野村喜和夫『ヌードな日』(思潮社、2011年10月20日発行)
野村喜和夫『ヌードな日』は、「パレード1」から始まる。詩集は「パレード」の部分と「防柵」(どう読むの? どういう意味?)から成り立っていて、活字の組み方が違うのだが、そういう面倒なことをネットでは再現できないので、形式を無視して引用すると……。
何のことかわからないね。「ヌードな日、」ということばもわからない。「ヌード」は知っている。「日」も知っている。けれど、その二つのことばが「な」で結びつく形を私は知らない。
知らないけれども、「な」はたとえば「きれいな花」のように形容詞とは名詞を結びつける形でつかわれることを知っているので、あ、「ヌード」を「形容詞」としてつかっているのかな?と思う。また、「な」は「の」でもあったな。(例が思いつかない。)だから「ヌードの日」という意味かもしれないな、とも思う。
まあ、私の考えることはいいかげんである。
で、1行あいて「そぎ落とされたのだ、」というのは、「補語」がないので何がそぎ落とされたのかわからない。また句点「。」で終わっていないので、この作品が完結しているのかどうか、判断しかける。もっとも、詩なのだから(詩でなくてもそうかもしれないが)、完結することが大切なことかどうか、よくわからないから、これはこれでいいんだろう。
私の考えることは、いいかげんである。
で。
この2行--悪い気がしないのである。気に入った--とまではいかないが、ふっとさそわれる。何かがそぎ落とされた日、それがヌード「な」日。隠しているものが、見える日。あるいは、見せたいと思っていたものが見せる日。隠す-見せる(隠さない)、どっち? どっちの欲望が動くとヌード「な」日になる?
こういうことは、決めない方がいい。限定しない方がいいだろう。反対のことがらは、どこかで絡み合っていて、どっちにでも説明がつくものである。
こういうときは、何も決めないで、ただ動いていけばいい。そのうち、どちらであるかがわかるし、その「どちら」をも超えた何かがふいに動きだすかもしれない。不安定というのは、たぶんいままであったものを揺さぶるという効果がある。揺さぶられると、「液状化」ではないけれど、何か、それまで「安定」のなかに隠れていたものが、必然のようにして姿をあらわすことがある。
--か、どうか、断定してしまうことはできない。
でも、まあ、野村は、そういうことをめざしてことばを動かしているのだと思う。ことばの「地殻変動」というと、まあ、かっこいいね。やっていることが。
「パレード」は番号が進むに従って動いていく。
「でなければ」「そのくせ」ということば、それをはさんがことばがおもしろい。
「追え/追われる」「逃げられない/逃亡(する)」。矛盾している。どっちなのだ。どちらでもあるのだ。
この野村のいいかげんさと、私のいいかげんさが、まあ似ている。いやいや、私はいいかげんではないのだ。野村のいいかげんさに染まって、いいかげんなことを書いているだけなのであり、他人のいいかげんさにそまるというのは、私が真面目だからである。いいかげんを真剣に引き受けるといいかげんになってしまうのだ、と自己弁護しようかなあ。どうしようかなあ。
野村は、いや、そうではない。私は真面目である。谷内がいいかげんに読み、いいかげんなことを感想に書くから野村がいいかげんにみえるのだ、許せない。そう批判するかもしれない。
あらら。水掛け論。
まあ、どっちでも同じなのだ--と、ここでもいいかんげなことを書いておく。
で、いいかげんついでに書いてしまうと。
野村の詩は、「意味」などどうでもいいのだ。「意味」というのは誰でもがもっている。そして自分の「意味」と他人の「意味」が通い合わないとき「意味がわからない」というだけなのであり、他人の「意味」にいちいちつきあっていたら、他人のいうことはすべて「正しい(意味)」になってしまうから、そんなことをしても「無意味」なのだ。
ことばには「意味」はない。野村のことばには「意味」はない。
そこから、私は出発するのである。
「意味」がなくて、では、何があるのか。
スピードがある。
「防柵5(ゾーン)」の前半。
出産と嬰児殺し? それを裏切って生きる嬰児、生き延びた嬰児の逆襲?
ね、「意味」は適当にどうとでもなるでしょ?
