田中清光『三千の日』(2)(思潮社、2011年10月31日発行)
「火の渦レクイエム」は東京大空襲(1945年3月10日)を書いている。
「のきなみ」ということばに傍点が打ってある。傍点がないと何が書いてあるかわからなかったと思う。つまり、とても変なことばである。こんなことろで「のきなみ」が登場するとは、私は思わない。
田中も、どう書いていいかわからず、「のきなみ」と書いたのだと思う。書きながら何かが違うと感じたので傍点を打ったのだと思う。
のきなみ。(副詞的に)どこもかしこも。だれもかれも同様に。一様に。ひとしく--広辞苑にはそう書いてある。
この「定義」でいいかどうか、わからない。たぶん、それを超える。
でも、どう書いていいかわからない。けれど、書きたい。その、ことばを超えたものが傍点にこめられている。
追いかけるように、次の2行に出会う。
新しい風景に出会ったとき、ひとは、すでに書かれていることばを探す。書かれていることばで安心したい。書かれていることばに出会えれば、それを書いたひとと「繋がる」ことができる。そして「意味」を共有できる。
しかし、そういうことができないことがある。
だれも書かなかった光景がある。その状況を「ことば」で書くとき、ことばは「無意味」である。まだ、「意味」が存在しない。「無力」である。誰とも「繋がる」保証がない。でも、それを「ことば」にしないと、「意味」は生まれない。
こういう状況だからこそ、「意味」を発生(誕生)させたい--その思いが、たとえば「ナパーム焼夷弾が油脂ガソリンを噴出しては」というような、ひとが一般的に「詩」ということばから連想するものとはかけ離れた「ことば」を引き寄せる。具体的な「もの」の「名前」「述語」をくぐりながら、それと拮抗する「感情(意味)」を探すのである。田中の精神は、とても正確に動いている。正確すぎるくらい、強靱に、「意味」を見出すために動く。でも、見つからない。「ことば」を見つけ出す前に、それこそ「ことば」として読んだことのない「風景」が目の前にあらわれるからである。
「ことば」を、「聖書」や「仏典」ではなく、ほかのところへ探しに行かないといけない。そうしないと、そこにある「意味」にたどりつけない。
だが、それは簡単ではない。どうしていいかわからない。そこで「のきなみ」のような、どうすることもできないことばが動く。「知っている」ことばが、動く。「肉体」が覚えていることばが動く。つかえるのは「覚えている」ことばだけである。
でも、「意味」にならない。
「意味」とは、他者と「繋がる」こと。それは、言い換えると、「聖書」や「仏典」のように、多くのひと、ことばと「繋がる」こと。「意味」は、ほかの「ことば」と「繋がる」ことで「意味」になるのだから、他の「ことば」と「繋がらない」限り、それは「意味」にはならない。
「意味」にならないとき、「ことば」はどうなるのか。
「意味」にならないとき「ことば」は「生まれるの前の感情」になる。でも、ことばになる前の感情、生まれる前の感情は、いったい、どこにあるのか。あると言えるのか。
私は、ここで「肉体」ということばをつかいたい。つかいたいのだが、ちょっと悩んでしまう。未生の感情を抱いた肉体--「いのち」そのもの。私は、そういうものを感じるのだけれど(予感するのだけれど)、この予感と、田中のことばはうまく合致しない。「言葉」への指向(?)が強すぎる。私の予感するものとは違うものを、田中はめざしている。何か、確固とした強靱なものを田中はめざして動いている。その強靱さの前に、私はたじろいでしまう。
「言葉か 感情か」という「並列」のあり方が苦しい。「意味」が「苦しい」。「意味」を拒絶されて立ち尽くす田中が、とても苦しい形で迫ってくる。
オリオン--宇宙の美しい光に「意味」はない。「空白」である。そこには「現実とは認められない物体の残骸」しかない。
ことばは--何も「繋げる」ことができない。何も繋げることができない--ということ、つまり「無」しか繋げることができない。
