詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

小柳玲子『さんま夕焼け』

2011-11-05 23:59:59 | 詩集
小柳玲子『さんま夕焼け』(花神社、2011年10月24日発行)

 小柳玲子『さんま夕焼け』は非常におもしろい詩集である。「過去」が説明なしに出てくるのである。「過去」が「いま」を突き破って、平然としているのである。
 「三月 雨」には、わけのわからない「過去」が「もの」となって、三つ出てくる。

夕方
窓の外をサンマの顔をしたものが歩いていった
「お父さん サンマが」といったが父には聞こえなかった
父の部屋はとても遠い
長い廊下を走っていったが どの夕方にも間に合わない
裏木戸にはむらさきのおおきなものと
むらさきの小さなものが来ていた
「お父さん むらさきの」
叫びながら走ったが 父の部屋は遠い
不意に電話ボックス 廊下に電話ボックスも変だが
在るのだからしかたがない
「や おまえ サンマは届いたか」
受話器の中から父がいう
「旬の過ぎたサンマだが まあ我慢しなさい
 山住まいのおまえにはご馳走だろう
 雨はどうかね からから天気と聞いたが
 山火事には気をつけなさい
 アメフラシの親子を送っておいたよ
 むらさき色のおかしな奴さ」
父の部屋はとても遠い
海が近いらしい
波打ちぎわにはアメフラシの家族が住むらしい
そこにはまだ行きついたことがない
三月 山間(やまあい) 夜半より雨

 「サンマ」「電話ボックス」「アメフラシ」。ほかにも、まあ、変といえば変なものが出てくる。たとえば「遠い」「父の部屋」なんかもそうだが、とりあえず(?)、とっても変なのがサンマ、電話ボックス、アメフラシである。なかでも特別に変なのがサンマである。電話ボックスやアメフラシはサンマにつられてでてきただけである。

夕方
窓の外をサンマの顔をしたものが歩いていった

 このとき、「サンマ」は「比喩」である。サンマのような顔をした人--と読むことができる。鳥の顔をした人、犬の顔をした人--といえば顔を見れば鳥を思い出す、犬を思い出すということになる。サンマの顔もサンマを思い浮かべる顔、ということができるだろう。
 ところが、

「お父さん サンマが」といったが父には聞こえなかった

 と言ったとき、もうそれは「比喩」ではなくなっている。サンマそのもの。「サンマの顔をしたもの」という「比喩の現実」を突き破って、サンマそのものがあらわれた。サンマしか見えない。どこかに、あるひとの顔がサンマに見える理由(根拠-過去)があるはずなのだが、それがまったく説明されずに、それどころか、「比喩」であることさえやめてしまって、「現実」としてそこに存在する。
 「お父さん サンマが」と途中で切れてしまっていることばが、とても効果的だ。
 サンマがどうしたというのだ。
 小柳には言うことができない。現実がサンマに乗っ取られてしまって、それをどう言っていいかわからない。動詞がみつからない。「サンマが……」言いたいのだが、言えない。その言えないことを「お父さん」に言ってもらいたくて「お父さん サンマが」ということばになるのかもしれない。--まあ、これは、どうでもいい。
 なにもかもが、どうでもいい。ただ、サンマなのである。サンマの根拠、過去--いまとのつながりを説明することを拒否して、ただ、あったはずの過去をただ、そこに出現させる。
 「電話ボックス」も「アメフラシ」も同じである。電話ボックスには「廊下に電話ボックスも変だが/在るのだからしかたがない」という開き直り(?)のことばがつけくわえられているが、あらゆる「過去」というのは、もう、しかたがない。起きてしまったことなのだ。「いま/ここ」になにかあるとしたら、それはたしかに「過去」に原因(理由)があるはずだが、そういうものはつきつめても仕方がない。「いま/ここ」にあるものが変わるわけではない。ああ、こんなところに、こんな「過去」がこんなかたちであらわれてしまうのか、と思うだけである。