だから、「意味」には触れない。
なんだかあやしげなことを書いたあと、この詩は一気に変化する。
おーい、いったい、何を書いているんだ。これは何語だ? 日本語なのか? 「乳暈」はいったいなんと読むんだ。「にゅうき」と入力して変換キーを押しても漢字が出てこないぞ。「乳」(母乳?それともおっぱい?)の眩しいような輝きのことかなあと思うけれど--ねえ、そんなことを思ってしまうと、その思いのなかに、野村の気持ちではなく、私のすけべごころが混じる。だから、いやなんだよなあ。こういう作品の感想を書くのは。谷内はすけべだと思われてしまう。(もう、思われてしまっているから、まあ、いいか。)
で、ね。
いま書いたことを繰り返してしまうのだけれど、何がなんだかわからないことばが猛スピードで動いていく。そうすると、そこに野村の「思想」ではなく、私の知っていること(つまり肉体にひそんでいる思想)が浮かびあがってきてしまう。野村の思想を追いかけようとすると、追いつけないので、私は私の「地」で野村のことばをねじまげる、ねじふせる、ということが起きる。スケベな私(谷内)が出てきてしまう。
このスケベな私(谷内)を覆い隠すように、ほらほら、野村は正真正銘のすけべだから、こんなところで「乳暈」というようなことばをでっちあげ、「ゾーン」なんてルビをふって、あたかも何か哲学的なことを装っている。
実存(ゾーン)は乳暈(ゾーン)である、おっぱいはまばゆい実存(ゾーン)である、と、ことばの暴走にまかせて言ってしまう。
あ、でも。
これ、私はとっても好きなんです。
ことばが暴走する--それを「肉体」の暴走に置き換えてみる。暴走しすぎて、自分のスピードのために転びそうになる。そのとき、肉体は、制御できない動きのなかに乱れていく。その一回限りの乱れ、そして、その乱れを復元しようとする不思議な抵抗。
美しいとか醜い、ではなく、あ、あ、あ、あ、転ぶ……と思うときの、何とも言えない他者との「一体感」。自分が転ぶわけではないのに、思ってしまうでしょ? このときの不思議な一体感。
これは運がいいと、「転ぶ」ではなく、「飛ぶ」になる。浮き上がる。浮遊する。俗なことばで言うと「ハイ」になる。これもいいよねえ。あ、あ、あ、もうすぐぶっ飛んでしまう。まるでセックスだねえ。
また、すけべ、と言われそう。--でも、念を押しておきますが、私(谷内)がすけべなんじゃないんですよ。野村がすけべなんですよ。私は、野村がいかにすけべであるかということを報告しているだけなんですよ。誤解しないでくださいね。
野村喜和夫『ヌードな日』は、「パレード1」から始まる。詩集は「パレード」の部分と「防柵」(どう読むの? どういう意味?)から成り立っていて、活字の組み方が違うのだが、そういう面倒なことをネットでは再現できないので、形式を無視して引用すると……。
ヌードな日、
そぎ落とされたのだ、
何のことかわからないね。「ヌードな日、」ということばもわからない。「ヌード」は知っている。「日」も知っている。けれど、その二つのことばが「な」で結びつく形を私は知らない。
知らないけれども、「な」はたとえば「きれいな花」のように形容詞とは名詞を結びつける形でつかわれることを知っているので、あ、「ヌード」を「形容詞」としてつかっているのかな?と思う。また、「な」は「の」でもあったな。(例が思いつかない。)だから「ヌードの日」という意味かもしれないな、とも思う。
まあ、私の考えることはいいかげんである。
で、1行あいて「そぎ落とされたのだ、」というのは、「補語」がないので何がそぎ落とされたのかわからない。また句点「。」で終わっていないので、この作品が完結しているのかどうか、判断しかける。もっとも、詩なのだから(詩でなくてもそうかもしれないが)、完結することが大切なことかどうか、よくわからないから、これはこれでいいんだろう。
私の考えることは、いいかげんである。
で。
この2行--悪い気がしないのである。気に入った--とまではいかないが、ふっとさそわれる。何かがそぎ落とされた日、それがヌード「な」日。隠しているものが、見える日。あるいは、見せたいと思っていたものが見せる日。隠す-見せる(隠さない)、どっち? どっちの欲望が動くとヌード「な」日になる?