絶望の哲学、である。
この田中の絶望に触れたあと、私はしかし、その絶望ではなく、ほかのものに「共感」したい気持ちに襲われる。
整然とした--と書くと、田中にそれは違うと言われそうだが--こういう整然とした「論理」ではなく、その前にふとあらわれた「のきなみ」ということばのなかにあったものに身を寄せたい気持ちになるのだ。
そして、ここに書かれている「風景」は「聖書」や「仏典」には書いていないかもしれないが、その「意味」はだれかが書いているのではないか、という気がするのである。「無意味=空白」ということばの動きはだれかが書いてしまっていないか。
いや、どっちにしたって人間はだれかが書いたこと(言ったこと)を、つまり他人のことばを自分のことばで繰り返すだけなのだから、だれかが先に書いていたって(言っていたって)いいのだが--それとは違う形で、田中はことばを動かせたのではないのか、と思ってしまうのである。
「のきなみ」ということばを「強引」につかったとき(あるいは「不正確に」、つまりあいまいな、辞書にはない「定義」でつかったとき)、田中の肉体のなかで、「意味」とは違う何かが動いたと思う。その「意味」を破って動いていく何かを、違った形で追いかけることができたのではないのか、と思ってしまうのである。
そういうものに、私は期待したい--詩の力を感じたい。
「無意味=空白(無)」と言ってしまうと、「のきなみ」ということばのなかにある「有」が消えてしまう。「意味」を「言葉」で「繋ぐ」とき、何かが失われてしまう。そんなことを感じてしまうのだ。
もし、「のきなみ」ということばが、この詩のなかになかったなら、私はこんなことを考えなかったけれど、「のきなみ」ということばにびっくりして、そんなことを感じてしまうのだ。
*
ということも、実は、書きたかったことではない。
私は、実は、違うことを書きたかったのだが、きのうと同じように、書こうとしたら違うことを書いてしまった。
これから、少し、その書こうとして書きそびれたことを思い出しながら書いてみたい。違うことを書いてしまったので、書こうとしたことも影響を受けて、また違ったものになっているかもしれないけれど。
「火の渦レクイエム」の「意味の言葉」はとても強靱である。でも、私は、その作品や巻末の「ジャコメッティと矢内原伊作さん」と同じくらいに、あるいはそれ以上に「村で」という作品が好きである。
「茄子は畑で礼儀正しくみのり」の「礼儀正しく」は、「火の渦レクイエム」の「のきなみ」と同様「無意味」である。「意味」が「辞書」の定義どおりではない。「意味」を超えている。
けれど、そこに何かがある。
その何かを、私は「肉体」が覚えている「いのち」だと感じている。
それは、どんなときでも生きている。「意味」の「繋がり」を超えて、「意味にならないもの」(意味以前)と繋がっている。
その「呼吸」のようなものを私は感じる。
それは「葱を刻む音がひびく」の「ひびく」にも通じる。
葱を刻む音にも「意味」はないし(いや、美しい暮らし、人間の暮らしという意味があるのかもしれないが……)、「ひびく」にはさらに「意味」がない。でも、その「意味」のないものを、ひとはことばで繋ぎ止める。
「意味」ではないものが繋がったとき、なぜか、私はそれを「美しい」と感じる。この「感じる」は「感情」なのかどうか、私にはよくわからないが……。つまり、「言葉か 感情か」と田中が言ったときと、重なり合うことなのかどうかわからないが……。
「火の渦レクイエム」は東京大空襲(1945年3月10日)を書いている。
その夜の空爆は ナパーム焼夷弾が油脂ガソリンを噴出しては
逃げる人びとの頭上にとめどなく降りそそぎ
意表を突かれて焼かれ 黒焦げになったまま
闇のなかで燃えていった人間の身体がのきなみ地に倒れた
「のきなみ」ということばに傍点が打ってある。傍点がないと何が書いてあるかわからなかったと思う。つまり、とても変なことばである。こんなことろで「のきなみ」が登場するとは、私は思わない。