 でも、まあ、こんなことも、どうでもいい。
 「過去」が三つ出てくる--などと書いたのは、きのう書いた山之内まつ子の『徒花』のことを私がまだ引きずっているからである。山之内の「過去」は全部説明されている。「いま」と「過去」が結びついて、きちんと説明されている。説明されすぎていて、「散文」になっている。
 一方、小柳の「過去」は説明されない。「過去」があります、というだけで、何の説明もしない。
 そして、何の説明もしないことによって、そのまわりが微妙に変化する。生身の人間に出会ったとき、ふいに気がつくわけのわからない「過去」のにおいに影響されて、何もいっていないのに変なことを感じるようなものである。
 芝居で、ある役者が出てくると、それだけで時間が複雑化するのに似ている。だれでも「過去」をもっている。その「過去」がにおって、それに影響される。「いま」が不安定になる。そして、動きだす--というのに、似ているかなあ。

 サンマ--何か、わからない。何の「象徴」なのか、「意味」がわからない。でも、私はサンマを知っている。だから、「窓の外をサンマの顔をしたものが歩いていった」という1行を読んだとき、「意味」はわからないが、サンマ(の肉体)が見える。この「意味」はわからないが、「肉体」が見える--というのが「過去」が「いま」を突き破ってあらわれるということである。
 私が感じているのと同じことを小柳は感じたのだろう。だからこそ、思わず、「お父さん サンマが」と言ってしまった。こういったとき、小柳は、近くに父がいると思ってそう言っている。父が近くにいるという「過去」が「いま」まであったから、思わずそういう反応をしてしまったのだが、

「お父さん サンマが」といったが父には聞こえなかった
父の部屋はとても遠い

 父が近くにいない、ということに気がつく。これも「いま」に気がつくというより「過去」に気がつくということかもしれない。
 「父の過去」。たとえば、父は死んでしまって、いまはない、と気づく。それは「いま/ここ」に父はいないと気づくことというより、父は死んだときづくことである。「いま」に気づくのではなく、「過去」をあらためて発見するのだ。
 一方に「サンマ」というわけのわからない「過去」があり、他方に「父が死んだ」という小柳にとっては自明の「過去」がある。
 この不明の過去と自明の過去の衝突が、詩を生き生きとさせている。

「お父さん サンマが」といったが父には聞こえなかった

 というが、どうして「父には聞こえなかった」とわかるのだろう。聞こえたか聞こえなかったかは父にしかわからない--というのは、嘘である。だれだって、こういうことは経験している。だれかに何かをいう。でも、返事がない。聞こえないは、ほんとうに聞こえいなということもあるが、何かに夢中になっていて「聞いていない」ということもある。そういう「経験」(過去)を小柳は、父とのあいだでもっている。(もっていた。)そういう「過去」もここに噴出してきている。さらに、父の部屋が遠いところにあった--たとえば離れとか。そういう「過去」も知らず知らずに噴出してきている。
 もちろん、いまは、父は死んでしまっているから、父のいる部屋は「とても遠い」。これは、比喩であるが、現実である。
 --これは比喩であるが、現実である、と、私はいま、とてもあいまいなこと、矛盾したことを書いたが、たぶん、これが小柳の今回の詩集の特徴である。
 どのことばも比喩なのだが、現実である。比喩ということばを使うと便利なのは、その比喩が実は「過去」だからである。これは「過去」だが「現実」である、というと、そこに「時制」の矛盾がでてきてしまう。「過去」と「いま」は同時に存在しえないという「科学的論理(?)」が思考を邪魔してしまう。比喩と現実ならば、「時制」は問題にならない。
 で、このことから、私は逆に、小柳の詩には「過去」が噴出してきている、「いま」のなかに「過去」が顔を出して平然としている、というのだが……。

 少し抽象的に書きすぎたかもしれない。私のことばは急ぎすぎているかもしれない。詩に、もどる。

長い廊下を走っていったが どの夕方にも間に合わない

 この1行も、実に、変。そして、実によくわかる。
 たどりつくべきは「父の部屋」。でも、何かにたどりつこうとしてたどりつけないとき、気になるのは「時間」だねえ。「どの夕方にも間に合わない」。「意味」はいろいろい考えられる。「夕方」が終わってしまって、夜になってしまう。
 「サンマ」のことより、時間のことが気になってしまう。意識が、なぜか、変化してしまう。
 だから、見えるものまで違ってくる。そして、言いたいことまで違ってくる。

