詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

池井昌樹「若葉頃」再読

2011-11-02 23:59:59 | 現代詩講座
池井昌樹「若葉頃」再読(よみうりFBS文化センター「現代詩講座」2011年10月31日)

 きょうは池井昌樹の詩を読みます。私は池井昌樹の詩を中学生のころから読んでいます。旺文社の主催で「学芸コンクール」というものがあり、池井の詩はその一席に選ばれていました。中学2年のときです。たしか「雨の日の畳」という作品で、とても古くさい感じのする詩です。朔太郎とか、白秋の匂いがする。選者は山本太郎でした。その後も、池井は山本太郎が選をしている「高一時代」とか「詩学」に投稿していました。先週名前が出た秋亜綺羅は寺山修司が選をしていた「高三コース」に投稿していました。同じ年代で、ユリイカに投稿していたのが本庄ひろしです。飯島耕一が選者をしていました。私が10代のころの詩のというか、同じ年代で詩を書いている仲間のあいだでは、スーパースターというのは、この3人です。
 私は池井に教えられて「詩学」「現代詩手帖」という雑誌を知り、そこへ投稿しはじめました。4人いっしょに飲み食いしたり、遊んだりしたことはないけれど、3人というのは何度かあります。いちばん親しかったのは池井です。池井の家へ遊びに行ったり、アパートに泊り込んだりしたことがあります。すっごく汚い部屋で、夏の暑い日、「いま、匂い消すから」といってフマキラーをシューっとやる、そういうむちゃくちゃな生活ですね。池井は大学ノートにびっしり、詩をきれいに清書していました。書いた日にち、時間を克明に書き込んでいる。そういう詩人です。
 私は詩人とはほとんどつきあいがないので、まあ、いちばん親しい詩人といえば、池井になります。で、いつか、この講座で池井を取り上げたいと思っていたけれど、いざ取り上げるために読んでいると、なかなか厳しい。前回読んだ柴田基典と同じように、親しみすぎていて客観視できない。「好き」と言ってしまうと、あとは言うことがない。その「言うことがない」作品について言うわけですから、きっと話が進んでいかないと思う。
 だから、いろいろ質問してください。質問に答える形で、少しずつみなさんといっしょに池井の詩の世界へ入って行ってみたいと思います。

 まず、いつものように作品を読むことから始めたいと思います。「若葉頃」。これは「投壜通信」02、2011年09月10日発行に書かれている詩です。)若葉のころの、ある朝の光景を描いている。ひらがなばっかりの詩なので、ちょっと読みづらいかもしれない。まず、黙読してください。そのあと、○○さんに読んでもらいたいと思います。

ちょっとでかけてくるよといって
あなたはこどものてをひいて
それっきりもどってこないのです
わかばのきれいなあさのこと
はちまんさまのいしだんで
あなたはこどもをあそばせながら
めをしばたいておりました
こどもはなにかみつけては
あなたのもとへかけもどり
なにかしきりにおはなししては
あなたをはなれてゆきました
だんだんはなれていったきり
もうもどらないあのこども
あなたはいまもまちながら
わかばのきなれいあさのこと
つとめへむかうばすのまどから
あのいしだんがゆきすぎて
はちまんさまのけいだいが
あとへあとへとゆきすぎて
ものみなははやゆきすぎて
もうもどらないあのふたり
まちわびているとおいいえ
わかばのきれいなあさのこと
とおいいえにはひがあたり
おやすみのひのごちそうの
したくもすっかりととのって

 一回読んだだけで、なかなか感想はいいにくいと思いますが、どんなことを感じましたか? どこかわかりにくいところがありませんか? わかりにくいのは、どの部分ですか?