田中も、どう書いていいかわからず、「のきなみ」と書いたのだと思う。書きながら何かが違うと感じたので傍点を打ったのだと思う。
のきなみ。(副詞的に)どこもかしこも。だれもかれも同様に。一様に。ひとしく--広辞苑にはそう書いてある。
この「定義」でいいかどうか、わからない。たぶん、それを超える。
でも、どう書いていいかわからない。けれど、書きたい。その、ことばを超えたものが傍点にこめられている。
追いかけるように、次の2行に出会う。
聖書のどの頁を探したって 仏典のどこにだって
こんな風景は描かれていない
新しい風景に出会ったとき、ひとは、すでに書かれていることばを探す。書かれていることばで安心したい。書かれていることばに出会えれば、それを書いたひとと「繋がる」ことができる。そして「意味」を共有できる。
しかし、そういうことができないことがある。
だれも書かなかった光景がある。その状況を「ことば」で書くとき、ことばは「無意味」である。まだ、「意味」が存在しない。「無力」である。誰とも「繋がる」保証がない。でも、それを「ことば」にしないと、「意味」は生まれない。
こういう状況だからこそ、「意味」を発生(誕生)させたい--その思いが、たとえば「ナパーム焼夷弾が油脂ガソリンを噴出しては」というような、ひとが一般的に「詩」ということばから連想するものとはかけ離れた「ことば」を引き寄せる。具体的な「もの」の「名前」「述語」をくぐりながら、それと拮抗する「感情(意味)」を探すのである。田中の精神は、とても正確に動いている。正確すぎるくらい、強靱に、「意味」を見出すために動く。でも、見つからない。「ことば」を見つけ出す前に、それこそ「ことば」として読んだことのない「風景」が目の前にあらわれるからである。
「ことば」を、「聖書」や「仏典」ではなく、ほかのところへ探しに行かないといけない。そうしないと、そこにある「意味」にたどりつけない。
だが、それは簡単ではない。どうしていいかわからない。そこで「のきなみ」のような、どうすることもできないことばが動く。「知っている」ことばが、動く。「肉体」が覚えていることばが動く。つかえるのは「覚えている」ことばだけである。
でも、「意味」にならない。
「意味」とは、他者と「繋がる」こと。それは、言い換えると、「聖書」や「仏典」のように、多くのひと、ことばと「繋がる」こと。「意味」は、ほかの「ことば」と「繋がる」ことで「意味」になるのだから、他の「ことば」と「繋がらない」限り、それは「意味」にはならない。
「意味」にならないとき、「ことば」はどうなるのか。
「意味」にならないとき「ことば」は「生まれるの前の感情」になる。でも、ことばになる前の感情、生まれる前の感情は、いったい、どこにあるのか。あると言えるのか。
私は、ここで「肉体」ということばをつかいたい。つかいたいのだが、ちょっと悩んでしまう。未生の感情を抱いた肉体--「いのち」そのもの。私は、そういうものを感じるのだけれど(予感するのだけれど)、この予感と、田中のことばはうまく合致しない。「言葉」への指向(?)が強すぎる。私の予感するものとは違うものを、田中はめざしている。何か、確固とした強靱なものを田中はめざして動いている。その強靱さの前に、私はたじろいでしまう。
この世という断片 断片の集積
繋ぐのは言葉か 感情か (「ひらけ」)
「言葉か 感情か」という「並列」のあり方が苦しい。「意味」が「苦しい」。「意味」を拒絶されて立ち尽くす田中が、とても苦しい形で迫ってくる。
それからはオリオンの清らかな光は地上には届かなくなった
感情も感官も空白状態になって
現実とは認められない物体の残骸の転がるなかに
立ち尽くすばかりだった
オリオン--宇宙の美しい光に「意味」はない。「空白」である。そこには「現実とは認められない物体の残骸」しかない。
ことばは--何も「繋げる」ことができない。何も繋げることができない--ということ、つまり「無」しか繋げることができない。
絶望の哲学、である。
