詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

野村喜和夫『ヌードな日』

2011-11-07 23:59:59 | 詩集
野村喜和夫『ヌードな日』(思潮社、2011年10月20日発行)

 野村喜和夫『ヌードな日』は、「パレード1」から始まる。詩集は「パレード」の部分と「防柵」(どう読むの? どういう意味?)から成り立っていて、活字の組み方が違うのだが、そういう面倒なことをネットでは再現できないので、形式を無視して引用すると……。

ヌードな日、

そぎ落とされたのだ、

 何のことかわからないね。「ヌードな日、」ということばもわからない。「ヌード」は知っている。「日」も知っている。けれど、その二つのことばが「な」で結びつく形を私は知らない。
 知らないけれども、「な」はたとえば「きれいな花」のように形容詞とは名詞を結びつける形でつかわれることを知っているので、あ、「ヌード」を「形容詞」としてつかっているのかな?と思う。また、「な」は「の」でもあったな。(例が思いつかない。)だから「ヌードの日」という意味かもしれないな、とも思う。
 まあ、私の考えることはいいかげんである。
 で、1行あいて「そぎ落とされたのだ、」というのは、「補語」がないので何がそぎ落とされたのかわからない。また句点「。」で終わっていないので、この作品が完結しているのかどうか、判断しかける。もっとも、詩なのだから(詩でなくてもそうかもしれないが)、完結することが大切なことかどうか、よくわからないから、これはこれでいいんだろう。
 私の考えることは、いいかげんである。
 で。
 この2行--悪い気がしないのである。気に入った--とまではいかないが、ふっとさそわれる。何かがそぎ落とされた日、それがヌード「な」日。隠しているものが、見える日。あるいは、見せたいと思っていたものが見せる日。隠す-見せる(隠さない)、どっち? どっちの欲望が動くとヌード「な」日になる?
 こういうことは、決めない方がいい。限定しない方がいいだろう。反対のことがらは、どこかで絡み合っていて、どっちにでも説明がつくものである。
 こういうときは、何も決めないで、ただ動いていけばいい。そのうち、どちらであるかがわかるし、その「どちら」をも超えた何かがふいに動きだすかもしれない。不安定というのは、たぶんいままであったものを揺さぶるという効果がある。揺さぶられると、「液状化」ではないけれど、何か、それまで「安定」のなかに隠れていたものが、必然のようにして姿をあらわすことがある。
 --か、どうか、断定してしまうことはできない。
 でも、まあ、野村は、そういうことをめざしてことばを動かしているのだと思う。ことばの「地殻変動」というと、まあ、かっこいいね。やっていることが。
 「パレード」は番号が進むに従って動いていく。

ヌードな日、

知らない肉のゆくえを追え、
でなければ追われるハメになるだろうから、

そぎ落とされたのだ、                      (パレード2)

そぎ落とされたのだ、

ヌードな日、

誰もそこから逃れられない、
そのくせ逃亡が、逃亡だけが、いたるところでリアルなのだ     (パレード3)

 「でなければ」「そのくせ」ということば、それをはさんがことばがおもしろい。
 「追え/追われる」「逃げられない/逃亡(する)」。矛盾している。どっちなのだ。どちらでもあるのだ。
 この野村のいいかげんさと、私のいいかげんさが、まあ似ている。いやいや、私はいいかげんではないのだ。野村のいいかげんさに染まって、いいかげんなことを書いているだけなのであり、他人のいいかげんさにそまるというのは、私が真面目だからである。いいかげんを真剣に引き受けるといいかげんになってしまうのだ、と自己弁護しようかなあ。どうしようかなあ。
 野村は、いや、そうではない。私は真面目である。谷内がいいかげんに読み、いいかげんなことを感想に書くから野村がいいかげんにみえるのだ、許せない。そう批判するかもしれない。
 あらら。水掛け論。
 まあ、どっちでも同じなのだ--と、ここでもいいかんげなことを書いておく。

 で、いいかげんついでに書いてしまうと。
 野村の詩は、「意味」などどうでもいいのだ。「意味」というのは誰でもがもっている。そして自分の「意味」と他人の「意味」が通い合わないとき「意味がわからない」というだけなのであり、他人の「意味」にいちいちつきあっていたら、他人のいうことはすべて「正しい(意味)」になってしまうから、そんなことをしても「無意味」なのだ。
 ことばには「意味」はない。野村のことばには「意味」はない。
 そこから、私は出発するのである。
 「意味」がなくて、では、何があるのか。
 スピードがある。
 「防柵5(ゾーン)」の前半。

