詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

粒来哲蔵『蛾を吐く』再読

2011-11-29 23:59:59 | 現代詩講座
「現代詩講座・粒来哲蔵『蛾を吐く』」(2011年11月28日)

 粒来哲蔵『蛾を吐く』(思潮社、2011年10月01日発行)を読みます。私が今年いちばん感銘を受けた詩集です。
 まず、読んでみましょう。長い作品だけれど、一気に読み通し、そのあと、少しずつ読み直していきたいと思います。

(朗読)

 何が書いてあると思いましたか? そして、それについてどう思いましたか?

「闘病のことが書いてある。喀血だから、肺結核かな?」
「血を蛾という比喩でして、自分の過去のことも書いている。母と女がでてきて、異様な感じがする。何歳のひとなのだろうか。」
谷内「略歴に1928年生まれと書いてあるから83歳かな」
「喀血を、別のことばであらわしたいのかも」

 「蛾」は、どう見ても「血の塊」ですね。食道ガンか胃ガンかわからないけれど、ガンを患っていて、病院で血を吐いた。大変な経験、大変な苦しみだろうと思うけれど、苦しいという印象ではなく、妙に力強い感じがしますね。
 病気だと気弱になるのに、そうなっていない。そこがとても不思議。
 こう言ってしまうと、もうそこで感想は終わってしまうのだけれど、どうして妙に力強い何かを感じるのか--そのことを考えてみたいと思います。「わかっている」と思っていることを再確認してみる。「わかっている」ことをより掘り下げてみる。そういうことをしてみたいと思います。

 この詩は、6段落で構成されている。でも、大雑把にいうと、4つに分けられる。起承転結ということばがあるけれど、その起承転結に分けられると思う。
 起は第1、2段落。病院で血を吐いた。
 承は第3段落。病院から自宅へ帰ってからのことが書いてある。
 転は第4段落。「蛾」以外に吐かれるものが出てくる。「もう一つおれ内から吐き出されるものがある。」
 結は第5、6段落。大吐血のことが書かれている。

 医師はおれに嚥下困難と告げたが、その目は食道のかなり奥深い箇所に在る腫物様の存在を暗示していた。おれはその時医師の治療の手を遮って吐いた。医師には血の塊と見えただろうがおれの吐いたものは一匹の蛾だった。蛾は膿盆の上で一度もがいてから床に落ちた。おれはただそれを見ていた。
 やがて蛾は看護士の白いユニホームの裾に貼り付き、赤黒いものを二筋三筋滴らせて運ばれていった。おれはそれも見ていた。
  (「もがいて」は「足ヘン」に「宛」。感じが表記できないのでひらがなにした。
   腫瘍様の「様」には「よう」とルビがある。これも省略した。
   以下も引用は正確ではない。私のワープロの関係で表記を変えたものがある。)

 このことばの力はいったい何だろうか。
 ことばが「肉体」と緊密につながっている。「肉体」そのものになっている。
 路傍に倒れてうめいているひとをみたら、あ、このひとは腹痛で苦しんでいる、と感じる。「腹痛」のほんとうのありかはわからないが、その痛み、苦しみが肉体のどのあたりまで広がっているかが、わかる。他人の痛み、自分の肉体ではないのに、それがわかってしまう。--それに似ている。
 最初に聞いた感想と重なるのだけれど、もう一度整理してみますね。食道ガンとか、胃ガンということばが同時に思い浮かぶ。でも、ここにはガンということばはない。どうしてガンと思うのだろうか。

質問 なぜ、食道ガンだと思うのだろう。
「腫瘍、ということばが出てくるから」

 「腫瘍」ではなく、粒来は「腫物様」と書いていますね。私も最初「腫瘍」と読み間違えたけれど、よく見ると「腫物」。「「腫物」の「腫」が「腫瘍」の「腫」と同じ文字。それに、食道ということばがあり、また嚥下困難ということばもある。食道にガンがあって、だからものをのみこむのがつらい、むずかしい。--どうしても食道ガンを思いますね。腫瘍」と読み間違えるのは、それだけ「腫瘍」が迫ってくるからですね。
 でも、粒来はガンということばをつかっていない。
 これが、この詩の秘密です。書きたいことを直接書かない。知っていること、わかっていることを、知っていることばで書かない。誰もがつかっていることばで書かない。誰もがつかっていて、誰もに理解されていることばを、私は「流通言語」というのだけれど、粒来はその「流通言語」をつかっていない。
 「流通言語」というのは、この場合、食道ガンになる。食道ガンということばをつかうと、ここに書かれていることはわかりやすくなりますね。めんどうくささがなるなる。理解がはやくなる、めんどうくささがなくなることを、私は「ことばの経済学」とも呼んでいるのだけれど、粒来は、ことばが簡単に通じてしまうことを拒否して、わざと遠回りしている。
 この「わざとする遠回り」が、詩なのだと私は考えています。
 そして、どうやって遠回りするか--その遠回りの仕方に詩人の特徴があらわれてくる。粒来の特徴はどこか、それに少しずつ近づいていきたい。

 少しずつていねいに読んでいくと、いろいろなことがわかります。
 「医師はおれに嚥下困難と告げたが、その目は食道のかなり奥深い箇所に在る腫物様の存在を暗示していた。」という書き出しの後半。「その目は」というのは医師の目ですね。その目が、腫れ物のようなものがあると暗示していた。
 何気ないように書かれているけれど、とってもおもしろい。
 医師は食道ガンということばを言っていない。「嚥下困難」と言っているだけですね。でも目が、暗示していた。
 これは、どういうことだと思いますか? どんなことが想像できますか?

