八柳李花『サンクチュアリ』(2011年10月20日発行)
詩は「意味」を追うと、何がなんだかわからなくなる。詩は「意味」ではない証拠である。では、何を読むのか。たぶん「意味」になる前の「響き」を読むのだと思う。
八柳李花『サンクチュアリ』を読みながら、そんなことをふと感じたが、こういうことはいくら書いても「印象」の領域から出ない。まあ、「印象」から出て行かなくてもいいのかもしれない。でも、私は、少なくとも「印象」の内部に沈み込んでみたい、溺れてみたいと思い、ことばを書く。
引用したい美しい「響き」が随所に散らばっているのだが、「18」の次の部分、
この3行まで読み進んだとき、私は八柳の「肉体」に触れた感じがした。
「サンクチュアリ」(聖域)とは何か。「01」に、
という1行がある。この行は、ちょっと矛盾している。サンクチュアリに「水域」がある。サンクチュアリの内部に水域があり、それはサンクチュアリの、真のサンクチュアリでもある、くらいの「意味」をもっているかもしれない。水域によってサンクチュアリがサンクチュアリとして定義づけられている。いわば、ここには「二重」の構造がある。そして、その「二重構造」が八柳のサンクチュアリを特徴づけていると言える。
で、その場合。(と、私は飛躍する。)
その「二重構造」を別のことば(ありふれた「哲学用語」ではなく)、八柳自身のことばで言いなおすと、どうなるか。
だと、思う。「文字と音声のはざまを震撼する」という1行のなかにある「はざま」。「二重構造」というと、一方にたとえば「夜(闇、黒)」があり、他方に「昼(光、白)」があり、それが重なり合う、つまり「2極(対立項)」が重なり合う形になるが、八柳のことばは、その「極」へとは動いていかない。「2極」の「はざま」へと動いていく。いわば「灰色」の半透明な領域へと動いていく。
「03」の、
は、「夜(黒)」と「白(光)」の「2極」の「はざま」に「肉体」があり、その「肉体」が「花影」にもなれば、「薄まる」という変化もおこす。ようするに「揺れる」ことで、半透明な部分を拡大していく--という事情を具体的に説明している。
「サンクチュアリ」というとき、外界(サンクチュアリ以外の世界)と「聖域」の「2極」が考えられるが、その「境界」というのは、八柳にとっては「線」ではなく、「広がり」をもっている。その「広がり」を八柳は「はざま」と呼んでいる。「はざま」という「ひろがり」があるからこそ、そこでは「揺れる」「薄まる」というのような不安定な動きが可能になる。
「水域を囲むサンクチュアリ」という1行は、
という構造(図式)を浮かび上がらせるが、この構造(図式)の「サンクチュアリ」の部分が「はざま」になる。
これは、しかし、最初に書いたことの繰り返しになるが、まあ、ちょっと変な1行である。「むり」がある1行である。一般的な「外界」-「サンクチュアリ」という2極構造から「ずれ」てしまう。
しかし、そこに無理がある、つまり、そこにことばの運動上、何らかの矛盾があるということは、それが「思想」(肉体)である、ということだ。無理をしてでも書かなければならない何か、いや、「肉体」を書こうとすると「流通言語」ではとらえきれないものがあふれてきて矛盾してしまう--そこに、「肉体」(思想)そのものがあらわれる。
「外界(俗界?)」があり、「聖域」がある。その「聖域」には「聖域」を特徴づける何かがあり、それを取り囲むものまで「聖域」に属するといえるのだが、そういう言い方をしてしまうと、「外界」も「聖域」に浸食されてしまう。そうならないようにするために、八柳は「はざま」をそこに挿入する。「はざま」によって、「聖域の核」を守る。「聖域の核」を守る「場」となることで、「はざま」は「聖域」になる。
このときの「なる」が、とても大切なのだ。
「聖域(の核)」はどこかにある。それが真に「聖域」に「なる」ためには、「外界」と隔てなければならない。「はざま」をつくらなければならない。「はざま」をつくれば、その「はざま」が「聖域」に属する。つまり「聖域」に「なる」。
あ、おなじことを書いているね。
別な言い方を考えてみる。
「真の聖域(聖域の核)」と「外界」の「はざま」とは、「距離」でもある。その「距離」は「固定」されていない。あるいは、「聖域」への「通路」は確立されていない、と言えばいいのか。その「距離」を「固定化」する、その「通路」を「確立」する--「はざま」の「領域」を自分自身のものにする、というのが八柳の詩である。「はざま」のなかに自分自身の「肉体」を挿入し、八柳自身が「はざま」に「なる」。
と、いうことを、八柳は、ことばでやっている。
で、ここから、私の感想はまた飛躍する。