「ひらがなで書かれていて、童話的な感じ。宮沢賢治風な感じもするのだけれど、宮沢賢治と違って地に足がついている感じ。物悲しいのに、どこかに希望も感じる。どっちとも受け止めることができる世界。」
「風景が浮かんでくる。はちまんさまのけいだいが/あとへあとへとゆきすぎて、というのはそのまま風景が見える。」
「あなたはいまもまちながら、という行のあなたというのは自分のことなのかなあ。」 「最初に、あなたとこどもとふたりがもどってこない--消えてしまうのに、そのあとまたあなた、こどもが出てくる。主体がずれていく。人が死んだあとも日常がつづいている感じ。」

 あ、たくさんの感想が出てきて、ちょっとまとめきれないですね。
 まとめるのはやめて、私が感じたことをいいます。
 私は、いつも、池井の書いていることが「ぼんやり」とほどけていく感じがする。焦点がない--という印象を持ってしまう。
 池井はいまはやせているけれど、昔はぶよーんと太っていました。そのぶよーんと太った体そのままの、ぶよーん、を感じてしまう。
 まあ、こんなことを言ってもどうしようもないので、少しずつ読んでいきます。みなさんの感想のなかで、掘り下げてみたいなあと思うことがたくさんあるので、そのことも少しずつ触れていけたらいいかなあと思います。

 「あなたはいまもまちながら」は「自分(池井)」ではないかという意見が出ました。それから主体がずれていくという感想も出ました。
 この詩に書かれているのは、何人かな? 誰とだれかな? ということから考えてみましょうか。

質問 ここにいるのは、何人ですか? だれがいますか?
「あなたと、こども、それからこの詩を書いている池井--その 3人がいます。」


質問 そのとき「あなた」というのは誰になりますか?
「詩を書いているのが池井なので、あなたは母か妻。あなたが母の場合、こどもは自分・池井になると思う。いまという時間が含まれていると思う。」
「私も、○○さんが言ったように、あなたと、こどもと、作者がいると思います。」


質問 あなたは、女性?
「女性。池井が男性なので、やはり、母か妻か、どちらかになると思います。」

 みなさん全員(今回の受講生は5人)、「あなた」は「女性」と読むんですか?
 (最初の感想で、「あなた」は「自分」かもしれない、「主体がかわっている」という意見があったのだけれど、登場人物と作者の関係を質問したときの最初の受講生の答えがあまりにも論理的だったので、みんな、それに引きずられて、無意識的に感想を路線変更?したような感じ--これは、この文章を書きながら思っていることで、そのときは私も論理的な意見に引きずられ、別な感想があったことを忘れていました。あなたが女性という読み方にも仰天してしまって、それ以前の発言を忘れてしまっていた。--反省。)
 びっくりしました。私は「あなた」とは池井自身のことだと思って読みました。「こども」も池井自身のことだと思って読みました。池井が池井をつれてというのは論理的に変だけれど、論理が変なのが詩なので、まあ、私はいいかげんに考えています。それから作者(池井)がいるのかなあ。
 「あなた」が母とか妻というのは、ちょっと思いつかなかった。
 どうやって今回の詩を読みつづければいいのか、わからなくなるくらいびっくりしました。
 でも、ちょっと整理しなおして、私の考えを説明したいと思います。
 詩のなかの登場人物と作者の関係。まず、この詩のなかには「3人」が登場するというのは、どうやら間違いなさそうですね。「あなた」「こども」それから「作者」。
 そしてその「あなた」「こども」「作者」がだれかが、読み方で変わってくる。

(1)あなた=妻(母)、こども=こども(母のときは、こども時代の池井かも)、作者(池井)--これは、みなさんの読み方で、とっても論理的ですね。
 あなた=妻の場合、こどもは池井と妻とのあいだのこどもですね。実際、池井にはふたりこどもがいるので、これは理に適っていますね。
 あなた=母とすると、こども=池井になる。これは、ちょっと論理的に難しいものを含むけれど、詩だから、そういうこともあっていいと思う。
(2)あなた=池井、こども=池井、作者=池井--これは私の読み方です。池井が自分のことをわざと「あなた」と呼んで、一種の虚構のなかで何かを書いている。虚構なので、こども=池井とも考えるのだけれど、このままだと変ですね。あとで少しずつ説明したいと思います。
(3)あなた=池井、こども=こども、作者=妻--これも考えられますね。池井が妻になって、妻の気持ちを詩にしている。そういう読み方もできますね。

受講生「もうひとつ、(4)として、あなた=他人というのもあると思います。」

 あ、ほんとうだ。気がつかなかった。どうも、難しくなってきたなあ。
 いろんな読み方がある--それを全部点検してみることは難しいので、ちょっと私の「読み方」に付き合ってください。私の読み方に沿う形で話を進めていきますね。
 
