなく、たぶん「耳」の欲望である。でも、それを、どこかに置いてきた。その置いてきたものを感じながら、そこに座っている。
矛盾が、きっと、私とだれかを受け止め、つなぎとめる。その矛盾のありかとして「肉体」がある。
「乾いた/その目」も同じだ。目は、ある意味では涙を流す(濡れる)ためにある。その目が「乾いている」。「乾いている」と実感できるのは、泣いた人だけである。
「またなの」は「肉体」になってしまったことば(口癖)を詩に取り込んでいる。
ひとは言ってはいけないことばを言ってしまうものである。してはいけないことをしてしまうものである。わかっていても。
「からだのすき間から」と、「からだ」が出てくるところに、「現実」がある。「暮らし」がある。
こういう詩に出会うと、私はとても落ち着く。
*
詩集の前半にある詩は、たぶん、「童話」の世界そのものを強く意識して、それに拮抗しようとしている。その対抗心(?)が色濃く出てしまった。「童話」のことばに中井が生きている「現実」のことば鍛え上げた上で向き合わせようとしている。最初は、その「力」がいい具合に動くが、無理は長くはつづかない。そして、ことばが乱れる。そういう印象が強い。
最初の2行はとてもリアルである。でも2連目の「わなわな」が無防備すぎる。
1-3連はとてもいい。「童話」になっている。特に「どくだみ」の描写がすばらしく、思わず「盗作」したくなる。いつか、この表現を少し変化させて、自分のものとしてつかってみたい、とひそかに思う。こんな気持ちにさせてくれるものが、詩、であると私は思っている。
ところが4連目がとてもつまらない。ことばが抽象に走ってしまう。「繊細に」が気持ちが悪い。もっと「猫」の「肉体」そのものになって歩かないと。爪とか肉球とか、あるいはヒゲとか耳とか--肉体の描写を欠いたまま「繊細」と言われても、困ってしまう。「童話」ではなくなってしまう。
中井ひさ子『思い出してはいけない』は「童話」と交錯しながらことばが動く詩集である。すでに、そこに「物語」がある。それと、どう交わるか。すでにある「物語」の「時間」をどう突き抜けるか。--なかなか難しい。
こういうときは、説明が少ないほどおもしろい。「物語」とは無関係の、中井の「現実」が硬質のまま、いいかえると輪郭をもったまま輝くからである。
「ねえ」「またなの」は、そういう作品である。ともに、私にはどの「童話」を題材にしているかわからない。「童話」は題材ではないかもしれない。「童話」の構造を借りて、そこに中井の「現実」を挿入しているのかもしれない。まあ、こんなことはどっちでもいいのだが……。「ねえ」をひいてみる。
公園の石段で
イグアナと出会っても
黙って横に座る
見なれない風だって
吹く
せっかくだから
ねえ
関わりあい方の
練習してみる?
ずい分ながい間
確かめること
忘れていた
身をよじって降りてくる
空を
他人事のように
見上げる
並べて置いてきた
いくつもの
語らない耳
泣かせるね
乾いた
その目
3、4連目が、とてもおもしろい。だれか、知っているけれど知らない人になってしまった人。怒りか、悲しみか、絶望か。まあ、なんでもいいというと申し訳ないけれど、自分の「殻」にとじこもってしまった人。
その人のそばに座る。そうして、ちょっと話しかけてみる。いや、話しかけないかもしれない。多々、そばにいるよ、という気持ちだけ。でも、そのとき話しかけなくても、こころは動いている。「ねえ」と声にならない声で呼びかけている。
ひとはひとはどんなふにふうに接近していくのだっけ。「練習してみる?」--これは、自問。同時に、相手に対する呼びかけかもしれない。
並べて置いてきた
いくつもの
語らない耳
いいなあ。「耳」はほんとうは語りたい。何か聞いたら語りたい。それは「口」ではなく、たぶん「耳」の欲望である。でも、それを、どこかに置いてきた。その置いてきたものを感じながら、そこに座っている。
矛盾が、きっと、私とだれかを受け止め、つなぎとめる。その矛盾のありかとして「肉体」がある。
「乾いた/その目」も同じだ。目は、ある意味では涙を流す(濡れる)ためにある。その目が「乾いている」。「乾いている」と実感できるのは、泣いた人だけである。
「またなの」は「肉体」になってしまったことば(口癖)を詩に取り込んでいる。
昨日言ってしまった
ひと言が
からだのすき間から
聞こえてきて
ちりちり 痛いよ
またなの と
ラクダが
けむたげな目をして
通りすぎていく
ひとは言ってはいけないことばを言ってしまうものである。してはいけないことをしてしまうものである。わかっていても。
「からだのすき間から」と、「からだ」が出てくるところに、「現実」がある。「暮らし」がある。
こういう詩に出会うと、私はとても落ち着く。
*
詩集の前半にある詩は、たぶん、「童話」の世界そのものを強く意識して、それに拮抗しようとしている。その対抗心(?)が色濃く出てしまった。「童話」のことばに中井が生きている「現実」のことば鍛え上げた上で向き合わせようとしている。最初は、その「力」がいい具合に動くが、無理は長くはつづかない。そして、ことばが乱れる。そういう印象が強い。
如雨露で水を撒きたくなるような
砂利道が真っ直ぐに続いていた
両側に濡れた青田の中から
舞い出てくる光が
わなわな
空中に消えていく (「降る」)
最初の2行はとてもリアルである。でも2連目の「わなわな」が無防備すぎる。
三日月が雲の穴に落ちた夜は
垂れ下がった軒下から
がま蛙が這い出してきて啼きはじめる
群れているどくだみは
白い口を互いに盗みあっている
息を殺した塀の飢えを
繊細に歩いていく黒猫 (「蒼い夜」)
1-3連はとてもいい。「童話」になっている。特に「どくだみ」の描写がすばらしく、思わず「盗作」したくなる。いつか、この表現を少し変化させて、自分のものとしてつかってみたい、とひそかに思う。こんな気持ちにさせてくれるものが、詩、であると私は思っている。
ところが4連目がとてもつまらない。ことばが抽象に走ってしまう。「繊細に」が気持ちが悪い。もっと「猫」の「肉体」そのものになって歩かないと。爪とか肉球とか、あるいはヒゲとか耳とか--肉体の描写を欠いたまま「繊細」と言われても、困ってしまう。「童話」ではなくなってしまう。
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