ゾーン、
ぼくは沈める、
きみを、ぼくの脳を、
奥底の、冷やかな水に、
水銀のような水に、

    血まみれの頭が、水蜜桃のような頭が、
    女の股から、出ようとしている、
    俺はそれを押さえ、

  私の、はや、デスマスクの、
  その右の顎のあたりから、
  いびつな赤ん坊の顔が、泣きわめきながら、
  せ、せりあがってくる、

 出産と嬰児殺し? それを裏切って生きる嬰児、生き延びた嬰児の逆襲?
 ね、「意味」は適当にどうとでもなるでしょ?
 だから、「意味」には触れない。
 なんだかあやしげなことを書いたあと、この詩は一気に変化する。

愛とは、息から息へと枯れがれの実存(ゾーン)を運ぶ飢えと乾きのトルネードであり、また
そのトルネードをよぎる乳暈(ゾーン)めく鳥の取扱注意である、

 おーい、いったい、何を書いているんだ。これは何語だ? 日本語なのか? 「乳暈」はいったいなんと読むんだ。「にゅうき」と入力して変換キーを押しても漢字が出てこないぞ。「乳」(母乳?それともおっぱい?)の眩しいような輝きのことかなあと思うけれど--ねえ、そんなことを思ってしまうと、その思いのなかに、野村の気持ちではなく、私のすけべごころが混じる。だから、いやなんだよなあ。こういう作品の感想を書くのは。谷内はすけべだと思われてしまう。(もう、思われてしまっているから、まあ、いいか。)
 で、ね。
 いま書いたことを繰り返してしまうのだけれど、何がなんだかわからないことばが猛スピードで動いていく。そうすると、そこに野村の「思想」ではなく、私の知っていること(つまり肉体にひそんでいる思想)が浮かびあがってきてしまう。野村の思想を追いかけようとすると、追いつけないので、私は私の「地」で野村のことばをねじまげる、ねじふせる、ということが起きる。スケベな私(谷内)が出てきてしまう。
 このスケベな私(谷内)を覆い隠すように、ほらほら、野村は正真正銘のすけべだから、こんなところで「乳暈」というようなことばをでっちあげ、「ゾーン」なんてルビをふって、あたかも何か哲学的なことを装っている。
 実存(ゾーン)は乳暈(ゾーン)である、おっぱいはまばゆい実存(ゾーン)である、と、ことばの暴走にまかせて言ってしまう。
 あ、でも。
 これ、私はとっても好きなんです。
 ことばが暴走する--それを「肉体」の暴走に置き換えてみる。暴走しすぎて、自分のスピードのために転びそうになる。そのとき、肉体は、制御できない動きのなかに乱れていく。その一回限りの乱れ、そして、その乱れを復元しようとする不思議な抵抗。
 美しいとか醜い、ではなく、あ、あ、あ、あ、転ぶ……と思うときの、何とも言えない他者との「一体感」。自分が転ぶわけではないのに、思ってしまうでしょ? このときの不思議な一体感。
 これは運がいいと、「転ぶ」ではなく、「飛ぶ」になる。浮き上がる。浮遊する。俗なことばで言うと「ハイ」になる。これもいいよねえ。あ、あ、あ、もうすぐぶっ飛んでしまう。まるでセックスだねえ。

 また、すけべ、と言われそう。--でも、念を押しておきますが、私(谷内)がすけべなんじゃないんですよ。野村がすけべなんですよ。私は、野村がいかにすけべであるかということを報告しているだけなんですよ。誤解しないでくださいね。

ZOLO
野村 喜和夫
思潮社
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デブラ・グラニック監督「ウィンターズ・ボーン」(★★★★)

2011-11-07 22:10:10 | 映画
監督 デブラ・グラニック 出演 ジェニファー・ローレンス、ジョン・ホークス

 ここはいったいどこなのだろうか。アメリカの地方とはわかるが、まったく知らない世界がそこにある。荒涼とした山。生きている動物。動物のように「掟」にしたがって生きている男たち。耐えている女たち。
 その耐えている女のひとり--主人公の少女がすごい。
 父親が家や土地を担保に保釈金をつくり、そのまま疾走する。そのために家を追われそうになる。家には精神を病んだ母と弟、妹がいる。少女がなんとかしなければ一家は生きていけない。
 で、ふつうなら挫けそうになるところなのだけれど、その山の中で生きてきた「一族」の精神(あるいは山の中で生きてきた男たちの精神)を父親以上に具現化し、懸命に生きる。たとえば、食料がなくなったとき、リスを殺し、シチューにする。--その前に、リスを捌く。その、捌き方を弟にしっかり教える。皮を剥ぎ、内臓を素手で取り除く。これを覚えなければ生きていけない。生きるとはどういうことかを、教える。たぶん少女自身が、そういう生き方を父や一族から習ってきたのだ。そのことが、強い力でつたわってくるのだが、そのときの「手」の強調がとてもいい。生きるとは食べることであるけれど、生きるとは「手」を使うことなのである。人間は「手」を使う生き物なのである。
 だから、これに先立つシーン。リスを銃で射止めるシーン。少女は6歳の妹に、銃の引き金をひかせている。「ここに指をかけて」と。
 この「手」が、この映画のキーワードで、クライマックスにもう一度登場する。それは、まあ、ここでは書かないでおく。