 (1)の読み方は、とっても論理的。だから、説得力があるのだけれど、私は、その読み方は何か論理的すぎて、直感的に信じることができない。いいかげんな言い方だけれど、論理的すぎて変な感じがします。池井を知っているから、なお、そう感じるのかもしれない。
 私は、そういうふうに読むことに抵抗を感じてしまう。
 (3)の「妻」になりかわって、「あなた(妻からみると池井になる)」を書いているというのも、ピンとこない。
 私は、直感的に、池井は「あなた」であり、自分のことを「あなた」という形で書いている、と思ってしまう。池井は自分のことを「あなた」と呼びながら書いている。「私(池井)」と「あなた」はほんとうはひとり(一体になった人間)である、と感じている。
 こういう感じ、直感というのは説明できないし、説明しようとすると矛盾だらけになるのだけれど、詩というのは、こういうわけのわからない直感の方へ進んで行った方がおもしろくなる。
 きっと詩を書いているひとも、わけのわからない直感に突き動かされて書いているので、そういうことが起きるのだと思う。直感と直感が触れあう。まあ、ある人を見て、直感的に「あ、この人が運命の人」と思うようなものですね。
 その感じていることへむけて少しずつ読みつづけたいと思うので、付き合ってくださいね。

 私がこの詩で最初に注目したのが「登場人物」と「もどってこない」の関係です。「主語」がかわります。最初の感想に、主体が変わっている、という意見がありましたね。それから「あなたはいまもまちながら」の「あなた」は自分ではないかという感想もありました。その意見とつながるかな?

あなたはこどものてをひいて/それっきりもどってこないのです

あなたをはなれてゆきました/もうもどらないあのこども

もうもどらないあのふたり

 最初の「もどってこない」は「あなた」と「こども」かもしれないけれど、「こども」は補語ですね。文法的には「もどってこない」の主語は「あなた」。
 その次は「あのこども」。
 そして最後が「あのふたり」。
 「主語」がかわっている。これが不思議。

 いや、この不思議は「事実」を考えると不思議ではないかもしれない。「あなた」が「こども」を連れて行ってもどってこないのだから、「あなた」は当然もどってこない、「こども」も当然もどってこない、結局「ふたり」はもどってこない。とても論理的な数学。
 でも、私はどうしても違和感を覚えてしまう。
 「あのこども」「あのふたり」の「あの」がとても気にかかる。
 なぜ、「あの」ということばがついているのだろう。「あの」がないとすると、池井のことばはどんな感じになるのだろう。

質問 「あの」があるとないのでは、どう違いますか? 「あの」というのは、なんですか?
「特定のひとをさすためのことば、強調。」
「英語の、a 不特定多数の、どれでもいい何かとは違う感じ。the という感じ」
「thatかな」

 私も「あの」は、英語で言う「定冠詞 the 」だと思います。一度でてきたことば。そのことばがつかわれるとき、前につかわれたことばを思い出す。ほかの「こども」ではなく、「あの」こども。意識が明確に、思い浮かべるこどもに集中している。自分との関係が強い。意識が呼び寄せて、浮かび上がらせる「あの」こども。「あの」ふたり。たしかに強調にもつながります。

 それで。
 不思議なのは「あなた」には「あの」がついていないですねえ。
 「あの」こども、「あの」ふたりとは書いているのに、「あの」あなたとは書いていない。
 ここが大切だと思います。
 「こども」を思い浮かべるとき「あの」こどもと意識を集中する。集中してしまう。集中して、呼び寄せる。
 でも「あなた」というとき、意識を集中する必要がない。意識を強調する必要がない。それは「あなた」と「私」にが密着しているから。つまり、はなれていない。「一体」になっている。
 ここから「あなた」と「私」は一体(ひとり)だと、私は考えます。「あなた=私=池井」と感じるのです。
 もし、「あなた」が母や妻だったら、「あの」あなた、ということばが書かれてもいいのでは、と思うのです。