 私は、「おれ」、つまり粒来が「嚥下困難」という、まあ、ふつうはつかわないことばを聞いて、何かを感じたのだと思います。医師そのものが、遠回りして何かを告げようとしている。直接言わない。これは病気が重いときですね。風邪くらいだと、「風邪ですね」という。でも、ガンだといまはそうでもないのかなあ、あんまり簡単には言わない。遠回しというか、慎重に言う。いのちにかかわるという感じが強いからかな?
 で、その「遠回し」に言ったことばを、粒来はどうやって受け止めたか。どうやって、「真実」を探り当てたか。
 何気ないことばで書いているのだけれど、おもしろいですよ。

質問 「目の奥は……暗示していた」。これは、別の表現で言いなおすとどうなりますか? 
「目が語る」
質問 そこから何か慣用句を思い出しませんか?
「目は口ほどにものを言う」

 私も、それを思い出しました。目は、語る。ことばをつかわずに何かを語る。そのことば(?)を私たちはどうやって聞き取るか。耳ではないですね。目を見て感じる。目で「意味」を感じる。ことばを感じる。
 これが、この詩では最初の大事な部分です。
 粒来は、ことばを「聞いた」のではなく、「見た」んです。
 「嚥下困難」ということばと医師が告げた。それを粒来は、ここには書いてないけれど「聞いた」。「告げる-聞いた」ということばの伝わり方があるけれど、この「目は……暗示していた」は、そういうことばの伝わり方と違って、あくまで「見る」です。
 だから、そのあと「見た」ということばがつづきます。

医師には血の塊と見えただろうが

おれはただそれを見ていた

やがて蛾は……おれはそれも見ていた。

 そして、このときおもしろいことが起きている。
 「見る」と対になっているのは「見えるもの」ですね。「見る」があって、「見えるもの」がある。そして、一般的に、「見えるもの」というのは誰にでも共通している。

質問 (ペットボトルを掲げ)たとえば、私が手に持っている、「これ」は何ですか?
「ペットボトル」
谷内「ほかにありませんか?」
「水」
「入れ物」

 そうですね。ペットボトル、水、入れ物--という誰でも言うと思います。これを「楽器」といったり、「小説」あるいは「詩」と言うひとはいないと思います。
 でも、この詩ではどうですか?
 粒来が吐いたもの。それは何?
 「医師には血の塊」、粒来には「蛾」ですね。といっても、粒来に「血の塊」と見えないことはない。「血の塊」というふうにまったく見えなかったわけではない。血の塊という具合にまったく見えなかったのだとしたら、「医師には血の塊に見えただろうが」という表現は出てこない。粒来にも、実は「血の塊」と「見える」。「見える」けれど、それを「血の塊」と言わない。
 「蛾」と「見る」。
 これは「錯覚」かもしれない。けれど「錯覚」ではなく、あえて自分自身の「意思」(こころ)で、「蛾」として見ようとしているのかもしれない。あとで「意思」ということばが出てきますが、きっと「意思」ですね。
 医者が(意思ということばをつかうと混同しそうなので、医者といいますね)、医者が「嚥下困難」ということばを言うとき、ことばをコントロールしている。どういうべきかを、探りながら言っている。それと同じように、粒来は、ここでは「見えるもの」「見たもの」をあらわすことばを懸命に探して、「血の塊」とは言わずに「蛾」と言っている。

質問 この「蛾」を、「血の塊」を「蛾」と呼ぶような言い方、書き方をふつうはなんといいますか? 最初に感想を語ってもらったとき、そのことばがでてきたけれど……。
「比喩」

 そうですね。「比喩」ですね。「比喩」というのは、そこにあるものを、そこにないことばで言うということ。一種の「嘘」ですね。
 その嘘、比喩というのは、ふつうにつかっていることばだけでは言えない何か、特別な思いをあらわしたいからつかうと思います。
 実際に粒来の吐いたのは「血の塊」だと思う。けれど、粒来は、それを「血の塊」と言いたくなかった。粒来にとっては、それは「血の塊」ではなかった。

 では、粒来は、この「蛾」ということばで、何を言いたかったのだろうか。
 「蛾」は「血の塊」。粒来は食道ガンを病んでおり、病院で血を吐いた。そして、そのことと、それ以後のことを書いている、とこの詩を「解説」してしまうと、もう何も言うことがなくなりますよね。
 「意味」としては、そういう「理解」でいいのだと思うけれど、詩は意味ではなく、もっと別なものだと私は思っています。で、その「意味」ではないものを考えるのが、きょうの講座のテーマです。粒来は、私は食道ガンで、吐血しましたと書かずに「蛾を吐いた」と書く。それはいったいどういうことなのか。そして吐血したということばよりも、「蛾を吐く」の方が衝撃的というか、印象に強く残るのはなぜなのか、そういう、ちょっと面倒くさいことを考えてみたいと思います。

 私はどんな詩でも書き出しをていねいに読みます。まだ最初の数行、起承転結の「起」でうろうろしているのだけれど、もう少しうろうろします。少し前へ戻ります。

 医師はおれに嚥下困難と告げたが、その目は食道のかなり奥深い箇所に在る腫物様の存在を暗示していた。おれはその時医師の治療の手を遮って吐いた。

質問 この「おれはその時医師の治療の手を遮って吐いた。」の「手」は何ですか? 突然、でてきますね。
「医者が粒来のからだにふれている、その手かな」

 診察を受けているのだから、触診(手で触って診察する)ということはあると思うけれど、血を吐くくらいの食道ガンだと、もう触診の状態ではないですよね。
 「手」はもしかすると「手」ではないかもしれない。

質問 もしここに書かれている「手」が「手」ではないとしたら、なんだろう。「遮って」を手がかりに考えると何になりますか?
「声、ことば、かな」
「食道ガン、ということば」

 そうですね。「ことばを遮って」という「慣用句」がありますね。
 粒来は「嚥下困難」ということばにつづいて医者が言おうとしたことば、たとえば食道ガンということばを遮って、吐いた。治療のことば、病名を告げることばを遮って吐いた、という具合に読めると思う。
 ことばを遮って--というのは、そのことばを聞きたくなくて、という意味になりますね。
 でも、ことばではなく、あくまでも「手」と言っている。手を遮ってと言っている。ここに粒来の詩の特徴がある。「肉体」と「ことば」が拮抗している。激しく闘っている。肉体の病気をあらわすことばが激しく遠ざけられている。拒絶されている。その拒絶の感じが「手を遮って」の方が強いですね。「手を遮る」のは「肉体」ですね。ことばでは手を遮ることができない。
 どんなふうに「肉体」をつかって、「手」を遮るか。「吐く」という、押さえきれない肉体の反応をつかって遮られている。これが、すごいですねえ。
 ことばをさえぎるを肉体(手)をさえぎると言う--ここに何か、粒来が「食道ガン」ということばを、まるで「肉体」そのもののように感じていることがわかる。
 