裏木戸にはむらさきのおおきなものと
むらさきの小さなものが来ていた
「お父さん むらさきの」
叫びながら走ったが 父の部屋は遠い

 サンマは、どこへ消えた? 「むらさきのもの」って、サンマ? サンマは、紫かなあ。青く光るから、夕暮れには紫にも見えるかなあ。でも、違うよね。
 小柳のことば自体「お父さん さんまが」から「お父さん むらさきの」に変わっている。
 遠い父の部屋--遠い過去へ向かっている内に、過去の時間がごちゃ混ぜになって、別の「過去」が噴出してきているのだ。夢のなかでのように、ある「運動」は持続しているのだが、あることがらは脈絡をなくしていく--というように「過去」がずれながら噴出する。
 ここまでずれてしまえば、電話ボックスくらいは平気である。ぜんぜん、変ではない。電話ボックスがなくて、そのまま小柳が走りつづけて父の部屋にたどりついてしまう方が変である。たどりつけない。たどりつけないだけではなく、また何かに邪魔されるというのが当然のことである。必然である。「過去」はごちゃまぜなのだから。

「や おまえ サンマは届いたか」

 ふいに、小柳が忘れてしまっていたサンマを父の方が引っぱりだす。
 このねじれ、ずれも、とてもリアルだ。
 現実はいつでもねじれながら重なり合う。一人が忘れ、別の人が思い出し、「過去」を甦らせ、「いま」を突き動かす。
 同じ会話をした「過去」が小柳にはあって、それが、「いま/ここ」に噴出してきているのだ。

 結局、と、私は、突然「結論」を書いてしまうのだが(私は目が悪いので--と弁解をしておく。一回に書ける分量が決まっていて、時間が来たら書くのをやめるのである。時間制限で「日記」を書いている)、ここに書かれているのは、「過去」には私(小柳)には父がいました。父と私の関係はこういうことでした、ということなのだ。ふと思い出した「過去」、「いま」へあらわれてきた「過去」--それをそのまま書いている。
 サンマはきっかけに過ぎない。
 思い浮かべるとき「過去」は「いま」になる。「過去」は「いま」に噴出しながらいつまでも「生きている」。

 そして、この「生きている過去」(生きている父・母)との関係がとてもあたたかい。父の浮気(?)、母の不倫(?)のようなものも、父と母の小柳に対する不満の声もすべて受け入れて、ことばにしている。そこに、しずかな、おだやかな、「愛」がある。
 「過去」は「過去」ではなく、「生きているいのち」そのものなのである。
 「いま/ここ」へあらわれる「生きているいのち」との新しい出会い、現実にはけっして会えないからこそ、繰り返すことのできる出会いがある。実際に出会ってしまえば、わかれが現実に噴出してくるけれど、小柳が書いているのは別れのない出会いである。
 その出会いによって、小柳は父になり、母になる。小柳自身にもなる。--この自在な変化の美しさ、おもしろさが、この詩集にはあふれている。
 「箒売り」には父と母が登場して、なかなかいい感じなのだが、ここでは「父」を転写しておこう。しみじみとしたさみしさが、とてもなつかいし気持ちを呼び覚ます。

とつぜんいなくなって悪かったけど
といった
しばらくあの国で数学を教えることになったので
急に旅に出てしまった
みんな元気か それはよかった
いや もう戻ることはないだろうよ
あの国の数式はすばらしく美しいんだ ずっと昔
一度だけ夢の中で出会った式なのさ 朝がくると
消えてしまって それきり思い出せなかった あれなんだ

きのう 霧は
黒板の前の数学者に似た形で
私の町を通っていったが
六丁目の角で しばらく
私の窓を覗いて 帰っていった





雲ヶ丘伝説
小柳 玲子
思潮社
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