その「はざま」を「肉体」で八柳自身にするとき、八柳は何を手がかりにしている。「音」である。視覚、触覚、嗅覚、味覚--人間にはいろいろな感覚があるが、八柳は聴覚によって「はざま」を確立するように思える。
「意味」ではなく「音」でことばを選びながら、ことばが動いていく領域を「はざま」にする。「音楽」で「はざま」を構築するのだ。
この「青い昏倒」の「青い」は「色」であるよりも「音」そのものである。もし「視覚」が働いている部分があるとしたら「泥濘」という「文字」に働いている。ここでは「聴覚」は耳をふさいでいる。
聴覚を中心にことばが動き、その聴覚を他の感覚が追いかけながら、「はざま」を独自のものにする。
このとき、「文字と音声のはざま」という表現が象徴的だが、「意味」はほうりだされている。「文字」(視覚)「音声」(聴覚)から「響き」(聴覚)を優先させ(「響きのうわずみ」に、視覚と聴覚の拮抗が感じられるが、「かさかさ」という「音」に動いていくところに、私は「聴覚」の優先を感じる)、さらに「めくる」という肉体の動きへつながっていく。(まあ、ここから逆に、「うわずみ--沈殿」という項目を想定し、「視覚」を優先しているという「論理」も考えられるけれど、こういうのは、先に言った方が勝ち、というようなものだね。別の表現でいうと、どっちに肩入れするか。私は「音」に肩入れしたいというだけでのかもしれない。)
で。(と、また飛躍する。)
こうやってつくられた「聖域」のもう一つの特徴。
「閉ざしたまま」「閉ざされたまま」。主語、補語は違うのだけれど、(違えることで)、「閉ざした」-「閉ざされた」が向き合うことで「ひとつ」になる。世界が閉じられる。矛盾したことばを結びつけることで世界が完結する。それが八柳のことばの運動である。そして、その矛盾したことばのなかには、実は「はざま」がある。「はざま」のなかに八柳がいる--というのが八柳の詩であると感じた。
詩は「意味」を追うと、何がなんだかわからなくなる。詩は「意味」ではない証拠である。では、何を読むのか。たぶん「意味」になる前の「響き」を読むのだと思う。
八柳李花『サンクチュアリ』を読みながら、そんなことをふと感じたが、こういうことはいくら書いても「印象」の領域から出ない。まあ、「印象」から出て行かなくてもいいのかもしれない。でも、私は、少なくとも「印象」の内部に沈み込んでみたい、溺れてみたいと思い、ことばを書く。
引用したい美しい「響き」が随所に散らばっているのだが、「18」の次の部分、
文字と音声のはざまを震撼する
鉄路の響きのうわずみを
かさかさとめくりあげ。
この3行まで読み進んだとき、私は八柳の「肉体」に触れた感じがした。
「サンクチュアリ」(聖域)とは何か。「01」に、
水域を囲むサンクチュアリ
という1行がある。この行は、ちょっと矛盾している。サンクチュアリに「水域」がある。サンクチュアリの内部に水域があり、それはサンクチュアリの、真のサンクチュアリでもある、くらいの「意味」をもっているかもしれない。水域によってサンクチュアリがサンクチュアリとして定義づけられている。いわば、ここには「二重」の構造がある。そして、その「二重構造」が八柳のサンクチュアリを特徴づけていると言える。
で、その場合。(と、私は飛躍する。)
その「二重構造」を別のことば(ありふれた「哲学用語」ではなく)、八柳自身のことばで言いなおすと、どうなるか。
はざま
だと、思う。「文字と音声のはざまを震撼する」という1行のなかにある「はざま」。「二重構造」というと、一方にたとえば「夜(闇、黒)」があり、他方に「昼(光、白)」があり、それが重なり合う、つまり「2極(対立項)」が重なり合う形になるが、八柳のことばは、その「極」へとは動いていかない。「2極」の「はざま」へと動いていく。いわば「灰色」の半透明な領域へと動いていく。
「03」の、
夜のなかに白く揺れるままに
陰影をうつす花影があらわで。
君が閉じた白はそんなにも
薄まるというから
は、「夜(黒)」と「白(光)」の「2極」の「はざま」に「肉体」があり、その「肉体」が「花影」にもなれば、「薄まる」という変化もおこす。ようするに「揺れる」ことで、半透明な部分を拡大していく--という事情を具体的に説明している。
「サンクチュアリ」というとき、外界(サンクチュアリ以外の世界)と「聖域」の「2極」が考えられるが、その「境界」というのは、八柳にとっては「線」ではなく、「広がり」をもっている。その「広がり」を八柳は「はざま」と呼んでいる。「はざま」という「ひろがり」があるからこそ、そこでは「揺れる」「薄まる」というのような不安定な動きが可能になる。
「水域を囲むサンクチュアリ」という1行は、
外界-サンクチュアリ-水域(サンクチュアリの内部、サンクチュアリの核)