 それから、吐く--だれかが吐いているのを見ると、一瞬、からだが後退する。退いてしまう。吐くことは他人を拒絶するということではないのだけれど、何かすごい力を感じますね。
 だれかが何か自分にとって不都合なことを言い出しそうなとき、大声をあげてそのことばを遮るように、粒来は、「吐く」ことで医者のことばを遮っている。
 突然、目の前で血を吐かれたら、そのまま「あなたは食道ガンです」と言っているひまはないですね。すぐ行動しないといけない。
 食道ガンということばを遮るために、粒来は肉体をかけている。これは、ちょっとおおげさな言い方かもしれないけれど、そんな感じがする。
 もちろんこれは、粒来が意図的にそうしたというよりも、実際に、診察を受けいているとき突然血を吐いて、そのことを思い出して、何がおきたのかをことばでたどり直してこう書いているのかもしれないけれど、そんなふうに書くということは、そんなふうに自分をとらえ直したいということなので、まあ、粒来の意志がそういう具合に動いたと考えてもいいと思います。

 食道ガンということばを遮って、そして遠ざけるようにしてことばが動いていく。そのとき、まず「目」ということばがつかわれ、つぎに「手」がでてきました。それから「吐く」ということばもでてきた。吐くというのは動詞なので、そこには実際には肉体の部署を示すことばはないのだけれど、胃とか、喉とか、口とか、そういことばを思い出しますね。胃から、何かを吐く。吐いたものは、喉をとおって、口をとおって、あふれる。
 粒来のことばは、食道ガンということばのかわりに、肉体を刺激する。「頭」ではなく、肉体を刺激する。食道ガンというのは、体験したひとならわかるのだろうけれど、ふつうは、どういうことかわからないですね。でも、こんなふうに目、手、それから「吐く」ということばの奥にある「肉体」とつなげて考えると、なんとなく、身にせまってくる。それが「血を吐く」「蛾を吐く」ということばになって迫ってくると、ぎくっとしますね。見てはいけないものを見てしまったような感じがする。恐怖心のようなものを感じる。
 粒来は食道ガンということばを避けているのだけれど、避けた分だけ何か強烈になって噴出してくるものがある。食道ガンと聞くと、自分の体験と結びつけられないし、「血を吐く」も私は吐いたことがないので実感できないのだけれど、「蛾を吐く」は何かぞっとする。血を吐く以上に強烈な何かを感じる。変ですよね。私は、血はもちろんだけれど、蛾を吐いたことはない。それなのに、蛾を吐くの方が生々しく迫ってくる。
 「蛾」はなんだろう。
 基本的には「血」なのだけれど、血以上のものですね。

 で、「承」の部分を読みます。

 それからだった。帰宅してからも蛾はひっきりなしにおれの口から吐かれ、咽喉から翔び出した。


質問 ここに、いままでとは違ったことばが出てきます。何でしょう。何が違ってきているでしょうか。
「吐く、という表現が、吐かれる、になっている」
「少し後に出てくるけれど、血が自分の『意志』として出てくる」

 「意志」のことは、ちょっと後回しにしますね。
 「起」では粒来が「蛾」を吐いていた。いま、指摘があったように、この部分にも「吐く」は「吐かれ」とかわっている。そのこによって、気づきにくいかもしれないけれど、主語が変わっています。
 前の文章からのつづきで言えば、ふつうは「帰宅してからもおれは蛾を吐いた」となると思います。主語は「おれ」のまま、そういう文章を書くことができます。
 けれど、ここでは粒来は「おれ」を主語にしていない。「蛾」を主語にして書いています。「蛾」を補って文章をていねいに書き直してみると、よりわかりやすくなります。

帰宅してからも蛾はひっきりなしにおれの口から吐かれ、「蛾は」咽喉から翔び出した。

 詩を読むときは、作者が省略したことばを補いながら読み進むと、書かれていることがはっきりわかるようになります。作者が省略してしまうことばというのは、作者にはわかりきっていることば。言う必要がないことば。もう肉体になじんでしまっているので、わさわざ言わなくてもすむ。
 でも、それは読者にはわかりにくい。だから、補って読み直します。

 「おれ」(粒来)は「主語」ではなくなっている。これが、実におもしろいし、この詩を複雑にしていく要素です。
 「蛾」は「おれ」ではありませんね。これは、しかし、なんというか「頭」で考えた文法ではそうなる、ということです。自分の「肉体」にひきつけて考えると、「蛾」ははたして「おれ」ではないのか。それを考えてみましょう。
 「蛾」は現実には「血」でしたね。血の塊。それは、おれのからだのなかから吐き出される。おれの血。そうすると、それは「おれ」のある部分、おれを構成するある部分、おれ、ということになりませんか?
 主語は「おれ」から「蛾」へ変わったのではなく、「おれ」から「おれのからだの内部のあるもの」に変化したんですね。大きくみれば「おれ」であることにかわりはない。
 おれのからだから、おれの何かが飛び出した。そんなふうに、この部分は読むことができます。そして、おれのからだから、おれの何かが飛び出したと読むとき、次の部分が生き生きと感じられる。

それはまるで緊縛されていたある種の意志がその鬱屈を解かれて今や躍動しつつあるといった風だった。

 「蛾」「血の塊」は「意志」ということばにかわっている。肉体のなかにとじこめられていた「意志」、それも縛りつけられていた「意志」が解き放たれ、あばれまわっている。そんなふうに感じられる。さっき指摘があったように、血が「蛾」と言い換えられ、それがここでは「意志」ということばでも言い換えられている。

 「意志」になる。「肉体」に閉じこめられ、「肉体」の限界を生きるしかなかった「意思」が、「意志」であること(肉体のなかにとどまり、肉体を動かすこと)を拒絶して、自由に動いている。
 粒来は、ここに不思議な「自由」を見ている。
 粒来の「精神」ではつかみ取ることのできなかった「自由」を「血」が「蛾」となることで獲得している。
 --こんなことは、「いのち」を物差しにして考えるとき、あってはならないことかもしれないが、「ことば」を物差しにするとき、起り得ることなのである。
 いや、ほんとうは(ふつうは?)、起こらない。
 粒来の「ことば」だから起きる。それは粒来の「ことば」が引き起こした、まったくあたらしい「現実」であり、粒来の「ことば」でしか獲得できない「自由」である。
 その「自由」は簡単に言うと、人間に「死」をもたらすものかもしれないが、「死」というのは誰にも体験できないことであり(体験したあと、それを報告することができないものであり)、「ことば」を超越している。そういう「ことば」を超越したものは無視して、粒来は「ことば」にできるものを「ことば」にするという「自由」を生きて、「蛾」そのものになるのだ。
 「蛾」が「おれ」であると主張すること--それを受け入れ、それに「従事」するというか、従う。「蛾」が、つまり、意志なのだ。肉体が意志に従って動くように、いま肉体は蛾に従って動く。
 といっても、これは「現実」のことではなく、あくまで「ことば」のことであり、「ことば」であることによって「現実」のこととなる。