 「あの」にもう少しこだわってみます。「こども」にも「こども」と書かれものと、「あの」こどもがある。二種類ある。
 「あの」は一回だけつかわれる。

こどもはなにかをみつけては
あなたのもとへかけもどり
なにかしきりにはおはなししては
あなたをはなれてゆきました
もうもどらないあのこども

 最初は「あの」こどもではなく、ただ「こども」ですね。
 これは、やはりこども=池井だからだと思うのです。池井と一体になっている。
 あなた=池井、こども=池井では、池井が池井に話をして離れていくという、ちょっと変な世界になってしまうのだけれど、変なところはまた別の形で考え直せばいいかなあ、と思っています。
 あなた=池井という感じであなたと池井が一体になっていたように、あなたとこどもも一体になっている。一体になりながら、ときどきわかれてはくっついている--そういう感じかなあ。(童話的という感想があったけれど、こういうあいまいな?ところは童話につながるかもしれない。)
  そして、このあと「あの」ふたりということばが、もどらないといっしょに出てくる。「あの」ふたり、というのは、「あなた」と「こども」が「一体」になっている姿--ほんとうは「ひとり」ですね。その幸せな「一体感」がもうもどらない--そういうふうに池井は書いているのだと思う。

 で、話はちょっと前にもどるのだけれど、登場人物ともどってこないという動詞の関係に目を配ったときまで、もどってみます。
 私は何度か、詩人は同じことを繰り返し書く。ひとは大切なことをことばを変えて何度も書く。その何度も繰り返しかいている部分の、少しずつ違っているところを重ねるように見ていくと、その人の書いていることがだんだんわかってくる--というようなことをいいました。
 書いている人が何度も繰り返すのは、書いても書いても書き漏らしたものがあると感じるから繰り返すんですね。
 で、この詩の場合、「もどってこない」が何度も繰り返される。そして、その「もどってこない」の主語がそのたびにかわる。
 これは、実は、主語が変わったのではなく、池井のなかでは主語は「ひとつ」なのだけれど、何か書きたいことがあって、たまたま別な形になってあらわれているだけのことなんです。いいたいことを明確にするために、別な表現をつかっている。そういう類のひとつだと思う。
 田村隆一の詩を読んだとき、空から墜ちてくる取り、窓から聞こえる叫び--そういうものが結局一つの何かを象徴しているということを見ました。同じように「あなた」「あのこども」「あのふたり」は何かを象徴しているのです。そして象徴されているものは「ひとつ」なのです。その「ひとつ」がもどってこない、と池井は書いているのかなあと私は思います。

 その「ひとつ」は何なのかなあ、ということを考えてみたいと思います。
 また最初の方にもどります。

はちまんさまのいしだんで
あなたはこどもをあそばせながら
めをしばたいておりました
こどもはなにかみつけては
あなたのもとへかけもどり
なにかしきりにおはなししては
あなたをはなれてゆきました

 これは、現実に池井がこどもと遊んでいる風景にもとれるけれど、(池井には実際に二人の息子がいます)、そうではなくて、池井自身がかつてそんなふうにして遊んだという記憶を思い出しているとも受け取れる。「こども」になって、何か見つけては、それを「父」のところへ報告しに行った、そうしてまた離れて行った、そういうことを思い出している。そのときの幸せを思い出している。
 そうすると、ここでは「こども」が「私(池井)」になり、「あなた」は「池井の父」ということになる。そして、「父」であることによって、池井は「父」と重なる。「父」が幼い池井を見つめていたときの「気持ち」を池井はここで想像している。「父」の気持ちになっている。「父」そのものになっている。こどものしあわせ、よろこびは、父のしあわせ、よろこびでもある。
 池井は、父のよろこびも、こどものよろこびもいっしょに感じている。「ひとつ」と感じている。
 「あなた」を母とか妻とか女性と考えると、ここでの「一体感」はつかみにくいのだけれど、「父」と考えると「男」が「父」と「池井」を繋ぐ共通項になって、そこに「ひとつ」が生まれてくる。その「ひとつ」によって、しあわせ、よろこびも「ひとつ」にかさなりあってしまう。
 そんなややこしいことではなくて、まあ、父親になって、父の気持ちを知ったということなのかもしれないけれど。
 池井が「こども」になることは、変な言い方だけれど、池井が「父」になることと、切り離せない。こども=池井、父=池井は、そんなふうに重なり合う。
 変ですね。論理的ではないかもしれないですね。
 これは、まあ、厳密に考えると変なのだけれど、詩なのだから、こういう変な部分は変なままにしておくと、いいのです。(いいかげんで、ごめんなさい。)
 池井はようするに、神社の境内でこどもを遊ばせながら、そしてこどもを見ながら、自分のこども時代を思い出し、同時に自分がこどもだったときの父を思い出し、いわば父-池井-こどもという命の連続のなかに自分を置いて、その3人が結局「ひとり」だと実感している。3人を「ひとり」にする「よろこび、しあわせ」に触れている。このよろこびは「ひとつ」。
 そのとき、そこで何が起きているか。これはあとで触れるけれど、説明しようとするとどうも説明できないけれど、「こと」ということが起きている。父と子が遊んでいる、その「こと」。「こと」のなかで、父と子が一体になり、その一体が、いまの池井とも重なる。父と子という肉体が「ひとつ」になるのではなく、話をすること話を聞くことの「こと」が「ひとつ」になっている。
 そうして3人は、意識というか感情的には「ひとり」というつながりをもつけれども、現実の肉体は3人なので離れていく。
 そして、離れていくけれど、また、離れる前のことを思い出しもする。思い出して、また「ひとり」になろうとする。こういう意識の動きを、池井は