 「手」には日本語の場合「手を汚す」という表現がある。英語にも同じものがあるかどうか知らないが、たぶんあるだろう。
 少女の父は麻薬密造に関係している。「手を汚している」。「手を染める」ともいうかもしれない。
 そして、男たちは「手」で相手を殴る。(女も、手で殴る。)このとき、たとえばほかの道具を使っていても、その道具(たとえば棒、鎖など)を使い、動かしているのは手である。「手」を動かして、ひとはひとを傷つける。
 その一方「手を差し伸べる」という表現もある。少女の困窮を見かねた近所のひとが料理に使う材料をもってくる。
 「手を組む」という表現もある。少女の父は、「手を組む」べき相手を間違えて(裏切って)、殺される。
 一方、「手を洗う」ではなく、「足を洗う」という表現もある。この映画では、そういう「足」は出てこない。「足をいれる」(踏み込む)は、「手を出すな」と同じように「禁止」としてつかわれている。
 どういうつもりで撮っているのかよくわからないが、少女のクロゼットにはブーツがきちんと揃えられている。その数に、何か、とても不思議なものを感じる。その印象が強くて、映画から「手」が浮かび上がってくるのかもしれない。
 「足が地についている」ということばを、いま、ふいに思い出した。そうか、少女は、この山野生活に、「一族」の生活に「足が地についている」状態なのだ。だから、そこを離れない。離れようとはしない。「足を地につけて」「手を自由に動かして」生きる。
 ということが、まるでドキュメンタリーのような、厳しい映像、遊びのない映像でつたわってくる。遊びがない--とはいっても、それは映像自体のことであって、どういう暮らしにも「遊び」はある。12歳の弟、6歳の妹がトランポリンで遊び、また干し草の山で遊ぶシーンは、こどもは「遊ぶ人間」であることを教えてくれる。そういう姿をきちんと映像化し、他方で自分の「手」で人生を切り開いていく少女がしっかりと描かれる。

 厳しい生活、厳しい人間関係のなかで、一か所、胸にずしんと落ちてくる静かなシーンもある。少女は金に困って軍隊に入ろうとする。軍隊に入れば4万ドル手に入る。その金で弟、妹を救える--そう思い、入隊を申し込む。
 このとき、担当官が少女に質問する。なぜ金かいるのか。そして、厳しいかもしれないけれど、弟・妹のところへもどって生きるのがあなたにとって必要なことだ。弟・妹もそれを必要としている、とこことばで説得する。
 そのことばを少女は受け入れる。
 とても短いシーンだが、私はうなってしまった。
 まるで「論理」を超越して、荒々しく、野生のように生きているように見えて、実は少女は「ことば」を生きている。自分の「暮らし」をことばにしている。最初の方に、隣の家の人が鹿を捌いているのを弟と見るシーンがある。弟が「もらいにいったら」と提案する。少女は「もらうのはいいが、物乞いはだめだ」という。結果が同じではなく、その過程を「ことば」でどう表現できるか。それを、少女は問題にしている。
 少女は、ただ生きているのではない。一瞬一瞬を「ことば」にしながら、そのことばの「論理」を点検しながら生きている。その生き方が、この映画の強い「芯」になっている。最初に書いたリスの皮を接ぐシーン。そこでは少女は「私はこっちからひっぱるから、おまえはそっちをひっぱれ」と弟に語る。ことばで説明する。「内臓も食べるのか」ととう弟に「いずれは」とちゃんとことばにしている。妹に銃の引き金をひかせるときも「ここに指をかけて」ときちんとことばにしている。
 映画とは基本的に「ことば」がなくても成立するものだが、この映画では、そういう細部の「ことば」が、映画そのものの「芯」になっている。

 「ウィンターズ・ボーン」というのは、いったい何のことだろうか、と途中までまったくわからなかった。最後に「意味」がわかるのだが、その「ウィンターズ・ボーン」ということばのつかい方そのものが、この映画を象徴しているとも思った。
 そして、その問題の「ウィンターズ・ボーン」のシーン。水面に浮いた電動ノコギリの油(油幕)の映像が、深く、冷たく、そしてとても美しいのに、私は息をのんだ。

 強烈な少女を演じた ジェニファー・ローレンスは「あの日、欲望の大地で」で、絶望を演じた少女だった。映画を見終わったあと、どこかで見た顔--と思いながら、なかなか思い出せなかった。役柄が離れすぎていてだれかわからないということはよくあるが、近すぎるのにわからないというのは、近いようでいて、それぞれまったく別個な人間として感じきっているからだろうとも思った。


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