 粒来の「ことば」は「血」を「蛾」と呼ぶことで、「現実」を強い力で整えなおす。「蛾」を生きる「意志」に従って、「いま/ここ」を整えなおす。その整えなおしは、人間の「いのち」を基準にすると理不尽というか、ほんとうはあってはいけないことなのだが、詩人は、そのあってはいけないこと、してはいけないことを「ことば」の力でやってしまう。
 人間が触れてはいけない部分を侵害してしまう。人間のやるべきことがら、人間の生きる領域を「超越」してしまう。
 「ことば」が「いのち」になる。「ことば」が「いきる」。
 実際、そうなっている。「ことば」が書かれるかぎり、粒来は生きている。不吉な言い方で申し訳ないが、死へ向かって「ことば」で生きる。そうすることで、「いま/ここ」で死を超越する。
 その瞬間、「肉体」が、いっそう強く甦ってくる。

 で、そんなふうにして、この部分を読んだとき、何か変だなあと思うことはありませんか? 「それはまるで緊縛されていたある種の意志がその鬱屈を解かれて今や躍動しつつあるといった風だった。」このことばから、何か違ってきたぞ、と思うことはありませんか?
 いままで、「肉体」ということばで粒来の詩を読んできました。目、手、口、咽喉と、肉体を指し示すことばがつづいていますね。血も肉体の一部ですね。
 でも、「意志」はどうですか?
 肉体ですか?
 ふつうは肉体とは言わないですね。
 意志は意志。--まあ、精神かもしれない。
 でも、粒来は、その意志を肉体のように書いている。肉体の一部のようにして書いている。
 それで、とっても奇妙な文章がそれにつづいている。

おれはあえて逆らわなかった。なぜならおれ自身は蛾の跳梁に関わりなく日毎少しずつ痩せ細っていったからだ。

 おれはあえて蛾が飛び出すのにさからわなかった。まあ、これは、それでわかるのだけれど、そのあと、「おれ自身は蛾の跳梁に関わりなく日毎少しずつ痩せ細っていったからだ」がよくわからない。血を吐けば、まあ、痩せます。病気をすれば、痩せます。 痩せていったので、あらがう力がなくなった、ということになるのかもしれませんね。
 で、さっき、「蛾」を「意志」だと言いました。もし、その「意志」が「肉体」とは別個のものだとすれば、意志がいくら肉体から飛び出しても肉体は減りませんね。でも意志が肉体だとしたら、どうなりますか? 肉体から「意志という肉体」が飛び出しつづける。そうすると「意志をつつんでいる肉体」は少しずつ量が減りますね。痩せ細っていく。
 これはちょっと変な算数、変な肉体の数学だけれど、そういうことなる。ここには「蛾」と「肉体」の「一体感」がある。
 粒来は、意志と肉体を、混同している。区別しないでいる。

今や蛾を吐く感触が日常になってみると感触が日常のそれになってみると、朝の口漱ぎの折々の分厚い幅広のあらがわが口中から翔び出してまずおれの歯列に突き当たり、次いで翅粉を撒きながら狂ったように床を転げ回るという状況さえ身近なものになっていった。おれは日々黙って床を掃いた。
   (谷内注・「あらがわ」は「皮」という文字が3つピラミッド状に重なった漢字)

 ここでは、肉体のなかにあるもの、「意志という肉体」と仮に呼んでおくけれど、その「意志という肉体」とそうではない「肉体」のぶつかりあいが書かれている。そして、ここに書かれている描写を見ると、そのぶつかりあいが、非常に生々しい。ただごとではない。
 「歯列に突き当たり」までは、まだ「肉体の内部」のぶつかりあい。そこでは、「意志という肉体」が暴れるさまと、その攻撃を受け止める肉体が「歯列」ということばで具体的に書かれている。これで、粒来の書いている「肉体」の部位はまたひとつ増えましたね。「目」「手」「口」「咽喉」「歯列」。--でも、ここでも主語は「蛾」ですね。「蛾」が「歯列」に突き当たる。「蛾」が粒来の「肉体」を目覚めさせている。
 「肉体」のなかに「意志という肉体」があり、それが「肉体」にぶつかり、「肉体」を目覚めさせている。「意志という肉体」が「肉体」にぶつかってくる。そのときの「痛み」をとおして「肉体」を実感する、ということかな?
 そのあと、「蛾」は、

次いで翅粉を撒きながら狂ったように床を転げ回るという状況さえ身近なものになっていった。

 これを粒来は見ている。最初に、粒来は医者の目の奥にひそんでいることば、目が暗示していることばを見つめていた。同じように、こんどは、「蛾」を見ている。

質問 この「蛾」の特徴はなんですか?
「血の力、病気のエネルギー、活動力をあらわしているのかな?」

 「病気のエネルギー、活動力」というのはいい指摘ですね。ほんとうにそうですね。病気がエネルギーを持っていたら、人間は困るし、医師というのはその病気のエネルギーを抑える仕事をしているわけだから、こんなことをお医者さんに言ったら叱られるかもしれませんね。
 でも、「エネルギー」なのだと私も思います。
 そして、そのエネルギーのあり方を、「翅粉を撒きながら狂ったように転げ回る」という激しい運動のなかで表現しているのだと思います。「狂ったように転げ回る」には力がいりますね。力がないと、エネルギーがないと、転げ回れない。
 なぜ、苦しくて転げ回っているかといえば、実は、粒来の「肉体」が苦しみ、痛みを抱えているからですね。食道ガン。そして、吐血。日毎痩せ細るくらい苦しい。そこからあばれるようにして飛び出した「意志という肉体」は、飛び出す前、まるで「緊縛されていた」ようだったのに、それから解放されて躍動しているようだったのに、いま、苦しんでいる。「肉体」から飛び出して、自由になったはずなのに、苦しい。もがき苦しんでいる。
 「意志という肉体」と「肉体」が「苦しみ」のなかで共振している。苦しみをともに感じ取っている。
 そう書いたあと、主語が突然変わります。「おれは日々黙って床を掃いた。」
 そして、主語が「蛾」(意志という肉体)から「おれ(粒来)」にかわったまま、詩は「転」へと進んでゆきます。