まちながら

 ということばにこめている。池井はいつでも積極的に何かを切り開いていくというよりも、待っている。動かずに、自分自身をほどいてゆき、その広がりが何かと重なり一つになるのをまっている、という印象が私にはあります。(これは長くなるので、省略。)
 で、この「まちながら」ということばといっしょに書かれている「いま」、あなたはいまもまちながら、の「いま」。
 これが、また、不思議ですね。

質問 「いま」というのはいつ? そして、その「いま」の「場所」はどこ? どこで、待っている?
「神社の石段、あなたとこどもが話したとき」

 そうですね。「いま」というけれど、たとえば2011年ではないですね。「ここ」でもないですね。
 「あの」場所、「あの」とき(時間)を「いま」と池井はいっている。
 「いま」ここにない、「あの」とき、「あの」場所が、「いま」ということばといっしょに、詩のなかに呼び出されている。「過去」が「いま」と呼ばれている。
 そして、その「過去」は過ぎ去っていかない。むしろ、「いま」へ向かって進んでくる。
 「過去」が「いま」へ向かって進んできて、重なって「ひとつ」になっている。
 思い出すというのは、「過去」が「いま」に重なることなんですね。
 「過去」--その過ぎ去って、ここにはない「時間」を「あの」ときとして呼び出す。「いま」の意識のなかに呼び出す。「あの」ときは「あの」ときなのだけれど、思い出すという意識そのものの運動は「いま」起きている。「この」ときに起きている。だから「いま(このとき)」といってしまう。
 「あの」石段の「あの」時間と、池井がいる「いま」(このとき)が重なる。
 ここでも、別々なもの「あの時間」と「この時間」が重なる。一つになる。
 この重なり、「ひとつ」というものを池井はいつでも書いている。

 最初の方に池井の詩を読むと、ぶよーんとした体を思い出すといいました。このぶよーんは、何か余分なものが重なっているということとつながる。「ひとつ」ではない何かがかさなって「ひとつ」になっている。どうしたって、二人がひとりになれば太ります。

 「時間」にもどります。
 「時間」はふつうは、過去-現在-未来という具合に流れる(進んで行く)というふうに考えられているけれど、池井がえがいている時間は違いますね。
 「あの」ときと「いま」が重なる。きっと未来も重なるのだと思う。

質問 過去-現在-未来、という時間が流れるのではなく、「ひとつ」になってしまう。この「過去-現在-未来」が一つになった時間というのは別なことばで言い表せないだろうか。なんというのだろうか。
「宗教の世界。なんだか宗教的な感じがする。」
「永遠?」

 私もそう思います。「永遠」というのは時間の流れを超越している。時間は過去-現在-未来と流れるのではなく、流れるのをやめて流れとは違った方向へ広がっていく。
 この広がりを、ぶよーんというと、若いころの池井の肥満体そのもののぶよーんになる。池井は肉体がもう「永遠」とひとつになってぶよーんとしている。
 「永遠」は流れない、すすまない代わりにどうなるか。広がります。ぶよーんと広がり、そのひろがりのなかに人間をのみこんでゆく。

