詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

今井義行『時刻の、いのり』

2011-11-09 23:59:59 | 詩集
今井義行『時刻の、いのり』(思潮社、2011年09月25日発行)

 今井義行『時刻(とき)の、いのり』は「ミクシィ」に発表したもの、という前書きがついている。そして、ひとつひとつの作品には、時刻が記入されている。2010年04月25日:00 「イギリスパンとマーマーレード」、2010年04月25日08:03 『額縁のなかの太平洋』という具合である。時間が隣接しているが、3分間あればオンラインで入力できる行数である。直接書いたものなのかもしれない。
 試しに、『額縁のなかの太平洋』を入力してみる。

そうして また 朝はやってきた
そうして また 食事の支度です

パンをトースターで焼きました
椅子から頂き物の絵が見えます

壁にかけられた額縁は右に傾いていました
そのなかの太平洋が
珈琲を飲む
わたしになだれこんでくるような気がして
わたしになだれこんでくるような気がして

こわかった

トーストに塗ったばらのジャムが
トーストの淵から
はみ出して人差し指がぬれるのも

こわかった

油絵の具の太平洋なので
わたしは 粘り気のある太平洋のしぶきに
まみれました

太平洋の粒子は
太陽に 照らされれて 青、赤、黄、

美しすぎて
からだの奥まで少しずつ浸透していくことも
こわかった

 3分10秒で入力できる。私は目が非情に悪いので、何度かモニターと詩集を往復してしまったが、3分あれば書き込みが可能な量ではある。一気に書いたものであると仮定して読み進むことにする。(ちなみに私はオンラインで書き込んでいるわけではないが、1回40分以内と限って書いている。--ときどきオーバーするが、たいてい40分以内で書くのをやめる。それ以上は目に負担が大きすぎる。)
 一気に書いた詩には、一気に書いたスピードの美しさがある。
 3連目の「珈琲を飲む」の「主語」が直前の「そのなかの太平洋が」なのか。そう思った瞬間、「わたしになだれこんでくるような気がして」によって、「珈琲を飲む」が「述語」ではなく修飾節にかわる。そのときの、一瞬の、飛躍というか、ずれのような感じは、狙って書くというより、勢いで書いたときの方が「正しく」動くように思える。念を押すようにもう一度「わたしになだれこんでくのような気がして」と繰り返すのもおもしろいし、そのあとの1行あき、そして「こわかった」と1行が独立するのもおもしろい。「こわかった」という1行自体は、おもしろくもなんともないのだが、その行が独立するところが、「即興」のおもしろさである。
 「こわかった」の対象が「変質」していくのも、即興ならではだと思う。太平洋がわたしのなかになだれこんでくるのは溺れてしまうからこわかいもしれないが、ジャムで手がよごれるのは、同じように「こわかった」とは言えない。(はずである。)けれど、その「違い」を一気に取り払って「こわかった」でひとつにしてしまうとき、そこに今井独自の「肉体」が見えてくる。あ、そうなんだ。今井はよごれるのが「こわい」のである。「きらい」を「こわい」と感じるのである--と私は思うのである。
 そして、そのあと、

油絵の具の太平洋なので
わたしは 粘り気のある太平洋のしぶきに
まみれました

 と太平洋の絵に引き返し、そして絵から絵の具、それから絵ではなく(?)、太平洋そのものの輝きにまみれていくところがおもしろい。
 「こわい」という感情が、世界の枠をくずしてしまう。「こわい」のなかで、「意味」というのだろうか、いわゆる「概念」の枠がくずれていく。破壊されていく。「美しい」が「こわい」になる。
 こういう動きは、冷静に、じっくり考えると、とても変である。
 そのふつうなら変なことも、即興では変ではない。
 即興というのは、言い換えると、電気のショートみたいなものである。
 むき出しの、ただ、そこに存在するのものが、一気に噴出してくる。そして、ぶつかって、火花を散らす。その輝きが詩になる。
 なかには、2-3分で書けないような行数(ことばの数)の作品もあるけれど、目が健康なら書けるかもしれないとも思う。私の健康状態と比較して判断するのはやめることにする。

 即興には即興独自の美しさ--推敲しない美しさ(?)、ことばをあとからととのえ直さない美しさがある。

あじさいは 直接話法である

 という「浮上する教室--来るべき日々へ」という1行はとても印象に残る。
 一方、あ、変な行と思うものもある。
 「ひるがえる様々な布」というのは、私はとても気に入っているのだが……。

洗濯された
いろいろな衣類は
素直です
はたはたと揺れ

風の最中に
まっすぐな布へ還り
乾いて
畳まれる前に
何かを
伝えようとしている
みたいです

それらは--

いろいろな
内容の
何通もの手紙のようで
開封して
読んでみたい
と想うのです

その日は
陽射しがよく透って
彼らは
いくぶん
はやく乾きました
読まれる前に
部屋の内に
とりこまれて
しまったのです

 4連目の「内容の」という1行。これに、私はちょっとつまずく。つまずくけれど、そのつまずきがまた楽しい。そうか。やっぱり詩には「意味」が必要なのか。「意味」がことばを動かす力なのか--と思わす思う。
 全体としては、ふと木坂涼のような雰囲気がするのだけれど、木坂と違うのは「それらは--」という1行の独立した呼吸と、その呼吸を受け継いでの「内容の」という1行だろうなあ。
 どちらがいいというのは、好みの問題だから、どっちでもいい。
 2連目が、あまりにも自然に、完璧な詩になってしまったので、今井ことばが逆につまずいて、「それらは--」という呼吸になり、それから「内容の」という不思議な1行を生み出してしまったのかもしれない。
 それをそのまま残してしまう--というのも即興の楽しさだ。

     (きょうの「日記」は25分で書きました。私の感想は「即興感想」です。)
時刻(とき)の、いのり
今井 義行
思潮社
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