 蛾が吐かれると同時にもう一つおれの内から吐き出されるものがある。それは一旦は床に落ち、おれを見あげる風だが、やがて直ぐさま翔び去っていく--。蛾の重い羽搏たきが消えた後、おれの痩身のあちこちに食い込まれたような痛みが走る。時折それが出かかる咽喉元からの悲鳴を圧し殺し、おれはおれ自身の終末を迎える前に蛾ともう一つと対峙してみることにした。

 ここは、ものすごく変ですね。さっき主語が「蛾」から「おれ」にかわると言いました。「おれは黙って床を掃いた」の部分ですね。
 で、いままで、私たちは「おれ」と「蛾」がこの詩の「主役」であると思って読んでいたのだけれど、ここにまた別の「主語」(主役)が出てくる。
 「もう一つ」。

蛾が吐かれると同時にもう一つおれの内から吐き出されるものがある。


質問 この「もう一つ」とはなんだろうか。
「あとの方に出てくる、母、女共と関係があるのかな」

 そうですね、それと関係があるかもしれません。
 先へ進まずに、ちょっとこの「転」の部分だけのことばで考えてみましょうか。
 「それはいったん床に落ち……」という文章の「それ」は「もう一つ」を指していますね。それは、「一旦は床に落ち、おれを見あげる風だが、やがて直ぐさま翔び去っていく 。」なんだか、とても「蛾」に似ている。「蛾」と区別がつかない。けれど、粒来は、それを「もう一つ」と呼んでいる。

質問 「もう一つ」なんだろうか。
「蛾は『ガン』そのものなのじゃないでしょうか。『ガン』というかわりに蛾といっている。一字、ことばを省略している」

 あ、すごい指摘ですね。蛾はガンから派生したことば、比喩なのか。ちょっと、私は思いつきませんでした。
 で、また「もう一つ」に戻りますね。
 実は、私には何のことかわかりません。ここに書いてあることだけでは「もう一つ」は何か、わからないですね。
 「承」の部分に「意志」ということばがでてきて、それは「蛾」と同じもの、「蛾」に似たものと考えたけれど、似ているという点では「もう一つ」はその「意志」に似ているかもしれない。けれども「意志」ではない。「意志」なら、ここで「もう一つ」という抽象的なことばであらわす必要はない。

 わからないときは、ちょっと視点をずらして考え直してみる。読み直してみる。
 「蛾が吐かれると」は受け身ですね。「蛾が飛び出すと」でもないし、「蛾を吐き出すと」でもない。
 ほんとうは、「肉体」と「蛾」との関係が、「おれ(粒来)」でも「蛾」でもない立場から見つめなおされているということになるかもしれない。主語は「蛾」でも「おれ」でもなく、「蛾とおれの関係」--「関係」が主語。
 「関係が主語」というのは変な言い方ですね。
 「関係」がテーマになっている。
 それは、どういう関係かというと、蛾はいったん床に落ちると、おれを見上げ飛び去っていく。
 そして、それが飛び去ったあと、おれのからだに「食い込まれたような痛みが走る」。蛾が外であばれているのを見ているときは、蛾に感覚が奪われている。けれど、蛾が見えなくなると肉体のなかで痛みが目覚める。
 どうも、肉体よりも蛾の方が「強い」。意識に占める割合が大きい感じがする。
 でも、これだけでは、わかった気持ちにならない。説明しきれない--と粒来もたぶん思っていると思う。
 --でも、いま、私が言ったことも変ですねえ。
 話しながら、あ、何かまとまりのないことを言ってしまっているなあ、と感じます。

 で、こういうときは、どうするか
 わからないものはわからないまま先へ進む。むりやり「答え」を出さずにわからないまま、先を読む。
 私は何度もこの講座で言ったけれど、ひとは大事なことは繰り返して言いなおすと考えています。この詩も、血を吐いたということを繰り返し、ことばを変えながら言いなおしています。そうして、言いなおすたびに、少しずつ粒来の言いたいことがはっきりしてくる--そういう構造になっていると思います。

 最後「転」の最後の文章は、ちょっとややこしい。
 ここでは、何かわからない「もう一つ」が残されたことになる。それを粒来は「結」の部分で言いなおしていると思う。
 で、「結」の部分です。

 ある日大きな吐き気が来た時、おれは翔び出しかかる蛾を床の上に圧し留めた。蛾はしきりに暴れたがやがて萎えた。おれは奴の翅を拡げ、展翅板にでも乗せるような恰好で用心しいしい戒めを解いた。蛾の翅は翅粉が剥げ落ち、破れかかっていて見る影もなかったが、翅粉の織りなす紋様はまだありありと残っていた。蛾の紋様には寝乱れ姿の母の後ろにおれと縁の女共の顔があった。翅は歪んだ母の裾から黄色い翅粉を零した。すると女共の顔が一斉に笑った。その笑い声のし終らぬうちにこの場景に幕を閉じようと懸命に駆けずり回るもう一つの、つまりおれ自身の醜悪な顔があった。
 その夜だった。おれに大喀血が来たのは--。

 この「結」の前半、「紋様はまだありありと残っていた」までの文章は、ちょっと変ですね。「もう一つ」が出てこない。蛾といっしょに「もう一つ」が出てくるはずなのに、「もう一つ」がない。
 ただ、蛾と闘っている。
 変ですね。
 でも、変ではないかもしれない。
 なぜ、闘っているかな?
 そのことを考えると、変ではなくなる。
 これは、粒来がはっきり書いていることではないので、私の勝手な読み方なのだけれど……。
 私は、蛾のなかに「もう一つ」があって、それをはっきりさせるために闘っているのだと思いました。蛾のからだのなかに「もう一つ」がある。それをはっきりさせるために、蛾をつかまえ、解剖する。「展翅板」に乗せるというよりも、蛾をつかまえて、蛾がきている衣装をはぎ取って裸にする--そういうことをするために、蛾と格闘していると思いました。
 そうすると、何が見えてくる。
 粒来は、まず、「寝乱れ姿の母」と書いています。それから「おれと縁の女共の顔」と書いています。母はひとりだけれど、「女共」は複数ですね。「縁のあった」とは関係のある、ということだと思う。それもたぶん形式的な関係ではないですね。精神的な関係ではないですね。肉体関係があるのだと思います。「寝乱れ姿」を知っている女ということだと思います。
 女たちと肉体関係があるのだから、これまで読んできた「意志という肉体」というのは、ここではあてはまりませんね。「意志という肉体」というのは「誤読」ですね。
 では何だったのだろう。