 こどもが何かをみつけ、うれしそうに父に報告する。父はそれをしっかりと聞いて受け止める。そういう至福の時間。幸せが広がる。それは、たしかに永遠だと思う。
 その「永遠」の光景が存在する場所が、「はちまんさまのいしだん」ですね。
 そして、その「いしだん」は、いま--この詩を書いているほんとうのいま、「あの」いしだんになっている。

 若葉のきれいな朝、バスに乗って勤め先へ向かう。そのとき神社の石段が見える。それを見た瞬間、池井は「あの」石段を思い出した。それはいま見えている東京の神社の石段ではなく、ふるさとの香川県坂出市のどこかにある石段。かけ離れたものが、神社の石段という共通なものをとおして、ぴったり重なり、重なることで、過去といまを重ねあわせる。その重なりを利用して、池井は、「あの」石段の時間へ還って行った。
 そこにはこどもがいて、こどもは父親に何かを語り、父はそれをしっかり聞いていた。そういう時間がたしかにあった。
 これは、望郷かも知れませんね。なつかしい思い出かもしれない。
 それは、「あとへあとへとゆきすぎて」ゆく。あらゆるものが過去へとゆきすぎていく。
 それでも池井は、まだ思い出すことができる。
 「あの」ふたりは、ほんとうは帰って行ったのだ。どこへか。

もうもどらないあのふたり
まちわびているとおいいえ
わかばのきれいなあさのこと
とおいいえにはひがあたり
おやすみのひのごちそうの
したくもすっかりととのって

 太陽の光、おひさまのひかりと言った方がいいかな、が降り注ぎ、御馳走を支度をととのえた家。なつかしい家へ。これは「過去」のことを書いているのかなあ? ちょっと違う感じがする。それはまた、あとできっと話すことになるのと思うので、ちょっとわきに置いておいて……。
 池井は、いま、遠い昔の、幸福な「家」を思い浮かべている。「家」というのは、家族ですね。父と子、母と子、さらには祖父母がいる。そして、その「一家」の血は遠く遠くどこまでもつながっている。
 そこには区別はあるけれど、同時に区別がない。「あの」父がいて、「あの」母がいて、「あの」こどもがいる。さらに「あの」祖父母がいる。「あの」のなかで、それは「一体」になっている。
 この「一体感」を、池井は、放心して眺めている。放心して、その世界へ溶け込んでゆく。それが「いま」。過去であると同時に、「いま」であり、またそれは「未来」でもある。これから先にやってくる「時間」でもある。「時間」の区別がない--だから、それを「永遠」と言うことができる。

 もう少し、追加します。
 この詩には、繰り返しあらわれる行がある。

わかばのきれいなあさのこと

 3回でてきます。この3回を「過去」「現在」「未来」と言い換えてもいいけれど、あとでまた触れます。
 気をつけて読んでもらいたいのは、ここで池井が「あさのこと」と「こと」ということばをつかっている点。
 ついさっき、過去・現在・未来という時間のことをいい、また何度も「いま」ということばで時間に触れたけれど、池井は「朝」という時間をあらわすことばで行をおわらずに「こと」ということばをつけくわえている。
 「いま」というのは「朝」という「時間(とき)」ではなく「こと」なんですね。池井は「あの」ときを思い出しているのではなく、「あのこと」を思っている。

 「こと」とは何か。

質問 「こと」って、なんだろう。
「できごと、かな。」

 あ、すごいなあ。
 「こと」を何と言い換えていいのか、わからなかったのだけれど、そうですね「できごと」ですね。ありがとう。
 人間が動いて、その動きが広がりをもつ。「広がり」をもった「できごと」。
 「いま」というのは「一瞬」、広がりをもたない「時間」だけれど、「こと」はそうではなくてあくまで「広がり」をもった何かですね。「こと」のなかには、いろいろなものが含まれている。矛盾した感情も含まれている。そしてそれは分離できない形でつながっている。影響し合っている。
 ほんとうは「こと」がいくつも重なっている。
 「こと」というのは、いくつもの何かが重なって起きる「ひとつのできごと」。「こと」は「ひとつ」。そして、この「ひとつ」のなかには、この詩でいうと「あなた」と「こども」の重なりがある。人さえも重なり合う。人さえも、それぞれのひとでありながら「ひとり」。「ひとり」と「ひとつのこと」が重なる。
 「こと」というのは、別なことばで言えば「関係」かもしれない。重なり合った、関係。切り離せない「関係」。
 その重なり合った「関係」、重なり合った「こと」がなつかしさを誘う。そのとき「永遠」という「こと」があらわれる。
 「永遠」というのは「こと」である。