この田中の絶望に触れたあと、私はしかし、その絶望ではなく、ほかのものに「共感」したい気持ちに襲われる。
整然とした--と書くと、田中にそれは違うと言われそうだが--こういう整然とした「論理」ではなく、その前にふとあらわれた「のきなみ」ということばのなかにあったものに身を寄せたい気持ちになるのだ。
それからはオリオンの清らかな光は地上には届かなくなった
感情も感官も空白状態になって
現実とは認められない物体の残骸の転がるなかに
立ち尽くすばかりだった
そして、ここに書かれている「風景」は「聖書」や「仏典」には書いていないかもしれないが、その「意味」はだれかが書いているのではないか、という気がするのである。「無意味=空白」ということばの動きはだれかが書いてしまっていないか。
いや、どっちにしたって人間はだれかが書いたこと(言ったこと)を、つまり他人のことばを自分のことばで繰り返すだけなのだから、だれかが先に書いていたって(言っていたって)いいのだが--それとは違う形で、田中はことばを動かせたのではないのか、と思ってしまうのである。
「のきなみ」ということばを「強引」につかったとき(あるいは「不正確に」、つまりあいまいな、辞書にはない「定義」でつかったとき)、田中の肉体のなかで、「意味」とは違う何かが動いたと思う。その「意味」を破って動いていく何かを、違った形で追いかけることができたのではないのか、と思ってしまうのである。
そういうものに、私は期待したい--詩の力を感じたい。
「無意味=空白(無)」と言ってしまうと、「のきなみ」ということばのなかにある「有」が消えてしまう。「意味」を「言葉」で「繋ぐ」とき、何かが失われてしまう。そんなことを感じてしまうのだ。
もし、「のきなみ」ということばが、この詩のなかになかったなら、私はこんなことを考えなかったけれど、「のきなみ」ということばにびっくりして、そんなことを感じてしまうのだ。
*
ということも、実は、書きたかったことではない。
私は、実は、違うことを書きたかったのだが、きのうと同じように、書こうとしたら違うことを書いてしまった。
これから、少し、その書こうとして書きそびれたことを思い出しながら書いてみたい。違うことを書いてしまったので、書こうとしたことも影響を受けて、また違ったものになっているかもしれないけれど。
「火の渦レクイエム」の「意味の言葉」はとても強靱である。でも、私は、その作品や巻末の「ジャコメッティと矢内原伊作さん」と同じくらいに、あるいはそれ以上に「村で」という作品が好きである。
猛烈な寒気 降りしきる雪は熄むことなく
野辺送りした弟のなきがらを
誰にも知らせず こごえさせ
旅は終わるはずだった
だが季節が変われば たちまち
茄子は畑で礼儀正しくみのり
球根のころがる土間で
葱を刻む音がひびく
「茄子は畑で礼儀正しくみのり」の「礼儀正しく」は、「火の渦レクイエム」の「のきなみ」と同様「無意味」である。「意味」が「辞書」の定義どおりではない。「意味」を超えている。
けれど、そこに何かがある。
その何かを、私は「肉体」が覚えている「いのち」だと感じている。
それは、どんなときでも生きている。「意味」の「繋がり」を超えて、「意味にならないもの」(意味以前)と繋がっている。
その「呼吸」のようなものを私は感じる。
それは「葱を刻む音がひびく」の「ひびく」にも通じる。
葱を刻む音にも「意味」はないし(いや、美しい暮らし、人間の暮らしという意味があるのかもしれないが……)、「ひびく」にはさらに「意味」がない。でも、その「意味」のないものを、ひとはことばで繋ぎ止める。
「意味」ではないものが繋がったとき、なぜか、私はそれを「美しい」と感じる。この「感じる」は「感情」なのかどうか、私にはよくわからないが……。つまり、「言葉か 感情か」と田中が言ったときと、重なり合うことなのかどうかわからないが……。
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