質問 どう言い換えればいいですか?
「本能」

 そうですね。私も「本能」ということを思いました。「本能」、あるいは「欲望」としての「肉体」。だれでも「本能」や「欲望」、この場合もっぱら「肉欲」をあらわすのだけれど、そういうものを持っている。それがあるから生きているともいえる。
 でも、それはいつでも野放しにしておくわけにはいかない。たいてい、それを抑制する形、肉体の奥にとじこめておく。こういうことを、「承」にでてきたことばで言いなおすと、「緊縛」してからだの奥にとじこめておく、ということかな?
 縛りつけられ、鬱屈していた「ある種の意志」、それが緊縛を解かれて躍動している。その「ある種の意志」は「意志」ではなく、「本能」と言い換えてみると、「結」のことばとつながりやすい。
 「承」では、それがまだ粒来には「本能/欲望」とはわからなっかた。だから「ある種の」というあいまいなことばを被ったままの表現になっている。
 でも、いまは、それが「本能/欲望」だとわかった。「いのち」の根源であるとわかった、ということだと思う。
 そして、最後に、またおもしろいことが書かれている。

懸命に駆けずりまわるもう一つの、つまりおれ自身の醜悪な顔があった。

 「もう一つ」は実は「おれの醜悪な顔」。粒来は、そう言い換えている。醜悪な、というのは、簡単に言いなおすと肉欲におぼれた本能、肉欲の本能にふりまわされてつぎつぎに女と関係したこと--というと「反省」っぽくてあまりおもしろくないけれど、そんなことかなあ。
 「蛾」は「女」の顔をしているけれど、それは単なる「女」ではない。一般名詞としての「女」ではなく、その「女」は「おれ」がいるから初めて存在する「女」なんですね。それは「女」だけれど、実は「おれ」がなかに隠れている「女」。「女」だけれど「おれ」ということになると思います。

「ここに書かれている女共は、そうじゃなくて、祖母、曾祖母など、女の家系じゃないでしょうか? 母の後ろに、とあるから母よりも時代が古い祖母、曾祖母ではないのでしょうか。縁--というのは、そして墓のことじゃないのでしょうか。墓のなかの女、祖母、曾祖母。そして、おれ自身の醜悪な顔というのは、死ぬのがこわい、ということじゃないのかなあ。女というのはいのちを産み、つないでいく存在、生き続ける人間。それに対して、おれは死んでいく。そして、そのことがこわいということじゃないのかなあ。」

 あ、私は、それは思いもしなかったなあ。
 びっくりしました。
 つぎに何かいうことを考えていたのだけれど、全部、吹っ飛んでしまいました。
 祖先としての女。「後ろ」はいまからみて母の後ろ、過去、なのか。
 いまの指摘はすごいですねえ。
 この視点から読み直すと、この詩はまったく違ったものになるでしょうねえ。

 頭の中が「真っ白」で、何も考えられないなあ。どうしようかなあ。
 もう時間もないので、なんとか私の考えたことだけ、思い出しながら言ってみます。強引な進め方で申し訳ないけれど、聞いてください。
 ここに書かれている「母」も「女(共)」も、他人ではない。「おれ」である。私は、そう考えました。
 「女がおれ」というのは、変な言い方だけれど、「女=おれ」の「イコール」が「縁」かなあ、と私は考えました。
 粒来は「おれと縁の女共」と書いているが、ここに書かれているのは、「縁」。「母」や「女」が問題なのではなく(といってしまうとまた間違ってしまうことになるのだけれど)、「縁」が「おれ」。
 もっと別な言い方を考えていたのだけれど、さっきびっくりして、ほんとうに忘れてしまいました。
 いいかげんな感じになるけれど、言いなおすと「もう一つ」とは「縁」。「おれ」と「他者(女共)」とのつながり。関係。関係といっても、固定化されたものではなく、関係の中で、生起してくるもの。動くもの。それが縁かなあ。
 粒来が書いていることは、「いま/ここ」に「何か」があらわれてくるときの「運動」だと思う。ひとつの「場」があり、その「場」のなかで、あるときは「蛾」がという形で何かがあらわれ、あるときは「意志」という形であらわれ、あるときは「肉体」という形であらわれる。それは別個の存在ではなく、「おれ」の、ある一瞬の「純粋化(?)」されか姿なのである。常に何かを潜り抜けながら、「ひとつ」の形になって見せているに過ぎない。
 粒来の書いているのは、「混沌」あるいは「無」という「場」のなかで起きる「運動」。それを「縁」と粒来は呼んでいる。
 言いなおすと、その「運動」に何かの影響を与えるもの--あるいはその「運動」の形式、運動の「枠」となるものとして、粒来は「縁」を考えているのだ。

 「縁」ということばが、粒来の「思想」なのだ。

 私の書いていることは、飛躍が多いし、一種の「でたらめ」も含んでいるが--詩だから、これくらいの「でたらめ」はあって当然だと私は思うのだが……。ちょっと強引な補足をすると、
 たとえば「蛾」。
 「蛾」について触れたとき、私は私自身の蛾を押し殺した体験(記憶)を書いたが、その体験のなかで、私は蛾と「縁」を持った。その「縁」は蛾にとってはまあ気の毒なものだけれど、それが「縁」というものである。
 粒来は、この詩の冒頭から「蛾」という「ことば」をつかっているが、喀血した血を「蛾」と呼ぶとき、そこには無意識の「縁」が働いている。蛾と粒来にも「縁」があり、「縁」があるかぎり、「経験」がある。「過去」がある。「時間」がある。
 「縁」が--その意識できない「つながり」が「ことば」にいつのまにか反映してきている。
 「縁」こそが、真の「もう一つ」(もうひとりのおれ)なのだ。
 その「縁」が、いま、ここで--最後の部分で「女」という形であらわれているのだが、それが「縁」であるかぎり、そこにあらわれたものが「女」であっても、それは「女」そのものではなく「おれ」でもある。