という構造(図式)を浮かび上がらせるが、この構造(図式)の「サンクチュアリ」の部分が「はざま」になる。
これは、しかし、最初に書いたことの繰り返しになるが、まあ、ちょっと変な1行である。「むり」がある1行である。一般的な「外界」-「サンクチュアリ」という2極構造から「ずれ」てしまう。
しかし、そこに無理がある、つまり、そこにことばの運動上、何らかの矛盾があるということは、それが「思想」(肉体)である、ということだ。無理をしてでも書かなければならない何か、いや、「肉体」を書こうとすると「流通言語」ではとらえきれないものがあふれてきて矛盾してしまう--そこに、「肉体」(思想)そのものがあらわれる。
「外界(俗界?)」があり、「聖域」がある。その「聖域」には「聖域」を特徴づける何かがあり、それを取り囲むものまで「聖域」に属するといえるのだが、そういう言い方をしてしまうと、「外界」も「聖域」に浸食されてしまう。そうならないようにするために、八柳は「はざま」をそこに挿入する。「はざま」によって、「聖域の核」を守る。「聖域の核」を守る「場」となることで、「はざま」は「聖域」になる。
このときの「なる」が、とても大切なのだ。
「聖域(の核)」はどこかにある。それが真に「聖域」に「なる」ためには、「外界」と隔てなければならない。「はざま」をつくらなければならない。「はざま」をつくれば、その「はざま」が「聖域」に属する。つまり「聖域」に「なる」。
あ、おなじことを書いているね。
別な言い方を考えてみる。
「真の聖域(聖域の核)」と「外界」の「はざま」とは、「距離」でもある。その「距離」は「固定」されていない。あるいは、「聖域」への「通路」は確立されていない、と言えばいいのか。その「距離」を「固定化」する、その「通路」を「確立」する--「はざま」の「領域」を自分自身のものにする、というのが八柳の詩である。「はざま」のなかに自分自身の「肉体」を挿入し、八柳自身が「はざま」に「なる」。
と、いうことを、八柳は、ことばでやっている。
で、ここから、私の感想はまた飛躍する。
その「はざま」を「肉体」で八柳自身にするとき、八柳は何を手がかりにしている。「音」である。視覚、触覚、嗅覚、味覚--人間にはいろいろな感覚があるが、八柳は聴覚によって「はざま」を確立するように思える。
眠って、そして醒めてからも
山の凪に、押され
こうやって深い根をはっていられる、
ただひたしたと音感に冷やされて。 (02)
砂がきしむ音で名前を擦られていた、
そうやって文字はだんだんと精密になる、 (02)
言葉から離れ
字義への注釈を揺らす
繰り返される投身の音に。 (06)
「意味」ではなく「音」でことばを選びながら、ことばが動いていく領域を「はざま」にする。「音楽」で「はざま」を構築するのだ。
暗闇にうきあがる輪郭を
「他者」と呼ぶとき
沈みはじめる青い昏倒が
言葉で汚れた泥濘を
ゆがんで走る、 (05)
この「青い昏倒」の「青い」は「色」であるよりも「音」そのものである。もし「視覚」が働いている部分があるとしたら「泥濘」という「文字」に働いている。ここでは「聴覚」は耳をふさいでいる。
聴覚を中心にことばが動き、その聴覚を他の感覚が追いかけながら、「はざま」を独自のものにする。
文字と音声のはざまを震撼する
鉄路の響きのうわずみを
かさかさとめくりあげ。
このとき、「文字と音声のはざま」という表現が象徴的だが、「意味」はほうりだされている。「文字」(視覚)「音声」(聴覚)から「響き」(聴覚)を優先させ(「響きのうわずみ」に、視覚と聴覚の拮抗が感じられるが、「かさかさ」という「音」に動いていくところに、私は「聴覚」の優先を感じる)、さらに「めくる」という肉体の動きへつながっていく。(まあ、ここから逆に、「うわずみ--沈殿」という項目を想定し、「視覚」を優先しているという「論理」も考えられるけれど、こういうのは、先に言った方が勝ち、というようなものだね。別の表現でいうと、どっちに肩入れするか。私は「音」に肩入れしたいというだけでのかもしれない。)
で。(と、また飛躍する。)
こうやってつくられた「聖域」のもう一つの特徴。
まるくなる、胎児のように
眼を閉ざしたまま。
私たちは閉ざされたまま。
「閉ざしたまま」「閉ざされたまま」。主語、補語は違うのだけれど、(違えることで)、「閉ざした」-「閉ざされた」が向き合うことで「ひとつ」になる。世界が閉じられる。矛盾したことばを結びつけることで世界が完結する。それが八柳のことばの運動である。そして、その矛盾したことばのなかには、実は「はざま」がある。「はざま」のなかに八柳がいる--というのが八柳の詩であると感じた。
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