 その「こと」のなかで、いま、池井が感じている大事なこと--、それは「まつ」、待っていることですね。
 「まつ」もこの詩のなかでは繰り返されている。

もうもどらないあのこども
いまもあなたはまちながら

もうもどらないあのふたり
まちわびているとおいいえ

 「もうもどらない」とわかっていても「まっている」。むしろ、もうもどらないからこそ「まっている」。もどらないとわかっていてまっているというのは無駄なことだけれど、その無駄のなかに美しいものがある。
 ひとはだれでも、もどらないものだけを待っているものかもしれない。
 どこかで経験した美しい瞬間--それは、私は仏教徒ではないのだけれど、仏教で言う「輪廻」のような感じかなあ。私が生まれる前に経験した美しい何か。それを待っている。さっき宗教的ということばがでたけれど、こういう感覚が詩に含まれて入鹿らかもしれませんね。
 生まれる前に経験した何か--というのは、論理的には矛盾なのだけれど。
 でも、感じることがありませんか?
 父がいて、母がいて、暮らしがある。その暮らしのなかにいると、父と母の姿をとおして、自分の知らなかった何か、ほんとうは経験した何かがふと見えるというようなことが。その父と母の向こうには祖父母がいる。そういう「家族」、あるいは家系だけではなく、人間の生き方そのものがふっと見える。「いのち」のあり方が見える。
 あるいは、だれかが自分を愛してくれていて、自分のすることを見ていてくれ。そういう感じをとおして、自分が生まれる前に体験したことをぼーっと思い出す。そのだれかは、私が(これは池井という意味だけれど)、つまり池井がその生まれる前に体験した「こと」のなかへもどってくるのを待っている。その「まつ」力を池井は全身で感じている。

わかばのきれいなあさのこと
とおいいえにはひがあたり
おやすみのひのごちそうの
したくもすっかりととのって

 これは、美しい情景ですね。「おやすみのひのごちそう」と池井は書いている。よく似たことばを池井はときどき書きます。そのことばを利用して言い換えるとこれは「まつりのひのごちそう」。
 もどってこない人がもどってくる。そこで賑やかに何かを語り合う。祝祭。おまつり。おまつりの幸せ。--その準備を、だれかがいつもしている。「おまつりのごちそうの/したく」は「すっかりととのって」いる。
 そして、これは言おうとして言えなかったことなのだけれど、「過去」あるいは「いま」のことではなく、「未来」のことですね。
 最初の「わかばのきれいなあさのこと」は「過去」。そのことばといっしょに神社で遊んだ記憶が語られる。2回目の「わかばのきれいなあさのこと」は「つとめにむかうばすのまどから」と「いま(現在)」といっしょに書かれている。最後は、遠い記憶の風景にも見えるけれど、それを「過去」としてではなく、「未来」として池井はあこがれのように、ぼんやりと眺めている。味わっている。
 いつか、「あなた」「こども」、そしてその「いのち」のつながりが、お祭りのようなあたたかい賑やかさのなかで復活する(もどってくる)を池井は待っている。そこに、希望のようなものがある。悲しいことを書いているようで何か希望があるという感じがするのは、そこに「未来」が「いま」と結びつけられて書いているからだと思います。

 それは、実は、もうもどることができない「どこか」である。けれど、もうもどってこない「あなた」「こども」同時に「わたし」が思い起こすとき、それは「あのとき」ではなく、「いま」として輝きだす。その輝きを池井は思い起こしている。
 「未来」のこととして、いのりをこめて眺めている。放心して、待っている。



 このあと、雑談。
 「若い人は、やっぱりいいなあ。私くらいの年になると、もう希望というものが書かれているというふうには思いつかなかった。」
 「私は、あなたは、一瞬おじいちゃんかなあと思った。」
 「なぜ、おじいちゃん?」
 「神社というと男性的。女性はこどもをつれて神社へ遊びにゆくというのはないのじゃないのかなあ。」



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池井昌樹詩集 (現代詩文庫)
池井 昌樹
思潮社
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