女共の顔が一斉に笑った。その笑い声のし終らぬうちにこの場景に幕を閉じようと懸命に駆けずり回るもう一つの、つまりおれ自身の醜悪な顔があった。

 女共が笑った。そのとき、そこに「おれ自身の醜悪な顔」があった。女共が笑わなければ、「おれ自身の醜悪な顔」も存在しない。それは「同時」に存在する。そして、その「同時」を支えるのが「縁」。
 「おれ」がいる。そのとき「おれ」は「血」に代表される「肉体」をもっている。また「意志」に代表される「精神」というものをもっている。それは融合して「おれ」という存在をつくっているのだが、「おれ」をそこに存在させるのは「血」や「意志」だけではない。「肉体」と「精神」だけではない。
 もうひとつ「縁」というものがある。
 「縁」をとおして「蛾」ということばもやってくる。「意志」も「血」も同じかもしれない。
 「縁」が、「蛾」というものをとおして、いま/ここに噴出してきている。



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粒来 哲蔵
書肆山田
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クリント・イーストウッド監督「ミスティック・リバー」(★★★★★)

2011-11-29 19:28:49 | 映画
監督 クリント・イーストウッド 出演 ショーン・ペン、ティム・ロビンス、ケヴィン・ベーコン

(2004年1月14日に、panchan worldで一回感想を書いている。下の方に、それを再掲する。このサイトは、ある事情で閉鎖状態。)

福岡の「ソラリアシネマ」が閉館する前の特別企画で、「ミスティック・リバー」を上映していたので、もう一度見てみた。
なぜ、この映画がアカデミー賞作品賞、監督賞を受賞できなかった不思議でしょうがない。「ロード・オブ・ザ・リング」1、2が受賞を逃し。3も逃すと無冠に終わる――という配慮から票が流れたんだろうなあ。で、イーストウッドにはお詫びのようにして「ミリオンダラー・ベイビー」の時に賞が来たんだけど。「ミリオンダラー・ベイビー」も傑作だけれど、やっぱり「ミスティック・リバー」の方がすごい。救いがないというか、カタルシスがないところが、賞には向かないのかもしれないけれど。

どこが、すごいか。
イーストウッドの映画はどれどもそうだが、映像に抑制がある。演技にも抑制がある。もう少し見たい、もう少し見ることができればじっくり共感できるのに、と思う寸前で映像が切り替わる。
そうすると、私の想像力がかってに働く。映し出されなかった表情を、自分の内部に感じるのである。
多くの映画が、クリマックスというか、見せ場をじっくり見せるのとまったく違う。多くの映画は観客が涙を流し、――それだけではなく、あ、隣の人も泣いている、みんな泣いていると気がつくまで、つまり、映画を忘れ、観客の変化にまで気がつく余裕が生まれるまでクライマックスを映し続けるのとはまったく違う。
この映像文法、映像リズムをイーストウッドがどうやって身につけたのかわからないけれど、とても感心する。

前回見た時は、ティム・ロビンスの演技にびっくりしたが、今回はショーン・ペンの演技に驚いた。
たぶん7年前に見た時は、ショーン・ペンの演じている役の「過去」が、最後の方になった突然噴出してきて、事件がどんでん返しのように解決するというか、構造がはっきりする部分が「種明かし」のようで、それが気になって、感想を書くとき、つまづいたのだと思う。今回はストーリーが分かっているので、「種明かし」は気にならず、その分、ショーン・ペンの演技そのものを見ることができた。
「過去」の表し方、特に、娘のボーイフレンドを拒絶しようとするときの演技がすごい。人が「なぜ、あの少年が嫌いなのか」と聞くが、その理由が演技からまったくわからない。不可解である。この「不可解」がすごいなあ。わかっては、困るのだ。ショーン・ペンは、そのわかっては困る、という演技を、演技している。嫌っている――のではなく、娘と一緒になってしまうと人生が複雑になりすぎる。「過去」がいつも「目の前」に存在してしまう。それが、困る。誰かに言いたい。でも、言えない。そして、隠す――その演技の、妙に中途半端な、つまり感情が分かりにくい演技を演技している。うーん。
これが、観客には分かってしまっているティム・ロビンスの演技と交錯する。それが演技だけじゃなく、ストーリーそのものになっていく。「過去」が「いま」を突き破って、「未来」が思いもかけない方向へ動く。
でも、その「未来(というか、現在)」を、イーストウッドは、また深追いしない。それは深追いしても、結局、カタルシスにはならないからねえ・・・。
逆にいうと、イーストウッドはカタルシスに終わらせない映画の終わらせ方を知っているということかなあ。




****以下は2004年の感想**********************

 映像がどのシーンをとっても非常に抑制が効いている。品がある。
 そして、その抑制の効いた映像の積み重ねによって、悲しみが静かに静かに積もっていく。
 俳優人の演技も抑制が効いている。けっして大げさにならない。
 クリント・イーストウッドの音楽も、音楽を主張せず、しかも音楽でありつづける。形にならない不安、こころのように、断片的に響き、その断片がずーっとつながりつづける。
 主役の3人の運命のように、重なり、離れ、また重なることで、深い深い川のように流れる。ゆったり、ぶきみに、哀しく。
 (音楽に★1個追加。)

 結末の描き方に、イーストウッドの人間観察の深さを強く感じた。
 3人の少年の1人はつらい過去によって苦しみ続けた。
 そして、残された2人は、これからつらい時間を生き続ける。
 遠い昔、2人(ショーン・ペンとケビン・ベーコン)は友達の1人(ティム・ロビンス)を救えなかった。3人のうちの2人(ショーン・ペンとケビン・ベーコン)は偶然被害者にならず、1人(ティム・ロビンス)は被害者になった。そして今、その被害者(ティム・ロビンス)はもう一度被害者になり、1人(ショーン・ペン)は加害者になり、もう1人(ケビン・ベーコン)はその関係を察知しているが「証拠」を見出していない。また、その1人(ケビン・ベーコン)はもし事件の解決がもっと早ければティム・ロビンスが被害者にならずにすんだ、ショーン・ペンが加害者にならずにすんだことも知っている。
 偶然が、何かのはずみが、人生を狂わせる。そして、それを人はどのように生きていけばいいのか、誰も知らない。どうすれば人生が狂わないのか、そのことを知っている人間は誰もいない。
 本当の哀しみとは、たぶん、そうしたことなのだろう。