こういうことは、決めない方がいい。限定しない方がいいだろう。反対のことがらは、どこかで絡み合っていて、どっちにでも説明がつくものである。
こういうときは、何も決めないで、ただ動いていけばいい。そのうち、どちらであるかがわかるし、その「どちら」をも超えた何かがふいに動きだすかもしれない。不安定というのは、たぶんいままであったものを揺さぶるという効果がある。揺さぶられると、「液状化」ではないけれど、何か、それまで「安定」のなかに隠れていたものが、必然のようにして姿をあらわすことがある。
--か、どうか、断定してしまうことはできない。
でも、まあ、野村は、そういうことをめざしてことばを動かしているのだと思う。ことばの「地殻変動」というと、まあ、かっこいいね。やっていることが。
「パレード」は番号が進むに従って動いていく。
ヌードな日、
知らない肉のゆくえを追え、
でなければ追われるハメになるだろうから、
そぎ落とされたのだ、 (パレード2)
そぎ落とされたのだ、
ヌードな日、
誰もそこから逃れられない、
そのくせ逃亡が、逃亡だけが、いたるところでリアルなのだ (パレード3)
「でなければ」「そのくせ」ということば、それをはさんがことばがおもしろい。
「追え/追われる」「逃げられない/逃亡(する)」。矛盾している。どっちなのだ。どちらでもあるのだ。
この野村のいいかげんさと、私のいいかげんさが、まあ似ている。いやいや、私はいいかげんではないのだ。野村のいいかげんさに染まって、いいかげんなことを書いているだけなのであり、他人のいいかげんさにそまるというのは、私が真面目だからである。いいかげんを真剣に引き受けるといいかげんになってしまうのだ、と自己弁護しようかなあ。どうしようかなあ。
野村は、いや、そうではない。私は真面目である。谷内がいいかげんに読み、いいかげんなことを感想に書くから野村がいいかげんにみえるのだ、許せない。そう批判するかもしれない。
あらら。水掛け論。
まあ、どっちでも同じなのだ--と、ここでもいいかんげなことを書いておく。
で、いいかげんついでに書いてしまうと。
野村の詩は、「意味」などどうでもいいのだ。「意味」というのは誰でもがもっている。そして自分の「意味」と他人の「意味」が通い合わないとき「意味がわからない」というだけなのであり、他人の「意味」にいちいちつきあっていたら、他人のいうことはすべて「正しい(意味)」になってしまうから、そんなことをしても「無意味」なのだ。
ことばには「意味」はない。野村のことばには「意味」はない。
そこから、私は出発するのである。
「意味」がなくて、では、何があるのか。
スピードがある。
「防柵5(ゾーン)」の前半。
ゾーン、
ぼくは沈める、
きみを、ぼくの脳を、
奥底の、冷やかな水に、
水銀のような水に、
血まみれの頭が、水蜜桃のような頭が、
女の股から、出ようとしている、
俺はそれを押さえ、
私の、はや、デスマスクの、
その右の顎のあたりから、
いびつな赤ん坊の顔が、泣きわめきながら、
せ、せりあがってくる、
出産と嬰児殺し? それを裏切って生きる嬰児、生き延びた嬰児の逆襲?
ね、「意味」は適当にどうとでもなるでしょ?
だから、「意味」には触れない。
なんだかあやしげなことを書いたあと、この詩は一気に変化する。
愛とは、息から息へと枯れがれの実存(ゾーン)を運ぶ飢えと乾きのトルネードであり、また
そのトルネードをよぎる乳暈(ゾーン)めく鳥の取扱注意である、
おーい、いったい、何を書いているんだ。これは何語だ? 日本語なのか? 「乳暈」はいったいなんと読むんだ。「にゅうき」と入力して変換キーを押しても漢字が出てこないぞ。「乳」(母乳?それともおっぱい?)の眩しいような輝きのことかなあと思うけれど--ねえ、そんなことを思ってしまうと、その思いのなかに、野村の気持ちではなく、私のすけべごころが混じる。だから、いやなんだよなあ。こういう作品の感想を書くのは。谷内はすけべだと思われてしまう。(もう、思われてしまっているから、まあ、いいか。)
で、ね。
いま書いたことを繰り返してしまうのだけれど、何がなんだかわからないことばが猛スピードで動いていく。そうすると、そこに野村の「思想」ではなく、私の知っていること(つまり肉体にひそんでいる思想)が浮かびあがってきてしまう。野村の思想を追いかけようとすると、追いつけないので、私は私の「地」で野村のことばをねじまげる、ねじふせる、ということが起きる。スケベな私(谷内)が出てきてしまう。
このスケベな私(谷内)を覆い隠すように、ほらほら、野村は正真正銘のすけべだから、こんなところで「乳暈」というようなことばをでっちあげ、「ゾーン」なんてルビをふって、あたかも何か哲学的なことを装っている。
実存(ゾーン)は乳暈(ゾーン)である、おっぱいはまばゆい実存(ゾーン)である、と、ことばの暴走にまかせて言ってしまう。
あ、でも。
これ、私はとっても好きなんです。
ことばが暴走する--それを「肉体」の暴走に置き換えてみる。暴走しすぎて、自分のスピードのために転びそうになる。そのとき、肉体は、制御できない動きのなかに乱れていく。その一回限りの乱れ、そして、その乱れを復元しようとする不思議な抵抗。
美しいとか醜い、ではなく、あ、あ、あ、あ、転ぶ……と思うときの、何とも言えない他者との「一体感」。自分が転ぶわけではないのに、思ってしまうでしょ? このときの不思議な一体感。
これは運がいいと、「転ぶ」ではなく、「飛ぶ」になる。浮き上がる。浮遊する。俗なことばで言うと「ハイ」になる。これもいいよねえ。あ、あ、あ、もうすぐぶっ飛んでしまう。まるでセックスだねえ。
また、すけべ、と言われそう。--でも、念を押しておきますが、私(谷内)がすけべなんじゃないんですよ。野村がすけべなんですよ。私は、野村がいかにすけべであるかということを報告しているだけなんですよ。誤解しないでくださいね。
ZOLO | |
野村 喜和夫 | |
思潮社 |