 映像――。
 抑制が効いていると最初に書いた。抑制と同時に、非常に工夫された映像であるとも思った。
 何度が木を、木の葉を、木の葉越しの空の映像が出て来る。たとえば、少年のティム・ロビンスが監禁場所から逃げるシーン。何を見ただろうか。彼が本当に見たのは、木の葉と空だったのか。誰も自分をささえてくれなという不安、恐怖だったかもしれない。
 それとは逆の映像がひとつある。(いくつかあるかもしれないが、私が思い出せるのはひとつだ。)
 ショーン・ペンが娘が殺されたと知って取り乱す。警官に取り押さえられながら叫ぶ。天を仰いで叫ぶ。――このシーンだけが天からの視点である。
 ショーン・ペンは叫びながら何を見たのか。何を見なかったのか。その叫びを、苦悩を見ていたのは誰なのか。
 そして、そのときショーン・ペンに自分の哀しみが他人に理解されているという自覚があったかどうか。
 彼には、たぶん、ない。
 しかし、彼が天を仰いで絶叫するとき、その哀しみは多くの警官によって支えられている。共有されている――この点が、実は、ティム・ロビンスの場合とまったく違う。
 そして、そのまったく違うと言うことをショーン・ペンはこのとき知らないのだ。
 彼がそれを知らない、けれど多くの人がショーン・ペンが苦しんでいるということを瞬時のうちに理解、共有しているということを天からの視点で完璧に描いてみせる。
 (このシーンが、この映画で一番美しい。)
 一方、ケビン・ベーコンが見ているのは何か。
 天を仰がない。天を見つめない。そして、天もケビン・ベーコンを見下ろしてとらえることはない。
 彼が見ているのは、今、彼の目の見えるところにいる妻ではなく、見えない場所にいる妻――そして、その口元だ。ことばだ。
 彼は、今、ここにいない人間が実は自分を支えている――そう想像して、その想像を頼りに自分を律している。生きている。ティム・ロビンス、ショーン・ペンの視点が垂直に動くのに対して、ケビン・ベーコンの視点は水平に動いている、といえるかもしれない。

 また別の視点から……。
 ティム・ロビンスの孤立、絶対的な孤独は、妻が彼の言動を信じないところにも描かれている。つらい過去、こころの苦悩を語っても、理解されない。逆に誤解される。妻の不信をまねいてしまう。誰も彼を支えない。
 監禁場所から逃れながら少年のティム・ロビンスは天を見つめた。木の葉、空を見つめた。絶対的な何かにすがろうとしたのかもしれない。
 皮肉なことに(ショーン・ペンのことについて後で書くが、そのとき、「皮肉」の意味を補足できると思う)――彼の孤独、苦悩は、恐怖のためにティム・ロビンスを拒絶する妻によっていっそう深まる。
 妻は恐怖ゆえにティム・ロビンスを疑う。そして、その疑いがティム・ロビンスを完全な孤独に陥れる。
 誰ひとりティム・ロビンスを支えてくれないと感じてしまう。本当に恐怖を感じているのはティム・ロビンスなのに、誰もその恐怖について理解してくれないという絶望が彼を孤立させる。
 一方、ショーン・ペンには犯罪者の仲間がいる。絶対的にショーン・ペンを支えようと思う妻がいる。
 ショーン・ペンは娘が殺されたと知ったとき、天を仰いで絶叫した。その瞬間、彼とは直接関係のない警官が彼の絶叫を支えた。そしてそのあとは仲間が、妻が彼を支える。彼のしていることが正しいかどうかではなく、彼が必要だから(彼なくしては生きていけないから)、彼を支え、彼を守るために動く。
 ティム・ロビンスの妻が不正義に対する恐怖のために動いたのとは逆に、正義に目をそむけた人がショーン・ペンを支えている。ショーン・ペンを支えている人間は、ショーン・ペンのしていることが正義であるかどうかではなく、自分たちと常に手を取り合っているかどうかなのである。
 ショーン・ペン自身の行動規範も「連帯」である。
 裏切る奴は許せない。行動するとき支えあわない人間は許せない――というのがショーン・ペンの役どころである。
 他方、ケビン・ベーコンを支えているのは何だろうか。「正義」。人が行動するとき何を基準にすればいいか、そういことを少しずつ積み上げてきた結果としての「法律」。そういうものだろうか。
 そうしたものを手がかりに、人の行動を調べていく。(犯罪捜査をしていく。)そうすると、そこに「正義」(何が間違っているか、誰が間違っているか)だけではとらえきれない人間の苦悩が浮かび上がってくる。哀しみが浮かび上がってくる。
 犯罪捜査の結末には人間の苦悩、哀しみなど二次的なものである。しかし、その二次的なものが人間全てを結び付けているものだということが浮かび上がってくる。

 また別の視点から……。
 この映画では、ケビン・ベーコンが、なぜか私にはクリント・イーストウッドに見えた。
 目の表情が似ているかもしれない。演技が似ているかもしれない。――ということとは以上に、たぶん上に書いたことと関係があるかもしれない。
 ケビン・べーコンの役どころは、犯罪を捜査するというストーリーを演じながら、実は犯罪そのもの(犯人探し)ではなく、その犯罪が起きたときの人間の引き起こす苦悩、哀しみの総体を浮かび上がらせることである。
 犯人探しなど、どうでもいい。犯人が誰であろうとどうでもいい。
 重要なのは、その犯罪が起きたとき、その周囲で起きる人間の感情である。
 そういうものを浮かび上がらせるために、脇役に徹し続ける。ティム・ロビンスやショーン・ペンのように、顔で(表情で)演技をしない。目立たない。ティム・ロビンス、ショーン・ペン、その妻達の表情(感情)を浮き彫りにするために、あくまで引いた演技を続ける。
 最初に音楽のことを書いた。
 たぶんイーストウッドは音楽に対する本能的把握が鋭いのだと思う。
 いくつかの音が重なり合い、ひとつながりの音楽になり、それぞれの楽器が独特の表情を持つことで、それが豊かになる。
 そのとき自己主張するだけではなく、他の音を支えることに徹する音も必要なのだろう。そういうバランス感覚がイーストウッドにはあるのだろう。
 思い返せば、あの『ダーティー・ハリー』のときでさえ、イーストウッドは相手役を引き立てるような演技をしていたような気がする。





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